9月30日(火)快晴

 昼過ぎ、H野利晴さんから電話。写真の件で、M山氏と連絡をとることに。

 2.00、O路恵美と事務所のHMさんが来社。近くの喫茶店へ。彼女と会うのは流山児事務所での初舞台以来4年ぶり。いや、その後、博品館劇場で一度会っているか。

 普段テレビを見ないので、まったくといっていいほど彼女の活躍を知らなかったが、最近は2時間ドラマが多いとか。グッと大人っぽくなって、目を見張るほどのキュートな美形。「しばらく見ないうちに”ますます”きれいになって」と冗談めかして言うと、「エーッ、本当ですか? 素直に信じちゃおう」と笑顔で返してくれる。

 13日まで大阪で稽古中。今日は特別オフ日ということで、1時間ほど歓談。コロコロとよく笑う彼女、素直でさっぱりとしたところがいい。本人は「マイナス思考で、いつもくよくよしちゃうんですよ」というが。
 直近の仕事は12月放送予定のFMアドベンチャー。「3日で10本収録したので、大変でした」。

「これから先の目標は?」「ウーン、なるようになるさ……ですね」(笑)
 これから女優としてちょうどいい時期。もう少し欲を出してもいいと思うんだけどな。

 4.00。御茶ノ水。K記念病院。このところ調子のいい日が続いている。
 6.00、帰宅。火曜日なのに、芝居の予定なし。ちょうど、公演の切り替え時で、休演が多いため。もったいないが仕方ない。
9月29日(月)晴れ

 PM2、T取氏来社。10月公演「愛と誠」の情宣。一ノ瀬、長崎、璃笑、初演出するフラメンコダンサーと一緒。3時までお茶。
 その後、K企画の菊池氏が紅王国の情宣で来社。エジンバラに行った時の話を。3.50まで。4.00退社。

 5.00帰宅。黒に着替えて所沢へ。27日にPTさんのお父さんが亡くなり、お通夜。6.15着。タクシーで昌平寺へ。悄然と喪主席に座るPTさんの姿に胸が詰まる。会場にはtoshiさんはじめ、喪服に身を包んだ長髪のミュージシャンの姿も。献花にアナーキーらロッカーの名前多数。T取、長崎Mちゃん、お手伝いで来ていた制服向上委員会の二人と一緒にドアーズ・高橋氏のクルマに便乗して新秋津駅まで。8.30帰宅。受付で配布していた八重山毎日の記事にPT氏の父母が笑顔でゴーヤーを収穫している写真。亡くなる3日前に掲載されたばかりという。故人のご冥福をお祈りしたい。
9月28日(日)晴れ

 目が覚める寸前、なぜか、自分が生まれた家の中の光景が見える。11歳まで住んでいた家。

  玄関から土間、台所、居間……と旧家の中を探検する。半世紀近い間、忘れていた事柄が切れ切れによみがえる。小学生の時に叔母からもらった小さなリコーダーの手触り、初めて買ってもらった木琴の表面の色、黒ではなく茶色だった。二階の窓の手すりの感触、神棚の位置が変わったこと、木の精の老人の顔に見えた天井板の模様、ふすまの松の絵柄、祖父が頭に巻いていた手ぬぐいの色、囲炉裏のタイル模様、大きな米びつ、手押しポンプの中のパッキン……思い出すことのなかった景色が水面下から浮かび上がる。催眠術で無意識下の記憶を呼び覚ます、それと同じ事か。

 記憶というのは不思議。幼稚園の時に使っていた弁当箱に描かれた馬車の絵をある日、突然思い出したことがあった。どんなささいな事でも、きっと人間はすべて記憶しているのだろう。それを呼び出すことができないだけなのだ。思い出せなくなる前に、外部ハードディスクに書き出しておかないと……。

 午前中、山田太一の「日本の面影」最終話を見る。自然への畏敬、年寄りや子供をいたわり、慈愛と優しさ、穏やかな表情の日本人が明治以降、西欧化し、その美風、特質を失っていく様子に、歯噛みし、失われた日本の面影を求め続けた小泉八雲ことラフカディオ・ハーン。そこに出てくる「老人へのいたわりを忘れていく日本人」というセリフ。偶然、昨夜放送されたのが山田太一の「男たちの旅路 第三部 シルバーシート」。まさに老人を社会の隅に追いやった現代・日本人がそこに描かれている。2本の番組を並べてみると、山田太一のモチーフがどこにあるかよくわかる。
 
PM2、フジTV「ザ・ノンフィクション」。86歳の在日朝鮮人・金本春子の苦難の人生を、かつて朝鮮総連のカメラマンだった息子の撮った写真で振り返る。12歳で済州島から日本に来て、17歳で同郷人と結婚。7人の子供を育てるが、夫はバクチとオンナに狂い、子供たちも、「地上の楽園」に誘われて、北朝鮮に渡った者、家出して行方不明の者、韓国に取り残されたもの……一家離散。自ら生きるために、パチンコの景品買いで生計を立てるも何十回もパクられる。一言で「苦難の人生」と言うが、「在日」の味わった苦難はいかばかりか。86歳に見えないカクシャクとした姿、言葉。千葉で海女をしていたこともあるといい、恩人を訪ねて房総に行くが、その人たちはすでにない。その後、「海に入りたい」と、スリップ姿で息子、娘と一緒に泳ぐたくましさに驚嘆。在日3世同士という孫の結婚式に目を細める姿で番組は終わる。しかし、日本は果たして苦難続きの在日1世の時代とは別の国になったのだろうか。

 午後、扇風機をしまいに、レンタルロッカーに。その帰り、原っぱに行き、カマキリ探し。ブルドーザーによってあれほど深く掘り返された駐車場の空き地に雑草が生い茂り、バッタが飛んでいる。自然の回復力はすごい。雑草だろうがなんだろうが、この時期、むやみに緑の葉っぱが恋しくなる。

 帰宅後、伸びた髪の毛が煩わしいので気分転換を兼ねて床屋へ。

9月27日(土)晴れ

 慢性睡眠不足。
 夕方まできっちり会社で仕事。午後になるとさすがに頭の中は飽和状態。能率が格段に落ちる。

 5.00、下北沢。本多劇場で加藤健一事務所「詩人の恋」。ジョン・マランス作。久世龍之介演出。岩谷時子訳詞。

 ウィーンに住む老教授のもとに、かつては神童と言われたピアニストが訪ねてくる。スランプに陥り、ピアノが弾けなくなってしまったので、クラシック伴奏者への転向を考え、そのためのレッスンを紹介されたのだ。しかし、教授はシューマンの「詩人の恋」全編を歌いこなすことを課題とする。ピアニストがなぜ歌を歌わなくてはいけないのかーー数カ月後、そのナゾが明らかになる。教授とピアニストの抱える心の闇もまた白日のもとに……。

 いつものカトケン芝居とは趣を変えた二人芝居。しかもカトケンがピアノを弾き(もちろん演奏者は別?)、シューマンの歌曲を歌う。さらに、ナチス・ドイツとユダヤ人捕虜収容所の問題が絡んでくる。音楽と政治。
「ドイツ語で歌いたくない」
「ピアノはドイツ語で弾かない」
 若者と老教授の人生の軌跡が交差するハードなコメディー。テーマの硬質さを笑いで補うも、いまひとつ消化不良気味なのは、ユダヤ人迫害の歴史が現代の戦争地図の中で、別の側面を担ってしまっているからか。
 7.15終演。

 時間が早いのでヴィレッジヴァンガードに。いつ来ても飽きることがない。1カ月くらい、店内に住み込んで、片っ端から読んだり聴いたりできたらいいのに。
 
9.00帰宅。
 石原都知事が自分の発言を「陳謝」したとか。さすがに、「身内」からも反発があったのだろう。
 
 その発言とは、今月25日の都議会本会議で質問に答えたもの。内容、ニュアンスは毎日新聞が詳しく報じている。

 田中均・外務審議官宅への不審物事件を受けて「爆弾が仕掛けられて当ッたり前」と発言したことに関して、国民の支持が多かったということについて、狙い通りの効果をゴルフに例えて「インテンショナル(意図的)フックですな。うまくパーオンしたと思います」
 日朝交渉に関して、「外務省のやってることは、一種の背信行為、売国でありまして、万死に値する」
 拉致事件については、
 「まさに誘拐。袋詰めにされ、十文字にしばられて、さらってみたら片方は年寄りだから曽我(ひとみ)さんのお母さんなんか殺されたんでしょ。その場で

 一連の騒動については、
 「投げたルアーに、片言隻句に喜ぶバカなメディアがダボハゼのごとく食いついた」
 まさに言いたい放題。
 しかし、口が滑ったでは済まされないのは、曽我ひとみさんの母親の生死もわからないのに「その場で殺された」と言ってしまう無神経さ。
 普通の神経を持った人間なら言えないし、まして作家を名乗る人間の口から出る言葉じゃない。
 傍若無人の石原もこの暴言に対する反応は計算外だったに違いない。


 この発言が飛び出す数日前に、毎日新聞の政治部記者が珍しく石原慎太郎の暴言癖をいさめていた。
 「作家は自分の処女作に向かって成熟していく」という文芸評論家・亀井勝一郎の警句を引いて、”亀井勝一郎が1956年に、評論「太陽の季節をめぐって」に書いた「センセーショナリズムへの媚態」という言葉を今思い返す”と。

 亀井勝一郎は芥川賞の選考委員ではなかったが、やや行儀の悪い描写のある「太陽の季節」をめぐる賛否両論が巻き起こった時、佐藤春夫の「節度の欠如への嫌悪」という反石原評を支持してこう断言したという。
 「さばさばとエネルギッシュに見えるが、その下心は現代センセーショナリズムへの媚態に過ぎない。抵抗と言える性質のものではない」

 さすが、亀井勝一郎の慧眼。若き日の石原慎太郎の「大人社会への抵抗」がただの「媚び」に過ぎないことを喝破していた。大衆ウケする発言を繰り返し、その実、大衆を見下す権力者である石原の今の姿を見抜いていたわけだ。

