京都冬紀行・その3(魔界編)

 

**清水寺**
昼飯を食べた後、清水寺に向ったんだけど、途中でもう人人人の大混雑。もう自転車に乗るのも押すのも不可能だよぉん。八坂神社の下に自転車を停めて、歩いて行かせて頂きます、私。

【清水寺の沿革】
778年、音羽の滝を訪ね当てた延鎮上人が滝の上に観音像を祀り、後に坂上田村磨が本尊の十一面観音を安置したのが始まりとされる。

三門が派手派手になっていて唖然。
し、知らなかった。い、いつの間に・・・。

このお寺も超メジャーなだけに人が一杯。拝観料を払うのも行列。アレも行列、コレも行列。

清水の舞台も人であふれそう。これだけ乗って大丈夫なの?

 

その舞台の基礎柱がこれ。しっかり支えてますな。

柱の土台まわりには、摩滅してお顔もよく分からなくなった、石仏や石塔がごろごろ。無縁仏さん、だろうか?

 

**縁を結ぶも切るも清水で**

清水の舞台を出てすぐ左にある地主神社。ここは縁結びのご利益で有名になっているが、何を隠そう清水寺も縁結びに縁アルお寺なのだよ。それどころか、逆の縁切りにさえも関係が深いのだ。

清水寺の縁日は毎月18日で、この日に清水寺にお参りして、良縁を得ようとする参詣客で賑わったという。この中にいた有名人が「ものぐさ太郎」と「弁慶」だったんだな。

ものぐさ太郎は、嫁を探しに清水寺の縁日にでかけたそうな。そこで一目ぼれした美女にものぐさを返上してアタックし、ついにはゴールインしたんだと。
それから、弁慶は一度牛若丸に負けちゃって、リベンジを誓い、また牛若丸に会える所はどこだどこだ!って血眼で探していたんだ。それで清水の縁日ならきっと会えると考えて、待っていた。果たして牛若丸が現れたんだけど、弁慶はまた敗れてしまい、今度は彼と堅い主従の関係を結ぶことになりましたとさ。

ではでは、縁切りのほうはどうなっとるか。
昭和30年頃までは、本堂と奥の院の間に縁結び縁切り両方に用いられる「厠」があったらしい。今も奥の院の片隅に祀られている「縁切り夜叉」はその名残だと言う噂。

そして、究極の縁切りが「呪い」。人間追い詰められると、どうしても断ち切れぬ縁を、死によって切ろうという思考回路になってしまう(人もおられる)。
中世に流布した説教節という、今で言うと講談みたいな語り物といえばいいか、その「俊徳丸」という話の中のこと。俊徳丸の継母が、呪いをかけるために参詣したのが清水寺。清水坂の鍛冶屋に六寸釘を作ってもらい、縁日にちなんだ18本を本堂の立ち木に呪いをこめて打ち込むという筋書き。

**異界との縁もあるデヨ**

かつて宮中に出現したとう伝説の妖怪、鵺(ぬえ)。頭が猿、胴が狸で、尾は蛇、手足が虎で、なんと鳴き声はトラツグミ、ピ〜〜ピ〜〜。思いっきりキメラ型の妖獣だ。これを退治したのが、源頼政。そしてその遺骸を埋めたのが清水寺下、三年坂の崖という伝承がある。
この他、平清盛が宮中でとっ捕まえた老鼠を埋めたという話もある。何かわけの分からないモノ、カテゴライズ出来ないモノを、押し込めたり、祓うための空間でもあったということかな。

この地は洛外、鳥辺野の埋葬地にも近いし、「坂」というキーワードも思いっきし、引っかかるものがあるのよね。坂上田村麻呂しかり、呪いのところで登場した清水坂の鍛冶屋しかり、「坂の者」なんていう集団もあるんだ。清水寺の支配下に入ることで身分を確保しつつ、鳥辺野という他界空間の葬送や死体処理などを独占支配していたらしい。

 

**高台寺**
さてさて、ひとまず清水寺から離れましょうかね。
産寧坂を下りていくんだけど、やはり大混雑。かつては急坂だったらしくて、転ぶと三年後に死んじゃうなんて言われた恐ろしい場所。ちなみに、転んでいる人はいませんでした。

【高台寺の沿革】
豊臣秀吉が亡くなった後、その菩提を弔うため、夫人のねね(北政所)が1606年に開創したお寺。造営に際しては、家康が政治的配慮から多額の資金援助したので、寺観は壮麗を極めたという。

これが有名な茶室の、時雨亭。珍しく二階建ての茶室で、二階の窓から大阪城が炎上するのが見えたらしいです。

これとつながっているのが、もう一つの茶室である、傘亭。こちらも伏見から移築されたもの。元は池の中にあったので、舟が直接茶室内に乗り込める作りになっているそうな。凝ってますな。

