「国語」試験問題の作り方
Private Journal『SAY』 No.28〜41(1999.3.14〜6.13)連載
目 次
はじめに−−試験は出題者と受験者との共同作業である。 1.良い文章を見つける 2.漢字=語彙を問う 3.語句の意味を問う 4.文構造を問う 5.文の連接関係を問う 6.指示内容を問う 7.文意を問う 8.気持ちを問う おわりに
☆ ☆ ☆
はじめに−−試験は出題者と受験者との共同作業である。
「談義」という語がある。辞書には,「物事の道理をわかりやすく説き聞かせること」と記されている。最近の自分を振り返って思うに,いま私は,老齢にさしかかって,「談義」をする相手を欲しているという気がする。子どもやその家族と一緒に暮らしていれば,子や孫を相手に「人生談義」をする年齢になっているのだ。
そこで,私が長年携わり,今なお関わりを持っている国語教育について,「試験問題の作り方」という形で,いささかの「談義」をしてみたいと思う。現在の教育制度の下では,試験は,教育の出発点であり,到達点でもあり,教育者としての意識が最も直接的に表れるものだと思うからだ。さらに願わくは,学習者にとっては学習のポイントを知るための手掛かりとなり,指導者にとっては指導のあり方を見直すための参考になってくれれば,望外の幸せである。
* * *
振り返って思えば,私は,30年に近い国語教師としての生活の中で,何百という数の試験問題を作ってきた。平素の考査問題はもとより,入学試験問題の作成にも何度もかかわってきたし,逆に,受験生を指導する立場や作問上の必要から,大学や他の中・高等学校の入学試験問題にも数多く触れてきた。試験というものは,作る側も受ける側も苦労するものであり,特に受ける側としては,試験に対して辛い思い出やいやな印象を持っている人も少なくないはずである。
しかし,私が経験を通して思うことは,試験問題を作るということは一種の創造行為であり,それに答えることは出題者と受験者との意思の疎通であって,言わば,試験は出題者と受験者との共同作業だということである。
それは,読書における著者と読者との関係に似ていると言えよう。著者は自分の知識や経験に基づいて心情や見解を展開するが,知識や経験に差のある読者に対し,対象とする読者に応じて,できるだけ十分に理解してもらえるような表現上の努力が必要である。その努力がなければ,著作は一方的で独善的なものに終わってしまう。読者はまた,その著作に接しようとするからには,自分の知識や経験に基づきながら,著者の知識と経験に近づく努力をして,著者の言わんとするところを読み取り,それを自分の知識や経験に加えていくことが肝要であり,それが読書の効用と言えるものであろう。両者の意思の疎通ができたとき,著者と読者との共同作業としての読書が成立し,それを可能にする著者と読者とが,良い著者であり良い読者であるということになる。
これと同様に,試験問題は,試験の目的と,対象となる受験者に応じた内容であるとともに,出題者の意図が十分に伝わるような問い方のくふうが必要であり,意図の明確な問いが良い問いである。答えとして求めているものが明確でない問いは,受験者を惑わせるのみで,妥当な結果をもたらさない。試験が読書と違うところは,読書の場合,独善的な文章であると感じれば,読者は途中で読むことを放棄できるが,試験では,受験者は放棄するわけにはいかないというところである。
数多くの試験問題に触れてきて,私が強く感じることは,出題者の側が独善的になりやすいということである。その1は,出題者は,材料にした文章の理解の仕方の面でも,問い方の面でも,ややもすると自分だけの思いこみに陥り,求めようとする答えに予断が生じやすいものであること,その2は,作問をしなければならないという意識が先行して,問う必要のあることかどうかという吟味が十分になされていないものがあることである。出題者はこれらを十分に自戒して,独善的な問いにならないよう,検討を重ねなければならない。
まして入学試験の場合,受験者にとっては,自分の力を示すことのできる1回きりの機会であり,選考者にとっても,日常の情況についてまったく知らない受験者の力を,1回きりのペーパーテストで判断しなければならない場面である。受験者が惑い,そのために失敗したり,持っている総合的な力が発揮できず,偏った一面しか示されなかったりするような問題であってはならない。
加えて,入学試験は,学校側がその教育方針に適合する生徒・学生を選抜するだけでなく,みずからの教育姿勢を示すもので,すでにその段階から,入学が見込まれる生徒・学生への教育が始まっていると考えるべきである。当然そのことをも考慮した教育的な出題でなければなるまい。
大学入試の時季になると,例年のようにいくつもの出題ミスが報じられるが,その要因としても,出題者の思い込みや独善性があり,検討不足が挙げられる。教育姿勢の上であってはならないことのはずである。
また,日常的な考査の場合には,学習者の意欲を殺がないためにも,受験者の学力に合った目標中心の出題であることが必要条件となる。ここでも出題者の独善は排されなければならない。日常的な考査は,一方的な評価のためではなく,学習者が学習に向かうための動機づけと,指導者としては,指導内容の定着度の確認と反省のためのものであることを,常に認識し自覚する必要がある。
