|クリックで閉じる|トーチャンの思うワンコについて|


2007/7/30

【トーチャンの思うワンコについて1】これから何日間かに亘って書くことはトーチャンの個人的な主観に基づきます。悪しからず。犬と人間の付き合いは実に長い歴史を持つ。日本でも縄文時代の遺跡から丁重に葬られた柴犬と思われる骨が出土している。あきらかに人間と共に暮らし、亡くなった時に人間が家族として埋葬したものである。個人的には柴犬とバセンジーというのはぜんぜん違う地域で似たような過程を得て現在に至っていると考えている。半ば放し飼いでなんとなく人間の近くから離れず、狩りの仕事に出て行く人間に嬉しそうに着いて行き、人間に誉められるとニヤニヤしながら目を細める。つい、100年前までは柴犬もバセンジーも彼らの性分を理解する人間と、人里離れた山の中や砂漠の中で静かに種を守りながら暮らしていたのだ。西洋文化のあおりを受けて今ではアメリカで暮らす柴犬もいるし、日本で暮らすバセンジーもいる。昔と取り巻く環境が違うので、散歩にはリードが必要であったり、公共性を覚えることは必要だ。しかし、昼間は人間と仕事をして、夜は人間の傍の土間で安心して寝ていられる環境をいかに再現してやれるかが日本人と犬のかかわり方で大切なところだと思っている。↑topへ

2007/7/31

【トーチャンの思うワンコについて2】西洋の犬に対する考え方と、日本人のそれとは根本的なところがまるで別物だと思っている。確かに動物愛護団体は熱心であるが、相変わらずドッグレースは盛んであるし、犬の順応性、という、特徴を使ってたくさんの犬種を’作出’してきた。人間のための’犬’であってパートナーシップではない。ブルドッグやブルテリアなどの闘犬も愛玩犬も考え方は一緒だ。以前テレビで颯爽と駆け抜けるグレーハウンドのレースを見た。まさに走る芸術品だ。とあるホームページを観るまではカッコいいとさえ思っていた。ホームページを閉じた後、むなしさを感じた。あいにく当時見たサイトを見つけられずここにリンクを貼れないが、故障して走れなくなったグレーハウンドの保護施設のものであった。最近は保護活動も盛んになってきたらしいが、やはり、日本人とは違うのだ。奄美や山古志の闘牛だって土佐の闘犬だって神に奉納する行事、と、トーチャンは認識しているが、ヤツラのは娯楽だ。世の中、娯楽がウジャウジャしているのに、なぜ?あえて犬なのか?トーチャンの脳ミソには理解する回路は付いていない。ただし、食事と繁殖のコントロールは日本の愛犬家が一番苦手とするところではなかろうか?人間と犬の体の構造は違う。持っているウィルスも違う。愛犬と一日でも長く付き合いたければ、食事は情緒よりも科学的に物事を捉えなければならない。また、日本の法律上、野犬は存在しないことになっている。保護され、処分される野犬たちは皆人間がコントロールを怠ったために世に送り出してしまった命である。一時’崖っぷち犬’というのが話題になったが、崖っぷち犬の里親は抽選で、その姉妹達は応募0だったという。抽選に当たった人は是非最後まで可愛がってやって欲しい。抽選に外れた人達は、頼むからもう二度と犬が欲しいなどと思わないで欲しい。動機が不純だ。日本人が西洋の犬に対する考え方から学び、日本の風土に合ったアレンジを考えなければいけない事はまだまだたくさんある。↑topへ

