1月27日(土)雪

 朝から雪が降り続き、東京競馬は中止。大塚・萬スタジオで上演中の月蝕歌劇団の公演に行く。

 居合わせたイラストレーター&漫画家の吉田光彦氏と小一時間、喫茶店で話し込む。最近は作家の高橋克彦氏とコンビを組むことが多い吉田氏は新刊「開封・高橋克彦」(平凡社)でも高橋氏の少年時代をマンガ化している。
吉田光彦  高橋、吉田両氏は共に盛岡市出身。吉田氏の実家は市内で有名な模型店だった。釣り好きということもあって、会うといつも釣りと模型の話になる。
 
「最近、ライトプレーンを作ったんですよ」と言うと、「久しぶりに聞きましたね、その言葉。今はあまり見ませんね」とひとしきり模型飛行機談義。子供の頃、川を挟んでいかに長距離を飛ばすかを競ったり、滞空時間を競ったりしたという。
  
  私の小学校時代も、校内でライトプレーン大会を開催した記憶がある。なぜ憶えているかというと、その時、児童会の書記長(ウワッ、すごい言葉の響き!)だったので朝礼の時間にお知らせを発表する役を受け持ったからだ。

  初めて全校生徒(といっても500人余り)と先生の前に立って胸はドキドキ、足はガクガク。それでも、後から担任の先生が「滞空時間なんていう難しい言葉をよく調べてわかるように発表したね」と誉めてくれた。豚もおだてりゃ木に登る。B型は誉めて伸ばせってね。

閑話休題。

 吉田さんの絵は繊細で官能的。昔から大ファンだった。柔和で東北人らしいシャイな雰囲気を漂わせる吉田さんと共通点を発見。「実は泳げないんですよ。寺山さんもそうでしたね……」
 あっ、でも私は最近50メートルは泳げます。……これって泳げるうちに入らない?
1月23日(月)晴れ
 
 反骨の人

 
朝刊でヴォードビリアンのマルセ太郎さんが亡くなったことを知る。長い間、がんと闘い、残された時間がないのは知っていたが、とうとうこの日が…。

 マルセ太郎の芸を生で見たのは20数年前。どこかの劇場のバラエティーショーでのこと。まだ無名のタモリが同じ舞台に出ていた。その後、一時期、タモリがニワトリのモノマネをやるようになったが、それはこの時、マルセ太郎のやったモノマネ芸をそのままマネしたのだった。
 
 86年頃、飲み仲間だったM社Hさんがマルセ太郎と親しくしていて、「スクリーンのない映画館 映画まるごと再現芸」をプロデュースした。取り上げたのは小栗康平監督の「泥の河」。大竹まことのシティボーイズとのジョイントだった。当時あまり売れていないシティボーイズが前座でおしゃべり。お客は50人ほど。

 終わった後、マルセ太郎の奥さんが経営していたスナックで打ち上げ。同席した雑誌編集者のK君と知り合い、2年後、彼に誘われ、「宝島社」(当時JICC出版局)発行の演劇単行本のメンバーに加わった。縁とは不思議なもの。

  マルセ太郎は在日朝鮮人二世。かつてはサルのモノマネで一世を風靡したヴォードビリアン。晩年は「映画まるごと再現芸」や自身のプロデュース公演で高い評価を受けていた。著書「芸人魂」「奇病の人」は無類の面白さだ。

 眼光鋭く、その筋風のいかつい顔。しかし、やさしかった。片方の耳が不自由なので、話し掛けても何度も聞き返されて困ったこともあった。子供の頃から差別と闘って来たためか、徹底した権力嫌い。「反骨の人」ーーその言葉が似合う芸人だった。
 毒舌で反権威を装うが、その実、ガチガチの権力志向で骨がらみの保守おやじ・北野某とはそこが違う。

 1月22日(日)晴れ
  

雪融け道


  
昨夜から明け方にかけて雪が降る。しかし、融けるのも早い。日陰に積もった雪は申し訳なさそうに居残り、ほかはあらかた水蒸気となって空に戻っていった。

  亡くなった友人K宅を弔問する。駅からタクシーに乗り、電話で聞いておいた目印の中学校前で降りる。隣のマンションがそうだという。
 Kも仕事で遅くなったときはタクシーに乗り、同じ道をたどったのだろうか。当然のことだが、表札はまだKの名前だ。奥さんが出迎えてくれる。中学1年生の息子の顔にKの面影を見て、と胸をつかれる。
 詳しい事故の様子は家族の心中を思うと聞けなかった。午前10時頃、仕事中の運転事故だったという。

 居間に設えられた祭壇からKがこちらをまっすぐ見ていた。笑顔は無く堅い表情のKの遺影。まだこんな枠に納まりたくないよ、とでも言いたげな顔。
  
 1時間あまり、テーブルを挟んで奥さんと話をする。その気丈な明るさと饒舌の裏に秘められたこの2カ月間の悲しみを思う。
 
 壁に少年野球の試合で新聞の地方版に載った息子の写真。バッティングの瞬間のいい写真だ。Kは切り抜きを持ち歩いて、周りに自慢していたという。ちゃんとオヤジしてたんだ。

 
窓の外には冬ざれの桜の木。「毎年、春になるとベランダから桜見物するんです。桜の花びらが部屋に舞い込んでくるのを掃除するのが大変だけど、それも楽しみで……」

   Kの家を辞し、来た道を戻る。風が冷たい。「今でも信じられなくて……夕方、あの人がドアを開けて帰ってきそうな気がするんです」
  あんなにいい奥さんや自慢の息子たちを残して逝くなんて……。これからは記憶の中でしか生き続けられないKの無念を思う。
1月21日(土)晴れのち雪

 2年ぶり

 
「母たちの国へ」終演後、「どうぞ、こちらへ」と所属事務所社長のAさんに案内されて楽屋に行くと、ダメ出しの最中。舞台監督が細かな指示を伝えている。
 
  小川範子と会うのは2年ぶり。ラジオドラマ収録中のNHKロビーで話を聞いたのだった。ちょうど広末涼子の早稲田入学が話題の頃。小川範子は社会科学部のOG。女優と両立させるため、仕事のスケジュールを調整したり、周囲のアシストと本人の頑張りで卒業にこぎつけたという。広末とその取り巻きにそんな覚悟があったのか?