一方受験者としては,どのような試験の場合でも,常に十分な注意力を働かせて,出題者の意図を読み取ろうとする姿勢が必要になる。たとえ,出題された文章の内容はよく理解されていたとしても,問いに応じた答えでなかったならば,試験の解答としては正答と認められない。出題者との意思がつながらなかったことになる。出題者と受験者との意思が疎通したうえで的確な答えが得られたとき,出題者,受験者ともに,試験を通じて満足の喜びを味わうことができる。試験もまた,達成の喜びを目指す教育の一環であるはずである。
それでもなお受験者の力が及ばない場合が起こるのは,試験というものの性格上やむをえないことであるが,問いの内容と問いかたとが十分に吟味されたものであれば,おのずから公正妥当な結果が得られるものであると信じたい。到達目標に応じた客観的妥当性,信頼性が,試験とそれによって下される教育評価の基本であることは,言うまでもない。
試験制度の是非について論じ始めれば,話はまた別のものになるが,今は,試験をおこなうことを前提として,私はどういうことを心がけて問題を作ってきたか,どういう問題が良い問題だろうか,また,悪い問題の例は,などということを,取り上げていきたい。「国語」の試験という側面からの私の国語教育論の実践的な一端ともなろうかと思う。
1.良い文章を見つける
学校では毎年度の初めに,年間の予定にしたがって,入学試験をはじめ各学年ごとの実力テストや模擬試験の作問担当者が,それぞれ複数のメンバーの組み合わせで決められる。決められた担当者は,そのときから,気持ちのうえでは問題作りが始まることになる。
国語科の場合,問題作りは,出題するのに適切な文章を見つけることから始まる。出題のしかたはいろいろあろうが,やはり,ある程度の長さとまとまりを持った文章について,文脈をとらえながら,その部分と全体とを読み取り,答えとして表現することが,試される国語力として必要であると考えられる。そこで,この文章を用いることによってどのような問いが考えられるかという,いくらかの予測を念頭において,数多くの文章を幅広く読み,出題にふさわしい文章を探すことになる。
出題にふさわしい文章の条件としては,
などが考えられる。
さらに,入学試験問題の場合には,公平を期するために,
という条件が加わる。
これらの条件を満たす文章を探すということが,実はたいへん難しいことであって,文章を読むということについての作問担当者の経験の幅の広さと見識とを問われることでもある。逆に言うと,中学生や高校生の国語力を問うのに真にふさわしい良い文章は,思いのほか少ないということにもなる。
したがって,出題に用いるのに最もふさわしい文章を見つけるということに,作問担当者はぎりぎりまで時間をかけることになり,「これだ!」という文章が見つかれば,問題は半ばできあがったと言っても良い。「百里を行く者は九十里を半ばとす。」(「戦国策」)ということばがあるが,作問に関しては逆で,適当な文章が見つかったところで,問題の見通しが立ったことになる。あとはその文章を繰り返し読んで,出題するにふさわしい部分を確認し,さらに発見していく。「読書百遍,義自ら見る」で,繰り返し読んでいるうちに,思いがけない良い問題になる部分に新たに気づくこともある。
しかし,その段階になって,深く読み込んでみると,もう一つもの足らないと感じたり,ふさわしくないことに気づいたりする場合もある。そうなれば,また一から出直すしかない。
日常の学習範囲に基づく考査の場合には,文章を探す必要はないが,やはり,試験という物理的な条件を考えると,学習範囲の中からどの部分を出題内容にするかということが,作問に当たっての要件になる。学習範囲の内容を最も集約的に表している部分で,いろいろな角度からの問いが可能になる部分を抜き出して,出題文にしなければならない。一度学習した文章だから,文章をこま切れにした出題でもかまわないという考え方は,私は採らない。試験問題として出題するからには,出題部分自体の文章の完成度を求めたい。したがって,ここでもまた,適当な出題部分が決まれば,問題は半ばできあがったことになる。
そこで,私が生徒たちに言ってきたことは,学習した文章の中からどの部分が出題されるか,予測してみよう,「ヤマをかける」ということばは,良くない意味で使われることが多いが,どの部分が出題されるかということを予測することは,その文章で学習した内容がどれだけ読み取れているかということと深く関連しているのだ,ということである。
また,夏休みなどの宿題として,逆に生徒たちが自分で,図書や新聞などから文章を選んで,試験問題を作成するという課題を出すことがあった。これは,文章を問題意識を持って深く読み取る力を付けるとともに,出題者の立場に立って問題を考えるということで,試験を受ける側として問いの意図をとらえる力を付けるうえでも効果的な学習であると考えている。そして,提出された「作品」は,平素の私の出題のしかたを見習って,手を加えれば入学試験にでも使えそうな,なかなかよくできている問題も少なくなかった。
ところで,「国語」の試験は,言うまでもなく受験者の国語力を確認するためのものであるが,それでは「国語力」とはいったいどういうものであるのか,明らかにしておく必要がある。文部省による指導要領には,いろいろな項目があげられているが,詮じつめれば,次のことがらに絞られると考える。
「国語」の試験は,これらの力とその基礎になるものとして必要な知識についての学習の成果を確認できればよいのであって,それ以上の何ものも必要ではない。いわゆる難問奇問のたぐいは,単に点数を競うだけのものであって,社会生活の上で必要とされる国語力という点では,何の意味も持たないものであると考える。
