迷いを知らぬ 子どものように

何処までも 何時までも

二人 行けたらいいのに

二人 手を繋いで

夢見るように 微笑い乍ら

何処までも 何時までも

遠くへ……



『遠くまで』




蓮は、バイオリンのメンテナンスをする手を休めて
…ふっと息を付いた。
こうやって、一人になると…思い出すのは、香穂子の事ばかり。
壊れた機械のように、香穂子の名前ばかりが溢れ出す。

「……香穂子。」

そうしていると時に、怖い……と思う。
今の自分には香穂子しかなくて、彼女以外を想えない事が怖いと。
このまま…香穂子しか見えなくなって、バイオリンを弾く事さえ
出来なくなるのではないかと思うくらいだ。

彼女は、いつも…セレクションに向かって邁進している。
バイオリンが壊れても尚、諦めずに弾き続ける姿に…かつて、
魔法のバイオリンでセレクションに望んでいた事へ感じていた
わだかまりも…溶けてしまったようだった。

「俺は…どうかしている。」

蓮は、髪をクシャリとやると、大きく息を付いた。
外は、闇。
簡素と言える程調度品の少ない自分の部屋だけが…
世界に放り出されたような錯覚すら抱いてしまう…
それ程に静かな…闇。

「……俺は…おかしい。」
 
香穂子にとって、自分はきっと、友人の一人でしかない。
それなのに…少しでも解りたい。他の誰よりも解りたいと
…思ってしまう。

今までの自分は、そんなふうではなかったのに。
他人と自分は、別個のもので…分かり合えるようなものでは
ないと思っていた。自分は自分にしか解らず…
他人と分かり合うなど、そうそうできる事ではないと。
セレクションも、結局は自分との戦いで
…他人との遣り取りで余計な時間を遣っていてはいけないと。

(それでも…香穂子だけは…解りたい。)

自分の、どんなに辛い言葉に対してでも…傷つきながら
…怯みながら…それでも絶対に向き合って、
答えを出してくれるその姿に、何時しか感化されていた。

誰かと解り合える事も、あるかも知れないと。

だが…それは、香穂子とだけで良いと…思ってしまう。
そんな感情は…明らかにエゴでしかなくて。
それ故に…演奏にムラが出て来てしまっている。
自分でも解っているのに…止められなくて。

「……俺は……。」

 蓮は、頭の中に一つの甘い旋律を思い出す。

………彼女の笑顔を。柔らかい手を思わせる、優しい旋律を。

「……俺は…君の事が……。」


 ………………君の、事が。

♪・♪・♪・♪・♪・♪

日曜の、商店街はあまり好きではない。
人通りが多すぎて…息が詰まるように感じる。
だが…演奏の練習にはなるし…又、何かと私用も多く、
足を運ばずにはいられない場所でもあった。

「あ、蓮くん。」

その声に振り返れば…香穂子が、大きく手を振り乍らやって来る。
片手には、バイオリンケースを持って。

「…香穂子か。君も…練習に来たのか?」
「うん、そうなんだ。人前で弾くのって、
緊張するけど練習になるし。それに…楽しいしね。」

照れ臭そうに香穂子はケースを持ち上げて微笑う。

「…そうか。じゃあ、俺は聴いていよう。
 君の演奏を聴くのは、俺にも勉強になるから。」

 正直、人の多さに辟易としていた所だ。彼女の演奏を聴けば、
少しは気持ちも晴れるだろう。蓮がそう言って微笑うと、
香穂子は「えー。」と、困ったように声を上げる。

「蓮くんが聴いてるなんて…恥ずかしいなあ。
 失敗しても、感想はお手柔らかに…。」
「さあ、それはどうだろうな。」
 香穂子の言葉に、からかいで返せば、香穂子は苦笑して肩を竦める。

それから…少し進み出ると、ケースからバイオリンを出し、
調弦をして…弓を構えた。チラリとこちらを見るので頷いてやると、
香穂子はにっこりと笑って…弦を下ろす。

「………香穂子……。」

奏でる曲は、『シチリアーノ』。
まだまだ練習途上なのだろう。荒削りで不安定な所も見られるが、
柔らかで包容力のある音色は…聴いていて、胸が温かくなる。
こんな事も、今までなかった。
完璧な演奏の上に、解釈が乗って初めて、
聴く者を感動させるものだと思っていた。
いや、今でも思っている。だが…彼女の楽しげな表情を見ていると、
間違いを咎める事の方が、間違っていると思えるのは
…どうしてだろうか。

パチパチパチ…。チラホラとだが、拍手が零れ、
香穂子の口元に安堵の笑みが浮かぶ。彼女はそれに、
精一杯の笑顔と会釈で応えると、バイオリンをしまい、
蓮の元に戻って来た。