 障子破りと弟の好感度だけで自分のイメージを作り上げてきた石原慎太郎の本質は苦労知らずのお坊ちゃん。75年の都知事選で美濃部亮吉氏に敗れた後、記者会見した時の写真の、ミもフタもないくらい苦痛に歪んだ顔がそれを物語っている。お坊ちゃんは逆境に弱い。今回の「陳謝」も、「逆風」を肌で感じたからだろう。弱いから常に仮想敵を「口撃」し、虚勢を張り、それを強さと思い込む。大衆がまた、そんな強気の姿に拍手を送るから余計カン違いする。この手合いが権力の座につくのが一番怖い。それは目前か……。

 さてと、明日は休日。今夜こそはたっぷり睡眠時間を取ろう。
 
9月26日(金)曇り時々雨

 6.30。会社に着くとテレビで地震報道。北海道で震度6の大地震。関東でも揺れたというが、ちょうどゴミ出しで外にいたためか気づかず。

 またもや午後まで目まぐるしい半日。阪神大震災の時も、第一報は「大きな被害はなさそう」というものだった。地震は時間がたつにつれ被害が大きくなる。田舎の様子が気になったので、ライブカメラを見たら、波は穏やか。津波の気配はない模様。こんなとき、ライブカメラは重宝。

 昨夜は早めに床に就いたものの、眠りに入る瞬間、体がグラグラ。地震だと思って飛び起きたが、自分の心臓の音。最近よくある。今朝の予兆? なかなか寝つかれず、朝から睡眠不足気味で頭の芯がジーンとしびれるような違和感。


 PM3.30、六本木。GAGA試写室で行定勲監督の「セブンス・アニバーサリー」。小山田サユリ、柏原収史、津田寛治、秋本奈緒美ほか出演。

 失恋をする度に、体の中から石を生み出す少女ルルが主人公。7回目に生み出した石はキラキラと不思議な光を放ち、路上販売の若者に指輪にしてもらったところ、雑誌に載り、アッという間に、「石」ブーム。女の子たちの石が飛ぶように売れ、ヤミ販売まで現われる始末。社会学者・宮台真司が「石」ブームの社会的意味を語り、やがて元祖・少女の石には1000万円の値段が。しかし、石に躍らされた社会が牙をむき、ルルに思わぬ悲劇が……。

 冒頭、ルルがトイレで苦痛に顔を歪めるシーン。石の正体は尿道結石なのだが、部屋一面に転がったミネラルウオーターの青いペットボトル、夜空に張りついた大きな赤い月……と思わせぶりな映像とコマ落としなど、あざとい映像作りに辟易。
 出てくる若者たちの個性のないのっぺりとした顔は異星人としか思えない。これで寓意とか、美学とかを感じなければならない映画なのだとしたら、私にとっては「ゴメンナサイ」な映画。

 PM5.30、新宿南口。談話室滝沢でH野俊晴氏と待ち合わせ。30年前にNHK少年ドラマシリーズで活躍したH野さん。今も芸能界で生活しているだけあって、年齢よりもはるかに若い。当時の番組の役柄の印象とは異なり、実に明るいキャラクターに好感。7.30まで。

 8.00、渋谷に移動。ライブハウス「ブエノス」へ。ジムノペディ主催のライブ「噛み契らナイト」。ちょうど、「ザ・スペイド13」の出番。ギター(ボーカル)、ドラムス、ウッドベースのジャズっぽいバンド。なかなか聴かせる。
ジムノペディライブ
 9.00、主役のジムノペディ登場。11月発売予定の新譜「恋じかけのワルツ」のCW曲「ミイラ少女」を含む約50分間のライブ。ナオミのボーカルは一段と艶が増し、声の伸びといい声量といい、圧倒的。キーボードの畔上加菜子のそこはかとない色っぽさ、川崎綾子の迫力あるドラミング、相良年宏のギターがうなり、永長健のベースが体に突き刺さる。小林殉一の泣きのサックスがまた胸に響く。ジムノペディはやはりベスト・バンド。終演後、小林、ナオミに挨拶。K泉さんに紹介されたSMAの担当者と歓談。帰宅は11.30。

9月25日(木)晴れ時々雨

 めまいがするほど忙しい半日。2時過ぎにようやくクールダウン。
PM4、定期代が出たので定期券購入。

PM7、青年座劇場で青年座「ビジネスクラス」。
 自転車キンクリートの飯島早苗の脚本。冒頭からイヤな予感がしたが、その予感が的中、ほとんど難行苦行の2時間。

 舞台は東南アジアに向かう密航船の船底に設えた密室。6人の男たちが閉じ込められている。その中の一人は、6年間の眠りから醒めたばかりで、自分の置かれた状況が理解できない様子。室内に置かれたジュラルミン箱をあけようとするが、電子錠がかかっているようで開かない。そこで、思い思いのパスワードを打ち込んで開けようと苦心惨憺……というところで、もう興味半減。ダラダラ続く会話はまるで女の井戸端会議。

 ネタを明かせば、近未来、男性機能を無化させるナゾのウイルスが全世界に広がり、なぜか日本人だけはそのウイルスの罹患率がほとんどない。そのため、男たちは東南アジアの風俗産業に出稼ぎに行く途中……という設定。しかし、実はそれは表向きの話であり、ある組織の意向で、ウイルスの研究モルモットにされているのだ。密室での実験。その結果、ストレスを与えるとウイルスに対する抗体が増えていくということがわかり……。
 「日本人論」というテーマがまず先にあって、そのためのシチュエーションを作ったはいいが、肝心の演劇的展開がゼロ。同じ所をグルグル回る意味のない会話に客席の方がストレス漬け。カーテンコールのない1時間50分がこれほどありがたかった舞台はない。M氏に挨拶して飛ぶように家路に。

 10.20着。同窓会原稿がまた1本到着。そろそろ本格的にスタートしなければ。

 電車の中で読んだ「俳句殺人事件」の一編、勝目梓の「死の肖像」に出てくる西東三鬼の句になぜかしんみり。
「中年や遠くみのれる夜の桃」

 これをわかる年齢になったか……。
9月24日(水)晴れ一時雨

 10.30起床。お昼は家族3人、台湾料理の店でランチ定食900円。
 PM3、歯医者で定期検診。知覚過敏の部分にプラスチック。治療費2280円。
 夕方から「日本の面影」3話まで鑑賞。

 毎日新聞の調査で、小泉内閣支持率が65%に急伸、安倍幹事長評価は76%。予想はついたが、所詮この程度の民度。売られて行く子牛でさえ、自分の運命を悲しんでメエメエ鳴くのに、喜んで自分の墓穴を掘って、埋められる順番を待ってるお人好したちが7割以上もいるわけで……。「構造改革」の中に「改革」の字が入ってるから、なんとなくありがたがってるとしか思えない。

 小泉改革なるものが進められれば切り捨てられるのはその76%の人たちではないのか。読売新聞の社説に至っては、「小泉よ、ひるむな進め、消費税をアップして、みんなで痛みを分かち合おう」だと。翻訳すれば「貧しい者、病気の者、カネのない老人は一握りの金持ちが支配する国家の邪魔になるだけだから、この際、きれいさっぱり死んでください」と言ってるのと同じ。この御用新聞の度し難さ。
 この先、ドンナことになっても7割の国民は文句は言えない。

 「烹(に)らるると知らで肥えたり庭の鶏 かわゆがられて育つものかな」(高橋義夫「殺すとは知らで肥えたり」)

 夜、歌番組を見ていた家人が「ビリー・ジョエルのストレンジャーって持ってない?」「アース・ウインド&ファイヤーの宇宙のファンタジーは?」。昔のベストテンで流れたのが気に入ったらしい。すぐに、棚のカセットを取り出すと、偶然にもその2曲が入ったアルバムがカップリングで収録してあったので、「はい、これ」と差し出すと、尊敬のまなざし。息子も「パパすごい」。ウーン、これくらいで尊敬されるなんて……。
9月23日(火)晴れ

 Dさんから情報が入ったので、ネットのライブカメラで田舎のCMコンテスト撮影の様子を見る。ケイタイ電話で通話すればテレビ電話。居ながらにして500マイルも離れた田舎の今の様子が見られるのだから、便利な時代。最北端は天候もよく、撮影日和。団体の観光客も多いようだ。
 
午後、台所とガスレンジ周りを大掃除。気になっていたのでスッキリ気分。

 夕方、ビールを飲みながら、家族が録画した、みのもんた司会のフォーク特集を見るともなしに見ていたら新谷のり子が出てきて、「フランシーヌの場合」を歌ったのでびっくり。70年代の市民集会では田中真理とともに、反権力の二輪の花。開港直前の三里塚で顔を見たのが最後だったか。元気そうな笑顔。田中真理はどうしているのだろうか。テリー伊藤の斜視は1968年の日大闘争で機動隊にやられた目のケガが原因というのは初めて聞いた。冗談でもなさそうだし、本当のことなのだろう。今までテリーの「斜視」を正面から問うた人もいないだろうし……。
 酔いに任せて、特に懐かしくもないフォークを歌ってみる。思い出は時として哀しい。

9月22日(月)晴れ

 急に冷え込み、Tシャツ一枚では震えがくるほど。薄手の上着を羽織って駅へ。
 連休の谷間だからか、朝のうち、のんびりムードも、組閣が始まり、あわただしい動き。1.45、仕事が一段落し、ようやく昼食。

 小泉改造内閣のお粗末さには唖然・呆然。

 竹中金融・経済財政相の留任は論外にしても、石破防衛庁長官留任、安倍晋三幹事長、中川昭一経済産業相、小池百合子環境庁長官とくれば、対北朝鮮強硬派、いわば日本版ネオコン4人衆。これに石原伸晃国土交通相が加わり、石原慎太郎が「絶妙の人事」と絶賛したことからもわかるように、右翼・タカ派丸出しの最悪内閣。憲法改悪に向けてシフトした布陣といえる。石原慎太郎の高笑いも当然か。

 小泉、安倍というイケメン政治家に期待と拍手喝采を送っている女性支持者は、まさか自分の息子や孫が他国の戦場に出征する姿を見たいはずはないと思うのだが……。

 PM2、LRPの制作女性が来社。10月公演の件。
 PM4、裕木N江に10月芝居の件でメール。

 PM7、銀座・博品館劇場で「ザ・シンガーズ ファイナルーータンゴ☆サヨナラ」。5年目の「ザ・シンガーズ」の最終公演。

 ミュージカルというよりも「ショー」。それもとびきり上等な大人のためのエンターテインメント。

 点数をつけるなら100点満点。実力のある女優・ダンサー、上島雪夫の演出・振付によるステージは、歌、振付、構成、選曲、演奏とすべて完璧。そのあまりの妙に唖然・陶然の2時間。

