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母を送る 2002

 入院から葬送まで  満中陰まで  死亡通知  遺詠  亡母の満中陰に当たって  新盆前後  母の一周忌に2003  母の三回忌に2004  亡母の七回忌に2008

  入院から葬送まで

 人が生きていく上で突発する出来事は,いつ,どんな形で起きるか分からない。

 5月23日の朝,母が急に倒れた。いつものように朝食を摂り,老人福祉センターに出かけるときのいつもの日と同じように,妻が作った弁当と,今も続けている卓球用のラケットと靴とをザックに入れて家を出たのだが,迎えのバスに乗ろうとしたときに倒れた。家の近くで,私も家にいる時間だったのだけが幸いだったことだ。

 知らせで駆けつけ,呼んでも,かすかな反応しか返ってこない。救急車で病院に運ばれ,検査の結果,倒れた原因は脳室内出血が起きたためだということで,すでに意識は無く,再度の出血を防ぐために,血管内にコイルを詰める手術をすることになった。しかし,手術を始めて判ったのは,CTスキャンやMRI検査でもはっきりしなかった脳幹に近い個所に動脈瘤があり,しかも,血管が入り組んでいる場所にあるためにコイルの挿入ができないということだ。脳室内出血の中でも稀な症例で,全身麻酔をかけての頭部切開による手術は,96歳の老齢でもあり,不可能だという医師の判断である。

 25日になって,水頭症の状態が顕著になってきた。出血によって髄液の流れが妨げられ,溜まった髄液が脳を圧迫する症状だという。緊急の処置として脳に管を通して髄液を抜く方法しか無く,あとは,出血した血が自然に乾いて散り,髄液が流れるようになるのを期待するのみだが,その間に動脈瘤から再度の出血が起こる危険性もあり,予断を許されない状態で,この1〜2週間が山だと言われた。

 高齢のことだから,いつかは何らかの形で病むことになるだろうという心の準備はできていたつもりだが,ついさっきまでいつもどおり話していたものが,急に意識が途絶え,何も話せなくなるとは,予測を超えた状態である。当面必要な物の置き場所など聞きたいこともあるが,今は尋ねるすべが無い。

 気丈だった母が,数日前から何となく気の弱さを見せ,家族が留守で独りになるのは心細いというようなことを言っていたが,入院することになって身辺に置いていたものを調べていると,「思いもよらず長生きしたように思います。皆に親切にしてもらって,幸福な老後を送らせてもらいました。ありがとう。昇一郎,洋子(私の妻)には,長い間,特別世話になり,死後の世話も含めて,礼の申し様も,どういうふうに表してよいやら,すべて免じてもらって,一切まかせます。よろしくお願いします。」 という,ノートに書かれたメモが見つかった。

 集中治療室に入っているので,面会時間も限られ,家族は家で待つしかない。風呂に入ると,出たとき,母に声を掛けようとする。最近では,ぬるい湯の浴槽の中で体を洗うのが楽だからと言って,母がいつも最後に入っていた。その間,もしものことがあってはならないと思い,浴室に近い場所にいて気をつけるようにしていたものだが,あとに入るはずの母がいないということに,まだ気持ちが付いていかないのだ。朝も,母の起き出す音で目覚めていたものだから,母のいない今でも,音が聞こえるような気がしてならない。食事に母が欠けているのにも馴染めない。(2002.5.26)

☆  ☆  ☆

 眠ったままで意識の無い母であっても,傍に付き添っていることができたら,私の気持ちはよほど安らかだろうと思う。何時病院から最悪の知らせがあるかも分からない状態で,家にいなければならないと,所用でちょっと外出するにも気掛かりだし,家にいても,待つことの不安で,気持ちが落ち着かない。その気持ちを少しでも紛らすために,これから母に纏わる毎日の記録を綴っていこうと思う。

*  *  *

 5月27日(月) 集中治療室の面会時間は,12〜13時と17〜18時の間の10分間に限られている。今日の昼の面会時間帯には,妻と次男を病院に行かせた。妻は,24日の手術中断のあと,ストレッチャーで病室に運ばれる母の姿を見て以来,家事を中心に忙しくしていたし,次男は,常に自宅で待機しているよう頼んでいたので,二人を母に会わせようと思ったからだ。私は,夕刻の面会時間帯に,交換用の寝巻・バスタオル,三角巾を持って出かけた。昨日で,睡眠薬の投与を打ち切ったということだったので,多少の苦しみはあるかもしれないと思ったが,変わりなく安らかな寝息を立てていた。

 母は,日ごろ,頭の体操にもなると言って,新聞に掲載されるクロスワード・パズルをはじめとしたクイズに興味を持ち,せっせと解答を応募していた。ごく最近は,考えるのが面倒だと言うときもあったが,たいていは,取り組もうとしていた。自分で分からないことがあると尋ねるし,常に,自分の答えで間違いないか確認を求めるので,私も,前もって目を通しておくようにしていたのだが,母のいない今は見る気にもならない。

 日ごろ,母にもしものことがあっても冷静に対処できるだろうと思っていたのだが,母が倒れて以来,妙に涙もろくなってしまった。22年前,妻の父が亡くなったとき,義父のこれまでの人生の苦労と,連れ合いを残して逝く気持ちを思うと,泣けてならなかったが,今も,意識の無いまま母がどんな気持ちでいるのだろうかとふと思ったりすると涙が出てくるし,仏壇に向かうと,58年前に戦死した父に,母を守ってやってくださいと涙ながらに祈る気持ちになる。

*  *  *

 5月28日(火) 母は変わらず眠っている。10分間の面会時間に,洗濯物の交換をして,寝顔を眺めて帰ってくる毎日だ。

 外での私の仕事は全て断わったので,家にいる時間がこれまでより長くなったが,本を読んでもテレビを見ても,気持ちがそれに集中できない。母がいつ,どんな状態で帰ってくるかは予測できないことだが,母の部屋や外周りをぼつぼつ整理しておくことにする。

 ふだんは,こまごまと世話をやかれるのを嫌うから放っておくと,何でも身の周りに置いて,足の踏み場も無い状態になっている。部屋の中でも,躓いて転んだら危ないと,日ごろ心配していたほどだ。化粧品の空き瓶やスーパーの袋,チラシの紙切れなど,捨てれば良いような物でも大切に保存していて,それがまた,分類・整理のできないまま,その時々の気分であちこちに置いてある。

 外周りとなると,もっとたいへんだ。園芸を楽しんでいるから,したいようにさせておくと,これも整理力が伴わないので,植える草花が際限なく増えていき,所狭しと鉢やプランターが置かれ,もはや使うことの無さそうな道具や材料までが,いたる所に散在している。

 これらを一気に片付ける気力・体力は,私にも今は無いのだが,とりあえず,それらの整理や処分を少しずつ始めることにする。体を動かしていれば,私の気持ちもまた少しは紛れるというものだ。

*  *  *

 5月29日(水) 毎日の病院通いの時刻も定まり,新しい暮らしのリズムが出来つつある。午前中は自分のことや,外出して果たさねばならない所用の処理に当て,11時45分から12時30分の間,交換する洗濯物を持って,母に会いに出かける。午後は,家の内外の雑用をして過ごし,夕方の面会時間に合わせて,4時55分から6時過ぎまでが病院に行く時間だ。面会時間は2回とも10分間の制限内で,昼は病院のバスを往復利用できるから,かかる時間は短いのだが,夕方の面会は,わが家の近くまで来る帰りのバスが無くなるので,かなり離れた場所から30数分かけて歩いて帰る。しかし,私にとっては,それがその日の運動になる。

 きょうは,主治医に会って,今の情況や見通しについて話を聞いた。病状に良くも悪くも大きな変化は無く,合併症も出ていない。出血したあとの血糊が少しずつ融けて流れ出している一方で,動脈瘤を固める薬を入れているので,外の血が消失するまでにうまく瘤が固まってくれれば,その後の比較的安定した状態が期待できるのだが,という話だ。やはりこれから1週間前後の状態が一つの目途になるということだ。それにしても,意識が回復するかどうかの見通しは,まだ立たない。