2007/8/1

【トーチャンの思うワンコについて3】トーチャンは星一徹が嫌いだ。金も無いくせにちゃぶ台をひっくり返して物を粗末にするし、娘の明子姉さんは泣かすし、飛雄馬に変な金具(大リーグボール養成ギブス)なんかくっ付けたくらいにして虐待をする。しかも、無理クリ左利きに改造までしている。トーチャンは左利きだけど、箸と鉛筆は右である。親にずいぶん左手を引っ叩かれたので当時のことは未だ根に持っている。時々、那須の山から人里へ下りて、辺りを見回すと、結構、この星一徹型ガンコオヤジを見かける。ここで注意していただきたいのは’星一徹型ガンコオヤジ’と’トーチャン’というキャラクターは全く別物である!と、いうことである。トーチャンというのはいつでもわが子の成長を喜び、頭をクリクリとナデナデして、同時に、やがてやって来る子離れの時を想い、人前ではジッと耐え、夜中に独りコタツの足を握り締めながら背中でむせび泣く生き物なのだ。星一徹型ガンコオヤジなんかと一緒にされちゃ困る。で、やっと本文に入るわけだが、他犬種のオーナーさんとバセンジーの話しをすると、バセンジーというのはガウガウで一緒に遊ぶことは出来ない、と、思っている人が多いようだ。いわゆる’危険な犬’であるらしい。どうも家でリラチンと暮らしている印象と違う。リラチンは本当に犬なのか?と、疑いたくなるヤツだけど’あぶないヤツ’ではない。確かにバセンジーは利かん坊の要素はたくさん持っている。忍耐力はほとんどないし、我慢してるとゴセ焼けちゃう。言うことをきかせようと締め上げれば、服従心の気薄なバセンジーはどんどん凶暴になる。どんな相手にも勇敢に立ち向かって行く。それが例え飼い主であったとしてもだ。これを野性味と見る向きもあるが、原産国のバセンジーが年中ガウガウやっている、なんていうのはトーチャンには???だらけの疑問である。なぜならガウガウやって怪我ばかりしていては何千年もの間、厳しい環境を生き抜いて種を守り続けることなんか出来やしないからだ。野生動物は安易に戦ったりはしない。グループの引き締めを図る時はディスプレーであったり、たてがみや容姿で威嚇してみたりと擬似的行為で済ませ、種の中で傷つけあうことはほとんど無い。戦うのは食する時であり、繁殖期のみである。バセンジーというのは、本来人懐こく、友達と遊び上手で、服従心も無いけど警戒心も薄い社交的なワンコであるはずだ。勝負事には向かないワンコだと思う。勝負事や駆け引きなんていうのは軍隊だら核ミサイルだらとハシャいでいる世界の政治屋にでもやらせておけばいいのだ。バセンジーはそこまでヒネてない。バセンジーと暮らすのに星一徹型ガンコオヤジも外務大臣時代の田中真紀子さんみたいなヒステリーカァ〜チャンも必要ない。ガウガウのバセンジーというのは日本の星一徹型ガンコオヤジが作り上げた日本のオリジナルなのかもしれない。バセンジーにはデコのシワをナデてくれるレロレロトーチャンと、齧られてもアハハハハッ!と笑っている肝っ玉母ぁ〜さんがいればそれでいいのだ。そういう信念を持って毎日リラチンと向き合っている。↑topへ

2007/8/2

【トーチャンの思うワンコについて4】ワンコ達は悲しいぐらい環境に適応する。同種でなくとも人間ともグループを形成する。これをトーチャンは’人を喜ばせたい’と、解釈している。日本犬達は日本の風土に適応してきたから日本犬なのだ。冬を越えるためのアンダーコートに身を包み、耳は三角で小さい。山がちな地形を歩くため、筋肉質で短めの体型を持つ。自前の毛皮で自らを保温するので基本的には独りで寝る。バセンジーだって温度差の激しい乾燥地帯に適応してきたからバセンジーなのだ。大きめの耳や体から体温を逃がして日中の暑さから身を守り、冷える夜には仲間でクッ付き合って寝る。ゴビ砂漠やサハラ砂漠の人達の視力が7.0や8.0であるようにバセンジーも犬らしからず遠くがよく見える。そういうバセンジーにとって日本の季候や風土はやはり厳しい環境なのだと思う。中には寒さもヘッチャラという子もいるかもしれない。そういう子を集めて交配を繰り返していけば、やがて比較的耳が小さく、比較的体毛が長く、日本に適応したバセンジーという子も現れるかもしれない。しかし、適応というのはやがての子孫に対応できる子が現れる、と、いうことであって、今存在する子達が、多少は慣れる事があっても完全に対応出来るようになるわけではないのだ。寒いものは寒い。蒸し暑いものは蒸し暑い。まして、特性を変えてまでバセンジーが日本で暮らす必要は無い。やはり、トーチャンとしては、