 峰さを理、高汐巴、中村音子、津田英佑、松岡英明、神埼順、東山義久、関仁史、仮谷孝之、宗田良一、佐々木重直、荻野信明、小山みゆき、佳田亜樹、紀元由有。出演者の名前をすべて列記したいほど、最上最高のステージだった。特に東山のダンスときたら、体のキレ、艶、表現力、すべてに最高。中村音子もさすがに元宝塚、ストレートプレイよりもダンス・ショーの方が生き生きしている。峰さを理、高汐巴の歌のうまさ、妖艶さも当然。

 歌とダンス以外に余計な狭雑物いっさいなし。すべて、歌とダンスで表現する。この潔さ・徹底さ。まるで、「ミュージック・フェア」を現代風にスケールアップしたような徹底した実力主義舞台。陳腐なセリフ入りミュージカルよりも、このステージの方がはるかに「思い」が伝わる。テーマがタンゴだったので、よりいっそうドラマチック。今回でラストショーとのことだが、今まで見逃してきたのが残念。こんな素敵なショーなら毎日でも通いたい。

 ただし、マイナス点はゲストタイム。今日のゲストはブラザー・トム。歌はいいが、トークタイムは不要。客席をくすぐるようなタモリ的笑いは不快でつまらん。

 あと、前の席の中年女性5人組。上演中に絶えず額を寄せ合っておしゃべりするので気になってしょうがない。お気に入りのダンサーが出ると額を寄せてヒソヒソ、指差し、演奏のフェードアウトでまたヒソヒソ。かと思えばパンフを取り出し、パラパラめくる。目の前なので視界にそれらの動きが逐一入り、煩わしいことこの上ない。劇場で最悪なのは、ケータイの着信音、幼児の話し声、おばさんグループのおしゃべり。
 
 休憩時間に入ったので、特にうるさいおばさんに注意してあげたら、恐縮顔。自分では気づいていないんだよな。この人たちは。2部はおしゃべりをやめてくれたので、落ち着いて見られたが、1部のショーを返してほしい。
 9.00終演。
 明日は休日だが、このところ、子供と顔を合わせる時間がないので家に直行。ところが、すでに全員就寝中。この頃寝るのが早い……。
 
9月21日(日)雨

 台風接近。朝からざんざん降りの雨。午後、その雨の中を横浜まで。久しぶりにジージャンを着る。

 かながわドームシアターでとりふね舞踏舎公演「バッケ 花咲く乙女たち」。家から片道1時間40分。2.40、関内駅着。相変わらず土砂降り。近場だが、歩いていったらズブ濡れになるのは目に見えているのでタクシーで劇場へ。安い客を乗せたと思ってか、聞こえるように運転手が時々、フーッとため息をつく。

 ドームシアターは伝統芸能の拠点にするため「横浜21世紀座」としてスタートする予定だったが、騒音問題で玉三郎が芸術監督を降り、名称変更してオープンした、いわく付きのテント型劇場。キャパ1100。中に入ってみると、かなりの大きさ。設備も充実している。
 ただ、やはり外の音がかなり入ってくる。船の霧笛、救急車のサイレン、そして雨が屋根を打つ音。
 音楽のボリュームを上げているせいか、公演中はそんなに気にならなかったが……。


 30人余りの舞踏手による「鳥」のシーンから始まり、狂言とのコラボレーション、松田広子(いたこ)の祭文朗誦、李七女(韓国民族舞踊)のゴスペル調の歌が交差する壮大なスペクタクル。静と動、陰と陽が絶妙に絡み合う満艦飾の舞台に大満足。やはり舞踏の迫力は圧倒的。

 いたこの松田さんも舞台にぴったり調和して、祭文語りの声も朗々としているし、カーテンコールでのすり足も堂に入ってる。背が高く、化粧栄えする顔なので、白塗りの舞踏手たちに混じると、なかなかどうして一幅の絵になる。さすが、八戸のいたこだ、と思って、終演後、青森から来た北川氏と楽屋に行ったら、かなり落ち込み気味。百戦錬磨の舞踏手や伝統芸能の間に入って、自信が持てないらしい。しかし、かわいそうだが、出演した以上は、彼女を目当てに来る客もいるだろうし、最後まで務める義務があるわけで……。

 終演後、北川氏、松田さん、シーザー、佐々木英明の娘さん(W大で映画サークルに入っているとか)、元天井桟敷のT永茂生氏らと談笑。T永氏から映画「書を捨てよーー」のエピソード、(カメラをラグビーボールのように投げて撮った時の話)などを聞く。来年、T永氏は新しく寺山研究書を出版する予定とのこと。寺山修司の「大虚構」に焦点を絞ったものになるというが、またしても「虚人・寺山」? 

  どんな本になるかわからないが、「寺山さんの”虚構”には他人を傷つけまいとするための意図的な虚構が多いのでは」という北川氏の言葉にホッとする。もう、寺山修司を腑分けするのはいい。残された言葉で十分。

 一緒に帰るつもりだったが、北川氏とシーザーがなかなか腰を上げないので先に辞去。役者たちが駅まで道案内してくれる。白塗り剃髪のM下千暁クンは役者志望の学生。寺山修司のファンだそうな。同じく大学4年のM永里加さんらと途中駅まで。

 11.30帰宅。休日には出かけない不文律も、玉突きスケジュールで仕方ない。家族はすでに就寝中。

金曜日に上京したKさんは明日夕方に帰るとのこと。残念ながら会えず。
9月20日(土)雨

 朝から雨模様。サクサクと仕事を片付け、正午、天王洲アイル。アートスフィアで「ピュア・ラヴ」。

 モノレールを降りて、劇場に行く途中、2階の手すりから1階の吹き抜けホールを見下ろす人たち。見ると、通路に真っ白な椅子が並べられ、中央に紅い絨毯が敷かれている。外国人神父が手に聖書を持ち、今まさに結婚式が始まろうとしている。公開結婚式か。初めて見た。
 
 「ピュア・ラヴ」は「ロミオとジュリエット」をモチーフにした作品とのことで、あまり期待はしていなかったが、「ロミ・ジュリ」は構造だけを残し、物語はまったくのオリジナル。

 渋谷のクラブを舞台に、VJ(ビジュアル・ジョッキー)の若者と、新人女優の悲恋を描いたもので、ヒップホップダンサー同士の抗争、芸能事務所同士の対立が軸になっている。主演の中川晃教(あきのり)は「モーツァルト!」で鮮烈なデビューを飾った実力派。その類稀な歌唱力は驚嘆の一語。のびやかなハイトーンボイスはミュージカル界になかった逸材ではないか。初めて聴いたが、圧倒的な歌のうまさにびっくり。

 相手役の大和田美帆(8月22日、東京生まれ、A型)は今年、東洋英和女学院高等部を卒業したばかりの新人。歌唱力はまだまだだけど、キュートな顔立ち、清楚なたたずまいが魅力的。幕開け、タトゥー・ファッションで踊るヒップホップダンスがセクシー。

 全体に、不良っぽい雰囲気のロック・ミュージカルの趣。既視感があると思ったら、全盛期の皮ジャン・リーゼントの「ミスタースリムカンパニー」ではないか。

 あとでパンフを見たら、脚本・演出の小池修一郎とプロデューサーの高屋潤子はともに「ミスタースリム」の熱烈なファンだったとのこと。なるほど。スリムを今の時代に置き換えたら、渋谷、クラブ、ヒップホップ、R&Bになるだろう。それにしても、ダンスシーンのキレのよさ。日本人ダンサー、振付の技量はめざましいものがある。
 旺なつきと中川晃教の二人が会話しているシーンで、劇場がグラリ。地震だ。椅子が揺れ、天井の照明機材がガタガタ鳴る。かなり大きな揺れ。客席から一斉に悲鳴。一瞬、舞台の二人も動きが止まるも、ショー・マスト・ゴー・オン。何事もないように、芝居は続く。舞台そでに引っ込む時、旺なつきが「地震には気をつけるのよ」に会場がどっと沸く。さすが、ベテランのアドリブ。

 ラストシーンには疑問が残るが、ロミ・ジュリだから仕方ないか。ただ、もう一ひねりほしい。死んでいないジュリエットを死んだとカン違いさせる小道具はワイン、ピストル、クスリ……色々あるのだから。

 ともあれ、休憩20分をはさみ、2時間45分をまったく飽きさせることのない舞台。欲をいえば、もう少しダンスシーンが欲しかった。終演後、あたたかな拍手が鳴り止まない。最近はお義理と予定調和のカーテンコールばかりだが、観客が本当にカーテンコールを望んだと思われるの拍手は初めて。中川晃教が「地震の時、一瞬動揺してセリフを言い間違えました。”ジャストタイミング”を”ジャストタイム”って言っちゃったんです」と告白して会場をわかせる。真摯で誠実でピュアなキャラクターの中川。好感度100%。
 3.45帰社。
 5.30、上野。Bさんが全国旅行の途中で関東通過するのを記念しての飲み会。11.30まで大盛り上がり大会。
9月19日(金)快晴

 PM4、帰宅。整骨院でマッサージ。娘の文化祭(生徒以外オフ・リミット)。うだうだしてる間に就寝時間。

9月18日(木)快晴

 昨夜、MI野さんからCMコンテストの絵コンテFAX受信。今日、関係者にFAX。好評。さて、これをどう映像化するかが問題。
 
PM4.30、仕事を終えて小竹向原へ。駅前のジョナサンでコーヒー&アップルパイ。

 6.00、MODEアトリエ。先日、松本修氏から聞いていたが、いよいよMODEアトリエが閉館。明け渡しが20日ということで、急遽閉館パーティーが行われることに。
 壁にこれまでの上演チラシを貼り付けている松本氏。「たぶん、○○さんと江森さんの二人くらいじゃないかな、最初からずっと見てくれている人は」と松本氏。確かに、MODEの前身のちかまつ芝居、その前の「会社の人事」時代を入れればこの16年余り、ほとんど欠かさず見ていることになる。

 さすがにスタート6時だとまだ人数もパラパラ。高田恵篤、有薗芳記、小嶋尚樹、斎藤歩、井口千寿瑠、金子智実ほか20人足らず。松本氏が「アトリエがなくなってもMODEがなくなるわけじゃないから」と乾杯の前に挨拶。