 短い面会時間でも,母の顔を直接眺めていると,不安が薄らぐ。妻も,家での雑事に追われていてもあれこれ思うことが多いので,情緒が不安定になっている。今夕の面会には私と同行した。会って心配が消えるものでもないが,やはり直接顔を見ることで,気持ちが落ち着くと言う。

 母が倒れたこと自体は避けられなかったことだと考えれば,その場所や時間は,結果として最善だったと,今にして思う。老人福祉センターの送迎バスに乗る直前だったから,センターの職員をはじめ多くの人にす早い処置をしてもらえ,私もすぐ駆けつけることができた。家の中で倒れていたとしても,自分の部屋の中であれば,家族がすぐに気づくとは限らないし,バスの中やセンターに着いたあとだと,私が行くまでに時間がかかっただろう。病院も,希望する病院を私から指示できたかどうか分からない。そういうことを思えば,母にはまだ運の強さが残っているという気がしてくる。

*  *  *

 5月30日(木) 母が倒れてちょうど1週間になる。昼の面会に行ったとき,今朝,再出血があったことを聞いた。髄液を抜く処置をしているので,血も外に流れ出て,急な大事には至らないで済んだようだが,動脈瘤の凝固はうまく進まず,やはりあと1週間が予断を許さないという。

 これまで,家の行事があるとか,外孫が子ども(母にとっては曾孫)を連れて会いにくるとか,何か予定があるたびに,「それまで元気でいようね」と,気持ちの上での目標を次々に持たせるようにしてきた。今回も,祖母(母の実母)の33回忌の法要が営まれるについて,「それまで元気でいてよ」と言ってきたものだ。「わたしは,もう行かない」と言うから,私が代表で行くとしても,やはり母が元気でいてくれなければ困ると言っていたものが,今度ばかりは目標が達せられず,私も欠席しなければならないことになった。それでも,母のことだから,法要が滞りなく営み終わるまでは,生きていなければならないと思っているかもしれない。

*  *  *

 5月31日(金) 母のことを知った旧い友人たちから見舞いのメールやはがきが来る。それには,母に纏わる思い出が記されている。「遊びに行ってカレーを御馳走になりました」と書いてきたのは,母の実家のある町の役場に勤めていた友人で,たぶん,今度33回忌を迎える祖母の看病のために母が実家に帰っていたときのことなのだろう。役場の支所に出張で来た折に訪ねてきてくれたと,母から聞いたことを思い出した。

 別の友人は,「懐かしい思い出が多く,意識の回復するときがあれば,ありがとうと伝えてください」と言うが,回復の兆しは無く,徐々に心臓も衰えていっているように思われる。最期のときのための準備も進めておかなければなるまい。準備をしておけば,かえってそれが無駄になることもよく有るので,そのことに望みを託す気持ちも無いではない。

*  *  *

 6月1日(土) 朝,目覚めてまず思うのは,きょうも無事に朝を迎えられたということだ。面会に行って寝顔を眺め,ひととき安堵するものの,次の面会までが落ち着かない時間になる。きょうの主治医の話では,出血が続き,血圧も下がってきているので,血圧を上げるための点滴をしているが,それにも限界があり,そろそろ心の準備をしておいてほしい,ということだった。心の準備はできているつもりだが,いつ病院から緊急の呼び出しがあるか分からないというのは,やはり落ち着けない。

 母が元気だったら,今夜は,祖母の法要に参加するわれわれ兄弟やその子どもたちが顔を揃え,実家の町のホテルに宿泊して,賑やかに夕食を共にしていたところだ。母が倒れたために,法要は,母の実家を継いでいる次弟の家族と,町在住の縁者だけで営まれることになってしまった。弟も淋しく落ち着かない思いをしているのではなかろうか。わが家では,東京で暮らしている長男も,今夜帰ってきた。

*  *  *

 6月2日(日) きょうの昼は,まず,昨夜帰ってきた長男を伴い,次男と3人で母を見舞う。昨日の出血は,いちおう止まっていると言われ,数日前よりも安らかに呼吸しているように見える。しかしそれは,血圧が下がり,体力も衰えてきているせいなのかもしれない。一進一退しながら,1日1日が過ぎて行き,いずれ最期のときを迎えることになるのだろうか。回復を期待するのはもはや無理のように思われる。ともかく,祖母の法要の日を無事に過ごすことができたので,あとは,安らかな状態で,できるだけ長く生き続けてくれることを祈るのみだ。

*  *  *

 6月3日(月) 母の病室を個室に移すことになる。時間や人数の制限無く家族が付き添えるようにするためで,そういう時期にきているという主治医の判断によるものだ。

 夜間も泊まって構わないということなので,今夜からそうしようと思ったのだが,意識の無い病人なので,傍らにいても何もすることが無く,状態の判断も素人ではできないことだから,気持ちの問題はともかくとして,家で体を少しでも休めておいたほうが良いというのが主治医の勧めだ。病人の状態は,ステーションから計器のモニターで常に看視しているので,異常があれば早めに知らせますから,と言われて,今夜はいちおう帰ってきた。

 きょうは次男の誕生日だが,それを祝う雰囲気にはならない。しかし,今度の場合,次男の新しい赴任先の決まるのが遅れ,自宅で仕事をしている時機だったことが好都合だった。長男にしても,今は,比較的自由な身だから,帰って来易い。

 私も,母の高齢化に備える気持ちがあって,時間に縛られて責任を負わねばならぬ仕事の一切から昨年退いていたのが良かった。私の時間が自由になったときから,母は何となく安心した様子だったが,まるでタイミングを測っていたようにさえ思われる。いつ病状悪化の知らせがあっても,他に顧慮しなければならないことは無いのだから,母のことのみに心の準備を整えて待つことができる。10日余にわたる疲労は無いでもないが,気持ちが定まって,むしろ落ち着いてきた。

*  *  *

 6月4日(火) 午前3時を少し過ぎたころ,心拍数が落ちてきたという連絡が病院からはいり,急いで出向く。呼吸は,昨日から完全に人工呼吸機に頼っているので,われわれ素人に分かることは,計器による心拍の表示しか無い。表示数が0になり,グラフの線が一直線に伸びる。呼びかけると,少し回復するが,そう思うだけで,呼びかけた声が聞こえたせいではあるまい。それを繰り返して1時間余,5時4分に臨終を迎える。

 7時前,寝台車で自宅に帰る。大阪と東京の弟夫妻が,それぞれ前後して馳せつけて来る。私は,いろいろと手配や打ち合わせに追われ,一段落したのが昼前。

 明日が宇治の県祭で火葬場が休みになるので,既に斎場を予約している人が順送りに延びていて,明後6日が通夜,7日が告別式と決まる。1日の余裕があることで,かえってゆっくり準備することができ,弟たちもいったん帰宅する。

 納棺は明日行うことにして,今夜は母の傍で添い寝をする。もしも足腰が先に弱り,自宅での寝たきり状態が長く続くようなことがあれば,介護用のベッドを入れて,毎夜私が添い寝をするつもりでいたが,今夜が最初で最後の添い寝になった。

 入院の期間が長くもなく短くもなく,実家の法要も無事に終わり,われわれが心の準備をするゆとりを見て,しかも,看病疲れが出る前に逝ったのは,すべて母の心くばりのように思えてくる。葬儀までに1日の余裕を与えてくれたのも,偶然ではないのかもしれない。

*  *  *

 思えば,母は,明治・大正・昭和・平成の4代にわたって,激動の時代を生き通してきたわけだ。特に,38歳で父を喪ってのちは,戦中・戦後の多難な時期を,2人の子どもを育てるために,孤軍奮闘した。しかし,負けぬ気と楽天性とを併せ持つことで,苦労を乗り越えてきたと言えよう。