「……頑張っていると思う。」

もっと上手く、言葉が選べたら良いといつも思う。
そうしたら、もっと彼女を喜ばせて
…笑顔にしてやれるのではないかと。
だが蓮のその言葉に、香穂子は大きく口を開けて微笑い、
小さく頭を掻く。

「ありがと。」

………俺は、怖い………。

蓮は、彼女の笑みを見ていて、自身が急に怖くなった。
どう言う事だ?
考えてみても…上手く考えが纏まらない。
ただ…怖い。

彼女に執着するが故のエゴが…
捉え難い不透明な感情を生んでいる。
それが……怖い。

蓮くんは弾かないの?…そう尋ねられて、蓮は僅かに首を振った。
恐怖に揺れる心を悟られぬよう、どうにか顔を笑みで取り繕って。
 
自分の中で、何かが崩れている。そう、崩れつつある。

彼女の間違いがある演奏を聴いても、それを快いと思う自分…
そんな自分はどうも何か…自分でも解らないが
何かが変わっているように思えてならない。
これは…彼女に執着しているから、
だけの問題ではないのではないか。
その感情の正体が解らないまま…弾く事は出来ない。

「ねえ、蓮くん。シチリアーノってさ、
シチリアーノって言う位だから、
やっぱりシチリアの曲なんだろうね。」
「ああ、そうだ。パラディスという女性が作った舞曲だが…。」
「ああ、舞曲なんだ。だから、……っとと。」
 
そこまで言って、香穂子は慌てて口をつぐんだ。
曲について調査不足である事を注意されると思ったからだ。
だが…蓮は苦笑するだけで、責めはしない。
香穂子は調子が狂うなあと思いつつ、言葉を続けた。

「だから、何だか踊りたいような気分になるんだね。」

 ………踊りたいような、気分……。

蓮が首を傾げると、香穂子はまずい事を言ったかなと一瞬黙る。
だが蓮が、それでと問いかけると、更に言葉を紡ぐ。

「私、楽しい曲だと何だかとっても楽しい気分になるし、
哀しい感じの曲だと…何だかすごく、辛い気分になるんだよね。
で、今の曲は…幼稚園くらいの時にね、
先生が弾いてくれるオルガンを聴いてる時みたいな気分だった。」

…思わずね、踊りたくなっちゃうの。
そしたらね、みんな次々と踊っちゃうんだよね。

 クスクスと、懐かしそうに香穂子が微笑う。
それは…とても眩しい笑みだった。
温かく…朗らかな…見ていて心がくすぐったくなるような。

「……あ、ごめん。勝手に話し出しちゃって。退屈だよね。」
「………いや、退屈じゃあない。」

蓮が首を振ると、香穂子の表情が見ているこっちが
照れてしまう程紅く染まる。
すると…香穂子が急にポンと手を打って、蓮に言った。

「そうだ。蓮くんに見せてあげたい場所があるんだ。構わない?」
「……あ、ああ。構わないが…。」

香穂子の表情は、これ以上ない程ワクワクと興奮していて
…断ったら、この表情が曇るのだと思うと…蓮は断れなかった。
元来、断る理由もない。

「じゃあ、行こう!」

言うと、香穂子は早足で商店街を出る。
蓮は彼女の背中を追って、走った。

「こっちだよ。ほら。」

夢中になっているのか、香穂子の足取りは存外速い。
蓮は、軽く息が上がるのを感じながら、彼女に付いて行く。

「香穂子、そこは遠いのか?」
「そうでもないと思うんだけど…。あ、疲れたら言ってね。」
「疲れてなどいない。」

本当は少し疲れているのだけれど、それを言うのは蓮の、
男としての心が許さなかった。
少しムッとした表情になっていたのだろうか。
香穂子はクスッと笑って蓮に手を伸ばした。

「行こう!」

…柔らかそうな香穂子の手。今まで演奏する香穂子の手を見ていて
…優しい演奏に似合う、柔らかそうな手だと思っていたそれが
…瞳の前にある。

「……ああ。」

蓮が香穂子の手を握ると、香穂子はぐっとその手を強く引き、
再び走り出した。通り過ぎる風景は、
徐々にグレイから濃い緑に変わってきていた。

「ここ、くぐるよ。」
「……あ、ああ…。」

「ちょっと、ここの石の上、上がるね。」
「香穂子…大丈夫か?」

「……もうすぐだからね、蓮くん。」
「……もうすぐ、か。」

緑のトンネルを抜けて、石の上をよじ登り。
土の匂いが鼻をつく。汗ばんだ胸に、
風が心地良く吹き込んで来る。
 
……いつまでも、着かなくても良い。

蓮には、心の何処かでこの一時が何時しか楽しく、
心踊るものに変わっていた。まるでそう…子どもの頃、
まだ見ぬ場所を求めて、同じ年頃の子ども達が
よく走り回っていたのと同じようだ。
冒険だと言って…彼らは真っ暗になるまで遊んでいた。
その頃から蓮は…バイオリンを習っていて、
そう言った経験はあまりなく…家の中から、
そんな子ども達の様子を見ているばかりだったけれど。
特別それを、羨ましいと思っていたつもりはなかった…だが…。

