70年〜80年代雑記帳

群論(1974年4月27日PM6開演、神田共立講堂)
協力=「話の特集」「ニューミュージックマガジン」「キネマ旬報」「面白半分」「NOW」
講談社のフリー記者を中心とする「働く記者の会」が主催し、毎年行われた講演とトークと歌のイベント。
 74年は井上ひさし、野坂昭如、五木寛之、永六輔、大島渚、羽仁五郎、金子光晴、ソンコ・マージュ、長谷川きよし、鈴木いずみ(荒木経惟)、深作欣二、太地喜和子、赤塚不二夫。司会は矢崎泰久。

真夜中からの通信76年にはラジオの深夜放送にスポットを当てた「真夜中からの通信」と題して、10月19日(火)に開催。

出演はかぜ耕士、中山ラビ、宇崎竜童、林美雄、長谷川きよし、高信太郎、タモリ一義、四人囃子、のこいのこ、中上健次、川谷拓三、ソンコ・マージュほか。

大演説会 1973年5月18日PM5.30(金)神田共立講堂
大演説会月刊誌「潮」に夢野京太郎名義で「世界赤軍」を、「話の特集」に「”汎”アジア幻視行」を連載していた竹中労はこの頃、琉球音楽にのめりこみ、嘉手苅林昌独演会を催すなど、多彩な活動を行っていた。この会は主催・巷談舎。
 浅川マキ、永六輔、熊井啓監督、武智鉄二、寺島珠雄(釜ケ崎労働者・詩人)、野底土南(ぬかどなん=琉球独立党)中央委員長、平岡正明、矢崎泰久、嘉手苅林昌ほか。
「のんすとっぷ24時間」(1975年8月13陽AM10〜翌14日AM10、新宿コマ劇場)

 「戦後30年・酷暑・おしゃべりとうたとけんかと」が副題の大イベント。司会は中山千夏。「舞台にトイレを仮設して24時間出ずっぱりにしようか」という案も出たが、さすがに却下されたとか。これほどの顔ぶれが一堂に会するのはおそらく空前絶後。ロッキード事件の児玉誉志夫から竹中労まで右から左まで、よくこんな顔ぶれを集めたもの。


青地晨、赤塚不二夫、阿佐田哲也、飛鳥田一雄、生島治郎、石垣純二、一柳慧、伊丹十三、井上ひさし、宇井純、上田哲、内田裕也、宇都宮徳馬、榎美沙子、小沢昭一、小沢遼子、太田薫、太田竜、大西信行、岡本愛彦、岡本太郎、加藤武、木の実ナナ、紀平てい子、木村武雄、久野収、栗原玲児、黒澤明、黒田征太郎、児玉誉志夫、小中陽太郎、佐々木更三、佐藤允彦、佐藤信、新谷のり子、菅原文太、鈴木志郎康、鈴木武樹、鈴木均、袖井林二郎、田中真理、田原総一朗、高橋晄生、竹中労、立花隆、龍村仁、田英夫、中村とうよう、中村敦夫、野坂昭如、ばばこういち、花柳幻舟、原田奈翁雄、深作欣二、藤本義一、真継伸彦、前田武彦、松岡洋子、松田政男、三上寛、美輪明宏、八木正生、矢崎泰久、山藤章二、若松孝二、愛川欽也、渥美清、青島幸男、五木寛之、伊藤一葉、井上清、植草甚一、加藤登紀子、加納典明、梶芽衣子、篠山j紀信、土本典昭、内藤国夫、羽仁五郎、不破哲三、深沢七郎、丸山邦男、」美濃部亮吉etc。

 物故した方も多いが、当時は「小物」だった田原総一朗が「鳥なき里のこうもり」として現在、メディアを牛耳っているのは今の時代の不毛を象徴している。鈴木武樹、羽二五郎らが生きていれば……。
「赤塚不二夫のステージ・ギャグゲリラ」(1977年3月8日、渋谷公会堂)
 
赤塚不二夫「話の特集」協賛。江波杏子、小野ヤスシ、上村一夫、唐十郎、黒柳徹子、タモリ、中島葵、なぎらけんいち、マルセ太郎、若松孝二ほか。このときやったマルセ太郎のサル、トリの形態模写をタモリがパクッたと思われる。
青い鳥
青い鳥「夜明けの晩といつか来た道」(1976年11月28、12月4、5、11、12日。俳協ホール、前売り800円) このチラシはおそらく初期のものか?
メンバーの名前はもたぶん本名かと思う。葛西萬里=葛西佐紀、木野目るみ=木野花?
 「青い鳥」HPで76年の第二作と判明。
「下谷万年町物語」(1981年2月9日〜3月8日、パルコ劇場)
下谷万年町物語
 唐十郎も蜷川幸雄も若い! 李礼仙(当時)、塩島昭彦、大門伍郎、三谷昇、内藤陳、不破万作、綾小路派手子(誰?)ほか。後に東京グランギニョルに参加する常川博行、今や大俳優の渡辺謙が「新人」としてクレジット。
櫻社第二回公演「盲導犬」(1973年5月18日〜6月9日、アートシアター新宿文化) 当日700円。 
盲導犬澁澤龍彦の「犬狼都市」をもとにした唐十郎の傑作戯曲を蜷川幸雄が演出。
「何故そんなに飢えるのか
俺のファキイル
何故そんなに影をにくむのか 俺の犬」
ここは魚の都
おまえの先祖がつくったミイラの国
ああ いくつかの太陽を喰ってしまった
なまぐさき都
忘れるんだファキイル勝ち目はない
(チラシ惹句)
 石橋蓮司、蟹江敬三、本田龍彦、桃井かおり、緑魔子。研修生役で石井愃一の名前も。
ブリキの自発団第1回公演「ユービック いとしの半生命」(1981年7月5〜14日、下北沢ザ・スズナリホール)
ユービック 劇団魔可魔可解散後に生田萬が作った劇団。銀粉蝶がGINMIの名前でライブ活動を行っていた時代。本多劇場はまだ工事中。蒲生君平、三枝桂、鷺宮テル子が主要メンバー。宣伝美術は羽良多平吉。



「カスパー」(1984年2月24〜29日、パルコ・スペースパート3)
 天井桟敷解散後、若松武が演出・主演した作品。共同演出=浅井隆。音楽はJ・A・シーザー。  
カスパーオモテ カスパー裏
福士恵二、日野利彦ら天井桟敷組に、峯のぼる(東京キッドブラザース)、加納幸和、神宮寺修、西岡幸男が参加。神宮寺修はその後、小松杏里の「演劇舎螳螂」、高取英作品などに参加したが、体調を崩して役者廃業。将来の大器を予感させる逸材だったのに残念。
劇団第七病棟旗揚げ公演「ハーメルンの鼠」(1976年12月10〜25日、東陽町。砂町富士館)ハーメルンの鼠
 廃館になった映画館を劇場として使用。第七病棟の場所へのこだわりはここから始まった。唐十郎のホンを佐藤信が演出。
「江東区砂町、そこは熱病のウィーンだ。廃都に菌をーー。いま第七病棟の患者たちが冥府のアケロン河からさかのぼる。さぁ、聞かせてやろう、お前たちが思い出したくもない物語を。忘れてしまいたいあの物語を」(惹句)
 
 この芝居の小林薫は一世一代の名演技。天井から縄をつたって舞い降りてくるナゾの青年団長。悪漢役がこれほど似合う役者もいないと思ったものだが。緑魔子、石橋蓮司、鈴木両全(早稲田小劇場)ほか。