 このアトリエで上海劇場の芝居を見たのは80年代の中ごろか。天井から生魚が降ってくる、まさにアングラ芝居をやっていたのが小嶋氏。当時、山崎一が所属する「パラノイヤ百貨店」との合同公演を多く行っていたので、記憶がごっちゃになっている。

 その後、名義はそのままで、MODEのアトリエに委譲されたのが88年頃。以来約15年、「地の利が悪いため」最近ではアトリエ公演もほとんど行っていなかったので、昨年末の裕木奈江の二人芝居が最後の上演になった。

 松本氏の話の中に「庄建設」云々と出てきたので、もしやと思って訊ねると、アトリエの家主は「庄建設」とのこと。

 庄建設といえば、そのオーナーである庄幸司郎氏の発行するミニコミ「告知板」を思い出す。編集方針は、「平和と民主主義を守り、かつてのアジア諸国に対する侵略戦争の責任をはっきり認め、償うことによって新しい民衆レベルでの連帯の道を探求する」というものだった。

 「平和憲法(前文・第九条)を世界に拡げる会」の代表を務め、告知板には平和憲法の「前文・第九条」を自らの理念としてかかげていた。

 インターネットなどない時代、全国の市民運動や住民運動のネットワーク紙として、多くの交流と出会いを生んだ。何かのきっかけで、「告知板」が送られてきて以来、庄氏が死を前にして終刊を決めるまで購読したわけだが、3万部近い部数はほとんど無料配布。郵送料だけでも莫大な費用がかかっただろう。

 時々、購読費としていくばくかのお金を送ると、送ったお金の何倍にも相当する書籍を送ってくれたものだ。
 公害、差別、戦争などをテーマにした映画製作にも情熱を注ぎ、プロデュースした映画「絵の中のぼくの村」は、ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した。しかし、地味な作品で受賞しても、資金回収は困難。著書、講演、ビデオ製作などで得た金をいくらはたいても赤字続きだったという。それでも最後まで、平和と護憲に心血を注いだ庄氏。

 かつて、中野に「スペースしょう」というミニスペースがあり、そこで自主上映や講演会が活発に行われていたが、この小竹向原のアトリエも元は庄建設の資材置き場であり、70年代には櫻社が稽古場にしていたという。

 庄幸司郎氏が亡くなったのが2002年。「告知板」も今はなく、主を失った庄建設も縮小・解散に向かっているらしい。多数の不動産物件を持ちながら、亡くなった後、わかったのは、正規の賃料ではなく、タダ同然で資金のない運動体や個人に場所を提供していたとのこと。

 建設会社を経営する父の移動により、中国・大連で生まれた庄氏が見たものは、奴隷のようにこき使われる現地の中国人と、威張り散らす日本人。他民族を差別し、搾取してぜいたくな暮らしをしている日本人がどうして正しいといえるのか、と当時少年だった庄さんは思ったという。その経験が生涯を通じて反戦・平和運動の原点になったのだ。

 庄氏が亡くなり、会社が消えても、「告知板」の精神は誰かがきっと引き継いでいくことだろう。
 
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 9時を過ぎると、続々と人が集まって来る。衛紀生、七字英輔、龍昇、得丸伸二、鎌滝雅弘、宮島健、江森盛夫、大崎由利子、石村実伽etc。

 裕木N江が来たので、座り込んでおしゃべり。11月に文学座の森さゆ里の演出で若松泰弘との二人芝居をやるそうで「どこか稽古場ないかな」と張り切りモード。3日間5ステージだから満席でも赤字必至とか。「でも、芝居がやりたいんです」と目を輝かせる。元々、劇団薔薇座でデビューするはずだったのが、ポシャってしまい、その後、映画でデビューしたために、「タレント」になったいきさつがある彼女、根っからの芝居好き。11月のプロデュース公演が楽しみ。
 
 10.40、人数も増え、ますます熱気を帯びる宴席から抜けだすのはツライものがある。このまま朝まで飲んでいたいが、仕方ない。松本氏に挨拶して外に出ると、黒木さんが追いかけてきて「今日はありがとうございました」と笑顔で見送り。

 駅のホームで電車を待っていると、「○○さーん」と誰かが呼ぶ声。頭をめぐらすと、石井ひとみ。
「これから行くところなんです。エッ帰るんですか? 一緒に戻りましょうよ。私も30分くらいしかいられないから」
 残念。石井とすれ違いになるとは。手を振ってお別れ。
 11.45帰宅。接続がよかったので1時間以内で帰還。珍しい。掲示板にレスつけて就寝。0.40。しばらく寝付けず。完全な睡眠不足。

9月17日(水)快晴
 
 相変わらずの暑さ。部屋の中は蒸し風呂状態。とてもじゃないが耐えられない。夕方、タワーレコードへ。ASUKAの新譜アルバム「シャイニング」を購入(3058円)。ダイエーでは定期入れを(3500円)。さすがに高価なブランドものは置いてない。帰りに整骨院でマッサージ(500円)。

 それにしても、石原暴言の話題は連休を通過したら何事もなかったように終息。しかし、作家を名乗るにしては、テロをそそのかす発言が自分の身に降りかかっても文句は言えないという二律背反に気がつかないのはあまりにも愚鈍では。
9月16日(火)快晴

 4.00、御茶ノ水・K記念病院。待ち時間なく5分で終了。

 4.30、新宿。なくした定期入れは届出なし。社員証も入っていたので、悪用されなければいいが。三越、伊勢丹で新しい定期入れを物色。いい物は高い。定期入れに1万円も出すのもシャクだし、もう少し待とうかと思い直し、売り場を離れる。

 三丁目のヴァージンレコードでCD試聴。有里知花のニューアルバム「トレジャー・ザ・ワールド」が出ていたので、南口のタワーレコードまで戻って購入。ポイントをつけてもらうために、わざわざタワーまで戻って買うとは。ついこの前までは考えられなかった。自分の経済観念の進歩?に苦笑。

 7.00。新国立劇場。維新派「ノクターン」。受付でE藤さんに挨拶。「お久しぶりです」と笑顔。朝日舞台芸術賞授賞式以来か。

 中ホール。開演前にバンドの生演奏。客の入りは3分の2程度。満席盛況が伝えられていたが、意外に空席が目立つ。ロビーのドリンクバー・コーナーも閑散。若い観客が多いため、1杯600円もするジュース類の売れ行きはイマイチ。手持ち無沙汰な従業員。どうしてこんなにもソフトドリンクが高いんだろう。
 客席に湯浅実氏の顔。いまや新劇の長老風だが、60年代の羽仁進+寺山修司の「初恋・地獄篇」にクセのある紳士役で出演していた。アングラ・サイケの時代を通過しているわけで、維新派との取り合わせにも違和感がない。

 いつもの大阪弁ラップの少年少女たちの登場で舞台はスタート。

 都市の地下水道を疾走する中国人密航者と少年たち。彼らが落としたトランジスタラジオを拾う少年A。そのラジオは浮浪者の老人から奪ったもの。少年Aはそのラジオから流れる音に導かれるまま、旅に出る。それは時空を超えた過去への旅。いつしか少年Aは老人の若い頃=シンイチロウとなって、一人の少女と出会う。

 バラック、満州、水辺の廃墟ーーめまぐるしく転換する舞台美術。まさに「ロードムービー」ならぬ「ロードプレイ」。

 ここ数年は、野外でもほとんどシンプルなセットに徹していた維新派が、舞台セットやオブジェをこれほど多用したのは、近年稀なこと。それだけ新国立劇場公演にかける意気込みを感じる。

 変拍子ラップと少年少女たちの変則歩行。観客を幻惑させるスペクタクルな舞台美術。いわば、維新派ジァンジァン☆オペラの集大成。間然する所のない精緻巧妙な世界。

 しかし、何か引っかかるものがある。新国立劇場という世界最新鋭の舞台装置を十分に活用した舞台転換、CG映像ーー確かに見事の一言なのだが、この引っかかり感は何だろう。

 十二分に満ち足りている舞台に欠けているものが2つある。一つは風。それは野外を吹き抜ける風であり、劇場を包み込む闇と対をなすもの。
 もう一つは屋台村。蜃気楼劇場に常に寄り添うように立ち並ぶバラック群はもうひとつの劇場だ。

 整然とした劇場の椅子に寄り掛かり、目の前の「芸術」を見ている観客。プロセニアムとはよくいったもので、観客と舞台の間には目に見えない壁があり、すべては額縁の向こうで行われている「芸術」でしかない。

 維新派が目指したものは、客席が舞台と同じ風を感じること。高尚な「お芸術」ではなく、終演後も屋台村で飲み食い歌う祝祭空間を創る事ではなかったか。

 確かに、スタッフワークとしての巧妙な舞台転換、精妙な音楽、雨にも降られず風にも吹き飛ばされないセットと役者たちの安定から来る「完成度」は高い。

 しかし、維新派が「お芸術」をしていいのか。さまざまな風景の中で屹立してきた維新派の漂白の演劇にはやはり新国立劇場という官制の入れ物は不吊り合いに思う。

 むろん、そんなことは松本雄吉氏をはじめ、ハナからわかっていたことで、外野からの雑音に対しても「ええんや、これで」とニコヤカに笑う顔が見えそうな気がする。これも一つの実験。その中からどんな風景が見えてくるかだけ……と。
 百人の維新派ファンがいれば、99人は同じ反発するだろうの予測はついていたに違いない。

 ただ、あのすましこんだ無機質な劇場の雰囲気、官僚主義のかたまりのようなスタッフ。新国立劇場という入れ物は演劇の場にふさわしいとはとうてい思えない。

 終演後の楽しみでもある屋台村のない劇場に長居は無用。足早に駅に向かう。10.30帰宅。
 身欠きミシンを肴にビール、チューハイ。
 今見てきたばかりなのに、なぜか「懐かしい」と感じる維新派の舞台。なんだかんだ言いながら、来年、また全国どこかに現われる「蜃気楼劇場」を追いかけるんだろうなあ。
9月15日(月)快晴

 こんなにも低調な連休は初めて。高校生の娘は夕方まで学校で文化祭の準備。
「どこかに行かなくては」と気ばかりあせって、残った家族に外出を促すも、テレビ、テレビゲーム三昧。かといって、一人でどこかに出られる雰囲気ではない。結局、朝から家の中でウダウダ。せっかくの連休を無意味に過ごすのに耐えられない。