 今は,「よくがんばったね」と言ってあげたい。

*  *  *

 以下は,時間を追って,葬儀までの経過を記す。

 4日午前=葬儀社担当者との交渉,打ち合わせ。お寺に連絡,枕経のあと打ち合わせ。病院から死亡診断書受け取り。市役所に死亡届提出。自治会・高齢者クラブ・老人福祉センター(陽寿苑)に連絡。

 4日午後=市役所から火葬許可書受け取り。通夜式後の御斎会場予約。恩給局・社会保険事務所に連絡。通夜・告別式出席親族確認。

 5日午後=湯潅の後,納棺。介護用の浴槽のような機器できれいに洗い清め,盛装させて化粧を施してもらうと,驚くほど若く美しい顔になった。

 6日午前=斎場担当者と打ち合わせ。

 6日午後
    16:00柩を斎場に搬送,昇一郎同乗。

14:30〜17:00 眞二郎(次弟=東京)夫妻到着。休憩・着替えの後,わが家の3名とタクシーで斎場に移動。他の親族は,直接斎場へ。

18:00〜19:00 通夜式。式後,徒歩で御斎の会場(八よし)に移動(19名)。

19:30〜21:00 御斎(八よし)。解散後,昇一郎はじめ4名,斎場控室で宿泊。

 7日

     7:30〜 9:00 朝食後,いったんわが家に戻り,服装等準備の後,わが家での宿泊組3名と共にタクシーで斎場へ。

    10:00〜11:00 告別式。式後,親族15名は,ハイヤーに分乗して火葬場(宇治市斎場)へ。縁戚3名は,斎場控室で待機。

    13:00      骨揚げを終え,ハイヤーで斎場に戻る。

    13:30〜16:00 初七日法要の後,御斎。(18名)

         16:00 万事滞りなく終わり解散,帰宅。

*  *  *

 あまりにもあっけなかったよ,おばあさん。長患いをしてもらって,家でもっと看病をしたかった。「いいお葬式だった」と皆さんに褒めてもらったけど,ぼくに出来ることをしただけだ。死後の魂というものが有るのか無いのか分からないけれど,もし有るのだったら,もっと話がしたい。

☆  ☆  ☆

 6月4日午前5時4分,母は亡くなった。倒れてから12日間,意識の戻らぬまま眠り続けて,ついにその眠りが永遠のものになってしまった。

 数日前から,患部(脳室内動脈瘤)の出血が続き,血圧も徐々に下がってきているので,血圧を上げるための点滴をしているが,それにも限界があり,「この方の御寿命だと思われますから,心の準備をしておいてください」と,主治医に言われていた。前日には,病室を集中治療室から個室に移すことの了解を求められた。個室だと,時間や人数の制限無く家族が付き添えるわけで,そういう時期にきているという判断によるものだと思われ,最期の覚悟をするときが来たと悟る。

 個室に移れば,夜間も傍らに泊まれるから,そうしようと思ったが,意識の無い病人のこととて,傍らにいても何もすることが無く,状態の判断も素人にはできないことだから,気持ちの問題はともかくとして,家で体を少しでも休めておいたほうが良い,病人の状態は,夜間もステーションから計器のモニターで常に看視しているので,「異常があれば早めに知らせますから」と,主治医に勧められて,いったん帰宅したが,4日午前3時を少し過ぎたころ,心拍数が落ちてきたという連絡がはいり,いざというときにはすぐ来てもらえるよう予め手配してあったタクシーを呼び,急いで病院に出向く。

 呼吸は,前日から完全に人工呼吸機に頼っているので,素人に分かることは,計器による心拍の表示しか無い。表示が0になり,グラフの線が一直線に伸びる。呼びかけると,応えるように少し回復するが,そう思うだけで,呼びかけた声が聞こえたせいではあるまい。それを繰り返して1時間余,5時4分に臨終を迎える。

*  *  *

 7時前,寝台車で自宅に連れ帰る。大阪と東京の弟夫妻が,前後してそれぞれ馳せつけてくる。私は,手配や打ち合わせに追われ,一段落したのが昼前。5日が宇治の県祭で,宇治市にある火葬場が休みになるので,既に斎場を予約している人が順送りに延びていて,1日置いた6日が通夜,7日が告別式と決まる。1日の余裕があることで,かえってゆっくり準備ができ,弟たちもいったん帰宅する。

 お寺さんに枕経だけあげてもらい,納棺は明日行うことにして,一晩,母の傍で添い寝をする。いずれ足腰が先に弱り,自宅での寝たきり状態が長く続くようであれば,介護用のベッドを入れて世話をし,毎夜私が添い寝をするつもりでいたのだが,病院でも,介護の機会の無いまま,この夜が最初で最後の添い寝になった。

*  *  *

 これまで,家の行事があるとか,外孫が子ども(母にとっては曾孫)を連れて会いにくるとか,何か予定があるたびに,「それまで元気でいようね」と,気持ちの上での目標を次々に持たせるようにしてきた。今回も,実家での祖母(母の実母)の33回忌の法要が営まれるについて,「それまで元気でいてよ」と言ってきたものだ。「わたしは,もう行かない」と言うから,私が代表で行くとしても,やはり母が元気でいてくれなければ困ると言っていたものが,今度ばかりは目標が達せられず,私も欠席しなければならないことになった。それでも,母のことだから,意識が無いように見えても,法要が滞りなく営み終わるまでは,生きていなければならないと思っていたかもしれない。

 12日間という入院期間は,祖母の法要が無事に終わるのを待ち,われわれが心の準備をするゆとりを見て,しかも,看病疲れが出る前にという,すべて母の心くばりのように思えてくる。葬儀までに1日の余裕を与えてくれたのも,偶然ではないのかもしれない。

 入院から葬儀に至る間,私の次男の新しい赴任先の決まるのが遅れ,自宅で仕事をしている時機だったことも好都合だった。長男にしても,NHKを辞めて独立し,今は,比較的自由な身だから,帰ってき易い。私も,母の高齢化に備える気持ちがあって,時間に縛られて責任を負わねばならぬ仕事から昨年退いていたのが良かった。私の時間が自由になったときから,母は何となく安心した様子だったが,まるで逝くタイミングを測っていたようにさえ思われる。

 しかし,あまりにもあっけなかった。長患いをするのは本人にも辛いことかもしれないが,家で看病をしながら,いろいろ話をしたかった。意識の無いまま,母がどんな気持ちでいたのか,聞けるものなら聞きたいと思う。死後の魂というものが有るのか無いのか分からないけれど,もし有るのだったら,もっと話がしたい。

*  *  *

 思えば,母は,明治・大正・昭和・平成の4代にわたって,言わば激動の時代を生き通してきたわけだ。特に,38歳のとき夫(父)が戦死したのちは,戦中・戦後の多難な時期を,2人の子どもを育てるために,孤軍奮闘した。しかし,負けぬ気と楽天性とを併せ持つことで,その苦労を乗り越えてきたと言えよう。今は,「よくがんばったね。ありがとう。」 と,呼びかけたい気持ちでいっぱいだ。

*  *  *

 介護用の入浴設備のような機器を使って湯潅をするときの母は気持ち良さそうで,そのあと,盛装させて化粧を施してもらうと,驚くほど若く美しい顔になった。

 葬儀は,近親の者と,母が30年前にこの地に来てから日常親しくしていただいた人たちだけに知らせて,近くの斎場で執りおこなった。自宅から送り出したいという思いもあったのだが,集まってくださる方に高齢者が多く,広い会場の椅子席でゆっくり別れをしていただきたいと考え,斎場を利用する決断をした。ただ,葬儀社のマニュアルどおりの形にはしたくなかったので,式の進め方は全て私から注文を付けた。「いいお葬式だった」と皆さんに言ってもらっただけでなく,斎場のスタッフからも,「この斎場が出来て以来最も感動した葬儀で,勉強になった」という感想を聞いたが,今となって私が母に出来ることはそれしか無い。香資や供物は一切辞退し,弔電の披露も行わないことにした。

