番外ー5
お兄ちゃん
秋月和也が腹違いの弟一谷明良の存在を知ったのは、中学に入学して間もなくのことだった。
私学を勧める父の意向は知っていたが、和也は地元の公立中学を選んだ。
入学式の日は、満開の桜の下で母の由紀子と記念写真を撮った。
一緒に撮ったものや、一人ずつ撮ったもの、いずれもシャッターを押してくれたのは友達だった。
―はい、それじゃもう一枚!・・・それにしても和也の母ちゃん、今日は特に綺麗だな!―
ファインダー越しに聞こえてきた友達の言葉は、今でも和也の耳に残っている。
それから一ヶ月―。
この週末は、入学後初めての父の来訪だった。
夕餉はいつものように、手狭なダイニングから座敷に移って食卓を囲む。
父と向かい合わせで座る和也は、相変わらず真正面から父の顔を見れなかった。
父は父で、話し掛けてもまず母の方を見てから受け答えをする息子に、心の中でため息を吐いていた。
「和也、学校はどうだ?楽しいか?」
「はい。あの・・・・・・」
やはり和也の視線は母に向いていた。
とうとう父は苛立ちを露わにした。
「和也!!」
いきなりの大声に、和也は返事も出来ず茶碗と箸を持ったまま固まってしまった。
「そんな大きな声を出さなくても聞こえます」
和也の隣に座る母は、食事の手を止めることなく穏やかな声で苛立つ父を諌めた。
「うっ・・・お前がすぐそうやって口を挟むから、和也が話せなくなるんだ」
「和也は貴方のことを気遣っているんです、来るたびに私学を勧めていらっしゃったでしょう。
でも今のところも、とても良い学校よね?」
母は和也の気持ちを補足しつつ、父に自分の選択した学校についてきちんと伝えることを促した。
「うん。友達も同じクラスになったし、英語はヒアリングの科目があって、外国人の先生なんだよ。それからね・・・」
ホッとしたように話し始めた和也だが、視線は一向に父に向いていなかった。
「本当に、和也君楽しそうだものね。お母さんは、学校が家から近いのも安心だわ」
母は嬉しそうに相槌を打ちながら、息子に語り掛ける。
結局父は苦虫を噛み潰したような表情で、楽しそうに会話する二人の話を聞かされるのだった。
母を挟んでぎこちない父と息子。
それでも食卓を囲う三人の間には、幸せが漂っていた。
「そろそろお茶を、お持ちしましょうか」
食事も終盤に入り、母はお茶の用意や後片付けに席を立った。
必然的に父と息子は二人きりとなり、声を掛けるのはやはり父の方からだった。
「和也」
「はい」
さすがに和也も、空席の隣を窺うことは出来ない。
母が席を外すと、少しの緊張とどきどきを胸に、父と向き合うことになる。
父は暫く和也を見つめた後、すっと目を細めて微笑んだ。
「お兄ちゃんになったぞ」
「・・・・・・・・・」
声も出ないと言うのは、こういう事を言うのだろう。
和也は小学校の高学年には、父と母の関係について、また父と姓の異なる自分の存在についての理解は出来ていた。
ただ理解はしていても、現実として父の向こう側の家族を思い描くということはなかった。
そこまで、実感するものがなかったのだ。
今までは・・・。
「弟だ。去年産まれてな、もうすぐ1歳になる。まぁ・・・ちょっと色々あって、お前に知らせるのが遅れた」
本来なら複雑な家族構成になるであろうことを、父は携帯を繰りつつあっさりと話した。
「名前は明良だ。可愛いぞ・・・・・・ほら、これ」
―弟?―
―可愛い?―
―父の向こう側の家族?―
「そんなの・・・見たくない!」
父の差し出した携帯を、手で払い落としてしまった。
思わぬ強い拒否に驚いたのは、父よりもむしろ和也自身にあったようだった。
「あっ、ご・・・ごめ・・ごめんなさいっ・・・」
慌てて拾おうとした和也を、父は「構わん」と言って制した。
暫しの沈黙の後、
「・・・そうか、なら仕方ないな。だが、弟の存在はちゃんと認めてやってくれよ」
そう言うと、畳の上に落ちた携帯を拾い上げて仕舞った。
和也は父の言葉に返事が出来なかった。
写真も、本当は見たくないわけではない。
突き付けられた現実を、実感として受け止めるのが怖かったのだ。
何故だか無性に、父への寂しさが心に湧き上がってきて・・・。
押し黙る二人に、淹れたての茶葉の香りと共に台所から母が戻って来た。