したがって,良い文章を見つけるということは,これらの力を判定するために使える適切な文章を見つけるということであり,良い問いとは,受験者がこれらについて自分の持っている力を発現できる,妥当性,客観性を備えた問いであるということになる。美味しい料理を作るためには,良い素材と,その素材を生かした調理法とが必要であるように,試験問題には,良い文章を選び,それを深く読み込んだうえでの適切な問いを作ることが,欠かせない条件となる。そして,素材を選ぶ目と素材を生かした調理法とは,料理人の見識と腕とに関わることなのである。
2.漢字=語彙を問う
人の言語的認識や思考は,語彙を使っておこなわれる。語彙を持たない赤ん坊は,おなかが減っても,どこか痛いところがあっても,おむつが汚れていても,それを自覚的に認識できないので,不快を訴えてただ泣くだけであるが,語彙を獲得していくとともに,さまざまなことがらについての認識や思考が可能になってくる。
人の成長過程の中で,幼児期における語彙の習得量ほど飛躍的なものはないが,これは,両親を初めとした周囲の人々が,日常生活の中で繰り返し幼児に話しかけることによるもので,言語の習得が経験の積み重ねによるものであることを如実に表している。しかし,幼児期を過ぎて,書きことばの習得の段階になると,そのような自然な形での語彙力の上昇はあまり期待できない。主体的・意図的に経験を積み重ねる必要が生じてくる。
話しことばと書きことばとの間には,使われる語彙の上でかなりの隔たりがあり,少し複雑な思考や心情の把握と表現には,書きことばの語彙が欠かせないのが,日本語社会の現状である。平易な表現を重んじるという点では,書きことばを話しことばに近づけることも必要だが,一方,語彙の量が少ない段階ではごく日常的で単純な思考しかできず,言語的認識・思考の深浅は,身につけている書きことばの語彙の量によって決まると言える現状では,話しことばの内容を深めるために,話しことばを書きことばに近づける方向での「言文一致」もまた必要であろう。
ともあれ現状においては,書きことばの語彙力は言語的思考力の基本となるものであり,「国語」の試験でも,問われなければならないことの一つである。
日本語の場合,書きことばにおける語彙の構成は漢字が中心になっているので,語彙力は漢字の知識と深く結び付いている。漢字についての試験は,とりもなおさず語彙力を見るものであって,それ以外のものである必要はない。そして,語彙は文脈の中で具体的な意味を持ってくるものであるから,文脈の中で漢字を的確に使いこなすことができて,初めて語彙力として認められるものになる。
学校教育の場で,漢字の練習やテストが,単語の形でおこなわれたり,作られたごく短い文の中の語として問われたりすることがよくあるが,そういう形で学習した漢字は,語彙として日常的に使いこなせるものにはなりにくく,その場限りのもので終わってしまうことが多い。練習のときと違う順序や違う文脈の中で出題されると,覚えたはずの漢字が答えられない生徒が少なくないのは,漢字の学習が機械的におこなわれていて,語彙として身についたものになっていない場合である。
子どもが書きことばとしての語彙の習得段階になると,ある時期から停滞が生じ,言語的思考力が高まらない要因ともなるのは,話しことばの語彙と違って,文脈の中の具体的な場面で経験される回数の少ないことに原因がある。
語彙は,具体的な使用場面で経験したものを,自分自身の思考や表現のうえで繰り返し使うことによって,初めて身についたものになる。そして,漢字は,表意文字であるということからしても,語彙として使えることを第一に考えなければなるまい。あらためて意味を問うまでもなく,漢字についての試験には,語彙としての理解度が現れるものであり,出題もまたそういう観点で考えればよいと思う。
私は,慣用句などの場合を除いて,試験で漢字を問うときは,必ず文脈の中で問うようにしてきた。平常の学習内容の考査の場合には,出題文として抜き出した文章の中の語について問うのみでは,学習範囲の一部分の語に限られることになるから,漢字だけは,学習した全体から,語彙として使いこなせるようになってほしいものを抜き出し,それらを使った文章を別に作って出題するようにしてきた。
漢字の力をつけるために,便宜的に,市販されている漢字の練習帳のようなテキストを使用した場合でも,確認のためのテストは,そこで覚えた範囲内の漢字を語彙として使った新しい文章の中でおこなうようにする。生徒たちに多い当て字や同音異義語のまちがいも,表意文字である漢字を語彙として文脈の中でとらえていく習慣をつけることで解消していかなければならないと考える。
また,正しく書けることを確認するための漢字の問題では,画数の多い複雑な字は問わないことにしてきた。問う範囲の一つの目安としては,1981年内閣告示の常用漢字(1945字)というものがある。それ以外の複雑な字は,語彙として使えることは必要だが,読めて意味が理解できればよく,自分で使おうとする場合には,その都度,辞書を引けばよい。私自身,今でも,自信が持てないときは必ず辞書で確かめるようにしていることで,覚えることよりもむしろ大事なことは,常に辞書を引いて確認する習慣である。