 考えてみれば、土日連休だから、今の子はそんなに休日を大仰に考えることもないのかもしれないし、主婦も毎日が休日のようなもの。自分だけが二日間連休になると舞い上がってしまい、「どこかに家族を連れて行かないと」「とにかく家の外に出ないと」と必死になってる。

 結局、この二日間、何にもしないまま終わってしまう。かえって、仕事をしている日の方が、少ない時間でHPの更新をしたり、本を読んだり、CDを聴いたりと効率的に時間が使える。

 時間がたっぷりあったら……といつも思うけど、案外こんなもの。この分じゃ遥か先の「定年後」に思う存分好きなことをやろう、なんていう「夢」は絵に描いたモチで、何もしないまま終わってしまいそう。

 午前中、必要にかられて「なぞの転校生」を見る。70年代の中学生のなんとのどかなこと。転校生にヤキを入れる「番長」にしても「女はほっておけ」と女生徒を逃がす侠気を持ち合わせている。なによりも、まだ「仲間」意識がある。今なら、天才的な転校生が紛れ込んできたら真っ先に教師たちが、進学率を誇示するための道具にするだろう。その意味では「のどかな時代」といえる。

 眉村卓原作の「まぼろしのペンフレンド」は中学時代に中一コースの別冊付録だったので屋根の上に寝そべって呼んだ記憶がある。主人公の中学生が思いを寄せるアンドロイドに密かに心ときめかせたものだが、NHK少年ドラマシリーズの「なぞの転校生」は、すでに高校時代。見た記憶がない。

 ある中学にやってきた転校生の少年。彼は実は次元ジプシー(今ではジプシーは差別的用語になるが)として、核戦争で破壊された故郷の惑星を離れ、父親とその仲間とともに平和な地球にやってきたのだった。しかし、平和なはずの地球にも核兵器があふれ、人々はそれに対して無関心。

「核実験で放射能が雨に混じって降ってきても、なんとも感じない。地球人の神経はブタ以下だ」
 そう吐き捨てる少年。それに対して、少年に思いを寄せる少女とその友人は「でも、核兵器が使われるなんてありえないよ」と真顔で答える。

 そうだよなぁ、70年代はヒロシマ・ナガサキの被爆からまだ30年しかたってない。核戦争はSFの中の話で、危機感はあったにしても、誰もが「まさか」と思っていた、ある意味牧歌的な時代。

 それがいまや、局地的な核爆弾の使用を大国の大統領が堂々と言明し、日本政府のオエラ方が「日本も核兵器を持つべきだ」と白昼堂々公言する時代になってしまった。しかも、それに異議を唱える国民は「北の脅威に備えるには核武装も平和憲法の破棄も必要」という声に押され、少数派に転落という無残さ。

 なぞの転校生の最終回は、地球を見放して別の世界に行ったジプシーたちが、その世界にも幻滅し、傷つき疲れ、再び地球に帰還、地球を終のすみかにする、というストーリー。「理想の世界はそれぞれの心の中にある。今いる場所をその理想に近づけることこそ、自分たちに課せられた運命」

 ここで思い出されるのが、ドイツのフライブルク。大学都市、観光都市と知られるが、70年代の原発反対運動が実り、ドイツが原発全廃を決めた今、公共交通機関の利用が促進され、路面電車、自転車が交通手段として活用され自動車は必要最低限。太陽熱発電も盛んで、ソーラーエネルギーで市のほとんどの電力を賄ってるという。古い町並み、自動車が少ないので子供が外で遊んでも危なくない。

 1960年代の日本だってまだ自動車は少なく、子供たちは表の道で思い切り遊んだものだ。
 排気ガス、産業廃棄物ーー明らかに人類の将来を蝕むものに対して自分たちの子孫の未来を守るために努力・改革しているドイツの試みが全世界に広がれば、もう少しマシな世の中になるだろうに。

 西岸良平の「三丁目の夕日」のような、1950〜60年代の日本の風景と人情にノスタルジーを感じてしまうことを退行と言っていいのだろうか。科学と物質文明の行き着く先が「破滅」の二文字だとわかっていても、我々はもう戻ることはできないのか。そんな問いに懸命に答えを模索しているのがドイツ・フライブルク。人類の未来は決して不可逆的なものではないはず。戻れるうちに戻ったほうがいい。

 PM5、Sシネマで「パイレーツ・オブ・カリビアン」。ジョニー・デップの「一人映画」。登場シーンからしてシャレ心いっぱい。可憐で強いヒロインのキーラ・ナイトレイにも好感。最後まで飽きさせず。VFXもこの映画なら許せる。
9月14日(日)快晴

 暑い一日。例年なら家族で小旅行だが、今年は家でゴロゴロ。どこにも出られず。auに携帯を変えたとたん、月々の料金が倍の8000円にはね上がる。通話料金の設定を変えるためにauショップへ。その帰り、避暑を兼ねて図書館へ。「テアトロ」のバックナンバーを通読。寺山修司特集号の七字氏の寄稿文に全面的に賛意。
 休みで家にいるというのに何もやる気が起こらない。テレビも見たくない、音楽も聴きたくないという鬱状態。


9月13日(土)快晴

 PM3、シアターVアカサカ。NAOーTA!プロデュース「dear〜ガラス越しの〜」。声優のTARAKOと渡辺菜生子のユニットの第二弾。とあるオモチャ屋のショーウィンドーに飾られた人形たちのひそやかな愛の物語。松田洋治、田中利花、小川輝晃、山崎ハコ…と出演者の顔ぶれに食指が動いたものの、凡庸な童話的ファンタジーを大仰にやられると、恥ずかしさで居たたまれなくなる。客席は声優業界のファンが多いようで…。収穫はハコと利花がデュエット。それも1曲のみ。演劇科の発表会かアトラクションのような舞台。役者は達者なんだけど、ウーン。

 6.30、浅草橋で宴会。0.00帰宅。

9月12日(金)快晴

 今日も夏の暑さ。

 イラクでは今、解禁されたポルノが大人気、映画館はどこも満員とか。男たちはフセイン支配化では享受できなかった楽しみを満喫しているわけだろうが、これってやっぱりアメリカ流のの3S政策なの?
 
 敗戦後の日本を支配・統轄するために用いた3S(スポーツ・SEX・スクリーン=映画)が功を奏し、アメリカ文化一辺倒になった国への実験を応用しようとしているのだろうか。次にはイラクの民衆に野球をやらせたりして…。

 それにしても……。青森・むつ市の住民投票条例否決はやっぱりショック。住民による直接民主主義を認めない「独裁」が白昼堂々とまかり通っているニッポン低国。誰が北朝鮮の独裁政権を笑えるだろう。

「”面白半分”の作家たち」読了。開高健氏一家の悲劇の裏にある新事実に感慨。
 五木寛之の発案した本のオビに対する「腰巻大賞」の受賞者に社の先輩の名前を発見。これにも感慨深いものが。

 たまたま、友人である劇作家・小松杏里氏のサイトを見ていたら、「渡辺克浩追悼」との文字が目に止まる。今年4月4日、心筋梗塞で亡くなった39歳の役者への追悼文だった。

 その中に出てきた「紅い花」の文字にドキリ。もしや…。予感通り、亡くなったのは「紅い花」に少年、シンデンのマサジ役で出ていた俳優・渡部克浩氏だった。亡くなったことさえまったく知らなかった。
多摩
 去年11月の多摩映画祭の佐々木昭一郎特集で「紅い花」の上映があり、イベントの最後に佐々木氏に促されて登場したのが渡部克浩氏だった。「小劇場の役者をやっています」「佐々木さんに呼び出されて、佐渡から駆けつけました」と話していたが、どこの劇団なのかは聞く余念もなかった。

 杏里氏によれば、カンコンキンシアターの演出部をやったり、俳優としても活躍していたという。なによりも、月光舎の公演に出ていたとのことで、私も何度か見ているはず。釣り好きだとのことで、多摩の時に「佐渡から駆けつけた」と言ったのはもしかしたら釣行の最中だったのかも。

 見えない糸がつながったと思ったのに、その糸は知らぬ間にプツンと切れていた。
 「紅い花」で「シンデンのマサジ」がキクチサヨコと一緒に山に戻ったように、渡部氏も永久の向こうに還ってしまった。遅ればせながら合掌。

 午後、I崎Mさんに電話。もう何年会っていないだろう。久しぶりに話したが元気そうな声。小森氏を中心にした初日通信の日々ははるか彼方。あの頃の仲間ともなかなか会う機会がない。
9月10日(木)快晴

 暑すぎて昼休みに外に出る気にもなれない。
 夕方、O路恵美の所属事務所のHMさんが来社。4年ぶりか。O路恵美も相変わらずテレビで活躍しているとのこと。来月、パイパーの芝居に客演するということで、その情宣。O路ももうアイドルという年齢でもないし、地道にキャリアを積み重ねていくのが大事か。

 5.00退社。6.00、王子でM野さんと待ち合わせ。絵コンテの資料用にCM大賞のビデオを手渡し。

 7.00、千石。三百人劇場でノエル・カワードの「花粉熱」。英国演劇界との「交換留学制」、ワークショップから生まれた舞台とのことで、昴、俳優座、円など錚々たる劇団の俳優が出演しているが、会話の間が悪く、シャレた会話劇から程遠い低調さ。ほとんど見るところなし。

 休憩時間に川上史津子と立話。「えろきゅん」の売れ行きイマイチとか。今の出版状況では健闘していると思うが。ハーフムーンシアターの吉岩氏とも久しぶりに邂逅。吉岡小鼓音がエジンバラで英語劇、それも山本周五郎作品を上演したとか。
 9.25終演。速攻で帰宅。10.20着。

 石原発言は早々と鎮火に向かう様子。
 亀井静香の応援演説で「外務省の田中審議官は襲われても当然」と言い放った「事件」。国賊征伐隊を名乗る人物・団体(?)が田中氏の自宅に爆発物を仕掛け、不発に終わったという事件に絡んでの発言。死傷者が出なかったからいいようなもの、一歩間違えば大惨事になっている。それを、「殺されても当然」と言い放つ石原都知事の頭の構造はどうなっているのか。