「お待たせしました、さあ熱いうちにどうぞ。和也君、顔を上げなさい」
母は二人の微妙な雰囲気を感じ取ったが、ひと言和也に注意しただけで深く立ち入ることはしなかった。
顔を上げなさいと言われた和也は、珍しく母の言うことを聞けないまま父にも返事が出来ないまま自分の部屋に行ってしまった。
和也が座を外した後の家族の風景は、父と母それぞれの事情を抱えた二人の風景に変わっていた。
「写真を見せようとしたら、携帯を払い落とされた」
「写真?・・・ああ、それで。今頃お話になったのですか」
「むっ・・・俺は忙しいんだ。お前から話しておいてくれても、良かったんじゃないのか」
「私には関係ないことです」
「お前はそうかも知れんが・・・それでも、和也の弟だぞ」
「そちらのことは何も申し上げることは出来ません。
・・・和也のことに関しては、私は貴方を信じていますから。よろしくお願いしますね」
「くそっ、和也には嫌われ、明良は抱かせてもらえず・・・それでもよろしくお願いされるわけだ。父親は損だな・・・」
ため息のような独り言の後、ゴトッと湯呑を置く音がした。
「疲れた、寝るから布団を敷いてくれ」
「あら?お帰りにならないんですか?」
「・・・泊まったらいかんのかっ!!」
父と母それぞれの事情は、どうも父の方が旗色が悪い。
極めつけの大声に由紀子はそれ以上何も言わず、寝床の用意を済ますと和也の部屋に向かった。
食事の後、珍しく拗ねて自分の部屋に引き籠ってしまった息子の様子を窺いに来たのだった。
「和也君、ちょっといい?」
声を掛けてそっとドアを開けると、叱られても仕方がないというような表情で和也が顔を上げた。
「お父さんね、不貞腐れて寝てしまわれたわ。何だかお母さん余計なことを言って、怒らせてしまったみたいなの」
「お母さんのせいじゃない。僕がちゃんとお父さんの話を聞くことが出来なかったから・・・」
「ごめんなさいね」
謝ったのは、母の方だった。
母として、自分たちの勝手な事情で息子に謝罪されることほど忍び難いことはない。
「どうしてお母さんが謝るの.。・・・僕は、お母さんだけでいい」
「そんなこと言わないの。お父さん和也君に嫌われてるって随分落ち込んでいらしたわよ」
母は優しく諌めつつ、父の思いを伝えた。
「別に嫌っているわけじゃ・・・。いきなり弟の話を聞かされて、写真も・・・。お父さん嬉しそうだった」
「そうね。あなたが生まれた時も、お父さんとても喜んで下さったわ」
「それじゃあ今まで通りでいいよね?お父さんとお母さんと僕と。
会ったこともない弟なんて、弟じゃない。お母さんがいないところでしか話せない弟なんて、僕はいらない」
「今は顔を知らなくても、きっと会う時が来るわ。あなたたちはお父さんの子だもの。
お母さんね、いつか紹介してくれる日を楽しみにしているの。お父さんではなく、お兄ちゃんの和也君にね」
「お母さん・・・」
「だからお父さんが嬉しそうな顔で話し掛けて来られたら、聞いてあげてね」
最後に母は、笑顔でそう締め括った。
「この人、誰?ちょっと・・・和也さんに似てんじゃん。姉ちゃん?」
「母です」
「ええっ!?おふくろさん!?・・・めっちゃ若くね?」
「随分昔だからね。私の中学入学式の時だから、亡くなる二年程前かな」
「えっ、あ・・あー・・・・・・てぇと、今の俺の年で、おふくろさん亡くなったってこと?」
「そうだよ。病気でね、若かったから進行が早かったんだね。その写真はまだ健康だった頃のだよ」
「ふ〜ん・・・」
「はい、没収。それより、ここは立ち入り禁止でしょう」
年末、大晦日。
正月三が日を直人の家で過ごす明良は、荷物をスポーツバッグに詰め込んでいた。
荷物といっても、精々三日分の下着と佐伯からクリスマスプレゼントにもらった新作のドライビングソフトくらいだ。
「服は直人のがあるし・・・チャッ、チャッ、チャッと、終了〜!完璧!正月ぐらい遊びまくるぜ!!」
ところが、準備万端上機嫌で夕飯を食べて、小一時間ほどTVを観て、自分の部屋に戻るとスポーツバックがトランクに変わっていた。
厳密に言えば、トランクの横に空っぽのスポーツバッグが置かれていたわけなのだが。
「入れ替えてやがる・・・。しかも・・・何だこれっ!!・・・これもっ!!要らねぇもんばっかり突っ込みやがって!!