ワードプロセッサーの普及によってみずから書く機会が減ったことが,漢字を書く力の衰える原因として指摘されることがあるが,逆に言えば,日常的に使える漢字の量はワープロによって増大したということにもなる。要は,ワープロに打ち込むことのできる身についた語彙の知識の量と,それが文字として打ち出されたとき,正しい文字づかいになっているかどうかを確認できる力をもつことである。
中学生を対象とする高等学校入学試験問題で漢字を書く力を問う場合,私は,問題の作成に当たって,義務教育期間中に習得することが求められている教育用漢字の範囲をかたくなに守ってきた。字数に限りがある(996字)ので,出題文の文中からとりあげようとすると,問いが作りにくいということもあるが,それも,語彙としての漢字という考え方に立って,たとえば,文中のことばを漢字の熟語で言い換えさせたり,文中の漢字を使った他の語彙を答えさせたりするなど,出題のしかたをくふうすることで解決できることである。
漢字のテストという面に限って言うと,いたずらに難しい漢字が書けるということよりも,日常的に使われる文字をいかに正確に書くかということのほうが大切であると思う。一点一画にまで細かい注意を払い,漢字を正確に書くという習慣をつけることによって,ことばに対する注意力が養われる。また,形の似ている字や同音異義字をまちがいなく使い分けられる注意力も必要である。細部までの注意力を働かせるということは,漢字の問題にとどまらず,文章の読解と表現のすべての面にかかわり,特に試験では,得点を左右する重要なことである。解っていながら,細かい注意力の不足で得点にならないという場合も多く,受験生にとって集中力・注意力・緻密さは,日常的に養っておかなければならないものである。そのためにも,漢字を注意深く書くという習慣をつけることは,一つの訓練として役に立つ。
また,同一の集団を対象にした漢字のテストを繰り返していると,漢字の書き方を通して,そのときどきの個々の生徒の心理状態まで見えてくることが多い。いつもと比べて注意力が粗雑になっていると感じて声をかけてみると,暮らしに問題を抱えていることが分かってそれに対応できたりすることもあるし,このごろ緻密さが増してきたと感じられることがあると,それは必ず他の場面でも成長として現れてくるということを経験している。 教育とは,人としての総合力に関わることで,漢字一つをとりあげても,語彙を使って思考する,語彙を使って表現する,語彙を通して理解する,という言語生活の基本につながるということを根底に置いて考えなければならない思っている。
3.語句の意味を問う
語句の意味には,一般的(辞書的)意味と文脈の中での具体的な意味とがある。一般的な意味を知ったうえで,文中で筆者が具体的にどういう意味を表そうとしてその語句を用いているのかということが理解でき,自分もまた,具体的な文脈の中でその場面にふさわしい的確な語句の使い方ができてこそ,文章の理解力・表現力につながるものになるということは,漢字による熟語だけでなく,すべての語彙・語句について言えることである。具体的な文章から切り離された語句の知識では,かえってとんでもない誤解の原因になったり,慣用句の誤用などに見られるように,不自然な使い方をしたりすることになりやすい。 したがって,試験で語句の意味を問う場合にも,文脈の中で具体的な意味を問うことを第一にしたいが,その場合たいせつなことは,問うているのが一般的意味であるのか,あるいは,具体的意味であるのか,問いの意図を明確に示すことである。
答えの求め方としては,「意味を説明しなさい。」 という端的な問い方もあるが,それではさまざまな答え方が出てくる可能性があり,答えにいわゆる「揺れ」が生じるから,採点上の苦労を避けようとする場合は,選択肢を用意して,「次の中から最も適当なものを選んで符号で答えなさい。」 とするか,具体的意味を問う場合であれば,「文中の他の語句を使って説明しなさい。」 または,「共通する意味が表されている部分(語)を文中から抜き出して答えなさい。」 という問い方も考えられる。
読者に対して自分の見解や心情を十分に理解してもらうために,別のことばで言い換えたり(換言),具体例をあげたり(例示)して説明する場合や,表現に変化を与えようとして,同じ語を繰り返し用いることを避け,類義語を用いることは,筆者の立場として当然多くなることであるから,その換言部分をとらえることは,特に論理的な文章では,読解のうえでも重要なポイントになる。また,比喩で表そうとしている意味内容を的確にとらえることもたいせつである。
ここで,選択肢を作る場合,私が原則としてきたことについて触れておくと,選択肢の数は最低4つ以上,それぞれの選択肢の字数の差が2字以上にならないようにするということがある。
国語試験問題に対する痛烈な風刺が盛り込まれた清水義範氏の小説『国語入試問題必勝法』には,選択肢問題に対処する方法として,「長短除外の法則」ということが挙げられている。「いくつかの選択肢のうち,文章の一番長いものと,一番短かいものはまず読むまでもなく除外してよい。」 「つまり,受験者をひっかけようとして出している問題なのだから,文が異様に短かいとか,逆に長いとかいう,目立つところには正解を置きたくない,といういうのがむこうの心理なのだ。」 というわけである。もっとも下手な作問者だと,正解に意を尽くしたくなるために自然にことば数が増え,最も長いものが正解であるという例も,よく見かける。私に言わせれば,選択肢は,受験者に対して,いずれも正解の可能性があるものとして提示しているのだから,長さに差があるはずがないということになる。したがって,選択肢の長さは本来等しくなければならない,というのが私の考え方である。問題の体裁としても,整って見える。