*  *  *

 生前,こまごまと世話をやかれるのは嫌うから放っておくと,何でも身の周りに置いて,部屋は足の踏み場も無い状態になっていた。部屋の中でも,躓いて転んだら危ないと,日ごろ心配していたほどだ。化粧品の空き瓶やスーパーの袋,チラシの紙切れなど,捨てれば良いような物でも大切に保存していて,それがまた,分類・整理のできないまま,その時々の気分であちこちに置いてある。

 外周りとなると,もっとたいへんだ。園芸を楽しんでいるから,したいようにさせておくと,これも整理力が伴わないので,植える草花が際限なく増えていき,所狭しと鉢やプランターが置かれ,もはや使うことの無さそうな道具や材料までが,至る所に散在している。

 母が亡くなり,これらを一気に片付ける気力・体力は,今は私にも無いのだが,とりあえず,それらの整理や処分を少しずつ始めることにする。体を動かしていれば,私の気持ちもまた少しは紛れるというものだ。(2002.6.16)

☆  ☆  ☆

  満中陰まで

 人一人が亡くなるということは,気持ちの上のことだけでなく,遺して逝ったものの多いことを,改めて思い知らされる。

 母の死後,当面急がれる諸官庁への諸届,手続きと,入院・葬儀の費用の清算,各方面への挨拶など,事務的なことは一通り終わったものの,まだこれから処理しなければならないことが山積している。

 旧知の人たちにも,知らせなければなるまいが,ほとんどが高齢の人だから,知らせることで衝撃を与えることになるのではないかと躊躇う気持ちもあった。しかし,秘しておくわけにもいかないので,まだ元気に暮らしていて,母が今春まで賀状を交換していた人に範囲を絞り,親戚,旧友,戦死した父の縁につながる人たちへ,死亡通知の挨拶状を出した。その人たちから返ってくる書信や電話で,こまごまとした追憶が語られる。その一つ一つに,また応えていくことになる。

 母の部屋の片付けが,なかなか捗らない。覚悟はしていたものの,手を着け始めると,あまりにも雑多で,いつ片付け終えられるのか,呆然とする思いだ。古着や端切れは言うまでもなく,薬の空き袋や領収書,商店の袋や包装紙,銀行のサービス品で貰った毎年のカレンダー,ゴミ袋やティッシュ等々が,いくつもの箱に保存してある。なぜか爪楊枝が何本もあちこちの箱の隅から出てくる。最後までしっかりしていたようでも,限られた面では,やはりいくらかボケてきていたのかと疑われるほどだ。毎年の敬老会の案内状や年金の支払い通知書なども全て残している。

 しかし,省みると私も,もはや不要な文書や品で残している物の多いことに思い当たる。母の後片付けが済んだら,今度は自分の物も整理しなければなるまい。

 私が大学に入った年に亡くなった祖母に宛てた60年以上前の亡父の手紙が束ねられてある。父の経歴に関連するさまざまな文書もあり,これらは,古い写真などと同じで,簡単には捨て難い。その全てに目を通して,いずれは処分しなければならないとしても今は捨て切れないもの,思い切って捨てるもの,廃棄するにしても自分の手で焼却しなければならないものと,選び分けていくのに手間がかかる。

 外周りの手入れや整理も労が多い。晴れた日は外周り,雨の日や夜は,部屋の中の整理を,まだ当分の間は続けなければなるまい。死後四十九日で次の生が定まる中有を迎えるというが,遺された者は,その間の追善供養だけでなく,逝った者の後始末も託されていて,49日という日数には,そのために必要な時間としての意味も含まれているのではないかと思えてくる。

 一つだけ死者を利用できることがある。入れ替わり立ち替わり訪ねてくる家のメンテナンスのしつこいセールスを撃退するときだ。玄関の上に貼ってある忌中の札を指して「これが見えませんか」と言うだけで慌てて帰っていく。

 これまで,母を看取り送り出すまでは私自身が元気でいなければならないという責任感のようなものを持って生きてきた。優しい言葉を掛けることは少なく,たいていは突き放して,母のしたいようにさせてきたが,それとなく見守り,フォローすることはできていたつもりだ。「温かいようで冷たい」「冷たいようで温かい」と,かつて教え子たちが私を評した言葉は,母に対する場合にも当てはまるかもしれないが,これは私が人に接する基本になっていることで,母を送ったあとも,後悔する思いは無い。死後のいろいろな処理にしても,生前の母のことが解っているから迷わずにできることも多い。母も,そのことを知っていて,気持ちの底で私を頼ってくれていたと信じている。

 母の後始末を全て終え,一周忌に予定している納骨が済めば,私としては責任を一つ果たしたことになろう。老後の妻に対する責任もまだ残ってはいるものの,これは子どもたちに委ねても良いのではないかとも思う。これから,真の意味での私の余生が始まるのではなかろうか。

*  *  *

 母は,毎朝欠かさず,仏壇の前で阿弥陀経を上げていた。倒れた日の朝も,いつもと変わりなく,読経のあとで朝食を摂った。母の死後は,代わって私が,毎朝,祭壇に向かい阿弥陀経を唱えている。仏教徒とは言えない私が経典を誦むのは冒涜的なことなのかもしれないが,少なくとも四十九日までは続けるつもりだ。

 祭壇には,母の遺影と位牌と骨壷に入った遺骨が祀ってある。変わり果てたとは言え,遺骨は間違いなく母の体の一部だ。しかし,祭壇の前に座ると,骨壷よりも写真の方に目が行くのは,生前の姿を偲ぶ気持ちのほうが強いということだろうか。数年前に,老人福祉センターのお仲間で写真好きの人に写してもらったもので,自然な笑顔が良く撮れている。(2002.6.17〜30)

☆  ☆  ☆

  死亡通知

 母・中原フキエ儀、六月四日午前五時四分、享年九十六歳にて逝去いたしました。ここに、生前に賜りました御厚情を深謝いたしつつ、謹んで御通知申しあげます。

 なお、葬儀は六月七日、近親者と日ごろ親しくしていただいた近隣の方々のみにより、しめやかに執り行いました。御通知が遅くなりましたことをお詫び申しあげますとともに、御香資、御供物の儀はすべて固く御辞退いたしておりますので、御諒解いただき、今後ともお心遣いの無きよう、くれぐれもお願い申しあげます。

 亡母は、平素、ときに足腰の痛みを訴えることはあっても、いたって元気で、家の周りでの庭仕事や、市の老人福祉センターに遊びに出かけるのを楽しみにして過ごしておりました。

 去る五月二十三日の朝も、ふだんどおりの朝食を摂り、老人福祉センターに出かけるときのいつもの日と同じように、今も続けているラージボール卓球用のラケットとシューズとを入れたザックを背負い、妻の作った弁当を持って、元気に家を出たのですが、センターの迎えのバスに乗ろうとしたとき、突然倒れました。

 家の近くで、私も家にいる時間でしたので、すぐに駆けつけましたが、呼んでも、かすかな反応しか返ってきません。救急車で病院に運び、検査の結果、倒れたのは脳室内出血に因るということで、すでに意識は無く、再度の出血を防ぐために、血管内にコイルを詰める手術をすることになりました。しかし、手術を始めて判ったことは、CTスキャンやMRI検査でもはっきりしなかった脳幹に近い部分で動脈瘤が破裂しており、しかも、細い血管が入り組んでいる場所であるためにコイルの挿入ができないということでした。脳室内出血の中でも数少ない症例で、全身麻酔をかけての頭部切開による手術は、老齢でもあり、不可能だという医師の判断です。

 水頭症を防ぐため、緊急の処置として、出血により脳に溜まる髄液を管を通して抜く方法しか無く、あとは、血が自然に乾いて散り、髄液が流れるようになるのを期待するのみだが、その間に動脈瘤から再度の出血が起こる危険性もあり、予断を許されない状態だと言われました。

 それから十二日間、意識の戻らぬまま、傍目には安らかに眠っているように見える状態でしたが、亡くなる数日前から、患部(脳室内動脈瘤)の出血が続き、血圧も徐々に下がってきて、六月四日の早暁には心拍数が落ちはじめ、五時四分に眠りが永遠のものになってしまいました。

