ある研究大会の分科会で発言した内容です。 その分科会での提案内容は,ある中学校でのAという生徒に対する取り組みでした。 その内容は, 「Aのクラスで,班長会の取り組みの中で「忘れ物調べ」の点検を始めた。Aという生徒も班長にはなっていたが,A自身がよく忘れ物をして名前がよくあがっていた。・・・その後,発表会に向けて意欲的に頑張っている。」 といったようなものでした。 知り合いの司会者から発言を強制するような視線を感じ,発表者のご苦労も考えず,一参加者の気楽さからつい言ってしまったのは,次のようなことです。 |
「忘れ物調べ」をすること自体は,時には生徒一人ひとりの自覚や生活習慣を鍛えるために必要なことだと思う。 しかし,生徒の中に様々な課題がある場合,その実態によってはこういう「点検」を衆目の中ですることには大きな問題が含まれることがある。 時には,こういう点検をすることで,その生徒に対して「忘れ物をよくする子」というイメージを全体に広めていってしまうこともあるのではないか。 「忘れ物調べ」を生徒たちにさせることで,教師が知らず知らず生徒の中に「差別の構造」を創り出していってしまうこともある。 「忘れ物をした人」と聞いて手を挙げさせるのは,「忘れ物をした者」にスポットライトをあてるようなものだ。 それは,人を鍛えるためには必要な場面もあるかもしれないが,マイナス効果も大いに考えられる。 忘れた者にスポットライトのあたらない調べ方もあるのではないか。 (あまり違わないかもしれませんが,私は「○○を持って来た人」と聞いています。持って来なかった者や,して来なかった者がスポットライトを浴びるのでなく,当たり前のことを当たり前にしている者にスポットライトがあたるようにとの思いからです。過保護かもしれませんね。) 生徒の実態によっては,「点検活動」などという教師が楽な方法をとるのでなく,もし本当に教師がその子に忘れ物をしないようにさせたいと思うのならば,忘れ物をしないよう自分で点検する練習を教師がさせればいい。 教師が放課後その子の家に行き,その子が家で明日の予定を確かめ,一つひとつ準備するのを黙って見てやればいい。 この練習を学校でさせたのではあまり意味がない。 家ではなかなかできないのだから,その「家」で実際にさせるということが必要だ。 これをしばらく続け,その後本人に任せてみる。 きっと,また忘れてくるようになるかもしれないが,またそういう取り組みを周りの生徒に目立たないように教師がそっと続けていけばいい。 (私は以前,どうしても家での学習習慣のつかない子を担任したことがありました。家庭の事情で家の方にみてもらうことも無理な状態でした。いろいろな試行の最終手段として,家の方の了承も得て放課後その子の家に行き,宿題が済むまで黙って見ていました。家の方はその時間まだ帰られていませんでした。私は教えることはせずただ側にいるだけで,済めばすぐ帰っていました。間違いは学校で教えていました。結果的にはその子はその後段々一人で家庭学習ができるようになり,中学でもできていたようです。原始的な方法でとても人に言えるような「実践」ではありませんが,長い教師生活の中には理屈では説明できないことも一度や二度はあるものだと思います。) どうせ私達教師という一人の人間には,そう大したことはできないのだから,いろいろやってみて子どもに裏切られて,そういう取り組みを小学校での6年間,または中学での3年間続けていけばいいのではないか。 |