……俺は、羨ましかったのかもしれないな。

無防備に駆け回る彼らの姿が。
きっと…香穂子もその子どもらと同じように…
遊び回っていたのだろう。
無邪気な感動や…発見に、胸を一杯にしていたに違いない。
そして…それを、蓮にも教えてくれる。

「……着いたよ!!」

 ……ザアアアアッ。

緑の木々を抜けて…一気に開けた視界には、
一面に広がる花畑の鮮やかな色彩と…遠く望める海の青。

「……これは…。」

「ジャジャーン!これが、私の取っておきの場所です。」

子どもの頃からのね、お気に入りの場所なんだ…
そう言い放つと香穂子はふと不安げな瞳で蓮を見上げる。

「あ…その…。」

こんな子どもみたいな戯れに付き合せてしまって、
やはり彼は怒っているのだろうか。
香穂子は、黙って景色を眺める蓮の姿に、
急速に後悔の念が浮かんでくる。
この景色を、見せてあげたいと思った。
シチリアーノを弾いている時に、いつも思い描く…この風景を。
シチリアがどんな所か、香穂子は知らない。
海が綺麗だと言う事を常識程度に知っている位だ。
だけれど…何故か、子どもの日に見たこの景色が
鮮やかに瞳に浮かぶ…それを、見せたいと。
だが、彼にとってそれは迷惑だったかもしれない。
香穂子が、思わず目を伏せたその時だった。

 パチン、カタッ…。

小さくケースの開く音がしたかと思えば、
蓮がバイオリンを取り上げ、調弦を始めていた。
バイオリンを持ち上げると、香穂子にちょっと微笑みかけ…
それから、肩に構える。

………綺麗…。すごい懐かしい感じ…。
上手く言えないけど、あったかい。

低い音から徐々に高音に解放されていくその曲は、
『トロイメライ』。『子どもの情景』という作品集に
入っている一曲で、“夢”と訳される。

伸びやかに、穏やかに開かれていくその曲を、
蓮はまるで子どもの眠りに腕(かいな)を広げる母親の胸のように
…全てを抱く海のように…慈しむように…一音一音を
丁寧に紡いでいく。聴いている内に自然と身体が大きく揺れて…
まるで、揺り篭の中にいる赤子のような気持ちになる。



………大切な場所を共有してくれた君に、贈ろう。


幼い日の君はきっと…今のように微笑って、
ここで眠り、遊んだのだろう。
そんな君の思い出に…捧げよう。

叶う訳もないけれど…願わくば幼き日の君にも届けば良い。

今と変わらず、お転婆で、無邪気で…そして、優しい君に。

そしてその思いは、きちんと彼女に通じていた。
時には不躾な程に、彼は香穂子に…しばしば、
上手く言葉に言い表せない感情を抱かせた。
たった今も…感じている…だが、
その時々で必ず何かが違う…形容し難く、だが、愛しい想いを。
それは…痛いようで…でも…なければ寂しいような気がする。
そんな時は、溢れる感情に追いつかない言葉がもどかしくて、
涙が出そうになる。…香穂子は、幸せで目に滲む涙をそっと拭うと
…彼の音だけに心を溶かしていった。

……言葉にしなくても、きっと蓮がこの曲に篭めている慈愛の感情は、
彼女に届いているのだから。
 

「………踊っても、構わないが。」

瞳が合ったので、悪戯っぽく笑って言ってやると、
香穂子は照れ臭そうに一瞬むくれて…それから、立ち上がる。
今まで、演奏中に話すなど考えられない事だったが…
今の彼女は、思わずそう言ってやりたいほどに…身体を揺すり、
幸せそうだったから。