(独り小芝居→)「なに!アフリカ大陸にご先祖様を持つリラチンが、わざわざトーチャンに謁見したいとな、是非会うてみたい!ン!通せ。・・・益々御健勝の事と存知候。遥々この地へご足労頂き有り難き事に候。と、堅苦しい挨拶はこの辺にしてじゃ、しかし〜何じゃのぅ〜、挨拶代わりに、いきなりフライングボディーアタックからカミカミ攻撃の連続技とは、異国文化もいろいろあるもんじゃのぅ〜。まっ、苦しゅうない、近う寄れ。どうじゃ、リラチン、日本の地でなんゾ不自由していることは無いか?日本のハイテク機器は優秀じゃ、遠慮は無用じゃ、ソチの欲しいものを何なりと申してみぃ〜。あっ、そうじゃ、バウリンガル、あれはいかんゾ。ワンワンいうワンコのもんじゃ。リラチンのブォ〜ォには反応せんらしいのじゃ。ハッハッハッ。なになに、ほぉ〜、ファンヒーターにホットカーペットにコタツにハロゲンヒーターに布団乾燥機とな。変わったものを欲しがるワンコよのぉ〜。まっよかろっ。ワシも庶民の暮らしを見てみたい。お忍びで電気屋へ参るゾ。籠の仕度をいたせい。」

と、少しぐらい日本人の懐の深いところをバセンジーに見せてやってもバチは当たらないのではなかろうか?と、考えている。↑topへ

2007/8/3

【トーチャンの思うワンコについて5】種を問わず、ワンコ達はグループで暮らす。例外は無い。グループの構成は人間とであったり、血縁関係の家族であったり、親元を離れた後に知り合ったワンコ達であったり、と、実にさまざまである。これはワンコ達に高度な学習能力が備わっているからこそ成せる業なのだと思う。人間ばかりに囲まれて育ったワンコはどことなく擬人化した雰囲気を持ってるし、血縁関係の家族でグループを構成しているワンコは人間の干渉を好まなかったりする。多種多様なワンコ達が集まったグループはちょいとした幼稚園のようであり、仲良しの派閥が出来たり、面倒見の良い親分肌がいたり、ウマの合わない者同士がいたり、と、また違った様相を見せる。アイチンは仲間が見えてさえいれば安心するタイプで、積極的に中心を担うタイプではないが、リラチンの前では序列を重んじる。バセンジーのリラチンには序列の感覚がほとんど無い。アイチンは毎日リラチンを指導し、「なによ、ちょっと、遊んでみただけじゃない!アイチンのバカ!」と、リラチンは文句ブーブーである。でも、「トーチャンはアタチのオモチャよ!」と、独占するくせに、いざアイチンがいないとなるとソワソワし、オロオロとアイチンの帰りを待っている。リラチンにとってアイチンがいるということが、リラチンの生活には欠かせないものなのだ。リラチンの行動パターンはアイチンのマネをして自分で覚えたものが多い。おかげ様で人間はカミカミとオチッコに専念することが出来た。アイチンと同じことをすれば誉めてもらえる、オコチャマ時代にそういうルールを作ったらしい。結局のところ、1頭飼い向きのワンコか、多頭飼いでも大丈夫か、というのは持って生まれた素質よりも、生まれてからの約1年で、人間にどういう期待を抱かれ、どういう世間の風に吹かれて、それをどう吸収するかが大事な勝負どころなのだ。人間はチッコや食事などの生活のルールだけを口酸っぱく教えてやり、相性の問題は、紛争が勃発したら雷オヤジが登場して「バッカモ〜ン!」と、一発ずつ雷を落として時々リーダーシップを見せる程度で良い。人間は良く見ていて見えぬフリをしながらワンコ同士に解決方法を考えさせるのだ。ワンコ達のコミュニケーション能力はトーチャンの予想を超えてはるかに高度である。余計な干渉はするべきではない。余計な干渉は’和泉元弥とそのカァ〜チャン’の関係を生み出す結末を迎えることになる。トーチャンは苦手だ。むしろ、相性の心配をするヒマがあるなら、電卓と家計簿を相手ににらめっこでもしてた方が良い。頭数が増えることによって掛かる経費をいかに搾り出すか、トーチャンの酒代は譲れネェ〜なぁ〜、などなど、コメカミにウメボシ絆創膏でも貼ってウ〜ン、ウ〜ンと、うなされている方がよほど健全だ。銀行に行って「うちのワンコがよぅ〜。」と、言ってみたところで融資課長がニコニコすることはない。ただし、これはあくまでも先住のワンコとそこにやって来たオコチャマワンコの話しである。成犬が環境を変えるストレスは計り知れないものである。↑topへ