もう一つ,選択肢を並べる順序のうえで,正解が何番目に置かれている確率が最も高いかという,これも出題者の心理に触れた受験技術?に類する説を見かけることがあるが,私は,機械的にそれぞれの選択肢の文頭の語の五十音順で並べることにしている。へたに意図的に並べるよりも,五十音順に並べるのが最も自然であると思うからである。
文中で使われている語句の意味の理解は,筆者による表現の理解であるとともに,自分自身がいかに的確な語句を使って表現することができるかという表現力にも関わってくるものである。そこで,文中での語句を問う問題には,空欄に「最も適当な語句」を入れる「空欄補充(穴埋め)問題」となる場合が多い。
この場合,選択肢形式になることがほとんどだが,その際,作問者が注意しなければならないのは,原文を知っている作問者の側に予断があるために,これが正解だという思いこみに陥っていないか,「受験者をひっかけようとして」作った誤肢が考え方によっては正解となり得るものではないかということを,十分に吟味することである。事後にそのことに気付いてどちらも正解とする処置が取られることが大学入試などでも見受けられるが,それで解決できることではなく,その問いに答えるに当たって受験者を迷わせ,無駄な負担をかけた罪は大きいと言わねばならない。「答えが揺れる」問いの最大の問題点は,採点処理の難しさにあるのではなく,受験者をいたずらに迷わせることにあるということを,銘記しておかなければならず,これはすべての種類の問いに通じる重要な留意点である。
4.文構造を問う
文構造をとらえることは,文意を正確に読み取るために欠かせないことである。
私は数年来,ボランティアで視覚障害者のための音訳の仕事に関わっているが,視覚障害者にとって,耳から聞くだけの文章が分かりやすいものになるためには,語の意味が分かりやすいことと併せて,文構造が分かりやすいことがたいせつで,そのことを心がけて読むことが音訳の基本になると思っている。すなわち,文を構成する成分としての主部・述部・修飾部・接続部・独立部をそれぞれ明らかにする読み方である。
また,常に文構造を意識して読み書きすることが,論理的で明快な思考と表現をしていくための基本になることであると思う。したがって,「国語」の試験で文構造に関して問うことは,読解の面でも表現の面でも必要な基本的な力の一つを問うことになる。
文構造に関する問いには,いくつかの形が考えられる。
ところが,文構造に関して問われている試験問題に目を通していると,問うに当たって,出題者自身の文構造についての意識・概念があいまいであると思われる問いに出合うことが少なくない。これは,現在の学校教育の中で口語文法について体系的に教えられるのが中学校段階のみで,それも品詞論偏重であるということに問題点がある。論理的な思考力が未熟な中学生の段階では,文法理論を十分に理解することが難しく,特に品詞論は無味乾燥なことに思われて,文法嫌いを生み出す。そして,高等学校では口語文法を通り越して文語の解釈文法にはいってしまい,大学でも体系的に教えることは少ないので,高等学校の国語教師自身が,特に関心を持っている者の外は,口語文法の理解が不十分であるということになる。
文構造を問題にするには,まず,「語(単語)」・「文節」・「連文節」それぞれについての概念を明確にする必要がある。
文法的な意識を必要とする「国語」の試験問題においては,「語」とは「単語」であり,単語を指すことのほかで「語」ということばを用いるのは避けなければならないと考えるのだが,現実には,あいまいな意味で「語」ということばを安易に使用している例を見かけることがある。
たとえば,現代文では,「主語」は主格を示す格助詞やそれに代わる副助詞を伴っているのがふつうだが,「主語」を問うのに「文中の語で答えよ。」 という問いがある。また,文構造に関する問いではないが,文中で使われている「多彩な」というようなことばについて答えさせようとするとき,「漢字2字の語を文中から抜き出せ。」 という問い方をしているものがある。橋本進吉博士の学説を基にした現在の学校文法では,「多彩な」は形容動詞に属し,活用語尾を含めて1語とするものだから,厳密に言えば,「漢字2字の語」では答えは出ない。私は,厳密に「語」とも「文節」とも限定しない場合には「ことば」と表すことにしている。
もともと「主語」「述語」「修飾語」など,文節を単位とすることばの文中での働きを表す呼称に「語」を用いること自体が,混乱のもとであるように思う。これは,文中での格によって語自体が変化したり,文中での語の位置によって格を表す外国語の文法概念を日本語の呼称に持ち込んだためではないかと思う。文節という概念を明確にするためには,「主節」「修飾節」とでも改めるとよいのではなかろうか。
