<透明な迷路で>


 冷たい風の中に、微かな暖かさが感じられるようになった。
「もう…春が近いのだな。」
 氷室は校内の巡回に出て…つとそう呟いた。
 教師になって…生徒を見送るのはもう何回目だろう。
 幾度も春は訪れ…その度に生徒を見送って来た。
 ――――何度も行って来たそれに対して
…氷室は感慨を覚えた事はない。
 教師として…それぞれの生徒に対して…
一定の評価と反省はしようとも、それ以上の何かを感じた事はない。
氷室自身そう思っていた。
 いや………正確には『なかった』のである。
 
 だが、今年は違う。…いつもにない得体の知れない
不安感が氷室を襲うのだ。……何かを失うような…
そんな痛みを伴う感情を覚える。
 そう…感じた時、氷室が思い出しているのはいつも彼女の事だった。
 氷室学級のエース、である。
 彼女は何もかもを完璧にこなす…氷室が今まで受け持った中でも
一番の、『理想の生徒』だった。…自分に厳しく、他人には優しい。
そんな事が自然に出来る少女だ。
 …彼女がいなくなると…きっともう彼女ほどの生徒は当分現れまい。
…そう思うから残念なのだろうと氷室は思った。
――――思っていた。

 ―――――その日、彼女がその考えに小さなひびを入れるまでは。
 

「……あれは………ではないのか?」
 見巡りも終わり校舎に戻ろうとした氷室は、
見慣れた姿がぼんやりとその瞳に写って、つと足を止めた。
 空はもう薄い紫紺がかっている。その空を窓越しに見ている
彼女を見つけたのだ。明かりも消された廊下に立ち止まり…
彼女はじっと空を見詰めていた。
「…こんな時間に…何をしていると言うのだ。」
 氷室は…一言注意しようと窓辺に近付き…言葉を失う。
 ―――――彼女は、泣いていたのだ。
 …と、咄嗟に訳も無く氷室は姿を隠してしまう。
 まるで輝く鉱石のような涙を…彼女は流していた。
 そして、泣きながら…何かを呟いている。
 何度も何度も同じ口の動きを繰り返している。
恐らくは同じ言葉を反駁しているのだろう。
 同じ言葉を繰り返し…空を見上げて泣くその姿はまるで
巡礼者の祈りにも似て…痛々しい程に胸に突き刺さる。
 氷室は…声を掛ける事さえ出来ずに…そっと彼女を
見つめ…やがて去って行ったその後姿を見送る事しか出来なかった。
 彼女のその姿が…氷室の心に小さな小さなひびを入れたのである。

 『が泣いていた。』その事実は思った以上に
深く氷室の心を抉っていた。授業中も…廊下ですれ違っても
ろくに瞳を合わせる事も出来ない。
 そう、言えば良いのだ…教師としてただ一言。
 『何か悩みがあるのなら相談に乗る』と。
 ……それなのに、言い出せないのは何故?
 教師である自分を思うと歯がゆさを感じるのは何故?
 ………気付かせるな!!私に何も気付かせるな!
 心で叫んでみて、氷室は自身を嘲笑する。
 分かっているから、思い知らされているから……十分に。
 『私は彼女に惹かれている。』
 足掻いてみてももう…誤魔化し切れない所まで来ているのだ。
 『だが私はそれでも教師。教師でなければ彼女の何になれるだろう?』
 氷室は…職員室の窓越しに彼女を見つけて溜め息をつく。
 ………彼女の横には守村と言う同級生が一緒だった。
彼は学年でも指折りの秀才で…とよく一緒にいるところを見かける。
 『彼女には…にはああいった相手が釣り合っているのだろう。』
 そう、年も境遇も近い者が。より近い立場で分かってやれる人間が。
 『それにしても楽しそうだな…。』
 まるであの日泣いていたのが嘘のように。
あまりにも無防備で無邪気なその笑顔に、氷室はつと笑みを漏らしてしまう。
 『彼女の笑顔に心が浮き立つのは嘘じゃない。』
 氷室はそう思った瞬間…急に心がささくれ立つのを感じた。彼女の隣にい
るのが自分じゃない事が我慢出来なかった。不愉快だと感じた。
 ―――――ガツン!
 氷室は小さく拳を握ると…軽く窓に叩きつけて。
 窓越しの彼女を…じっと見つめていた。


