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  社会の底流  経営責任  心を読め!  マスメディアの怠慢  「ミーハー」の時代  消える夏祭り  総選挙2009


  社会の底流

 「派遣切り」,「定額給付金」,「タクシー強盗」,と並べると三題噺めくが,このところ,この三つの言葉を新聞の紙面で見ない日は無い。

 「イライラ・暴力衝動・密告と相互不信は、この時期の日本の政治や社会の底を流れる〈通奏低音〉のようなものだ」と,鴨下信一は,『誰も「戦後」を覚えていない[昭和20年代後半篇]』(文春新書)で書いている。「その時代を本当に規定する社会の底流は、大きい事象にも小さい事象にも同じように顔を出してくる」とも,鴨下は言う。

 鴨下に倣って言えば,先に並べた三つの言葉は,麻生政権下の今の時代を「規定する社会の底流」を象徴的に表しているように思う。その底流に在るのは,政治の貧困と,それに伴う人心の疲弊だ。そして,この本が書かれたのは3年前だけれど,「いま毎日、ニュースで報じられる犯罪・災害がいかにこの本で扱った五年間のそれと酷似しているか」という鴨下の言葉は,今日でも変わらない情況として,切実に同感される。

 私と同年生まれの鴨下の書いている時代は,政界だけを見ても,吉田茂政権の末期で,自由党結成(50年),社会民主党結成,社会党左右両派に分裂(51年),改進党結成,いわゆる「抜き打ち解散」総選挙=自由党240議席で第1党(52年),いわゆる「バカヤロー解散」総選挙=自由党199議席で第1党,日本自由党結成(53年),日本民主党(保守新党)結成(54年)と,離党・分裂・新党結成が相次ぎ,政界再編成への動きが進んだ時期だ。

 「中小企業倒産もやむなし」(50年),「倒産自殺もやむなし」(52年)と,池田勇人通産相が放言を繰り返したのと,今の一部政治家の国民生活に対する意識は変わっていないし,鴨下は触れていないが,人権闘争の色合いが濃い近江絹糸の争議(54年)をはじめ,一方的な首切りや賃下げに対して起こされた労働争議は,労働者を使い捨ての消耗品扱いする企業の体質という点で,現代にも通じている。

 違っているのは,当時はまだ,民衆や労働組合に,権力支配に抗議する行動につながる勢いが有ったことで,今は,それすらも稀薄になっていて,衝動的な犯罪ばかりが増えている。(2009.1.14Blog収録)

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  経営責任

 企業がより収益を挙げるために生産性を向上しようと図れば,そのために,設備投資や労働者の雇用を拡大する。労働者の雇用が多くなれば,その賃金を保障するために,収益をさらに確保しなければならず,その循環を繰り返し,発展する企業の規模はしだいに大きくなっていく。これは,かつて,短い期間ではあったが,中規模の印刷会社で総務の仕事に携わっていたときの私の実感だが,企業の大小を問わず,必然的な成り行きだと言えよう。

 それで順調に発展しているときは,問題は起こらないが,いったん不況等に見舞われたとき,肥大した規模を縮小するのは至難のことだ。京都には,「店舗とデンボ(おでき=腫物のこと)は大きくなれば潰れる」という言葉があるそうだが,言い得て妙である。

 業績不振に陥ったとき,企業にとって最も安易で手っ取り早い方法は,雇用の削減だ。雇用調整に便利なシステムとして,派遣社員という制度が作り出されたのだと思われる(派遣社員という途を選んだ人にはそれぞれの理由や事情が有るのだろうが)。しかし,それは企業にとって便利だというだけで,雇用した労働者に対する企業の責任は顧みられていない。

 利益追求を目指して肥大化の一途を辿った産業界が現在直面している問題は,企業の経営責任ということに行き着く。

 では,どうすれば良いか,私には,確とした方策は示し得ないが,弱い立場の労働者にしわ寄せしたり,政府の対策に依存したりするのみの経営者の姿勢には,割り切れない思いが残ってならない。(2009.1.16Blog収録)

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  心を読め!

 障害者や高齢者に接するボランティアやヘルパーの心構えとして,第一に求められることは,相手の気持ちになって接するということだ。逆に,戒めなければならないのは,相手を弱者として扱う意識が露骨に表れた言葉遣いや態度で,それが,いたわろうとする善意から出たものであったとしても,障害者や高齢者のその人なりの気持ち,人としてのプライドを,最も傷つけることになる。人によっては,プライドを一度捨てたほうが良い場合も有るけれど,弱者のプライドこそ,尊重しなければならない。