また,係り受けの関係を問うときに比較的多く見受けられるのが,「文節」と「連文節」との区別があいまいなことである。特に補助語を伴った連文節の扱いがあいまいであることが多い。「よく内容がわかっている。」 という文の「『よく』は直接どこに係るか。」 という問い方では,「わかって」を答えるのか,「わかっている」を答えるのか迷わされるし,ときには,「文節で答えよ。」 とあって,正解例を見ると,「わかっている」になっている場合もある。この場合は,面倒でも,「補助語を伴っている場合は連文節で答えよ。」 と明示するべきであろうし,「文節」であれば,正解は「わかって」でなければなるまい。逆に「いる」を正解にしている例さえ見受けることがあるが,これは,「文節」の理解はあっても,「補助語」の理解ができていない場合である。また,さらにこれが,「よく内容はわかっているが,」 と接続部になっているような場合,接続助詞の「が」も文節または連文節に含まれるはずだが,その点もあいまいなのではないかと思える問いに出合うことがある。
文節と連文節とのはっきりした区別という点で言うと,文中の主語や述語について問う場合なども,文節で答えるのか,連文節で答えるのかを明確に指示する必要がある。特に,形式名詞に付属語が付いて主格となっている文節に修飾語が係っているような場合,読解力を見るための試験としては,連文節で答えることを求めているはずで,そのことを問いの上で明らかにしなければなるまい。「主語・述語」は文節を単位とする呼称であり,連文節を単位とするときには「主部・述部」という呼称を用いるという明確な定義づけも必要であろう。
文節という概念に関連して触れておくと,視覚障害者のための点字の分かち書きのルールは,固有名詞や複合語の例外的なものを除いて,基本的には文節で分けることになっている。ここでも「文節」についての理解が必要であり,役に立つ。
5.文の連接関係を問う
文章を読むということは,文脈をたどることであり,言わば,目的地に向かって道を歩くようなものである。道には曲がり角があり,曲がり角には道路標識があり,信号がある。あるいは,道をたどるための目印となる建造物がある。文章の道すじもそれと似ている。文脈は,文と文との連接によって成り立っているわけだから,文や段落のつなぎめが曲がり角に当たり,そこで標識や目印によって道すじを見極めることが必要になる。また,目的に向かって最短距離をたどる道すじもあれば,あちこちと寄り道をしたり同じ道を繰り返し歩いたりして散策する場合もある。そこで,著者の示す道すじをまちがいなくたどることができるかどうかということが「国語」の読解力を見る試験の要点になる。
文脈を示す指標として重要なものに,接続語,指示語,助動詞・助詞があり,また,語句の反復や言い換えがある。したがって,文脈の理解を問おうとするとき,これらに関する問いが必然的なものとして,基本的な出題パターンの一つになる。直接これらについて問わない場合でも,文脈を示す指標に着目し,それに基づいて文脈をとらえられていることがその問いに答えるための要件となるものも多く,それらを含めれば,読解力の試験内容の大半を占めるものが文脈に関する問いであることになる。このことは,文章を読むことが文脈をたどることであるということからすれば,当然の結果でもある。
文脈に関する問いの第一は,文と文(段落と段落),または,文中の部分と部分の間の連接関係についての問いである。問いの形としては,空欄に適切な接続語を入れる「空欄補充(穴埋め)問題」と,連接関係自体を問うものがあり,さらに,接続語に関してどの部分とどの部分とをつないでいるのか,連接関係の及ぶ範囲を問うことも考えられる。
連接関係を表す呼称や分類のしかたは,教科書や参考書によって異同があるが,総合すれば,次のように大別され,それぞれに対応する接続語が考えられる。
日本語の文法における文章論の分野は,語論や文論の分野と比べると比較的歴史が浅く,学校教育の現場においても,語論や文論のほうに重点が置かれがちであるが,「国語」を科学として取り扱う上では,語論や文論にもまして文章論は重要であり,連接関係を考えることは,その一つの基点となる。
ところで,余談になるが,論理の進め方には「だから型」と「しかし型」とがあり,人にも,「だから型」の人と「しかし型」の人とがあるように思う。「〜だから,〜だから」と論理を進めていく人は自己主張の強い直線型の人であり,別の考え方もできることをいったんは認めたうえで,「しかし,〜」と自分の考え方を示していく人のほうが,他人を説得する強靭さを備えているように思える。
さて,「国語」試験で接続語を直接問う場合は,「空欄補充(穴埋め)問題」にすることが多いが,その際注意を要することは,先の項でも述べたように,出題者の予断とは別の考え方による他の答えもあり得るのではないかということを十分に吟味しなければならないということである。後続の部分の表現しだいでは,順接でも逆接でも連接関係が成り立つ場合もあり,また,「そして」という接続詞は,累加・並列を示すだけでなく,展開を示す場合にも使うことができるので,注意を要する。「しかし」と「けれども」のような同じ系統に属する接続語を使い分ける場合は,その必然性を十分に検討しなければならない。
概して空欄補充問題は,問題にしやすいので,作問者としては安易に問題にしがちであるし,先に原文が存在するので,先入観にも陥りやすく,警戒を要する。十分な必然性と妥当性があることを見極めたうえで初めて問題にすべきである。また,近接する場所に接続語の補充と語彙などの補充とを重ねることも,受験者にとっては,文脈をとらえ難いことになるので,避けるべきことである。
次に,連接関係自体を呼称で問う場合は,その呼称が表している意味を受験者に十分理解させる配慮をしなければなるまい。単に選択肢として呼称を並べるのでなく,連接関係を説明する文の形で選択肢を作ることも考えられなければならない。