高台寺庭園の眺め。中央の建物が秀吉と北政所を祀る霊屋で、その更に奥の山の中に茶室がある。

そんな所まで建材を持ち上げて組み立てたんだねぇ。

**六道珍皇寺**
高台寺下のねねの道をぶらぶら歩きしたり、甘味のわらび餅を頂戴したり、ひと時の安らぎを楽しんだら、さぁ〜て、本日のメインディッシュだよ〜ん。
六道珍皇寺だ。どうだどうだ。ってあんまりメジャーな寺ではないので、知らない人もおおいかも・・・。

実際、我々京都魔界調査隊(いつから調査隊じゃ!)も寺を探して迷ったしな。祇園交差点から自転車に復帰して、鴨川まで出て、松原橋を東へ。後から分かったけど実はこの松原橋付近が昔の五条大橋なんだと。で、どうにか探し当てたよぉ。ふぅ。

【六道珍皇寺の沿革】
奈良時代創建の宝皇寺が前身とされ、京都でも一番古い寺の一つ。空海の師にあたる、慶俊僧都を開基とし、施主は朝廷の高官である小野篁(おののたかむら)。本尊は最澄の作といわれる薬師如来。

 

だ、誰もいないよぉ〜。どうしよう。恐る恐る足を踏み入れるって感じ。

入って右手、閻魔堂の格子隙間からのぞくと・・・、小野篁の木像がドーン。見下ろす威圧感。背筋がゾクゾクするオーラ。正直ビビリまくり。
隣が閻魔様の像だけど、迫力で負けてます。はい。

**小野篁って誰よ?**

嵯峨天皇に仕えていた平安時代の役人で、文人歌人としても有名なお方。参議という高級官僚の職にまで上った一方、弓術や馬術にも長けていた。
自由奔放な性格で、「野狂」とも言われたように、奇行も目立ったらしい。小野妹子の6代目子孫だとか、小野小町の祖父だとかいう説も根強い。

838年、30代半ばという若さで遣唐副使に任じられながら、渡航する船を巡って大使とケンカ。こともあろうに、遣唐使を風刺する歌を読んでしまった。こういうところがチョッと子供っぽい。ところが、これが嵯峨天皇の怒りを買ってしまったからさあ大変。隠岐に流罪ですよ、流罪。でも、この篁、強運の持ち主。ある人の口利きで、帰京・復位が赦されてしまう。その後は、順調に官位を上り、従三位にまで上がったというから、大したものだぁな。ただの「野狂」じゃなく、ちゃんと仕事もできたってことか。

さてさて、これからが本題。小野篁という人、どうにもこうにもあの世とか冥土の世界と深〜く関わっている。当寺・閻魔堂の閻魔像を彫ったのも篁とされているけど、それがあまりにもリアル。こんなにリアルに作れるのは、きっと冥土に行って見てきたんだという噂が流れた程。まあ、噂を流した人だって、当然閻魔様の姿を見たことないのに、なんでリアルだって言えるんだ!という話もアル。が、それはそれ。それだけ見事な彫刻だったってことかな。

この他にも、京都三大葬送地の一つである蓮台野にある、引接寺にも巨大閻魔像があるけれど、これも篁の作だという。
まだまだ、ある。閻魔様だけでなく、篁が作ったとされる地蔵菩薩像も京都のあちこちに安置されているという。作ったのは篁なんだけど、それを配置したのが何と平清盛公だとか。ホントにあの世とのつながりが強い人。

 

こちらがお迎え鐘。お堂の中に鐘が入っていて、綱を引くことで鐘が鳴るようになっております。

で、やはり引いてみたくなるのが人情ですがな。

 グォ〜〜〜ン・・・ ・・ ・。

なんとも文章では表現できましぇん。
言うなれば、空高くではなく、地の底に深く響くような、そんな物悲しい音色でした。

**お迎え鐘の伝説**

このお迎え鐘、我々が行った時は他に誰もいなくて、写真でも分かるように、夕刻のたそがれ時。人さらいでも出そうな雰囲気だった。しかーし、毎年、盂蘭盆会には亡くなった精霊を迎えるために鐘をつく人たちで大行列になるんだそうな。意外だね。

さてさて、この鐘の伝説でしたね。昔からこの鐘の音は十万億土の冥土まで響き、あの世の亡者はその音でこの世に呼び寄せられるとの事。でも、『故事談』によれば、もっとスゴイ鐘になったかもしれない!ことが書かれている。

この鐘は、当寺開基の慶俊僧都が作らせたんだけど、僧都が唐の国に行くことになって、寺の者に「私が留守にする三年間、土の中に鐘を埋めておいてね、よろしくぅ」って、命じてたんだと。でも、留守を守るのはやはり凡人なんだろうね。待ちきれなくて一年半で掘り出してしまった。ま、普通に考えれば鐘を埋めるなんてことしないし、錆が気になったのかな。