 北朝鮮憎しの大合唱に乗じたポピュリズム=大衆迎合発言としてもあまりにもお粗末で無神経。おそらく、こう言えばマスコミ・国民がどう反応するか、観測気球のつもりもあるのだろう。案の定、第一報を報じる新聞各社は腰が引けた扱い。事実報道だけで、批判的な論調は皆無。毎日新聞が社会面で演説全文を詳述したのは、石原からの前後の「文脈」をとらえていないと反論されるのを恐れてのことか、あるいは、石原に気兼ねしてのことか。どっちにしても情けない。夕刊でも、一部の識者の反応を申し訳程度に伝えているだけ。その中で、拉致被害者家族会の代表・横田氏が「テロを容認する発言は撤回して欲しい」とコメントしているのが唯一の救い。

「ある日 おエラい小説家 選挙に立ってこう言った
 青年の国作るためわたしゃ文学捨てたのよ
 甘えるなこの野郎甘ったれるなこの野郎
 弟連れて選挙をやるなどジジィのやることだ」(くそくらえ節)

 35年前に岡林信康が石原チェンチェイの正体を皮肉ってこう歌ってた。

 「大衆」の尻馬に乗って、威勢のいいことを口走るセンセイ。フツーの人間なら公衆の面前で口に出すことさえ躊躇する「あんなヤツは殺されても当然」という言葉。よく言えるもんだ。こんな人物に限って愛国心だの徳育だのとエラソーに説教垂れるんだからその愛国心や道徳の正体は知れている。発言を支持する大衆は、イザとなったら真っ先に自分たちが、イシハラ・コイズミの弾よけにされ、使い捨てられるわけで、それと知ってか知らずかお気楽にイシハラ万歳、構造改革万歳を言い募る、ニッポン総M趣味時代。

 青森・むつ市の住民投票条例案が3対15の大差で否決されたという。住民投票さえできないとは。驚きを通り越して言葉も出ない。「やっぱり青森県だ」ーー事あるごとに東京人からバカにされてきたが、それも仕方ないな、と今回ばかりは思う。
 
もはや「これはこの世のことならず」。
9月10日(水)快晴

 10.00起床。同窓会報の面割・割付を考える。ちらりとネットニュースを見たらこんな報道。

「使用済み核燃料中間貯蔵施設の誘致問題で、住民投票条例案を審議するむつ市議会特別委員会が9日に開催された。条例制定を直接請求した市民団体”むつ市住民投票を実現する会”の野坂庸子代表が”市民の総意をくむべき”と訴えたのに対し、杉山粛市長は、誘致反対票が多数を占めることが懸念される−との認識を示し、条例制定の必要性を重ねて否定した」

「杉山市長は”誘致反対票が賛成票を上回ることが懸念されるから条例制定に反対しているのではないか”という誘致反対派の委員の質問に対し、”発言の通りだ”と答弁した」(東奥日報HPより)

 いやはや、わかりやすい人といおうか、ほとんど頭の中はワラクズだけの人といったらいいのか、開いた口がふさがらない。

 市民の住民投票による直接請求を「実施したら(自分が)負けるから、やらない」と言い放つ単純さ・傲慢さ。市民から市政を委託されている政治家としての意識は限りなくゼロ。都市部の首長がそんな愚鈍な発言をしたら暴動が起こっている。……といよりも即刻リコールだろう。こんな発言をまともに報じなければならない地方紙記者も心中、情けないに違いない。典型的な田舎政治。

 藁クズの詰まった頭が政治を牛耳って、それに、核燃料廃棄物という半減期数億年のゴミ問題を託さなければならない市民こそいいツラの皮。「住民投票を実施する会」のメンバーの多くは退職した高校教師たち。もう一度市長の頭の中を再教育したほうがいい。

 午後、散歩ついでに、タワーレコードを覗き、EMYLIの新譜「someday」、leyona「500マイル」、ステイシー・オリコのセカンドアルバムを購入。基本的には海外の歌姫は、聞いても盤は買わないのだが抜群の歌唱力に思わず手に取ってしまう。隣りのコーナーのタリアのセクシーさとキュートさにも目移り。ブリトニーのような日本人好みの可愛さ。歌唱力も抜群だし。マライア・キャリーの元旦那トミー・モトーラと結婚しているとか。CDよりDVD向きか。

 エルヴィス・コステロの新譜「ノース」も欲しかったが、断念。コステロがジャスシンガー、ダイアナ・クラールと5月に結婚したとか。知らなかった。

 昼食後、旭屋で三浦俊章「ブッシュのアメリカ」(岩波新書)、佐藤嘉尚「”面白半分”の作家たち」(集英社新書)を買う。前にも類似の本は出していたが、元「面白半分」編集者・佐藤嘉尚が新たに書き下ろしたもので、「70年代元祖サブカル雑誌の日々」が副題。そうか、「面白半分」はサブカル雑誌だったのかと今さらながら感慨。

「今の時代から比べれば活字の世の中への影響力は5倍から10倍は違った」と佐藤。確かにあの頃は活字媒体が元気だった。アナログからデジタルへ。活字は衰退し、インターネットの時代になったが、果たして影響力は活字の時代ほどあるのだろうか。

 夕方、音楽情報を更新。
 子供が「学校の近くで捕まえた」とカナヘビの子供とカマキリの子供をビニール袋に入れて持ってくる。外にあった虫かごを駐車場まで持っていって洗い、その中に入れる。「明日になったら逃がしてあげるんだよ」にうなずく子供。
 夜になっても部屋の中はムッとする暑さが残る。今夜も寝苦しい一夜になるか。

9.00。「トリビアの泉」を見ていると、「自衛隊にはほかに売っていない独特のおみやげがある」とかいう問題。あからさまな自衛隊PR。一昔前なら「違憲の存在である自衛隊」がマスコミ・テレビに登場することはまずなかったことを思えば、隔世の感。フジ・サンケイグループ系列ならではの巧妙さ。もっとも、いまや自衛隊を「憲法違反の軍隊」とコブシを振り上げる人は天然記念物並みなのかも。私も滅び行くトキの仲間か……。

9月9日(火)快晴

 朝夕ようやく涼しくなったと思ったら、日中の気温は上昇。夏の暑さがぶり返したよう。
 昼休み、銀行に行きがてらこの前買ったロト6のクジを売り場のおばさんに見てもらう。機械に差し込むと、「当たってますよ」と驚いたような顔で言うので、一瞬、ドキリとしたが、4数字的中の4等。配当は7100円。それでも、うれしい。

 3.40退社。4.20、お茶ノ水。K記念病院で鍼。今日は中国から視察に来ているとか。鍼の本場から視察・研究に来るのだから、病院のK先生の腕は確かなのだろう。耳鳴りはこのところかなり調子がいい。

 5.30、新宿。タワーレコードで1時間ほどCDを試聴。エイベックスの新星・ASUKAの「BRAND NEW ARIA!!!」(1050円)とソニア・ローザの日本ファーストアルバム「センシティブ・サウンド・オブ・ソニア・ローザ」(2500円)を購入。GOGO! 7188のシングル「瑠璃色」は買わず。どうしてしまったのか7188。イージーすぎる楽曲。聴かれたものじゃない。

 7.30、シアター・トップスで泪目銀座「3つの事情」。GエルディのS戸さん、プロデューサーのA井さんに挨拶。

 男女交際プロデュース会社が企画した地方でのお見合いイベントに参加した独身女性3人のそれぞれの事情と友情を描いた福島三郎の新作。シチュエーションコメディーを書かせたら三谷幸喜に次ぐ実力派…のはずの福島三郎だが、今回もまた脱力系。本題に入らず、同じ所をグルグル回っているだけの「くすぐり芝居」。

 オオミズウオなる祭神の置物を第一の登場人物、山下容莉枝が壊し、繕ったものを今度は西牟田恵が壊し…という古典的ともいえる「壷壊しコメディー」をヒネリもなくまさかそのまま乗せようとは。好漢・福島三郎、疲れ気味?
 しかも、西牟田、山下という小劇場系の生え抜きよりも、舞台は二度目でしかない櫻井淳子の方が華もセリフ回しも上手という皮肉。
 ウーム…。なんと言っていいのか。ひたすら忍従の2時間。

 10.30帰宅。高架の横を通るとセミの声。高架下のコンクリ柱にしがみついて、夜空に絞り出すような鳴き声をあげるツクツクホウシ。つい20数年前、この一帯は林だったという。立ち並ぶマンションの壁にすがりついて鳴くセミたちはその幻の樹林を夢見ているのだろうか。哀れ。もっとも、コンクリに囲まれて熱波に苛まれている人間も同じように哀れに違いないが。空を見上げると。煌々とした月。その下方に一際明るい星。一瞬、飛行機かと思ったほど。これがなんと火星とのこと。家に帰ると娘が起きていたので、ベランダに出て娘と双眼鏡で観察。「火星って、あんなにハッキリ見えるの?」

 ジャーナリストの斎藤貴男氏が次のようなことを言っていた。
 夜間定時制高校を現状の29校から15校へ半減させることを決定した大阪府教育委員会の会議で次のような発言が相次いだという。

”人間ちゅうのは、そんな夜行性動物とちゃうわな”
”バーやキャバレーでもあるまいし”
”挫折した子なんかに愛の手を差し伸べる必要はないんじゃないの”

 府教育委員である津田和明・サントリー相談役や井村雅代・シンクロ日本代表ヘッドコーチはこう言い放ち、「だから、定時制高校は潰してしまえ」との論理を展開したという。

 一方、東京都教育委員会の会議ではいわゆる教育困難校を「エンカレッジ・スクール」として位置付け、中退者が出ないよう工夫すると決めた席上、都教育委員の鳥海巌・丸紅相談役は「落ちこぼれの学校、とはっきり言えばいいのだ」と言い放ったという。定時制高校の廃止に抗議に訪れた生徒たちに都教委は「私立高校なら、そんな直訴をしたら退学だ。いやなら辞めればいい」と言ったという。

 定時制は勤労青年だけでなく、近年、不登校生徒の受け皿としての機能も担っている。
 エリート選別のための「ゆとり教育」、「愛国心教育」改革の裏で進行している弱者切り捨て。

 私の直近の世代は集団就職の世代。同級生だって上級校に進めるのはほんの一握りに過ぎなかった。就職しても向学心のある人たちは定時制で学ぶしかほかに道はなかったわけで、定時制の役割は重要だった。昔から厳然として全日制との差別はあったが、教委や企業の役員が、あからさまに差別するのとは話が別だ。