6.指示内容を問う
指示語についての問いもまた,連接関係に関する問いと並んで,文脈をとらえるうえでの基本的な問いである。指示語が指示する部分としては,前出した語を指示する単純な場合から,語の群,文,文の群(段落)までさまざまな場合があり,前出した部分とは限らず,後出する部分を指示していることもある。また,文面から読み取れる文意や,文面の外にある内容を指示する場合もある。それらを的確にとらえていくことが文脈を論理的に把握するうえで欠かせないものとなる。
指示語についての問い方は,「指示している部分(ことば)を文中から抜き出して答えなさい。」 という形と,「どういうことを指示しているか答えなさい。」 または,その変形として,「解答欄に示したことばに続く形で答えなさい。」 という形との2つに大別できる。前者は,文中からそのままの形で抜き出すことで指示内容として当てはまる場合だが,後者は,そのままの形では指示内容として的確な表現にならないので,語順を変えたり,適切な語を補ったりしなければならない場合である。また,文面から読み取れる文意を答えなければならない場合も,こういう問い方になる。それらの場合は,指示語が指示している部分を押さえたうえで,的確な表現に改めなければならない。数学の代数で等式が成立する数値を文字の部分に代入するように,指示語の部分に代入して,文が整った形で成立する内容を考えることが,「指示内容」の考え方である。
指示内容を考えるに当たって,指示語の部分に代入して,文として整った形で成立するように考えるということでは,指示語には,体言に属する語ばかりではなく,副詞や連体詞に属する語もあるから,副詞であれば連用修飾,連体詞であれば連体修飾の形での意味内容を表していることになる。そこで,「指示語の部分に当てはめて文として前後がつながる形で答えなさい。」 という問い方も考えられる。
そこで,出題に当たって第一に考えなければならないこととして,字数指定ということがある。
指示している部分が単純に語であることが明らかである場合は別にして,指示部分の中核となる語にかなりの長さの修飾部が係っている場合や,文面の内容をまとめなければならないような場合,どこまでの範囲を答えとして求めるのか,範囲に幅が生じる場合が,現実に文章に当たっていると必ず出てくる。これは指示語を問うときに限らず,文意の説明を求めるときなどにも共通することだが,答えとして最低限必要とされる内容と,さらに付け加えればより詳しくなる内容とがある場合があり,私はこれを,答えとしての内容上の「必要条件」と「十分条件」と呼んでいる。
そのような場合,どこまでの範囲を答えとして求めているのかという出題者の意思を表すのが字数の指定である。これがないと,受験者は,どこまでの範囲を答えればよいのか迷うことになる。字数指定があれば,受験者は,制限字数の範囲内でまず必要条件を満たし,さらに余裕があれば十分条件を加えればよいので,採点上の基準もおのずから定まってくる。字数制限のある問いを苦手とする生徒も少なくないが,答えなければならない範囲を示されていると考えれば,字数制限は,受験者にとっても答えやすいことになるはずである。
制限字数を指定しない場合は,「修飾部を含めて答えなさい。」 といった指示が必要になろう。
また,指示語を問題にするとき,その文章の筆者自身がかなりあいまいな意識で指示語を使っている場合もあり,そのようなものを出題者の予断によって問いにすることは厳に避けなければならない。また,客観性を必要とする試験では,いくつかの答えが考えられる問いは避けるべきで,そのような問いは,前にも述べたように,いたずらに受験者を惑わせるものであるからである。いろいろな考え方のできる思考の柔軟性を問うのは,別の場でおこなえばよい。
7.文意を問う
文章の筆者は,自分が述べようとすることを読者に十分に理解してもらうために,言い換えや具体例によってできるだけ詳しく表そうとするものである。また,自分の主張と対立する考え方を対比的に提示し,それを否定することによって自分の主張の正当性を示そうとする。したがって,筆者の主張を確実にとらえるためには,換言部分,例示部分,対比部分に着目しなければならない。これもまた文脈をたどるうえでの重要なポイントである。
そこで,試験では,換言部分,例示部分,あるいは,対比部分をとらえて答えさせる問いが考えられる。
「共通する意味を表している部分を答えなさい。」
「具体例が述べられている部分の最初の5文字を答えなさい。」
「対比的な内容を述べている部分の最初の5文字を答えなさい。」
などの問いがそれである。
このように,換言部分,例示部分,あるいは,対比部分を直接問うこともできるが,1つの文,または,文の一部について,「どういう意味か(どういう理由によるのか)(どうなると言うのか),筆者の言おうとすることを具体的に答えなさい(説明しなさい)。」 という形で,前後の文脈をとらえさせることが多い。その場合,問い方がさらに次のように分かれてくる。
問い方の違いによって,当然,答え方も分かれることになるが,いずれの場合も,換言部分や例示部分に着目しなければならないことに変わりはない。
