やまなし評論メール

やまなし評論文に対して
文学的センス溢れる,大変ありがたい評論メールが届いています。
ご本人の承諾を得まして,
紹介させていただくことになりました。

 今、「やまなし4,5」を読み終えました。 短時間で、ババババ〜ッと読んだので、これから、ゆっくりと読み直したいと思います。
 だから、これから書くメールは、あくまでも「第一印象」です。
 
評論文ふうに
 
1.やまなし4 について
(1)五感
 kk45さんの前書きにもあったように、性別の違いは明らかですね。 それにしても、この「4」は、楽しく読ませていただきました。
 こんなことを言うと、4の方に「失敬だ!」と言われてしまうかもしれませんけど、私の書く文章にとても似ているように思います。 話がどんどん飛んじゃって、ふと我に返ると、「何が書きたかったンだっけ?」と、考え込んでしまう・・。 そんな彼女の文章にとても親近感を持って読み進めることが出来ました。
 
 五感を使って国語を学習する。 
 国語というのは、文章を分析し、思考力を高め、深めていくモノだとすれば、そこに「嗅覚」や「触覚」は、必要とされないと思っていました。 が、彼女の評論文から、その時の授業風景をイメージしてみると、そこには、フルに五感が活用されていたと推測されます。
 一言で言うと、「羨ましい」。
 「気持ちは?」「なぜ?」「理由は?」「どうして?」
 こんなことばかり聞かれて、先生に認めてもらう答えを必死に探していた小学校当時の私が可哀想になってきました。(それはそれで、とても大切なことなんでしょうけど)
 
 ここまで来て、思い出しました。
 昨年、4年生を受け持っていたんですが、「春の歌」の授業をやったときのことです。
 カエルの気持ちに寄り添わせるため、私は、発問をひとつ考えました。
 「いいにおいって、どんなにおい?」
 私の予想を超えた「におい」が返ってきました。 今まで3年間授業をしてきて、この発問が唯一、「よっしゃ〜!」と思えた発問です。
 
(2)「で、やまなしって?」
 究極の課題は、ここなんでしょうか? 結局、やまなしとは、いったい何なんだろう? それは、誰にも分からない、まさに「月光仮面」のような存在としておいた方が、浪漫があって、良いのではないでしょうか?
 以前、ある先生から、「余韻を持たせる終わり方もあるよ」と言われたことがあります。 その点から言えば、4の方は、大きな余韻を持って、この学習を終えることが出来たんではないでしょうか? 結論が出ることだけが良いことではない。 終わった後、「かっこE」と思えたこと、思わせたことが、「大成功」なんだと思いました。
 
2.やまなし5 について
(1)読み手
 この評論文は、かなり読み手を意識して書かれたモノだと思いました。 私は、こういう書き方が大好きです。 実は、ワタクシ、「読書感想文」が大嫌いでして・・・。 なんで、読み終わったモノについて、感想を書かなくちゃいけないんだ!という思いがあることが理由の1つ。 もう1つは、トラウマとなっているのかもしれませんが、高校一年生の時に、漱石の「こころ」で感想文を書いて、先生から「最後の1文が、蛇足だ」と言われたからなのです。
 「思うように書きなさい」って言っておいて、「蛇足とは何事だ〜〜!」と、当時の私は、かなり怒り狂いました。 が、読まれることが分かっていて、でも、好きなように書く、というのは、良いんですよねえ。 特に、相手が誰かはっきりしているときは。
 この5は、kk45サンを意識して、また、一緒に学習した仲間を意識して書かれた、とてもステキな評論文だと思います。
 
(2)イサド
 東京ディズニーランドとは、時代を感じる比喩ですねえ。 こういう比喩が浮かばない上に、「おお〜っ!」と感心せざるを得なくなった私は、もう年寄りなんでしょうか・・・?
 イサドがなんなのか? クラムボンがなんなのか? 賢治自身にもまず分からないことなんでしょうから、「懸命に頭を悩ませる」行為がとても必要で、とても意義あることなんだと思います。
 さしずめ、私のイサドは、織田裕二とキムタクに挟まれて巡るルーブル美術館、と言ったところでしょうか・・?(ああ〜、やっぱり私は汚れてるゥ〜)
 
3.終わりに
 ここまで、付き合って下さったkk45さんに再び感謝いたします。 お疲れのことでしょう。
 私がメールを書くたびに、「神聖」なところにあったやまなしが、どんどん「一般大衆」くさくなっていったんではないかと、心配しております。
 こうして、誰かが読んで下さっている、と思えるからこそ、文は書けるんだし、読んでもらって喜んでもらえるモノを、と心弾ませて書いていけるんだと思います。
   
長〜いメールになっちゃいました。 お許しアレ。