スタートライン



 小さめのスケッチブックを広げては、浮かんだイメージを描く。
 それが私の日常。
さんはどこに行くにも、そのスケッチブックを持ち歩いてますね」
 苦笑まじりにそう言った人は、過去へと消えた。
「桜弥くんは、どこに行っても花や植物を見てるよね」
 そんな桜弥くんが大好きで、桜弥くんの絵ばかり描いていた時も、
今は懐かしい思い出。
 
 高校の卒業式の日に始まった私たちの関係は、桜弥くんが一流大学に、
私が一流芸術大学にそれぞれ進学して一年も経たないうちに、終わりを迎えた。

「もう限界なんです」

 突然告げられた別れの言葉。
 その瞬間、私の世界のすべてが桜弥くんに否定されたと思った。
 だから。
 悲しくて、切なくて、つらくて。
「桜弥くんは絵を描く私は嫌いなんだ・・・ずっと我慢してたんだ・・・。
じゃあ・・・もういい。無理に付き合ってもらわなくったっていい。
桜弥くんなんていなくたっていいっ!」
 そんな言葉を投げつけて、桜弥くんから逃げた。
 それなのに、私は桜弥くんを憎むことも、嫌いになることも、
忘れることもできなくて。
 憎めたらどんなに楽だろう。嫌いになれたらどんなに楽だろう。
 忘れることができたら、どれほど、楽だったろう・・・。

 初めて話をしたのは3年生の6月。
 その頃の私は、密かに目展への応募を決心して、
作品のイメージを探して学園中を歩き回ってはスケッチしていた。
そのとき、園芸部の花壇の前にいた人を見つけたのだった。
 花を愛おしそうに見つめる目、そっと触れる手。
 しばらくその人を見ていると、彼は花を切りはじめた。
「どうして切っちゃうの?」
 そんなに切なそうなのに。
 そんなにつらそうなのに。
 なのに、どうして?
 思わず声に出していた。
 けして大きくはない声だったはずなのに、その人は振り向いた。
「花がらを摘んでいるんです。それに枯れかけた花も取り除いてやらないと、
ほかの花に栄養が行き渡りませんから・・・。
だから、花に一番良い環境を作ってあげてるんです。」
 そう教えてくれたのが桜弥くんだった。
「美術部のさん・・・ですよね?どうしてこんなところまで?」
「え?私を知ってるの?」
「ええ。去年の文化祭で油彩を展示されてたのを見ました。
すごく幻想的だったので・・・印象に残っています。」
「ありがと。そんな風に思ってもらえてすごく嬉しい。
私も守村くんのこと知ってるよ。試験結果でいっつも上位だよね。
それと私ね、去年も一昨年も文化祭のお店でハーブティーを飲んだの。
すごく美味しかった。今年も楽しみにしてるね。
あ、ところで、ここの花とか木とかを、スケッチさせてもらいたいなって
思って来たんだけど、いい?」
「もちろんいいですよ。」
 その日から私は毎日園芸部の花壇へと足を運び、
ひたすら花や木をスケッチした。
 そんな日が何日が過ぎた頃、私は、花や木の手入れをほぼ毎日しているのは、
桜弥くんだけだということに気が付いた。
「毎日来て世話をしているのって守村くんだけなんだね。」
「ええ。当番が決まってますから、その日以外は特に拘束されません。」
「・・・・・・もし世界が明日で滅ぶとしても、守村くんは花を植え続ける?」
 唐突過ぎる質問にびっくりしたようだったけど、
しばらく考え込んで答えてくれた。
「ええ、きっと。明日のことは誰にも分かりません。
でも僕は、明日に世界が滅ぶとしても種を蒔き、
花を植えたいと・・・そう思います。 ――― あなただってそうでしょう?」
 同じ思いを持つ人。違うのは、
対象が「花」か「絵」か ――― それだけだった。
 だから、この人を描きたいと、そう思った。

 描きつづけたいと思う人は、桜弥くんだけだった。
 ・・・だけど・・・。
先輩?どうしたんですか、ボーっとして。
さっき受付にこれが置いてありました。先輩宛ですよ。」
「あ、ありがとう。」
 私はA4サイズの封筒を受け取った。差出人はなく、
宛名は印刷されていたので、誰から来たのかは分からなかった。
「先輩、明日で終わるなんてもったいないですね。学内だけじゃなくて、
外からも結構来てくれてましたよね。
もう少し期間を長くしても良かったんじゃないですか?」
「私には3日が限度だよ。」
「そんなことはないと思いますけど・・・僕も先輩みたいに2年生の内に
一度は個展を開きたいですね。」
 7月1日から3日までの3日間、私は大学の展示室を借りて、
個展を開いていた。企画と作品と展示室の空きさえあれば、
いつでも開くことが出来るという、本当に小規模でささやかなものだけれど、
この個展がきっかけでプロの道に進む人もいるので、私たち学生にとっては
登竜門的な意味合いがある個展だった。
(これ・・・)
 封筒から出てきたのは、去年失くしたスケッチブック。
 これを最後に持っていたのは、桜弥くんと最後会ったときだったはず。
 もしかして、ここまで来てくれた?
「ね、これを持ってきた人は?」
「い、いえ、分かりません。ちょっと目を離していた隙に置かれたようで・・・でも
5分は経っていないはずです。」
 私の剣幕に驚いたのか、後輩はしどろもどろで答えた。
「5分?じゃあ間に合うかも。ちょっと出てくるから、あとよろしくねっ。」
 私はスケッチブックを握り締めたまま、急いで桜弥くんを探しに出た。
 たぶん見に来てくれたんだ。一流大学にもポスターを貼ってもらったもの。
 ただ、会いたかった。