 十二日間という入院期間は、私どもが心の準備をするゆとりを見て、しかも、看病疲れが出る前にという、すべて母の心くばりのように思えてきます。私にも、母の高齢化に備える気持ちがあって、時間に縛られて責任を負わねばならぬ仕事からは昨年来退いていましたが、私の時間が自由になったときから、母は何となく安心した様子で、まるで逝くタイミングを測っていたようにさえ思われます。

 高齢のことですから、いつかは何らかの形で病むことになるだろうとは覚悟しておりましたし、足腰が先に弱り、自宅での寝たきり状態が長く続くようであれば、介護用のベッドを入れて世話をし、毎夜私が添い寝をするつもりでいたのですが、それにしましても、ついさっきまでいつもどおり話していたものが、急に意識が途絶え、何も話せなくなるとは、予測を超えたことでした。

 思えば、母は、明治・大正・昭和・平成の四代にわたって、言わば激動の時代を生き通してきたわけです。特に、三十八歳のとき夫が戦死したのちは、戦中・戦後の多難な時期を、二人の子どもを育てるために、孤軍奮闘の暮らしでした。しかし、負けぬ気と楽天性とを併せ持ち、周囲の皆様の御厚情にも支えられて、苦労を乗り越えてきたと申せましょう。今は、よくがんばったね、ありがとうと、呼びかけたい気持ちでいっぱいです。

 三十年前、当地に移ってまいりましてからは、穏やかな日々を送っておりました。「思いもよらず長生きをしたように思いますが、皆さんに親切にしていただいて幸福な老後を送らせてもらいました」と、母自身書き遺しております。これもひとえに、皆様の御厚情の賜物と、あらためて心から御礼申しあげます。合掌

☆  ☆  ☆

  遺  詠

 大いなるみいくさなるぞ我が夫も戦死すてふ報今日音づれぬ

 幼な児の父よと呼べる此の日迄よくぞ生きたり戦ひのさ中

 今更らに何を嘆かん国の為笑みて散りなん武士の道

 残る身の嘆き忘れてただ思ふ半ばに散りし君が胸中

 事あげて遺し給はぬ君なれど我が行く道は一すじにして

 幼な児に父の想ひ出はぐくみて強く立たなむ武士の妻

 老いし母幼き児らにつくすのみ夫なきあとの生甲斐にこそ

 還ります日を楽しみて求め置きし書も霊前に供へまつらむ

 君散りぬ老後のたのしみ語らひし想ひ出ばかり我に残して

 児等の事小さきことも語らひて喜び給ひし君はいま亡し

 在りし日のそのままにして君が部屋子等とお茶なぞのみても見たり

 児等いねて妻にかへりてさめざめと亡き人の部屋に泣くこともあり

 思ひ出に楽しく更くる夜もあるになぞかくばかり今日のおもひは

 いと遠き戦さの海に君ありと思ひ続けむ我果つる日迄

 語るべき人なき胸に余れどもいとけなき児に何をか語らむ

 あどけなき寝顔並べしいとし児を君よ見つらむか神にしあらば

 父なき子生ひ立つ日迄我が命護らせ給へあめつちの神

 戦ひに敗れし国のあはれさよ「尋ね人の時間」にしみじみ憶ふ

 復員を待つ人さぞやつらからむなれど我が夫は永久に還らず

 かづかづの思ひ出胸に甦りきて亡き夫恋し眠れぬ夜半は

 手も足もよし空しともいまここに還り来ませと夫を恋ふかな

 懐かしき君の還れる夢の中夢ならずやと思ふ果敢なさ

 楽しきも苦しきも皆夢とすぐうたかたの世とはよくぞ云ひたり

 終焉の地と心定め移り住む子が家の日々心安けし

 老い妻を看る人あり息をみとる老母もありて病棟かなし (昭和四八年松山日赤病院にて)

 悔い一つ無しと云わねど八十年力のかぎり生きし満足

 病む友の上に心は逸れども遠く離れて我も老いたり

 息も孫も皆健やかに集い来て五十回忌の君を弔う (平成五年)

 悔いひとつなしと云わねどこの日まで我生き抜けり君よ照覧

 お達者で結構ですねといたわりの声かけらるる歳となりけり

 九十五の手習いにしてワープロはきのうも今日も行きつもどりつ (狂歌?)

 入り組みしテレビドラマのすじほぐしまだ呆けていぬとひとり確かむ

 入り組みしテレビドラマの昨日今日筋の通ればまだ大丈夫

 何事も堪えに堪えたる我にして黙して居たし呆けし時も

 わが唱う読経のひびき変りなし今朝のいのちのありがたきかな

☆  ☆  ☆

  亡母の満中陰に当たって

 中有を迎える今となって、在りし日の母の姿を実感として想い浮かべられないもどかしさを感じている。祭壇の写真は確かによく撮れている。しかし、母の実体を感じるには、かえって妨げになっているようだ。偶像崇拝を否定する考え方の根底には、そういう事実があるのではないかと思えてくる。遺品の数々も、観念的な追憶につながるだけで、生身の母を実感するには程遠い気がする。

 生身の母は、どういう母だったのだろうか。私の記憶力が衰えているのか、それとも、母はすでに仏となって、遠い所に行ってしまったのだろうか。

*  *  *

 たまたま目にした文章に次のような一節があった。

 現在の自分から過去を振り返れば、「きりのない解釈や批判や毀誉褒貶がころがり出て」くる。「しかし、過去のある時点から現在に至る道を視るとしたら、それは、そうとしかならなかった、選びようのなかった、運命とでも言うべき唯一筋の道ではないでしょうか。」(降旗康男・集英社文庫版浅田次郎著『天切り松闇がたり第一巻 闇の花道』解説)

 母の生き方はまさにそれだったと思う。思い出を語ることはあっても、悔やみや嘆きには決してならなかった。そして、母の後半生の視点は、父が亡くなった時点からのものであったという気がする。

 大いなるみいくさなるぞ我が夫も戦死すてふ報今日おとづれぬ

 事あげて遺し給はぬ君なれど我が行く道は一すじにして

 父なき子生ひ立つ日迄我が命護らせ給へあめつちの神(以上遺詠より)

 母の死を知らせた旧知の老婦人から、追憶のお便りがあった。

 「昭和十九年の今頃でございましたでしょうか、長良(注・父の乗艦)の呉入港でしばらく間借りの家、二河におりましたとき、夫が夕方、艦長様のお宅に御挨拶に行こうと私を案内してくれました。(中略)その後、佐世保の夫の実家に帰っておれとのことで、そうして待っておりましたが、八月七日の予定の帰宅も、その翌日、翌々日も、上陸の気配なく、念のために急いで呉にまいり、お宅様に上がりました。御奥様が教えて下さいました結果、七日に東支那海で沈没ということでございました。あの時、夫が御奥様に御挨拶に連れて行ってくれなければ、長良のこのことをいちはやく耳にすること、それ以後御奥様とお親しくおつきあい頂くことができましたことにならなかったと、いつも呉のお宅様のお玄関を思い出しておりました。」

 まだ幼かった私だが、蒼白な顔で玄関に佇んでいた夫人の記憶がかすかに残っている。そのとき既に戦死の報が母の許に届いていたかどうかは定かでないが、以後の母の人生は、選びようのない「一すじ」の道であったと思う。

 悔い一つ無しとは云はねど八十年力のかぎり生きし満足

 何事も堪えに堪えたる我にして黙して居たし呆けしときも(同)

 若くして夫を喪った母が、未だ幼い子どもたちを抱えて生きる道筋で身に付けたことは、世間を恨んだり、意に染まないことに不満を抱いたりするのでなく、自分の置かれた情況のもとで「力のかぎり」を尽くすということだった。その母にとって「堪える」ということは、不満を抑えて我慢するということではなく、自分の気持ちの持ち方で克服するということであったと思う。私自身にしても、母の意に染まないであろうことや心配させるような行いをずいぶん重ねてきたと言えるが、それに対しても強く言挙げすることは無かった。勝ち気で、家族や周囲の人のことを気にかけて世話を焼きたがる面を持ちながらも、人は、たとえ子や孫でも、所詮は自分の思いどおりにはならないと割り切った諦観のようなものさえ感じられた。そういう諦念を持たせたのは、我の強い私の重なる親不孝のせいだったのかもしれない。「黙して居たし」というのは、母の得た悟りだったのではなかろうか。