 中・高校生の間から広まったと言われる「KY=空気が読めない」という言葉が,一昨年度の「流行語大賞」にノミネートされたとき,新聞の投稿欄に掲載されていた「この言葉は従来、製造会社の工場や建設工事の現場などで、『KY(危険予知)活動』として広く使われてきた。だから、現場の『空気が読めない』というのでは困るのである。願わくは、『KY(空気を読め!)』といったようなポジティブな言葉として使ってもらえないものだろうか。」 という趣旨の意見を紹介して,私も「『Y』に『読めない』という否定的な意味をこめることには,かねがね疑問を感じていたので,この意見には,まったく同感だ。」 と書いたことが有る(ことば断想2006〜07「流行語」 )けれど,「空気が読めない」以上に困るのは,人の「気持ちが読めない」ということだ。特に,社会的弱者の気持ちが読めない政治家や官僚,生徒の気持ちが読めない教師が多いのは,嘆かわしい。

 金銭感覚の異なる政治家や企業経営者が,僅かな生活費にも困窮している人々の気持ちを実感できないのは,ある意味では,当然のことかもしれないが,生徒の気持ちを顧慮しない教師の問題が続発するのは,どういうことなのか。教師は,知識や技術を教えるだけでなく,心の持ち方や考え方を示す役割も有るはずで,それができなければ,人を指導する資質に欠けているとしか思えない。知識や技術の面では,確かに生徒より上であり,また,そうでなければならないけれど,指導する立場だからといって,生徒を見下した態度を取るべきではないし,人としては対等な相手の気持ちを常に重んじ,言動に気を配って接しなければなるまい。

 「KY」と同じ年の大賞候補の流行語の中に「鈍感力」というのも有ったことを思い出すけれど,人の気持ちに鈍感であってはならない。「KY=心(気持ち)を読め!」と言いたい。(2009.3.14Blog収録)

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  マスメディアの怠慢

 オウム真理教の手による「松本サリン事件」から15年が経った。「松本サリン事件」と言えば,他の被害者のこともさりながら,当初,容疑者と目され,被害者の一人でありながら厳しい追及を受けた河野義行さんのことが忘れられない。その経緯に関しては,『妻よ!わが愛と希望と闘いの日々』(1998年6月・潮出版社刊)を初めとした河野さん自身の著述も有り,7年後の2001年には,熊井啓監督による映画『日本の黒い夏−冤罪−』(日活)も製作された。この映画では,予断に基づいて犯人だと極め付けようとする警察と,その発表を鵜呑みにして特ダネを競うマスコミ,マスコミの報道を真実だと信じ込み容疑者を指弾する一般市民,という冤罪事件の構造が指摘される(関連:私と映画1998〜2004「映画評『日本の黒い夏−冤罪−』」)。オウム真理教の犯行の拡大が無かったら,河野さんの冤罪は晴れなかったかもしれないと思うと,慄然とすることだ。

 こうした構図は,無期懲役囚として長年を獄中で過ごした菅家利和さんの冤罪が事件から19年後になってようやく晴らされようとしている「足利事件」にも共通している。「足利事件」の場合は,警察やマスメディアだけでなく,地裁から最高裁に至る裁判所までが冤罪の成立に加担している。

 警察,検察,裁判所は,いずれも権力側の機構だから,全面的に信頼できるかどうか疑わしいと思っているが,問題は,マスメディアが権力側の発表を追いかけるだけで,独自の視点による追跡と検証を怠っていることだ。一市民でも,冤罪を疑い,容疑を晴らすために活動している人たちが在る中で,マスメディアが,冤罪を指摘する上で何の役にも立っていないのが情けない。

 最近の新聞の報道を見ると,文末の表現が伝聞の形の「……という」で繰り返されている記事の多いことが気になってならない。伝聞であることを明らかにするのが良心だと考えているのかもしれないが,記者の足と時間を使って確かめることなく,当局の発表だけで記事にしているのであれば,マスメディアの怠慢だとしか言えまい。通信社から配信された記事をそのまま使っている例も少なくないし,まして,他紙の記事の盗用すら有るのは,記者の質の低下を思わせる。

 今,「朝日新聞・夕刊」に長期にわたって連載されている「検証 昭和報道」を読むと,太平洋戦争に突き進む国家総動員体制への歩みの中で,新聞がいかに国家権力に押し流され,ひいては,国民の判断を誤らせる原因になったかということが,よく解る。民主主義の時代の今日なお,権力に追随するマスコミの報道は,常に疑いの目で見極めていかねばならないことだと思う。(2009.6.30Blog収録)

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  「ミーハー」の時代

 「ミーハー」という語の由来は昭和初期に溯るようで,「流行などに熱中しやすい,程度の低いことに夢中になっている女の子」を軽蔑して言う言葉だが,知性のレベルが低く軽薄なのは,女の子には限らない。昨今は,「ミーハー」感覚の大人も少なくないようだ。

