『見えない 証』
学校で、生徒に囲まれて闊達に笑う彼女。
食卓で食器を並べながら、温かく微笑む彼女。
家政婦仕事を、弱音を吐く所か鼻歌交じりで楽しむ彼女。
『笑顔』……この表情の輝きと美しさを、教えてくれたのは彼女。
だけれど………今は、その笑顔すら恨めしい。
(ねえ、ちゃん…笑わなくていいんだよ?)
瀬伊は、二階の吹き抜けから玄関にいる彼女を見下ろす。
彼女は、黙々と掃き掃除をしていた。それは、これまでと何ら変わりのない光景だ。
だが…明らかに今まであった匂いが今はない。
……それは…軽やかな『笑顔』の薫り。
どんな時だって、前向きで…全てを楽しもうとしていたの…温かな空気だけが、そこにはない。
瀬伊は…恐らくはこの家の誰よりも先に、この事に気が付いた。
(僕は…感情に、飢えている?
……そう…だね…飢えている。)
誰よりも、激しくひた向きな感情に焦がれる自分がいる。
それなのに…一度向き合ったら…引き摺られそうで…怖くて…温かな感情の薫りのする片隅に、立ち竦むしかない自分がいる。
瀬伊は、溜息混じりに…頬杖を付いた。
(だから…僕は…知っている。)
が、一人で沢山泣いている事を。
そして、その涙の数よりももっと無数の涙が、彼女の喉の奥に消えている事をも。
(僕だけは…知っているから………笑わないで。)
瀬伊はそれ以上彼女を見ている事が辛くて、慌ててピアノ室へと踵を返した。
玄関掃除をしている彼女に気づかれないように、そっと…息を潜めて。
部屋のドアを閉めて…そのドアを後ろ手に握り締めたまま…瀬伊は、ふうっと安堵の息を洩らした。手の平に…汗を感じる。珍しく鼓動も早い。
瀬伊は、こんな自分を彼女に見られなくて良かったと心から思った。
きっと今の自分は…何かを隠せるような状態じゃないから。
何を…してしまうか分からない。
瀬伊は、取り敢えずピアノの前に座った。
それなのに…弾きたい旋律が思い浮かなくて、彼は呆然とする。
今までは、こんな事などなかったのに。
感情の整理が余りにも付かなくて…指が全く動かない。
……パタパタパタパタ……。
そうしている内に、瀬伊の耳に入り込んで来たのは小刻みなスリッパの音。
「……ん……。」
今まで、弾きたい旋律は愚か…何一つ音が耳に入らない状態だったのに…求めている女性の足音となると…途端に聞こえて来る。
瀬伊は、そんな自分に呆れながらも…自然と手を止め…その音に聞き入る。
後……10秒……5秒……2…1……。
「ゴミ箱のゴミ、回収に来たよ。明日、燃えるゴミの日だからさ。」……0。
エプロン姿のが、ノックと共に、ピアノ室に入ってきた。
「……ありがとう、ちゃん。」
瀬伊は、彼女の足音に聞き入っていた事など尾首にも出さず応える。
がバタバタと仕事をするのは、午後八時から十一時までのたった三時間だけだ。それ以外の時間にされるのは煩わしいと、この家の主人で…今では彼女の恋人でもある一哉がそう決め…はそれを律儀に守っている。
(気に入らない。)
“一哉”が決めた事だから……気に入らない。
一哉とは、想いが通じ合って恋人になった。けれども…が幸せそうだったのは最初のほんの僅かの日々だけ。
今は…一哉の為に、苦しんでさえいる。
それなのに……それでも、一哉の邪魔にならないように…と、気遣っている…そんなの優しさが気に入らないのだ。
(……いや、違うな。)
そんなの優しさが、自分以外の男に向いている事が、気に入らないのかもしれない…いや、気に入らないのだ。
(そう……違うんだ。)
“一哉”が何かを定めた事が不愉快なのではない。
“一哉”が彼女を手に入れた上に、守る事もせず苦しめている…そして、それでも尚、彼女の愛を得ている…そんな彼の幸せが…気に入らないのだ。
自分だったら、そんな事はしない………絶対にしない。
彼女を手に入れたなら…心から愛して…大切に…護り抜く。
何があったって、その手を…離したりはしない。
―――……あれ程に美しい『笑顔』を…感情を…離したりはしないのに。
……なんて、弱いが故に…離せないだけかもしれないけれどね?
瀬伊の心に芽生えるのは、小さな自虐心。
それを…隠すように…誤魔化すように…瀬伊は刹那、手で表情を隠す。
そして、それから。
「ねえ……ちゃん…こっちに…おいで?」
瀬伊は、ふわりと微笑った。は、何の疑いもせずに…ちょっと首を傾げつつ、それでも瀬伊の元に歩み寄る。……その無邪気さが今は好都合で…そして、苦しい。………でも、心は止められやしない。
目の前までやって来たに…瀬伊はもう一度微笑うと…をその腕に抱き締めた。
「わわっ……ちょ……何す……!」
「………ちゃん…泣いていいんだよ?」
「……………え。」
の動きが…一瞬止まる。
瀬伊は…チャンスとばかりに…腕の力を篭めると彼女の耳元で囁いた。
「……泣いたらいい。僕は………知ってるから。」
―――――知ってるから。
何を、とは…敢えて言わないのに…それでも、彼が何を知ってくれているのか…それが痛い程分かる。彼の切れそうな程に痛々しい声が…力強い腕の温もりが…何を知っているのか…そして、それ故にどうしてくれるのか…教えてくれた。
(見ていて…くれたんだね。)
――私が辛い時…苦しい時…全部全部見ていて…知ってくれていた。
「あり……がと……。」
は、その温もりの優しさに絶え切れなくて…一筋、二筋と…静かに涙を零した。それは…天真爛漫な彼女の性格とは裏腹な泣き方であるが故に…却って瀬伊の胸を抉る。
「………僕が、知っているから。」
―――君の強さだけじゃない。
弱さも…優しさも…全部全部知っているのは、僕だ。
他の男じゃない。
僕が…知っている。
いつか、季節が変わるような鮮やかさで。
風が…花を散らすような…何気なさで。
君の心を……手に入れるよ。
瀬伊は、の柔らかい髪を撫でると…そっとその先に接吻た。
それは………遠い未来への、誓いの証………。
Fin.
【圭さんのコメントです。】
フルハウスキス初SSです〜。
……のに、それなのに、こんなに暗い(しかも横恋慕)。
でも、二人目の恋人ってのは、フルキスならではのシステムなのでやっぱり使ってみたかったし、
これからも使いたいネタです。初SS記念フリーですが、こんな験の悪そうなSS、
誰が持って帰ると言うのか。
[管理人より]
早速頂いてきちゃいましたvvやったぁ〜〜!圭さんがフルキスにはまってくれて
一番喜んだのはきっと私です(^^;やっぱりいいですよねぇ。
表現が上手な方がかかれると、横恋慕中の瀬伊くんの心情が
読み手にとても細かく伝わってくるので、とても共感できるんですよね。
瀬伊くんは特に繊細そうに見えるので(・・でも小悪魔♪)こういった
表現が一番しっくりくるような気がします。
圭さん、快く掲載を許可してくださってありがとうございました!
圭さんの素敵サイトへはこちらからどうぞ→『Suesta in Green』
沢山の素敵創作に出会えますよ(^^)