 終焉の地と心定め移り住む子が家の日々心安けし

 わが唱う読経のひびき変りなし今朝のいのちのありがたきかな(同)

 その母の心を今にして「ありがたい」と思う。

☆  ☆  ☆

  新盆前後

 家の近くを流れている小さな川の河川敷に,母が花木や果樹を植えて楽しみにしていた。もともと河川敷が荒れるのを防ぐために,近隣の人の植樹や耕作を認めたものだ。母は,わが家で暮らすようになったとき,早速その一画を借り受けて畑にした。私が手を貸すことは少なかったが,ゴロゴロと大きな音を立てる手押し車に道具を積んで畑に出かける母の姿を,近所の人たちは好意を持って見守ってくれていて,音の聞こえない日がしばらく続くと気遣ってくれたものだ。

 しかし,野菜や草花だけでなく,わが家の狭い庭では植えられないような大きく伸びる樹木まで,鉢植えで育てておいては,少し成長すると移植するものだから,それが生い茂って,最近ではだんだん母の手に負えなくなりつつあった。伸びた枝は落とさなければならないし,落ち葉の掃除だけでもたいへんだ。田舎で育った母にしてみれば郷愁のようなものがあったのかもしれないが,住宅地の中では焚き火をすることも控えなければならないという判断がなかなかできないように見えた。放っておくと,堆肥まで作りたがった。

 母が亡くなって,茂りほうだいでは御近所の迷惑になることも気にかかるので,わが家の庭は後回しにして,まず河川敷の手入れから取り掛かった。足元に積み上げてあるガラクタを処理し,大きく伸びて落ち葉を散らす木の枝を刈り込む。

 中に,狭い川幅の向こう岸にまで枝が届いている柿の木がある。種から育て,小さな実が生り始めたのを喜んで,私たちは食べたがらないものだから,干し柿にして独りで食べていたが,伸び過ぎた枝がさすがに気になっていたようで,暇なとき枝を下ろしてほしいと頼まれていたところだった。その依頼を果たすのが死後になろうとは,思いもかけなかったことだ。

 太い枝を幹から切り落とし,川から引きずり上げ,枝はさらに短く切り分けていくつかに束ねたり,葉は袋に入れたりして,ゴミの収集に出す。昔であれば,風呂や竈の燃料になったし,腐った葉を土に返すこともできたが,今は,全て収集の手を煩わせ,燃やすゴミとして処理しなければならない。他の刈り込んだ木々の枝も,1メートル以内に切り揃えて束を作り,収集日に何回かに分けて出すことになる。折しも,ダムの無い自然の川を溯る鮭を熊が捕獲し,食べ残した部分が森の肥やしになって木々の成長に役立っているというカナダでの実証研究が報告されていたのがふと思い合わせられた。(2002.7.14)

☆  ☆  ☆

 亡くなった母にいささかの預貯金があった。亡夫の恩給を蓄え,自身の最期のための費用は自分で遺しておくと常々言っていたものだ。とうとうその時が来て,入院,葬儀と続き,満中陰を勤め了えた今までの諸掛かりを合わせても,入院の期間が意外に短かくて逝ったこともあり,300万円以内の額で収まった。あとは,墓石に法名を刻むことと,節目ごとの法要に掛かる出費くらいのもので,その全てに母の遺した金を使ってもまだ残るだけの額がある。遺された預貯金は,相続の手続きを取らなければならない。

 預貯金の相続手続きは煩瑣で手間の掛かるものだとかねて聞いていたが,要は,相続権を持つ全ての者の確認と合意が必要だということで,そのための書類を整えるのは当然の事務処理だと思われる。もっとも,相続権者確認のためにどれだけの書類を揃えなければならないのかという点についてだけは,初めて知ることもあり,齟齬もあったが,勉強になった。

 まず,母から生まれた全ての子が記載されている戸籍謄本(原戸籍)が必要になるのだが,原戸籍にも時期によって違いがあり,昭和33年(1958年)の戸籍改製以前に除籍されている者については,その前の時点に溯らなければならない。わが家の場合,私の次弟は早くに母の実家を継いでいて,昭和19年(1944年)の父の戦死で私が「家督相続」をした際に編製された戸籍には既に記載が無いことが分かり,さらにそれ以前の,父が「戸主」であった時期の原戸籍を取り寄せなければならないことを知った。

 銀行の手続きはそこまでで良かったが,郵便局では,それではまだ不十分だと言う。「明治39年生まれのこの方(母)は,昭和2年に結婚されていますから,21歳での婚姻ということになります。とすれば,法的には16歳から結婚ができるわけですから,21歳での結婚が初婚であり,それ以前の婚姻や産児の経歴がないことを証明する戸籍謄本が必要になります」。それが最近出された郵政事業庁からの通達だと言うのだ。そこで,今度は,母の両親が生存していた時期の実家の除籍謄本を取り寄せなければならない。そんなものが残っているのかと驚くくらいだ。

 郵便貯金には総額1千万円以下という限度があり,どんな資産家でもそれ以上の貯金額は無いはずだ。数百万円の金額のことで,そこまでの入念が必要なことなのだろうか,万が一,事後に隠れた相続権者が現れたときは,相続権者同士で解決するという念書を一筆入れておけば済むことではないかと思われた。

 大きな問題を含んでいる「住民基本台帳ネットワーク」が実施されれば,このような問題は,確認が容易になり,手続きが簡便になるのかもしれない。「書類の作成を全部御自身でなさったのですか」と銀行で尋ねられたが,この程度のことでも,自分の手に余る人もあるのだろう。煩瑣な書類上の手続きを要求し,市民を困惑させるのは,「住民基本台帳ネットワーク」の便利さを知らせるための国家戦略なのではないかとさえ思えてくる。それとも,「これだからお役所仕事は厄介だ」と感じさせようとする郵政事業民営化促進派の陰謀だろうか。(2002.7.28)

☆  ☆  ☆

 毎日暑い日が続くなか,母が亡くなって2か月が経ち,今夏の私の暮らしのリズムが定まってきた。

 朝は,特別な予定が無い限り,7時30分起床。亡き母に代わって朝食前に読経。敬虔な信仰心には欠けるものの,朝一番に腹から声を出すのは健康にも良いように感じるし,その日の心身の状態を自覚する手掛かりにもなる。

 午前中は,ワープロに向かったり,書信をしたためたり,外出しなければならない用件や買い物を果たしたり,主に事務的な仕事を処理する。

 昼食後の暑さの盛りは,読書で過ごし,3時のコーヒーを飲みながら配達されたばかりの夕刊を読んだあと庭に出る。母の遺した植木鉢やプランター,庭隅の物置の中に押し込めてあるものの整理などがまだなかなか片付かない。

 伸び放題になっている雑木や雑草の根を掘り起こして整地し,まず地面に空間を設けた。折から百日紅の花が散り始めて,アスファルトの上に散った花びらは汚いだけで,掃除をするにも厄介だが,平らに均した土の上に細かく散り敷かれた紅い花びらは,万華鏡のような模様を作って美しい。

 家の周囲の随所に置いてある植木鉢を集め,植えてあったはずの草花は既に枯れてしまったのか姿の見えないものは,中の土を,除草した地面に空け,鉢を洗う。細かく砕いた発泡スチロールや金網の切片などが鉢の底に敷いてあるので,それを選り出して,燃やさないごみの収集に出すため,袋に入れる。こうして空になった植木鉢だけでも数十鉢有り,整理が終わったら,道路の脇にでも並べて,欲しい人に持って行ってもらおうかと思うが,当面,物置を片付けて,順次積み上げておくことにする。その物置の中も,雑多な物が押し込めてある状態なので,いったん全て引っ張り出して,燃やすごみと燃やさないごみとに分け,収集日に出さなければならない。この1か月半くらいの間にわが家から出したごみの量は相当なもので,収集日にはいつも,全部残さず持って行ってくれたかどうか,気になって見ている日が続いている。