 大学入試も程近いある日。氷室はまたを見かけた。
 夕暮れ時。校内の巡回中に。あの…彼女が泣いていた窓辺で。
 そう…あの日とまるで同じ状況で。
 は…また空を見上げていた。何かを口にしながら。
 違うのは…そう…今日は…泣いてはいないと言う事だろう。
 泣きたいのに泣けない、叫びたいのに叫ぶ事さえも出来ない…
…そんな表情のまま…じっと眉根を寄せて。
 氷室は息苦しさのあまり無意識に…胸倉を握り締める。
 『どうしてこんなに苦しいのか?』――――分かっている。
 彼女が辛いのなら…泣きたいのなら…自分が、
自分こそがその側にいたいと感じてしまっているからだ。
「…………!!」
 …次の瞬間、氷室は驚きのあまり言葉を失う。
 彼女と…と視線が合ってしまったからだ。
 驚いているのは彼女も同様のようである。
 二人は時間が止まったかのように……立ち尽すばかりで。
 ………二人は、それ以上動けずに、近付けずに。
「……どうして…君は…そんな……。」
 氷室は小さく口の中で呟き…苦々しげに…否、これ以上
瞳を合わせている事が耐えられずに僅かに俯く。
 『君は…何を嘆くのだ。』
 そう…心中で思い再び顔を上げたその時にはもう…
はそこから姿を消していた。
 『……私には…何も出来ない。』
 ――――何も出来ない?…しようとしないだけではなくて?

 氷室の胸に飛び込む自問に……自分自身…愕きの念を隠せない。
 『私は近付けないと言うのに。』
 窓一枚に隔てられているように…永遠に私達の距離は
埋まりはしないのに。
 ――――氷室は我知らず切れる程強く唇を噛み締めた。
 
 
 翌日。氷室は偶然中庭で鉢合わせたの前に立っていた。
 彼女はと言えば…困ったような表情をして氷室を見上げている。
「…どうした、。私の顔に何かついているのか?」
 我ながらこの気の利かなさに嫌気が刺す。
彼女に微笑む事さえも出来ない自分が腹立たしくて堪らない。
「…どうしてですか?」
 やがて……ポツリと彼女は漏らした。
「…どうして…とは?」
「…私が何をしていたのかなんて…気にはならないんですか?」
 氷室は彼女の顔をまじまじと見た。どうしてだろう…いつもとは明らかに
様子が違う。――――思い詰めている、と言う言葉に一番近いだろう。
「…気にならない…訳ではないが…。」
 そう言って口篭もる自分もまたいつもとは違うような気がしていた。
 どうして……どうしてなのだろう。
「…失礼します。」
 ……氷室が口篭もる側を…彼女がそっと通り抜けようとする。
 ―――――彼女が…行ってしまう。
 ―――ガッ!……氷室は思わずその手首を握り締めた。
「…待ちなさい!」
 『私は…一体何をしようとしているのだ?』
 氷室は自分でも抑えがたい疑問を胸に抱いたまま、彼女を引き止める。
 必死で彼女に言うべき言葉を捜す。何かを言おうとして口篭もる事数回、
ようやく氷室は口を開いた。
「…君は私にとって誰よりも大切な生徒だ。君は…
私の受け持った事がある 生徒の中でも…
一番素晴らしい才能と努力を持ち合わせている。
…そんな 君が悩んでいるのを見過ごす事は出来ない。」
 氷室がそう言った瞬間だった。
「……私は…そんな完璧な存在じゃありません!」
 は急に叫ぶと…氷室の手を振り解く。
「……やっと、気付いてくださったのかと思っていました。
でも…違うんですね。先生は……何も。」
 『やっと気付いた?…それは一体どういう意味だ?』
 氷室は疑問を抱きつつ彼女を見つめる。だが、彼女は視線を反らすと
走り去った。―――――瞬間、彼女の涙らしきものが
陽光の反射を受けてキラリと光る……まるで輝石のように。
 『私は何に気付いていないと言うのだ?』
 ―――――氷室はじっとその場に立ち尽くして…
彼女の手首を握り締めた手のひらを見遣る。
 『私と君は…どんなに近くにいても…決して分かり合えないのだろうか』
 そう、まるで透明な迷路にいるように…どんなに近くにいると感じても、
側に行こうとすれば途端に道に迷ってしまう。
 『それでも……私は……。』
 
 ――――――私は君に出会いたい。
 氷室は覚悟を決めた。どんなに…誰に謗られようとも…
護りたいものがある。泣かせたくない人がいる。
それが………いや、彰香なのだと。
 ―――――果てしなく迷い続けていた迷路の中にようやく
一筋の光が差したような気がした。