香穂子は、蓮の横に立つと、ゆらゆら揺れて…ふうわりと笑う。
笑い返せば、又、笑う。



……それで良い。…素直に、そう思える。



先程までの、わだかまりが嘘のようだった。
それは、楽しさ…喜びと言った感情を肯定し、
楽しむ為に弾くのも弾き方だと気付いたからに他ならない。
間違いのある彼女の演奏に不快感を抱かなかったのは、
曲に篭められた温かな感情が…彼の心を浮き上がらせていたから。
細かい技術以上に…感情の部分で…
自分の心が揺さぶられたからだと…そう解ったのだ。
勿論、それだけではいけないのは解っている。
正確なテクニックは演奏者として不可欠だ。
だが、音楽に臨む姿勢としては、決して間違えてはいない。


……君が、喜ぶのなら……こんな弾き方も悪くない。


「すごく、綺麗な曲だね。」

そう、香穂子…他ならぬ君が肯定してくれるなら、
俺は俺を否定しない。
こう言う弾き方をする、それも俺だと。 


……楽しさを音に。哀しみを音に。そして…
不可思議なこの想いも音に。

 君を想う感情は…最も俺の中で偽りのない核。


弾き終わって、二人並んで海を臨めば…
潮風がそっと汗の滲む額を…張り付いた髪をなぶる。
…香穂子は照れ臭くなったのか、微笑って走り出せば、
蓮がその後を追って来る。

「え、え!?なんで追っかけてくるの?」
「…君が逃げるからだが。」
「逃げるからって…そんな子どもじゃないんだから。」
「……今日は子どもで構わない。」

はしゃいで、訳もなく転げ回って、二人微笑う。
座り込んで、バイオリンを奏でたなら…
香穂子がうっとりと横で瞳を閉じ、酔い知れて。

それから…疲れて眠る。

大きな木の幹もたれ、ひんやりとした木の冷たさを背中に、
そして香穂子の重みを肩に感じて…
蓮は、穏やかで心地良い疲労感を味わっていた。
そっと、彼女の髪を摘み上げてくちづけて…それから、
空と一つになった海を眺める。

変化する自分を畏れたのは…まだ見ぬ自分が
どう変わるか予測できなかったから。
まだ見ぬ場所を恐れる子どものように…怯えていたのだ。
…幼い日、まだ見ぬ場所へ冒険に出かける子どもを
遠く眺めるしかできなかった時、自分も行きたいと願いながら、
心の何処かで畏れて…結局足を踏み出さなかった…
あの感情と同じ。

「……俺は、もう…恐れない。」

今日…新しい経験の中、新しい景色、
新しい自分を見つけた時感じた喜びがそっと蓮を後押しする。

彼女を想って…想うが故に変わって行く事は
きっとこれだけではないのだろう。
その一つ一つをこうして越えて行こう。
彼女がその横にいてくれるなら…。


「君は、憧憬だ…俺の中の、永遠の憧憬…。」


幼い日の、淡い憧れから…たった今、
胸に抱く甘い痛みの正体まで…全てを内包する…し続ける
…永遠の憧憬。

又何時の日か…ここに来る事が出来たなら、
又、『トロイメライ』を弾きたい。
心のままに…溢れる感情のままに。

 ――――――願わくば、優しく微笑う香穂子と共に。


その為なら、何処までも行ける。
 
遠くまで、遠くまで……永遠に…
…君と言う“憧憬”を追って。

Fin.


<Back MusicBox


この素敵な創作はSieta in Green管理人:谷岡 圭さまのサイトでキリバンを踏んだ管理人がリクエストして頂いた創作です。圭さん、お忙しい中ありがとうございます!

古都のリクエストは「月森×香穂子」でお題は「トロイメライ」でした。「トロイメライ」は現在このページで流れている曲です。今回はコルダでリクエストさせて頂いたので、好きな曲をお題としてセレクトしました。トロイメライと言えば、私にとってはオルゴール音です。中学生の頃に読んでいた某漫画でこの曲が出てきます。この曲の使われ方がとても好きで、印象の強い曲です。この曲はシューマン「子供の情景」のうちの一つです。同じ「夢」をタイトルに持つほかのどの曲よりも母性愛の強い曲だと私は思っています。

蓮くんでこの曲というのは、大変難しかったと思います。圭さんの「トロイメライ」のとらえかたはとてもうまいなぁっと思います。あれだけバイオリンが上手な蓮くんですから、子供の頃にあまり外で遊んだりしなかっただろうなぁ・・というのは作品から読み取れますし、恋愛感情をうまくコントロールできないのも蓮くんならではですよね。香穂ちゃんへの愛情がとてもよく伝わってきます!圭さんの文章は比喩表現がとても豊かですから、すらすら読めて、読後感がとてもよいです!!

圭さん、いつも本当にありがとうございます。
尊敬と感謝を込めて・・大切に飾らせていただきます!
ありがとうございました。


 『トロイメライ』 R.Schumann 
midi write by yuki aizawa