 何が植えてあるのかよく分からないものも多いのだが,少しでも緑が見えるものは,折角の母の丹精なので,抜き捨ててしまうのも今は憚られ,とりあえず毎日,庭仕事の最後に水を遣って,秋までは様子を見ることにする。母の入院以来,放置していたために萎れていたものも,徐々に元気を取り戻してきたようだ。

 予め毎日の作業の範囲を決め,時間を限るようにしているので,仕事はなかなか捗らないが,きょうはこれだけのことをしようと計画を立てる楽しみもある。一仕事終えると汗びっしょりで,文字どおり頭から水を被ったようになるが,シャワーを浴びたあとの晩酌のビールが美味い。それにしても,長い間の積み重ねとは言え,よくもこれだけのものを遺したことだと,老母のかつての日々のエネルギーには,今さらのように感嘆するばかりだ。

 夜は,金銭の出納や書翰の受信・発信などを記録して終わる。これも,母の死後,必要から始めたことだ。

 8月に入って,ガイドヘルパーや音訳ボランティアの仕事も再開することにしたので,これからは,日によってスケジュールに違いが生じるにしても,私の齢にしては規則的で健康な暮らしだと言えよう。母が倒れた5月下旬以来,パチンコには久しく行っていない。(2002.8.4)

☆  ☆  ☆

 母の新盆が来る。「初盆ですね」と声を掛けてくださる方もある。しかし,母の宗教である仏教の真宗では,盂蘭盆会に御魂が帰ってくるという考え方はしない。亡くなった人は既に仏になり,仏は,称名(「南無阿弥陀仏」)を唱えるとき,常に私と共に在ると考えるからだ。したがって,お盆だからといって,特別なお供えや飾りをしたり,迎え火・送り火を焚いたりもしない。お盆は,亡き人を偲び,仏恩を謝する機会の一つであり,真宗では,むしろお盆よりも報恩講を重視する。

 母の死に当たって,お悔やみの書信や電報を戴き,その中に「御冥福を祈る」という言葉が使われているものが多かった。前にも触れたことがあったと思うが,真宗では,「御冥福を祈る」という言葉は使わない。これも,故人は仏となって,この世に生きる者のために祈ってくださっているという考え方からで,仏に「冥福を祈る」などとはおこがましいことにほかならず,真宗門徒に対して「冥福を祈る」という言葉を使うのは失礼なことなのだが,それを知らない人は多い。母の葬儀の際に,母と直接的なつながりの無い人からの,遺族に対する儀礼的な弔電を敢えて披露しなかった理由の一つはそこにもある。

 母の亡くなった一か月ほど後に,母と親しかった同年輩の遠縁の婦人の訃報が届いた。御遺族に哀悼の意を表するのに,先方の宗旨は不明ながら,「御冥福を祈る」という言葉は使いたくない。ところが,では,どう言って気持ちを表せば良いかと考えると,書くべき言葉に迷う。こういうとき,「決まり文句」というのは便利なものなのだ。「決まり文句」を使うまいとすると,故人を偲び,遺族の気持ちを思う心からの言葉を探さなければならないが,それでこそ弔意のこもったものになるのではないか。「決まり文句」は,何事の場合でも,自分の気持ちを掘り下げて考えないままに,安易に使っていることが多いものだと思う。

 死を「穢れ」とし,「忌む」こととする考え方は,真宗には無い。したがって,「清めの塩」も「忌」の札も,本来不要なものなのだが,母の葬儀で,諸事輻輳しているときにそれを一々説明するのも煩わしいことなので,周囲の手配に任せたところもあり,今にして,そのことにいささか忸怩たる思いが残る。

 まだ先のことだが,来年の年賀状も,母の死を知る先方が遠慮された場合に敢えて逆らうことはないとしても,母とは無縁の人にまでこちらから「欠礼」することはしないでおこうと思っている。「賀状」とは言うものの,もともと私は,形式的に新年を「賀す」という気持ちは無く,年に一度,相手の多祥を祈念し,平素出会うことの少ない旧知に,私の近況と感懐を述べる機会にしていることなのだから,その機会を自ら閉ざそうとは思わない。(2002.8.11)

☆  ☆  ☆

  母の一周忌に

 早くも亡母の一周忌を迎えることになる。

 祥月命日は六月四日だが、その前に、母との会話が突然途絶えてしまった五月二十三日という日が、私には忘れられない日になっている。

 その日の朝、いつも通っている老人福祉施設に出かけようとする母と交わした会話が最後になった。妻の作った弁当を手渡しながら、出かける意思を確かめた私に、「行くのはいいけれど、バスに乗るまでが恥ずかしい。」 と、母が言った。施設からの迎えの巡回バスに乗る場所まで、家から50メートル有るか無しかの距離なのに、老いてもシャイな面を持つ母なので、その間の杖をついた歩行を恥じているのかと思い、「御近所の人は、中原さんのおばあさんが今日も元気で出かけて行かれると思いながら、見守ってくださっているよ。」 と送り出した。

 母がバスに乗る前に倒れたと、近所の人が知らせてくださったのは、それから間もなくのことだ。駆けつけると、多くの人に囲まれて、路傍に横たわっていた。明瞭な意識は既に無かったが、さっき「恥ずかしい」と言ったのは、このことだったのだろうか、という気がした。

 私は、科学的に説明できないことは信じないほうだ。だから、母の最後の言葉は、これまで、家族・肉親にも話していない。しかし、母には虫の知らせのようなものが有って、何となく感じた不安が、そのような言葉になって表れたのかもしれないと思う。あのとき、「それなら、今日は出かけるのを止めますか。」 と、私が言っていたら、どうなっていただろうか。それは、考えても詮無いことだ。

 母が亡くなったあと、折りに触れて思うのは、「亡き人に案じられている」ということだ。死者に心が有るのかどうか、これも私には信じきれないことではあるが、周りの人のことをいつも気に掛けていた母は、亡くなったあとも、きっと私たちのことを気に掛けているのではないかという気がする。口も出さなければ手も出さないが、子や孫の健康と暮らしの行方を常に案じているように思う。

 法要は、亡き人のために祈るものではない。この世になお生かされている者が、私の中に亡き人が生き続けていることを確かめ、亡き人に今も見守られていることを思い起こすために営むものだろう。そして、亡き人に安心してもらえる生き方をするよう努めなければならない。それが真宗の心につながることだと思っている。

 かつての同僚で既にリタイアしている者の集まりが、毎年一回、各地の地元居住者が持ち回りで幹事を務めて催される。今年は、奈良が会場だったので顔を出した。集まりの度に、何人かの訃報を聞く。その直後、三十年来の馴染みだった理髪店の主人が還暦の祝いを前にして亡くなった。ふだん元気な人で、山に登り、風景写真を撮るのを趣味にしていたが、休日に一人で撮影に出かけていて脳内出血を起こし、道に倒れていたという。

 私もまた、いつ亡き人の側に入るのか、分からないことだ。

☆  ☆  ☆

  母の三回忌に

 母が逝って二年が経とうとしている。

 二年の間に、母の居室に遺された数々の品も少しずつ手を着けていって、かなり片付きはしたものの、まだ処理しかねて残っている品も有る。例えば、母の生きた記録とも言える数十冊のアルバムだ。廃棄するわけにもいかないし、焼却するにも、大きな焼却炉でもなければ、処理のしようが無い。しかたが無いから、衣類を処分して空になった柳行李に詰めて押し入れに置いてある。しかし、私が生きているうちはそのままにしておくとしても、それも、そう長いことではないだろうし、加えて、私もまた死後に、母よりはるかに多くの処理に困る品を遺すにちがいない。息子たちはどうすることだろうか。旧家の蔵などには、代々のそういう品々が収納され、子孫に引き継がれているのだろうが、わが家では、どこかで思い切った手を打たなければならないことだと思いつつ、私も老いていくばかりだ。