2007/8/4

【トーチャンの思うワンコについて6】リラチンと暮らしてきて、バセンジーが物を壊したり、いたずらをする時の状況に、体感する寒さがあると見ている。もちろん、他の原因もある。お腹の調子が悪い時であったり、やきもちを焼いてスネている時であったりといろいろだが、特に寒さは見落としがちである。これは冬に限ったことではなく、真夏だってエアコンの冷気を嫌い、コンクリートの床の冷たさで足が冷たくなったりしている。いたずらはいけないことだけど、こういう時はリラチンが茹で上がるぐらいす巻きにしてナデナデして暖めてやる。リラチンは布団乾燥機で乾燥中の布団に潜り込むぐらい乾いた暑さが恋しいのだ。きっとご先祖様の血なんだろうなァ〜。この季節、アイチンはひんやりマットの上でくつろぎ、リラチンは湯たんぽを抱えてゴロゴロである。アイチン達アンダーコートのあるワンコ達は体温を逃がしにくい保温型だけど、バセンジーなどの比較的大きな耳を持つ極短毛種は常に放熱していて、温度の感覚は正反対なのだ。しかし、他犬種と同様に真夏の屋外は禁物だ。リラチンは夏場でもTシャツを着て、涼しい室内の窓辺で日向ぼっこをしながらまどろんでいる。いくらバセンジーでも、ギラギラと輝く炎天下で頭を焙り過ぎればアホになる。人間と同じだ。結局、1年を通してほとんど毎日洋服を脱ぎ着して暮らしている。もっとたくさんのバセンジーと暮らしてみないとエラそうなことは言えないが、心地よい時間にたっぷり運動し、夜は茹でバセンジーになるぐらい暖めて寒気からくるストレスから守ってやると穏やかな性格になるみたいだ。しかし、そういう人間の気配りに対し、バセンジーは恩を感じて忠義を尽くす、と、いうことはたぶん無い。気が向けば人間にスリスリペロペロして、ドカン!と体重をかけて人間に寄りかかり、気が乗らなければプイッ!と、ナデナデすら嫌う。バセンジーは’永遠に自由な犬、バセンジー’なのだと思う。どうしても服従心を求めるのであれば、忍耐強く、訓練性の良いテリア系のワンコをお勧めするが、彼らは親分がチョロクでないと順位の入れ替えをもくろむ。いわゆるテリア気質である。そういう意味ではバセンジーより気難しいかもしれない。バセンジーは門を広く開けて待ってさえいればいいのだ(まぁ〜これが難しいのだが・・・)。どんな犬種でも大きくても小さくてもみんな個性がある。簡単に飼える犬というのはいない。どんなに訓練しても犬に絶対は無い。しかし、どんな犬種でもワンコ達は皆、誉められると嬉しくてニヤニヤする良い子達なのだ。たっぷりナデナデして、時には心を鬼にして愛情持って叱る、トーチャンもまだまだ勉強だ。数千年の後、トーチャンとトーチャンと暮らしたワンコ達の化石が発掘されて、「この人間の化石にはワンコの歯形が付いてる、ずいぶん仲良く暮らしてたんだな。やっぱり20〜21世紀頃の人間と犬は仲良く共生してたんだよ。」と、未来の考古学者が察してくれるのなら、トーチャンもワンコのトーチャン冥利に尽きる、と、いうものだ。本望だ。

トーチャンの講釈タレはこの辺で終わりにしたいと思います。数日間にわたって長々とお付き合いいただきありがとうございました。↑topへ



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