 「年金がある程度少なくなっても構造改革が進むのだったら仕方ない」「年寄りの年金が若い人の負担になるのだったら、年金はいらない」ーー新聞のアンケート結果を見て、ずいぶん、ものわかりのいいお年寄りがいるものだと思ったら、自民党総裁選に絡む自民党員の言葉だった。

 「構造改革」という言葉が小泉内閣の免罪符になっているが、ホントのところ「構造改革」っていったい何だろう…が大半じゃないのか。「勝ち組」が永遠に勝ち続ける構造を作り、「負け組」は永遠に切り捨てられる。それが構造改革の正体。まさに庶民殺しの論理。「年金がある程度少なくなっても」という「ある程度」を先の自民党員はどう考えているのだろう。

 教育も一握りのエリートと、その他大勢に選別される。「負け組」は仕事も選べず、行く着く先は国家の駒となって戦場へ。
 それを承知しながら、教委でエラソーに放言する著名人こそ、市中引き回し・獄門磔にすべきと思うが…。
 9月8日(月)晴れ

 朝、電車の中で土曜放送のFMシアター「クジラの消えた日」を聴く。

 シベリアの「チュクチ」と言う少数民族に伝わる創世神話を元にした壮大な叙事詩。人間の祖先はクジラと人間の女・ナウから生まれた双子の兄弟から派生したーーそのように伝えられるチュクチ族は1930年まで文字を持たない民族だった。口承による神話伝承はまるで、アイヌ民族のユーカラのよう。

 自然と共存し、生き物への感謝の念を忘れなかったチュクチの末裔たちは、やがて自然に戦いを挑み、自然を征服しようとする。海の生き物を獲り尽くし、終いには始祖・クジラさえも、禁を破り、ただの巨大な生き物として、殺戮、解体しようとする。

 幾世代にもわたって子孫の生活を見てきたナウは「似ていないというだけで、お前たちは兄弟を殺した。明日はお前たちが……」と言い残し、息絶える。

 自然と共存してきた人間は自らの驕り、高ぶりによってもろくも自壊していく。「大いなる愛の力が大地と海を結びつけたのだ。神々などというのはこの世にいない。あるのは宇宙を動かしている愛の力があるだけだ」ーーナウの言葉はまさに自然と共存し、生きてきた民族に共通する思想。
 李麗仙が老いたナウと語りを好演。構成・演出・音楽の妙ーー久しぶりに聴きごたえのあるラジオドラマを堪能する。

 3.30、ソニー試写室で「ボブ・クレイン」。ポール・シュレイダー監督の新作。

 1978年、アリゾナ州のモーテルで一人の男の死体が発見される。かつてCBSの人気ドラマ「0012捕虜収容所」で一世を風靡した俳優・ボブ・クレインその人だ。

 ラジオからテレビドラマの人気俳優へ。頂点を極めながら、その後、凋落の一途をたどり、不慮の死を遂げた一人の男の生涯を、60〜70年代のショービジネスの世界を忠実に再現しながらリアルに描いた悲喜劇。
 親友・カーペンター(ウィレム・デフォー)とのコンビで欲望のおもむくままに快楽の階段を転がり落ちるボブ(グレッグ・キニア)の軽薄ながら憎めないキャラクターにちょっぴり辟易。酒もタバコもやらない男の唯一の趣味である写真、ビデオがポルノ撮影、コレクションに変じていくのはソニーのビデオ開発と軌を一にするという時代の皮肉。性描写が多いため、やたらとボカシが入る。全体のトーンの軽さにも関わらず、なんだかドンヨリと暗くなってしまうのは、セクシャルな題材のためか。
 7.00帰宅。

9月7日(日)快晴
 
 9.00起床。昨夜録画した「白線流し 25歳」を娘と一緒に見る。「北の国から」と同様、俳優の成長を綴るドキュメントとしての楽しみもある。渉が園子ではない、ほかの女性と結婚を決意する心の過程の描き方にリアリティー。結婚は理屈じゃない…。
 25歳は「現実」に向き合う年齢なのか。それぞれの現実を抱える7人の青春との決別に涙。

 見終わってから高校同窓会の原稿チェック。生原稿のテキスト入力を同窓生のT橋さんにお願いする。例年、このテキスト打ちだけで休日は終わってしまう。T橋さんのお手伝いの申し出はありがたい。

 借用した写真をスキャナーで取り込み、原版はすぐに返却することにする。古い貴重な写真があるので、紛失しないように、細心の注意。
 午後、「なぞの転校生」を見ているうちに、睡魔に襲われ、目覚めたら夕暮れ。起き上がろうとすると首の痛み。なんなのか?最近のこの首の痛みは。
 
9月6日(土)快晴

 PM1、天王洲アイル。アートスフィアで「I LOVE YOU 愛の果ては?」。1998年のオフ・ブロードウェイのヒット作の日本初演。16のエピソードと18のシーンで構成された現代のさまざまな愛の形。元宝塚のトップスター・絵麻緒ゆう、堀内敬子、川平慈英、戸井勝海の4人が早変わり。短いエピソードの積み重ねなので、休憩15分をはさみ、ニ幕2時間15分はアッという間。セクシーなオトナの魅力の絵麻緒、キュートな堀内。最新のオフ・ブロードウェイ作品らしく、セクシャルなセリフもポンポン飛び出し、テンポのいいエンターテインメント。さすがの山田和也演出。
 3.15終演。
 4.00帰社。築地の地下鉄駅で偶然、友人のY田ちよさんとバッタリ。横浜の劇団が近くの小劇場で公演をするので、それを見に来たとか。

 4.45、上野。O、D、Mさんと飲み会。一次会7.00まで。二次会は11.00まで。楽しい宴。つい飲み過ぎたようで、帰るなりバタンキュー。
 Mさんが個人的に出しているという手書きフリーペーパーを見せてもらったが、これがなんともウマイ。
 イラストと文章による映画・舞台評。そのさきがけは三留まゆみだったか。
 その才能をこのままにしておくにはもったいない。何か展開を…。
9月5日(金)快晴

 夏が戻ったような暑さ。
 4.00、お茶の水。K記念病院。女医さんだからか、受診者少なく、すぐに診察。

 電車の中で斎藤慎爾編「俳句殺人事件」を読む。俳句を題材にしたアンソロジー。五木寛之の「さかしまに」は75年の作品。70年代の五木作品らしい端正な作品。男女の心の機微の描き方、こんなにうまかったのか。もうずいぶん五木氏の小説は読んでいなかった。

5.00帰宅。同窓会の原稿をテキストに変換。果てしなく手間のかかる作業。8時までかかって3分の1。9.00。文化祭の準備で遅くなった娘を迎えに駅まで。外国人女性の客引きが十数人たむろしている。引っ越した当初は風俗店など一軒もなかったのに。鬱陶しい。

9月4日(木)快晴

 昼休み、久しぶりに隅田川河畔を散歩。川面にたゆたう水クラゲ、公園の人口池の水面を滑るアメンボ。水は生命の源なのに、ほとんど生き物の姿が見えない。タガメ、ゲンゴロウ、ミズカマキリ……どこにでもいた水生動物は今では水族館でしか見られない。

 帰社すると、受付に分厚い紙袋。高校同窓会事務局のS畑氏が、会報の原稿を届けてくれたとのこと。今年は寄稿も多いようで、編集するのが楽しみ。

 PM6.00、両国。デニーズで食事。野菜雑炊680円。塩ラーメンの出汁を使ったような塩辛い味。まずい。おまけに空腹感満たされず。フレンチトーストを追加して、食後に深煎りコーヒー。計1500円弱。これなら最初からステーキ定食でも頼めばよかった。

 7.00、シアターX(カイ)で、「ブレヒト的ブレヒト演劇祭」オープニング作品「眉間尺」。

 父の仇である国王の命を狙う一人の少年・眉間尺(大川亜里沙)。彼が持つのは父が鍛えた一振りの剣。国王(林正樹)の姦計で召し上げられた、もう一振りの剣と雌雄のツガイとなるこの剣の切れ味たるや、首を跳ねられてもそれと気づかぬほどのワザもの。

 しかし、ナゾの奇術師(青江薫)が仇討ちに加勢しようとして、誤って眉間尺の首を刎ねてしまう。

「たいくつ病」の国王の前に、剣と奇想天外な奇術をエサに眉間尺の首を差し出す奇術師。機を狙って、国王の首もポロリ。煮えたぎる大釜の中でくんずほぐれつの2つの首! 眉間尺危うしと見て、奇術師が自らの首をひと撫で。かくして、3つの首が大釜の中で、激しい戦いを……。

 首が刎ねられても、その敵のノド笛に食らいついて、仇を討ったという魯迅の小説「鋳剣」に想を得た花田清輝の「首が飛んでもーー眉間尺」をもとに、白石征が脚色・演出。

 原作はオムニバス作品の中の一編で、40分ほどの短編作。それに元になった中国の故事、魯迅の小説、花田戯曲の3つを盛りこんで、1時間30分の作品に仕上げた手腕はさすが。
 ファルス仕立ての舞台は、筋を追うだけでも十分に面白い。俳優たちも達者な演技。名前のある役者は山上優のみ。ただし、意外に精彩がない。眉間尺の母と国王の妻との二役だが、二役の関連性は薄く、意味のある二役とは思えないが……。
 青江薫は見るほどに、藤岡弘そっくり。堂々とした押し出し、声の良さ。林正樹ともども、いい役者になりそう。

 それにしても、こんな面白い戯曲が今まで一度しか上演されなかったとは。オムニバスの一本という制約もあるだろうけど、再構成して上演した価値はある。

 シャレコウベになった3つの首が砂塵の中に取り残されるラストシーン。家臣も王妃もどれが国王の首なのかわからず、まさに思案投げ首。王と特定できなければ埋葬もできない。あげく、王妃さえ、「3つを同じ場所に埋めておけばいい」と去っていく皮肉のきいた終幕。

 土俗と見世物という「前近代」から「時代」を撃った花田清輝ならではの諧謔。

 首が三つ巴で戦うシーンは、舞台の要なので、もう一工夫必要と思われるが、それでも作者の意図は十分伝わってきた。

 終演後、T京ビデオセンターのN村芙美子氏を紹介される。白石氏と学生時代からの友人とか。NHK「私はあきらめない」など、ドキュメンタリーを中心に作っている制作会社。実にはつらつとして、好奇心旺盛、女子学生がそのまま年を重ねたというたたずまいのN村氏。二階のレストランでビールを1杯飲み干す間もなく、翌日の見世物イベントの打ち合わせに入らなければならない白石氏。9.00退出。10.00帰宅。