そして恐る恐る鐘をついたところ、その音は唐にいる慶俊僧都の所まで聞こえたそうな。めでたしめでたし・・・ではなく。鐘の音を聞いた僧都は「何で三年埋めておかないんじゃ(怒)。ちゃんと三年埋めておけば、その後は人手を要せずに六時になると自然と鳴るようになるものを・・・ぐっすん」と言ったかどうか知らないけど、たいそう悔しがったというお話。

 

こちら、赤いお堂の右に小さな石仏があって、その更に右に四角い石組がご覧になれましょうか?それが、小野篁が冥土に下りていく時に通った井戸だそうな。

本堂脇の戸の隙間から覗くことしかできないんで、距離があって、よく分かりませんね。でも、一般人を近寄らせないということは、逆に言えば、本当に危ないスポットだったりしてね。

**あの世とこの世を行ったり来たり**

小野篁があの世と深ーいつながりがあったのは、既に言及しておいたよね。閻魔様に会ったことがあるから、事細かな像を作れたんだという噂が広まったと。まあ、何ということでしょう(by ビフォア・アフター)。会ったことがあるだけじゃなくて、実はあの世でも冥府・閻魔庁のお役人をしていたんですぅ!

普段、宮中のお役所勤めをそつなくこなしつつ、実は裏の顔を持っていたということ。う〜ん、それって必殺仕事人ってこと?まあ、あの世でもお役人だったというのが、面白い所だよね。今も昔もお役人は定時きっちりに仕事を終えて帰宅。残業なんてなかったのかしらん。だからあの世でもバイト(?)ができたんだね。閑話休題。

篁は井戸の脇にある高野槙の枝につかまって、井戸を下りていきあの世に通ったんだと。そんな謂れがあるんで、当寺の盂蘭盆会では高野槙の植木が展示即売されている。そして、冥土に行ってから、この世に戻ってくる時には、こことは別の井戸を使ったんだと。その井戸は洛西・嵯峨野の福生寺にあったらしい。この寺、明治始め頃までは大覚寺の南に位置する六道町の一角にあったというが、今ではその遺址さえも残っていないとのこと。ただ、福生寺のご本尊と井戸の伝説が、清涼寺西隣の薬師寺に引き継がれているという話。

さて、ここで、篁があの世の役人だったという噂話の根拠をまた一席。篁が遣唐使の一件で隠岐に流罪になっていたのを助けた人がいたことは前にお話したとおり。で、この人、後に病か何かで危篤状態になってしまったそうな。ああもう駄目。意識が遠のくぅ。。。ふと気づくと、何とそこは冥土の閻魔庁。怖い閻魔様が鎮座しておった。あぁ、私もあの世行きかと嘆いていると、何と何と。閻魔様の隣にあの小野篁がいるではないか。吃驚。そして、篁曰く「この人は、悪い人ではないし、現世に戻してやってもいいんじゃないですか」と閻魔様に進言。閻魔様も「篁が言うなら、そうしまっか」と同意したんだと。すると、あら不思議。この人仮死状態から息を吹き返したそうな。で、役所に復帰してみると、えっ〜、ここにも篁がいるじゃん!!で現世の篁曰く「いつぞやは貴方に助けてもらったので、そのお礼ですよ。でもこのこと、他言無用ね」と。人に言うなっていわれても、こんな不思議体験言わずにおれないのが人の性というもの。いつしか、噂は市中に広まる広まる。

京都の東の六道にある井戸から冥土に向かい、西の六道の井戸から現世に戻る。どちらもいにしえの葬送地だった地域。この非常にコスモロジカルで興味深い。もう一つ、北の葬送地・蓮台野では引接寺に閻魔像を作るなど、こちらとも関連がある。篁という人物は、知れば知るほど興味の尽きないお方であった。

 

**六波羅密寺**

六道珍皇寺で、突然デジカメの電池が切れてしまって、六波羅密寺の写真はございません。申し訳ない。

六波羅密寺では、先ほどの静寂とは打って変わって大賑わい。お坊さんも総出状態ですな。私らは本堂奥にある、宝物殿で空也上人像を拝観させていただく。そうです、あの口から六体の阿弥陀仏が出てきたという、あれです。

【六波羅密寺の沿革】
951年に開設される。西国十七番札所霊場。平安後期には平家一門の拠点となるが、平家没落時に兵火を受けて、本堂以外は焼失。

さて、とっぷりと日も暮れた中を、再びチャリを飛ばして京都駅まで戻ります。ふぅ〜。今日一日盛りだくさんでした。

 

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