 人気タレントの「オッカケ」は目立った存在だが,テレビの影響を受けやすく,テレビ番組で取り上げられた途端にブームが起きたり,解ったつもりで,にわか仕込みの知識を主張したりするのも,一種の「オッカケ」現象と言えよう。深い思慮判断が無く,表面的な事象に関心を奪われる。そして,困るのは,そういう人が自分の行為や判断を疑っていないことだ。

 知性が乏しく軽佻な人ほど,「身の程知らず」ということも有る。自分のレベルを弁えないで自己を過信し,出過ぎた言動をする人も多い。

 いよいよ衆議院議員の総選挙に向かって世の中が動き始めるが,選挙結果も「ミーハー」感覚で左右されるところが大きいようだ。政党もそれを意識して,人気取り的な方策で盛り上げを図り,マスメディアのセンセーショナルな扱いがそれに拍車を掛ける。「風が吹く」という表現が使われ,世論調査の結果なども,そのときの気分で浮動しやすい。今は,「ミーハー」が社会を動かしていると言っても過言でない世の中で,一方の政治家にも,「身の程知らず」が少なくない。

 奈良大学が,従来の「現代社会学科」を改編し,日本初の「社会調査学科」を,来年度から開設するという。社会調査士にならなくても,「ミーハー」レベルの人たちが,表面的な事象に惑わされず,望ましい社会を構築するために,根底に在るものを見極め,判断する力を養ってくれることを期待している。(2009.7.21Blog収録)

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  消える夏祭り

 私の居住する地域の自治会が発足した翌年以来,35年続いてきた自治会主催の夏祭りが途絶えることになった。役員の負担が大きすぎるというのが理由のようだが,その背景には,多くの住民の高齢化と,行事運営の担い手不足ということが在る。

 わが自治会の夏祭りは,京都地方の伝統的な民俗行事である地蔵盆の形を広げて,会員の親睦を深めるために始めたものだ。地蔵盆は,お地蔵様を祀り,地域の子どもたちの無事と成長を願うとともに,子どもたちが集い楽しむ行事を主体にして催されるものだが,それに加えて,新興の住宅地としては,宗教や信条に関係なく,全ての老若男女が集まることができるよう,夏祭りという形にした。

 自治会内の公園を会場に,入り口には,子供会で作った電灯入りの看板を飾り,子どもたちの名前を個々に入れた盆提灯を懸け並べ,会場全体にも提灯を張り巡らせて,ブラスバンド,マリンバ,バンジョー,和太鼓などの演奏や民謡と踊り等々,毎年趣向を変えて招いたゲストの催しのあとに,皆で盆踊りを楽しむ。テントの中では,缶ビールをはじめとした飲み物を提供し,福引やビンゴゲームが行われる。150世帯を超える住民のほとんどが,今は他の地域で暮らしている子や孫も伴って顔を出す,年に一度の交歓の場でもあった。その電気設備を長年手掛けてくださっていた方も,今年4月に亡くなった。

 自治会発足当初は,近くの会館を借りて年度総会や子供会の集いも行われていて,住人の集まる機会も有ったけれど,自治会の集会所が地域内にできてから,近年は,総会も集会所で行われるようになり,20人も入れば部屋が埋まる小さな建物なので,総会とは言うものの,新旧の役員18名の外には出席者は少なく,ほとんどは委任状で済ませるようになっているから,夏祭りだけが,平素は,自治会内の誰彼の葬儀での外は,顔を合わせることも少なくなってしまった住人同士が,久闊を叙す場でもあった。その機会が失われるということになると,地域の人間関係がますます疎遠になるのを淋しく思う。

 私が少年期を過ごした村では,お盆の時季には,集落ごとに設けられている踊り場に,青年団が中心になって櫓を組み,提灯を飾り,村民による夜店も出て,盆踊りが賑やかに繰り広げられた。同級生の少女たちのゆかた姿に胸をときめかせたのも懐かしいことだが,今は,どうなっているのだろうか。

 わが自治会の夏祭りにも,私がもう少し若ければ,皆で協力して自治会や子供会の運営に当たっていたころのように,率先して力を尽くしたいと思うけれど,今は,その気力も体力も無く,成り行きに流されるだけだ。あるいは,もし若くても,今の若い人たちと同様に,そこまでの積極性は持てないかもしれない。(2009.8.10Blog収録)

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  総選挙2009


 8月30日に実施された衆議院議員総選挙は,前回(2005年9月)のいわゆる「郵政選挙」とは,まったく逆の風が吹いて,民主党が圧勝する結果となった。

 前回の選挙のとき,私は,概略,以下の感想を記した(今の世を思う2005「政局の行方」〜「国会議員の資質」)。

 「小泉自民党の圧勝に終わった要因は,いわゆる『小泉劇場』の演出効果と,それを盛り上げたテレビのワイドショー的な扱いもさることながら,最大の責任は,『政権交代』を旗印にしながら,中途半端な姿勢しか示せず,政権党に選ぶだけの信頼度に欠けた民主党に在る。これで,小選挙区制度下での『二大政党制』や『政権交代』の掛け声も,民主党の独りよがりで終わり,全て画餅に帰した。次の総選挙は4年後を待たなければならないが,その間に民主党はますます衰えて,かつての社民党の轍を踏む惧れも有り,衆議院で3分の2の勢力を得た政府与党による今後の内政,外交の行方には,怖さすら感じる。」