 人は、一人で生きることはできないと言うけれども、死ぬこともまた、一人ではできないことだ。

 例えば、独居老人が一人で死んでいったとしても、いずれは誰かがそれを見つけることになり、誰かがその後始末をしなければなるまい。

 家族がいれば、最期は家族の誰かが看取り、後始末もすることになろう。長年古里で独り暮らしをしていた私の祖母も、最期は私の母に看取られて逝ったし、母は、もちろん、私ども家族に見守られて逝った。私は、妻より長く生きて、妻の最期を見届け、後始末をするつもりでいるが、人の命は不定だから、こればかりはどうなることか分からない。仮に私の思いどおりになったとして、その後は一人で暮らそうと思っているものの、最後には、息子たちに後始末をしてもらわなければならないだろう。それも、息子たちが健在であればこそのことで、さらに、その息子たちは、将来どんな暮らしをして、どんな最期を迎えるのだろうか。

 家庭情況の調査に来る警察官は、非常の際の連絡先を必ず聞いていく。わが家の場合は、今のところ、離れて暮らしている息子たちの住居は変わる可能性が有るので、とりあえず、大阪に住む弟の住所を連絡先として申告してあるが、それは不慮の災害などで、夫婦が一度に死んでしまったようなときのためだ。とすれば、大阪の弟には、息子たちの現住所と緊急の際の連絡方法を常に知らせておかなければならないということになるが、そこまでの手配りはしていない。

 それにしても、家族というものは、生きていくために必要である以上に、死ぬときのために必要なものだと思われる。

 母の死後、母の気持ちを引き継ぐつもりで、毎朝、仏前での読経を続けているのだが、日によって、声がよく出るときとそうでないとき、息が長く続くときと、息切れして一息入れなければならないときとが有る。かつては、母の毎朝の読経を聞き流しながら、ときにその声が途切れたりすると、どうかしたかと気になったものだが、自分が誦す経文のほうが先に進んで、経本上の今誦んでいる場所を見失ったりすることも有り、母もそうだったのだろうかと、思い当たることが少なくない。読経を終えて、膝を伸ばして立ち上がるときの挙措も、しだいに母に似てきたように、我ながら思う。

 仏前でふと思うことは、私は母にやはり甘えていたということだ。

 私が幼いころの母は、躾に厳しい母だったし、父が戦死したあとは、戦中戦後の苦しい生活を支えて働き続けた母だったから、私には、母に甘えたという明らかな記憶が無く、そのことを寂しく感じた時期も有った。しかし、それでも私は、母に甘えていたのだと、今にして思う。

 早くして夫を喪った母は、その後、確かに私を頼りにしていた。しかし、私はそれに十分応えることができず、逆に、生の感情をぶつけることのできる相手は母しか無かったから、ずいぶん邪険な態度もとったし、いろいろと心配も掛けた。それが私の甘えであり、そんな私を、母は、絶えず気に掛けながら、黙って見守っていたことだろう。仏となった今も、きっとそうなのではなかろうか。

 神や仏に縋って、現世の利益を願っても、叶えられることではない。神や仏は、具体的に何かをしてくださるのではなく、自らを恃むしかない私を、常に気に掛けて見守っている存在なのだろう。「守る」の「ま」は、もともと「目」の意であり、「守る」は本来「目(ま)守(も)る」ことなのだと思い当たる。自分自身の力でそれに応えることが求められているのだ。

☆  ☆  ☆


  亡母の七回忌に


 亡母の七回忌を迎える。三回忌に次いで七回忌が年忌法要の一つの区切りとなり、次の機会は十三回忌のようだが、その年数に特に意味が有るとは思えないし、調べてみても、根拠について記されたものは見当たらない。年忌法要は、亡き人を偲ぶ機会だと思うけれど、特に年数を区切らなくても、私には、母を偲ぶ思いは常に有る。

 母は今、生きている者の日々の暮らしを見て、どう思っているだろうかと、よく想像する。例えば、生前いつも家族のことを気に掛けていた母は、今の私の様子を見て、「無駄遣いしなさんなよ」「電気を消し忘れちょるよ」「つまらんことを言うちょらんと……」と、気を揉んでいるのではなかろうかなどと想うのだ。孫や曾孫たちのことも、気に掛かっているかもしれない。

 一昨年末のNHK紅白歌合戦で放送されて、広く知られることになった『千の風になって』は、昨年一年間、高齢者の福祉施設での演奏会などでは定番のように歌われ、私も、何度か、演奏したり歌ったりしたけれど、自分の死を悲しんでいる者に、死者の側から、(私は)「死んでなんかいません」と呼び掛けるこの歌は、愛する人を喪った多くの人の気持ちの癒しにもなっているようだ。死者の思いは、生きている者が想像することによってこそ、「千の風になって」感じられることで、そしてまた、死者の心を想うことが、生きている者にとってたいせつなのではなかろうか。

 私がこの歌の存在を知ったのは「紅白」での放送より数年前のことで、二年前のブログ(2006.4.22)でも触れている。その内容を更めて抄出すると、次のような文意だ。

*  *  *

 昨年、四十三歳の子息を亡くした高校時代の同級生から便りが有った。年末に喪中のはがきを受け取っただけで、詳しい事情は分からなかったのだが、ようやく事情を語れる落ち着きを得たようだ。

 死因は心筋梗塞で、自宅での急逝だったという。結婚生活五年余、子供もまだ三歳だというから、家族の受けた衝撃、悲嘆は、察するに余り有る。

 「おそらく、本人は、千の風となって、私達家族のごく近くを吹き渡っているのでしょうか。“生きてる、生きてる”と」と彼は記し、「願わくば、あと二十年の生をいただきたい。そうすれば孫も成人し、安心して息子に報告出来ます」と言う。ここにも、「千の風」の詩を支えにしている人がいる、と思った。

 新井満さんが作者不詳の英語詩を訳して曲を付けた『千の風になって』が「朝日新聞」の『天声人語』で小池民男さんによって紹介されたのは、二〇〇三年八月のことになるが、手紙の文面から察すると友人は、新井さんがこの詩の存在を知るきっかけとなった南風椎さんの訳で知ったようだ。

 新井さんの訳詩は、「私のお墓の前で/泣かないでください/そこに私はいません/眠ってなんかいません/千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています」で始まる。

 新井さんは、原詩からアニミズムに近いものを感じたというが、私は、仏教、特に真宗の教えと共通する点を読み取る。他の宗派については詳しく知らないけれど、真宗では、亡くなった人は、浄土に仏として生まれ変わると教える。「眠ってなんか」いないのだから、「冥福を祈る」とは言わない。そして、仏は、この世に生きる者を常に見守っている存在だ。

 「秋には光になって/畑にふりそそぐ/冬はダイヤのように/きらめく雪になる/朝は鳥になって/あなたを目覚めさせる/夜は星になって/あなたを見守る」というのは、仏の心を言うように思えてくる。

 この詩が、最愛の人を喪った多くの人の心の痛手を癒していると聞くと、「宜なる哉」と思うのだ。

*  *  *

 常に前向きに生きる気持ちを失わず、九十六歳で、言わば天寿を全うした母だから、その死を悲しむ思いはそれほど強くないけれど、母は、私の心の内で今も生きている。七回忌に子、孫、曾孫が皆元気で集ったのを見て、喜んでいるにちがいない。各地に分かれて暮らしている親族が仲良く一堂に会する機会はなかなか得られないことだから、年忌というのは、そのために母が設けてくれたことかもしれない。次の機会が十三回忌だとすると、曾孫たちもさらに成長して、一族の皆が健康で集まれるよう、そのときまで見守ってくれているだろうし、一族では最高齢の私もまた、私自身の暮らしの命運も含めて、それを願っている。(2008.6.1)