 黒のセーターとスラックス姿。舞台で見るより大人の雰囲気。「長崎弁は初めてだったので、セリフをおぼえるのが大変でした」と笑顔。「はぐれ刑事純情派」のレギュラーも14年目。5月に新しいCDアルバムの録音に入るとか。

1月20日(金)晴れ

 
BIRTHDAY

 
娘のピアノ伴奏で誕生日を祝ってもらえるとは思ってもみなかった。だいたい、私など、家にピアノ(電子ピアノだけど)がある生活なんて考えられない世代だもんなあ……。

 1月13日(土)

 飲み会

「白鷺城の花嫁」終演後、楽屋で斎藤レイと立話。斎藤レイは声優としても活躍中。「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の麻里愛の声が彼女。「来月から1年間、子供番組のレギュラーが入ったんですよ。日曜日の朝の特撮番組。なんとかレンジャーっていう(「百獣戦隊ガオレンジャー」)悪の女幹部役なんです」とニッコリ。ふむふむ、日曜朝は早起きしなきゃ。

   その後、近くの居酒屋で飲み会。出演者が多いので大賑わい。
 芝居を見るためにわざわざ下関から上京してきたという同年代の実直そうな銀行員と同席する。
「子供も手が離れたし、1年に1回、こんな贅沢をしてもいいかなと思って」と笑う。学生時代に芝居をやっていたとかで「出張で来ても、夜は宴会を避けて芝居を見てしまうんですよ」と。

  流山児祥から夏の花園神社野外劇「花札伝綺」の構想を聞く。130人余りのミュージシャン・アーティストを糾合して、新宿歌舞伎町界隈を劇場化するという。2年後にはそれ以上に大胆かつ過激な舞台を計画しているというが詳細はオフレコ。
 
 それにしても50の坂を越えてもなおエネルギッシュな流山児には感嘆の一語。元青学大全共闘副議長で、「紀伊国屋ホール突入事件」など、演劇界での武勇伝は数知れず。こじんまりした芝居が多くなっている演劇界で、最後まで「アングラのドン」の意地を貫き通すだろう。

 出演者の一人、風間水希と談笑。ずいぶん前、SKDの試演会に行ったら、ずば抜けてダンスのうまい新人がいた。それが風間水希(当時風間ミキ)だった。すぐにサンシャイン劇場公演で主役抜擢。そのままスター街道を駆け上がって行くかと思われたが、SKDは解散。共演した塩野谷正幸との縁で流山児☆事務所に出るようになった。実力も華もあるのに、いまひとつ”伸び悩み”なのは欲がないせいだろう。SKDのトップを張った女優だから、これから頑張って欲しい。「でも、もう30を越えたし……」。何をおっしゃる、女優はこれからが勝負!
2000.1.10(水)

 Kの死

 
一枚の喪中葉書が届く。だれかの祖父母が亡くなったのかな、と思って文面を見た瞬間、わが目を疑った。そこには友人Kの奥さんの字で「昨年末、主人が交通事故で急死し…」とボールペンで書き添えてあったのだ。「生前、…さんのことは主人からよく聞いていました。心の整理がつかず、連絡が遅れてしまい申し訳なく…」。

 Kは高校時代、男子寮で同じ釜のメシを食った仲間だ。出身が隣町同士ということもあってすぐに親しくなった。ベトナム反戦、学生運動華やかな時代、その影響は地方の高校生にもあった。封建的な上下関係が残る「旧態依然の寮の変革」を新入生たちが訴えた。正義感の強いKはひるむことなく立ち向かっていった。

 恋も革命も瑣末な個人的悩みもすべて等しく語り合った青春期。自分の信念を変えない頑固なところは卒業しても変わらず、社会との折り合いが良くない時期もあったらしい。3年前に私が幹事をやっている高校の同窓会で久しぶりの再会。とても元気で、奥さん、2人の子供がいることを話してくれた。「…が幹事をやって頑張ってるって聞いて飛んできたよ。寮の仲間はどこにいても大切な友だちだもんな」。高校生のような笑顔で言ってくれた。

 事故に遭う1カ月前の去年の同窓会は欠席の通知。「2次会でもいいからおいでよ」「ウーン、でも今日はどうしても外せない仕事があって…悪いな」。携帯で話したのが最後になった。

 「両親を亡くすのは過去を無くすようなもの、子供を亡くすのは未来を閉ざすようなもの。そして友人を亡くすのは自分の現在を無くすようなもの」と、どこかの国のことわざにあったように記憶するが、Kの死はまさに自分の”何か”がもぎ取られたような思いだ。

 15歳から17歳の多感な時期を過ごした男子寮も今は廃寮となり、その敷地には立派な武道練習場が建っている。寮母だったYおばさんも3年前に鬼籍に入った。今ごろ、あの世とやらで、寮のおばさんに「こら〜ッ、K、ここサ来るの、まンだ早すぎるドぉー」と怒られているのだろうか。涙滂沱として止まらず。合掌