せっかくオレ仕様に用意出来てたのにっ!!ってか、勝手に人の部屋に入って来んなってんだっ!!」
毎度、毎度の和也の構い倒しも、今回はMAXを極めたようだった。
「くっそーっ!!・・・そいじゃオレも旅行の荷造りしてやるぜ!!」
明良は和也が台所にいるのを確認して、彼の部屋に乗り込んだ。
「エアコンにTVか・・・ケッ!ベッドも一人のくせにダブルって、よっぽど寝相が悪りぃんだぜ。
え〜と、トランクはどこだ?だだっ広いだけで、スッカラカンの部屋だな・・・・・・ん?」
整理整頓された部屋というのは、明良にはスッカラカンに映るらしい。
そのスッカラカンの部屋をキョロキョロと見回していると、デスクの上の写真立てに目が留まった。
そこに写っていたのは、紺色のスーツに白いシルクのブラウスが清楚に映えて、桜咲く花びらの下、幸せそうに微笑む女性の姿だった。
思わず手に取った。
「うわぁ・・・綺麗な人だなぁ・・・」
明良は本来の目的も忘れて、写真に見入った。
「何してるの?他人の部屋で」
そして明良がそんなことをしているうちに気配を感じた和也が現れ、先の写真の問答となったのである。
「立ち入り禁止って、そっちはいっつもオレの部屋に勝手に入って来るくせによく言うぜ!
ああ、そうだ忘れてた。ほら、オレも和也さんの旅行の荷造り手伝ってやろうと思ってさ」
「それでしたら、私も用意は出来ています」
「オレだって出来てただろ!!直人の家だぜ!?服とか靴下とかタオルとか!!あんなのかさ張るだけだろ、要らねぇっつの!!」
「直人君のご両親は、仕事柄お正月でも関係なくお忙しいでしょう。出来る限り余分な用事は増やさないようにしておかないとね。
着替えた下着や汚れた服は、きちんとビニール袋に入れてそのまま持って帰ってくるんだよ。さ、出て行って」
和也は明良の腕を取って、部屋の外へ引きずり出した。
「あっ、ちょっ・・・!待てよ!何か納得いかねぇ!そっちだってオレの部屋に勝手に入って来んなって話だー!!」
押し出されるも、明良踏ん張る。
「それは、入らざる得ない・・・状況?」
「はぁ?」
バターンと明良の目の前で、ドアが閉まった。
「おいっ!!状況って何だ、状況って!!しかも疑問形かよ!!ふざけんなー!!開けろー!!コノヤローッ!!」
和也はドアの向こうの喚き声を背に聞きながら、手元の写真を見つめた。
「お母さん、弟の明良です。いずれ兄と名乗ることが出来たら、その時きちんと紹介しようと思っていたんだけど・・・」
―お母さんね、いつか紹介してくれる日を楽しみにしているの。お父さんではなく、お兄ちゃんの和也君にね―
遠い日の、しかし鮮明に蘇る母の言葉。
「お兄ちゃんか・・・・・・」
ぽつっと呟いた刹那、ドアを隔てて声がした。
「・・・兄ちゃん!!」
和也が反射的にドアを開けると、明良が携帯を耳にあてながら自分の部屋に戻って行くところだった。
「えーっ!!勉強道具も・・・正月くらい勉強やめようぜ・・・・・・だからぁ、圭一兄ちゃんまで、んなこと言うなよ」
明良はドアの開いた音で振り返ったものの、アッカンベーと舌を出しただけで行ってしまった。
どうやら電話で忙しいらしい。
「・・・兄ちゃんさぁ、和也さんに毒されてんじゃね・・・えっ?嫌なら来るな?もぉー、わかったって・・・。
うん、うん、勉強道具も持ってく・・・てか、もうトランクに入ってるし。直人は・・・・・・」
和也は明良の後ろ姿を眺めなら、自分自身の行動に笑いが込み上げた。
間違っても明良が自分のことを兄ちゃん!≠ニ呼ぶことはないのに。
静かにドアを閉めて、デスクに写真立てを戻した。
その際、和也の指先が愛おしそうに母を撫でた。
「お母さん・・・。明良と一緒に暮らしていると今みたいなことばかりで・・・・・・もう寂しくありません。
お父さんには、感謝しています。そして誰よりも、明良の母の美耶子さんに」
もしその場に美那子がいたら、きっと彼女も言うだろう。
あなたたちはお父さんの子だもの。そうでしょう、和也さん。明良をよろしくね
写真の母は穏やかな微笑みの中で、いつまでも和也を見つめていた。
※ コメント
お兄ちゃんとは言ってもらえないけど、お兄ちゃんの和也さんです^^
一谷パパは、相変わらず悲惨(笑)
でも、度量(懐)の深さゆえ、本当の悲惨にはならないところが男の魅力・・・と、Luckyは思っているのですが^^
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