 その後,2007年の参議院議員選挙での与野党逆転の結果を経て,今回,民主党の「政権交代」のスローガンが実現したのは,民主党への信頼が増したと言うよりも,4年の間に,自民党のオウンゴールが重なったためだと思う。

 選挙結果を受けて,9月5,6日の両日に実施されたというJNNの世論調査では,民主党に投票した人(43%)の8割が「政権交代を期待して」という理由を挙げていて,政権交代につながる選挙結果については,全体の72%(自民党支持層でも46%)が「良かった」とし,新政権に「期待する」が75%(自民党支持層でもおよそ6割)に上っているものの,民主党に投票した人でも,「民主党の政策に共感」は32%にとどまり,「高速道路の無料化」についても6割が反対だという。

 ここに,今回の選挙の特徴がよく表れていると言えよう。政権交代は望ましい成り行きで,今,自民党に代わって政権を担うとすれば,民主党しか無いけれど,その政策にも疑問な点は多く,民主党一辺倒の選挙結果には,私としては,単純に喜べない思いが有る。

 選挙結果は,「ミーハー」感覚で左右されるところが大きいようだ。政党もそれを意識して,人気取り的な方策で盛り上げを図り,マスメディアのセンセーショナルな扱いがそれに拍車を掛ける。「風が吹く」という表現が使われ,世論調査の結果なども,そのときの気分で浮動しやすい。今は,「ミーハー」が社会を動かしていると言っても過言でない世の中だと感じる(7.21「『ミーハー』の時代」)。

 9月2日付の「朝日新聞」で山崎正和さんが述べている。

 「私は日本社会に広がる『リーダー無きポピュリズム』が今回の結果を生んだと見ています。」(山崎さんは,ここでの「ポピュリズム」を,「ある問題を、主として否定することをテーマに、大多数の人がムードに乗って一気に大きく揺れること」と定義する。)「一人ひとりが熱狂的だとファシズムになりますが、そうでなくても、互いに影響しあうことで全体では熱狂的な結果が生まれる。それがポピュリズムの特徴です。」 と言うのだ。

 そして,「(現在の電子メディアの普及による情報入手は)非常に速いものの、断片的であることが特徴的で」,「じっくり考えるよりも、すぐに反応する、すぐに断定する。何でも二者択一で考える。そういう社会に進んでいるように私には見えます。これは、進行中の活字離れと裏腹の流れでしょう。」 と分析している。

 「新聞や雑誌など活字を待たないとわからない」「背景や構造」に思いを及ぼすことの少ないミーハーが大勢を占める,ポピュリズムの流れだと言えよう。

 選ばれた議員の側にも問題が在る。選挙での大勝に伴い,民主党の新人議員が輩出し,前回の選挙で「小泉チルドレン」と呼ばれた自民党の新人議員の数をはるかに上回っている。中でも若い人の数が際立つ。20〜30代の民主党新人が48名(前回の自民党新人は20名),40代では50名(同34名)に上る。30代の自治体首長も各地で出ている時代だし,若い人たちが議会に新風を入れることも期待できるけれど,単に,比例区での数合わせで当選した人も無いではなかろう。政治主導を唱えながら,真に民意を汲んで政策を立案する力や見識を持った人がどれだけいるのか,新人の大量当選で,政策秘書の数も不足しているという中で,執行部や紐付きの秘書の言うがままに動くだけの,文字どおりのチルドレンでは,政治の先行きが危ぶまれる。まして,20〜30代では,高齢者の置かれた立場や気持ちは実感できないのではなかろうかと案じられる。

 前回の選挙のときの感想の中で,当選した議員の中での松下政経塾出身者の数を挙げているので,今回の結果をそれと対比してみると,前回の28名(うち新人5名)に対して今回は33名(うち,新人10名と元職4名の全てが民主党)となっている。党派別では,民主党が27名(前回は15名),自民党6名(同13名)だ。ちなみに,新人10名のうち5名が30代(前回は,自民党の2名で,今回は2名とも落選)で,逆転した全体の党勢を反映しているのは当然のことだが,松下政経塾の設立趣意書に触れて,「松下政経塾で『育成』された彼らが,どのような『国家の未来』を開いて行こうとするのか,気に掛かるところだ」と述べたことを,今回も繰り返しておこう。(2009.8.31〜9.13のBlog収録記事を基に加筆)