「自分のことばで」と言われると,文脈から目を離してしまって,原文の文意から離れた自分の考えで答える受験者が出てくるもので,指導に当たって私は,1「必ず文中から関連する部分を漏れなく押さえること」,2「そのうえで,換言部分などに注意し,重複する所などを整理して,すじ道立った,文構造の明快な文にまとめること」,さらに,3「自分のことばで」とある場合は,「あくまでも文脈に即して,それを自分のことばで分かりやすい表現に改めること」という指導を重ねてきた。
逆に言うと,問題にする内容は,文脈から手がかりが得られるものに限るべきで,それ以上のことを問うのは別の場でのことであると考える。
また,ここでも,答えるうえでの内容上の必要条件と十分条件とが考えられるので,説明問題の形をとるときは,出題者の求める答えとしての内容を明確に示すために,制限字数の指定が必要になる。
8.気持ちを問う
「小説の主脳は人情なり。」 という坪内逍遥の『小説神髄』の中のことばがあるが,文学的な文章の本質が人の心の動きの真実を描き出すことにあるのは,今も変わりがない。したがって,文学的な文章を読むときは,描写や会話を手がかりにして,描かれている人の心の動きや性格をとらえることが中心になる。その場合,読む側の精神的な体験が反映することになるし,想像力も必要になる。
他人の立場や気持ちを想像できるということは,人として重要なことである。公害や産業廃棄物の問題,子どもたちのいじめの問題などにしても,その根底には他人に対する想像力の不足があると言えよう。当事者にもう少し想像力があれば,障害者へのバリアフリー対策にしても,もっと早急な具体的進展が見られるのではないかと思われる。今の児童生徒に不足しがちな豊かな感性に基づく想像力を養うことも,国語教育の重要な責務の一つである。
ところで,「国語」の試験で,文学的文章について登場人物の気持ちを問うとき,「最も適当なものを次の中から選べ」という形のものが多いが,人の気持ちというものは,そう単純に割り切って考えられるものではあるまいと,私は思う。寂しさと同時に腹立たしさがあったり,喜びの中に不安があったりするのが,人の気持ちの真実というものである。「最も適当な」気持ちなどという形で,人の気持ちを極め付けてしまうことが,文学を味わううえで必要だとは思えない。このような問いは,えてして出題者の独善的な思い込みによるものであり,当該作品の作者自身が答えられないような問いが,「国語」の試験問題の中に溢れている。
人の気持ちや性格は複雑なものであるということの理解とそれに対する想像力こそが,文学作品を読むうえで重要なことであり,「国語」の分野の中で,人間をとらえることをねらいとする文学的文章の読解学習も,それに沿ったものでなければならないのではなかろうか。
そこで,文学的文章を試験で取り上げて,登場人物の気持ちや性格を選択肢形式で問う場合は,選択肢の内容に行き届いた吟味が必要になり,単純に単語を羅列してその一つを選ばせるようなことは避けなければならないと思う。単語を選ばせるのであれば,むしろ「当てはまらないものを選べ」というような形も考えられる。明らかに当てはまらないものを答えさせるほうが,出題としては妥当ではないかと考える。
文学的文章では,比喩や心象風景も,描かれる人物の心情と密接に結び付いている。その表現によって喚起されるイメージとつながる描写や会話をとらえるほうが,出題者の主観で作成した選択肢から選ぶよりは,その文章内容により迫ることになるだろう。気持ちや性格を問う場合に限らず,一般に,客観的な出題形式と思われがちな選択肢による問いのほうが,出題者の主観的な要素を多く含んでいる場合があるので,注意を要する。
古典を試験問題にする場合,古典もまた文学的文章の一分野であることを思えば,文法的解釈に偏った出題は避けたいものである。日本の古典とは言え,古文を読み慣れない現代の学習者にとっては,半ば外国語のようなものになっている実情では,解釈文法の知識も必要になるが,それはごく基本的なものにとどめ,できるだけ注や現代語訳を補って,文学的享受を進めるようにするべきだと思う。現代文よりは古典のほうが教えやすい,問題も作りやすい,と言う国語教師がいるが,それは,古文を読み慣れていない学習者に対して,知識のうえで上回っていることを一方的に「教え」ようとしているだけだということを表しているように思える。
おわりに
各種の「国語」試験問題に触れる機会が多い立場で,日ごろ気になっていることを中心に,思いつくまま述べてきた。取り上げなかったこと,言い足りないことも多く残っているように思うし,論考であれば,一つ一つ具体例を挙げて説くべきであるとも思うが,これは随想的なものであるということで,今回はいったん終わることにする。
ところで,試験は,「評価」と「動機づけ」のためにあるということは言うまでもなかろう。「評価」は,学習の目標に対する到達度を測るものであり,「動機づけ」は,学習者に学習目標を自覚させ,それに向かう意欲を持たせるためのものである。どちらにしても,はじめに目標があり,試験は,その到達度を測るうえで妥当性と客観性とを持ったものでなければならない。厳密に言えば,目標は個々人によって異なるはずのものであるが,入学試験などで,一定のレベルへの到達度を判別するためにおこなう場合でも,出題者の側に,はっきりした目標の設定とそれに基づく妥当性のある出題が求められる。試験のための試験,問題のための問題に堕してはなるまい。そのためには,日常的な学習指導では,まず目標を設定し,それに基づいて十分に吟味した試験問題を考案し,そのうえで,目標に沿った指導を進めるという方法も考えられてよいと思う。(了)