 会いたいと思っていた人は、意外に早く見つかり ――― 正門前にいた。
 桜弥くんは、初めて話をしたあのときのように、
花壇に咲いている花を愛おしそうに眺めて、そっと触れていた。
「やっぱり、スケッチブック届けてくれたの桜弥くんだったんだね。
 え・・・と、その・・・ありがとう。
 あの、さ・・・絵を見ていってくれない?もし、時間が大丈夫なら・・・なんだけど。」
 押し付けがましくならないよう、言葉に気を付けながら聞いた。
 もしかしたら、桜弥くんは誰か別に付き合ってる人がいるかもしれない、
スケッチブックを返しに来たってことは“過去の清算”なのかもしれないと、
そう思ったから。
「夢を叶えているさんに比べると、
僕はまだスタートラインに立ったばかりです。」
 花を見つめたまま、桜弥くんは話し始めた。
「だから、不安だったんです。あの頃、さんが絵のことを話すたびに、
さんが描いた絵を見るたびに、僕の心には言いようのない不安が少しずつ、
でも確実に降り積もっていたんです。僕は弱い人間です・・・。
だから、いつかあなたから絵を取り上げるかもしれない、そう思いました。
そう思ったとき、僕がさんの枷になることに気付きました。」
「そんな・・・そんなことない。」
「いいえ・・・あの頃の僕は焦っていました。だから限界だと思ったんです。
そんな自分勝手な理由です。だから・・・だからあなたは、
僕を嫌っても憎んでも・・・忘れてもいいです。
でも、僕があなたを忘れることは出来ないと思い知らされました。
あなたが大学で個展を開くと聞いて、居ても立ってもいられなくてここまで来ました。
あなたの絵は、今でも幻想的で印象的で・・・そして優しいですね。」
「見てくれた・・・の?」
「ええ。本当は会いたかったんです。でも、あなたの絵を見たら、
会う勇気がなくなってしまって・・・。僕に出来たのは、そのスケッチブックを
こっそり置くことだけでした。・・・あなたは、僕に気付いて探しに来てくれました。
もう一度、あなたとやり直したいというのは、図々しい願いでしょうか?」

 ――― やり直したい。
 その言葉が嬉しかった。
「ありがとう・・・。でも、私はスタートラインには桜弥くんよりは早く着いたけど、
ずっとそこで足掻いてる。だから描くしかなかったし、
これからも描くことしか出来ないと思う。・・・それでもいい?」
「ええ、もちろん。僕もあなたに負けないよう頑張りますから。」
 いつもの笑顔で桜弥くんが答えてくれた。
 それが嬉しくて、私も自然と笑ってしまう。
「そういえば、今日は桜弥くんの誕生日だね。おめでとう。」
「え?」
 桜弥くんは、きょとんとした顔で私を見つめた。
「なんにもプレゼント用意してないから、とりあえず仲直りのキスね。」
 なんだか照れくさくて、へへっと笑いでごまかした。
「それなら、ほっぺたじゃなくて唇がいいです。」
 え?と思う間もなく唇に桜弥くんを感じた。
「こ、ここ、学校!正門っ!」
「そうでしたね。」
 桜弥くんも顔を真っ赤にしてるくせに、にっこりと微笑みながら私を抱きしめた。


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<管理人から一言>

こちらの素敵なお誕生日創作は、『夢の淵』(管理人:翠月咲樹さま)のサイトで期間限定のフリーになっていたものです!翠月さま、転載許可ありがとうございますvありがたく頂いてまいりました。

両思いになってからも恋愛って決していいことばかりではないはずなんですよね。すれ違ったりすることが無ければ、相手の本音がわからないこともあると思います。両思いだからこそ、お互いを深く考え、お互いの考えがぶつかることもあるんですよね。キャラに対する愛情が深いからこそ、こういった創作が書けるのだと思います。とても素敵なお話ですよね!また文章力がある方がかかれるからこそ、この切ない思いが良く伝わってくるのだと思います。本当に素敵な作品をありがとうございました!

翠月さまのサイトにはまだまだ沢山良い作品がありますので、ぜひ訪ねてみてくださいませね!


素材提供:http://mystiq.us/