 氷室は…時間通りに校内巡回に入る。
 人気のない…屋外を…氷室はゆっくりと歩いていた。
 ぐるりと校外を一周し…校内へ戻るべく足を向けた。
 ―――――……か?
 氷室はだがしかし驚かなかった。
 何故か…彼女がそこにいるような気がしていたから。
 今までと同じ…その場所で。
 氷室は少し立ち止まった。…彼女に視線を向ける。
 彼女もまた…氷室が来る事を知っていたかのように…
 そこに立っていた。
 彼女は苦痛に眉根を寄せるような…そんな表情をしていて。
 氷室はやはり…息苦しいと感じた。胸が潰れそうだ、と。
 彼女が視線を反らし…立ち去ろうとするその瞬間、
 氷室はおもむろに歩を進めた。……それが視界の端に見えたのか、
 彼女はつと立ち止まる。
「………………。」
 氷室は、風に舞う木の葉にさえ聞こえるか定かでない程の
 声音で彼女の名を呼ぶ。
 『もう、構わない。』――教師の建前も、何もかも。
 ……彼女の涙や…悲しみの前で、何の大事があると言うのだろう。
 氷室はそっとその手を窓に押し当てた。
 ―――――は…ゆっくりと踵を返す。
 そのまま…じっと二人は見詰め合って。
 氷室は今の自分が酷く情けない表情をしている事は分かっていた。
 だが…それでも良かった。…もう、隠せやしないのだから。
 彼女は…氷室の手にそっと窓越しに手を重ねた。
 そして…そのまま泣き崩れるかのように額を窓に押し当てて
 顔を伏せてしまう。
「…泣いて…いるのか?」
 氷室は自然と彼女の顔を覗き込む。
 そうすると…二人の顔は窓越しではあるが今までに無い程近付いていて。
 彼女は…つと微笑った。…つられて氷室も微笑う。
 そのまま…二人の影はそろそろと近づいて。
 そして……窓越しに二人はそっと唇を重ねた。
「…君は…まるで硝子細工のようだな。」
 そっと窓を開けた彼女を窓枠越しに抱き締めながら…氷室はそっと呟く。
「…先生……だって…。」――――硝子より繊細な心を持っています。
 彼女の囁きは涙にかき消されて、言葉にならない。
「…確かに君は完璧ではない。だが…だからこそ…
私は惹かれていたのだと……思う。」
 恥ずかしげに呟く彼の声も…語尾はくぐもって聞こえはしない。
「…私は…ずっと…見てたんですよ?ここで…ずっと…。」
 は彼の耳元で告げた。
 瞬間…永遠と思われた透明な迷路が砕け散ったような気が氷室はする。
 『そうか…出口ばかりを探していたが…。』
 それが、違っていたのだ。
 二人を隔てる透明な迷路の正体は知れば砕く事が容易な…
一枚の『硝子』だったのだと。
 そう、この『硝子』は『こだわり』と言う名の感情でしかなく。
 知って…取り払う事が出来たなら…こんなにも簡単に分り合えるのだ。
 ――――自分の感情が、こんなに手に負えないものだとはな。
 氷室は感情を心底で舐めてかかっていた自身につと笑いを漏らした。
 そんな彼を不思議そうにの可愛い瞳が覗く。
「…何もない。」
 氷室は…優しく呟くと…彼女の髪をそっと撫でた。
 ――――二人を見守るかのように…そっと春の花の香りが
吹き抜けて二人の髪を揺らしていった。
『春は…もう近いのだな。』
 氷室の心の中で、初めて春の訪れが待ち遠しいものに
 変わったのだった。


 氷室はやがて知る事になる。
 彼女はいつも…あの場所で巡回から戻る自身を見ていたのだと言う事や。
 気付いてくれない氷室の前で『完璧な生徒』を演じる事が辛かったのだと
言う事を。
 そして、彼女が呼んでいたのは『氷室の名』だったと言う事も……。


 硬質な接吻から時を経て。
 やがて二人が本当の接吻を交わす頃に。
「…零一さん。」
「おいで、。」
 氷室は愛しい彼女の手をそっと取る。
 硝子細工のような指輪が…彼女の左手に輝いていた。

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<管理人より>
この創作はSiesta in Green(管理人:谷岡 圭 さま)で
6000Hitを踏んでいただいたきりばん創作です。
古都がオーダーしたリクエストは「氷室先生×主人公」で
お題を「ガラス」でした。
こんな妙なお題で、こんな素敵な創作を頂けてとっても幸せです!
さり気に桜弥くんが登場してるあたり谷岡さまの気配りが感じられて
思わず「うまい!!さすがだぁ〜」って思ってしまいました。
つぼを心得ていらっしゃいますね(^^;
ガラス越しの口付けってのものとっても素敵ですvv
谷岡さまの創作はこの風景描写のこまやかさと、苦悩しながらも
二人が幸せになっていくstory展開がとっても魅力的で、
それでいて、古都とは違い仕上がりがとても早い!!
というところが、いつもすごいなぁって思ってます。

谷岡さま素敵な創作をありがとうございました!!