「メモ」の不思議

研究授業の後,授業者の反省を聞きながらメモすることがあります。

何のため?】
 事後研と呼ばれる研究授業の反省会で,授業者が
「時間がなかったので・・・。」
というような発言をした時,その発言をそのままメモしている人がいました。

 [時間がなかった]

一体この人は何のためにこんなメモを残すのでしょうか?

 授業記録,討議記録を残す目的がある時はできるだけそのまま記録することが大事です。しかし,個人のノートやプリントにメモする時,「時間がなかった」等の発言をそのままメモする意味があるのでしょうか。

 もし,「時間がなかったので,急いでしまいました。」等の反省が聞かれた場合,自分のメモには

[時間がなくなり,急いでしまうようになった原因の分析]
[その場の状況,内容では急いでも問題がなかったのかどうか]
[自分だったらどうするか]
[「時間がなかった」ということを言い訳にしてしまうような反省の仕方への批判]


等を書くものではないでしょうか。その方が今後の自分のためになるように思います。そうすれば,どんな授業や反省からも学べることはたくさんあるはずです。
 また,本当に学ぶ価値のある点は必ずあるもので,それを見つけられないのは自分の方にそれを見抜くだけの力量,深みが無いだけだと思います。

自分のため】
 事後研は,その授業をした人をまな板の上に乗せることだと思っていると,「評論家」になってしまいそうです。自分にもできないようなことを結果論で言われても,ほとんどそれは授業者にとっても役に立たないものです。またそういう立場になってしまっては,自分のためにもなりません。

 授業中も事後研の中でも何か自分の役に立つものはないかという視点で見ていれば,少なくとも
[時間がなかった]
というような素のメモを落書きのように書くことはなくなるはずです。そして,「自分のためになるメモ」をしていれば,その意見は相手にとっても役に立つはずです。
 そういう意味で,「人のための事後研」より「エゴイスティックな事後研」はいかがでしょう?