9月3日(水)快晴

 8.30起床。
 昨日の消えた文書を探そうとさんざん試みるも、もはや打つ手なし。
 仕方なく、また書いてみるが、同じことは書けるはずもない。二度と失敗しないように、最初に「名前をつけて保存」にしなきゃ、と反省。
 
 半日、部屋の掃除。夕方、ダイエーで買い物。その後、整骨院。外は突然の雷雨。電気治療の途中で停電。すぐに回復するが、まるで滝のような大雨。マンションまで10秒なのに、プールにつかったようにズブ濡れ。
 CD焼き4枚。夜は久しぶりに家族とテレビを見ながら団欒。
9月2日(火)快晴

 電車の中で「ネグリ 生政治的自伝 帰還」を読む。イタリア「赤い旅団」の最高幹部としてデッチ上げ逮捕され、獄中から国会議員に当選するも議員特権を剥奪され、フランスに亡命、大学教授をしていたが14年ぶりにイタリアに帰還し、マイケル・ハートとの共著「帝国」が話題となっているアントニオ・ネグリ。その思想と人生をAからZまでのキーワードでたどった平易なインタビュー。くいくいと読ませる。

 仕事はさくさくと進み、つつがなく終了。

 4.30、渋谷。イメージ・フォーラムで「レボルーション6」を見る。次の予定までの時間つなぎのために入ったのだが、予想外の大収穫。こんなにも心躍らせ、胸を熱くする映画はかつてなかった。迷わず今年のベスト。いや、生涯のベストにしたい。

 ベルリンのクロイツベルグ地区、マッハナウ通り。かつてそこでは、6人の仲間たちが廃屋となった建物を不法占拠し、帝国主義と資本主義に対してアナーキーな抵抗運動を繰り広げていた。しかし、東西の壁の崩壊やドイツ統一といった急激な社会の変化のなかで、仲間はバラバラになり、15年後の今も建物に不法残留しているのは、夢と情熱を失わないティム(ティル・シュヴァイガー)と車椅子の生活を送るホッテ(マーティン・ファイフェル)の2人だけだった。ホッテが両足をなくしたのは警察の放水車に轢かれた事故が原因。

 ある日、空き家となっている豪邸で爆発が起こる。15年前に彼らが仕掛け、不発に終わった爆弾の時限装置が不動産屋の訪問で、目を覚ましてしまったのだ。警察の捜査を指揮するのは、80年代に不法占拠者たちと渡り合った老練なマフノフスキー刑事。

 一方、ホッテの不法占拠に手を焼いた管理人は警察に介入を頼み、不法占拠の証拠品を押収していく。しかし、その中にこそ、かつて6人が「グループ36」として、映画撮影した当時の犯罪を暴露するフィルムが紛れ込んでいたのだった。フィルムを取り戻さなければ、彼らは破滅することになる。こうして15年ぶりに6人が再会することになる。

 …とまあ、導入部の筋書きだけを見れば、次の展開が読めそうな気になるかもしれないが、どっこい、このドイツ映画はそんじょそこらの懐メロドラマにはならない。

 むろん、2人以外の4人ーーマイクは、広告業界で成功を収め、テラーは、検察官を目指し、ネレは、シングル・マザーとなって子育てに追われる毎日。そして、ティムの恋人だったフローは、流行のファッションを身にまとい、ハイソサエティーな恋人を持ち、豊かで安定した生活を手に入れようとしていたーーと人生流転。
 当然、彼らの再会はぎこちなく、気まずいものになる。
 だが、フィルム奪還の一点で再結束し、ある奇想天外な作戦を練るのだが…。

 この後の展開のなんとスリリングなことか。

 劇中、消火器の泡が舞う中、6人の笑顔がスローモーションで流れる美しくもせつない幻想的な場面にこらえきれずに滂沱の涙。彼らがフィルムを取り戻そうとするのは実はフィルムに刻まれた夢を取り戻すということなのだ。この「泡」シーンを見るだけで、「生涯の1本」は決定したも同じ。

 監督のグレゴー・シュニッツラーはミュージックビデオ出身ということで、映像はスタイリッシュ、脚本は起伏・娯楽性に富み、パンクとリリカルな音楽の融合、見事な人物造形の俳優ーーすべてにおいて満点。2003年現在、自分にとって百点満点の映画はこの映画だけ。青春映画としてベスト中のベスト。

 ホッテ役のマーティン・ファイフェルは「当時、建物占拠の戦いをし、テロリスト拘束に抗議する運動をしていた。だから、このようなユーモアとアクション満載の商業的な大作という形で題材にアプローチすることに、とまどいを感じていた。真剣に闘った仲間に対して公平でいられるのか、。エンターテインメントにしていいのか、とね」と語ったという。

 表現者は「公平さ」に対して厳しく自問する責任がある。その「公平さ」の立脚点をどこに置くか責任が取れないから日本ではいまだに60〜70年代の全共闘映画が生まれないのだろう。
 だから、「突入せよ!あさま山荘事件」のように権力側からの視点に立った映画か、あるいは「光の雨」のように、辛気臭い内省映画にしかならない。

 終幕のワンシーン。朝焼けの中をどこまでも歩いていく6人の姿を思い浮かべると、いまだに胸がいっぱいになる。

 警察との攻防戦に現実味がない、ドイツの警察はそんなに甘くはない、「向こう側」に行った人間がたやすくかつての仲間と和解するはずがない、単なるノスタルジーに過ぎない…などと知った風に批判するムキは人生にとって「青春時代」の何たるかを永遠に理会することがない不幸な人たちだ。

 そう、これはファンタジーに過ぎない。しかし、そのファンタジーを信じることができない人生とはあまりにも貧しい人生ではないのか。眼を閉じさえすればたやすく消滅する現実と、眼を閉じたところから始まる幻想。どちらが信じるに値するか。たかだか百年にも満たない人生、夢を見る心だけは失いたくはない。この時代など、「ただの現在に過ぎない」のだから。


 もし、明日死ぬとわかったら、迷わず、前の日にこの映画を末期の眼に焼き付けてから死にたい。そんな映画に出会った偶然に感謝したい。

 4時の回の観客数わずか3人。本来なら、丸の内ピカデリーなどの大劇場で上映する価値のある映画だと思うのに。6.25終映。

 夕暮れの渋谷をパルコ劇場へ歩を進める。

 7.00、パルコ劇場。シアターナインス「実を申せば」。松本幸四郎、杉浦直樹ががっぷり四つに組んで、実に見ごたえのある舞台。幸四郎が安物の詐欺師を演じており、いつもの重厚さとうってかわった「軽さ」がウマイ。対する杉浦は足を洗ったその兄貴分という役。妻を失って引きこもりがちな父のを見かねた娘が、幸四郎を呼ぶが、幸四郎の狙いは、再び兄貴分と組んでデカイ仕事をしようとの狙い。娘の恋愛、小さな劇団の女優のちん入も絡み、物語はだまし・だまされの「スティング」状態。水野真紀はすっかり舞台慣れ。劇団員役の松本紀保に幸四郎が「うまくなれよ」と言うシーンで思わず微苦笑。
 マキノノゾミの脚本・演出は安定していて、スッキリまとまった2時間30分。これなら杉浦・幸四郎も満足か。
 9.40。相変わらず眠らない喧騒の町・渋谷。

 11.00。電車の中で「ヒメゴト花火」をエンドレスで聴きながら、脳裏に浮かぶのはやはり「レボルーション6」。「セコーカス・セブン」「再会の時」と見比べてみようと思い「TSUTAYA」に立ち寄る。しかし両作品とも「置いてません」とのこと。思わず「ウソでしょう?」と店員に言ってしまう。ビデオ屋なら置いてしかるべき名作ではないのか?

 帰宅し、「レボルーション6」を中心にした日記を書く。2時間後、さて、アップするかと、文書をコピーしようとした瞬間、「不正な…」のエラーメッセージでエディター強制終了。まあ、コピーは出来ただろうと貼り付けようとしたが「?」。できない。あわてて、バックアップホルダーを見るもデータがない。自動保存にしてあるから、大丈夫だろうと高をくくっていたら、パソコン内のどこにも保存されていない。不可解。「noname」で上書きされたか。ショックで茫然自失。


9月1日(月)晴れのち曇り

 ここ数日、急に日が短くなった。いつもならアラームが鳴る前に外の明るさで目が覚めるのに、今日は外が暗い。時計を見て初めて起床時間だと気がつく。霧雨。セミの声もパタリとやんでしまった。短すぎる夏の終わり。


 悪い冗談としか思えない「モーニング娘。」の自衛官募集ポスターに続いて、8月30日に御殿場で行われた陸上自衛隊の「富士総合火力演習」で、自衛隊がまたもや「モー娘」を担ぎ出そうとしていたという。

 なんでも、「つんく」に自衛隊演習をプロデュースさせ、戦車が実弾を撃ちまくる横で「モー娘。」がライブをやるというプランだったとか。さすがに防衛庁職員の抵抗にあって実現しなかったが、当日の演習場にゲストとして「つんく」の顔があったのは「ポスター」への答礼だけではなかったわけだ。

 「モー娘」起用の発案は石破防衛庁長官。軍事オタクのお坊ちゃんはアイドルおたくでもあった。
 国民の税金3億5000万円余りが、文字通り、弾薬の煙となって消える演習の引き立て役に年少アイドルが使われる時代。欧米では、「モー娘。」のように年端もいかない少女にセクシーな衣装と振り付けで歌を歌わせるのはほとんど幼女ポルノと同等の犯罪的行為だと言ったのはディーブ・スペクターだったか。

 その伝で言えば日本は政府が率先して幼女ポルノを推進しているようなもの。「モー娘」を政治の道具に差し出す「つんく」は置き屋の旦那か。ま、最近はスポーツ式典で「君が代」を何の抵抗もなく歌うロックシンガーたちがいる時代。タレントに矜持を求めるのは、八百屋で魚の類だろうけど……。

 「イマジン」はオノ・ヨーコとジョン・レノンの共作だったと、英紙報道を報じる一般紙。しかし、どこが共作なのか、アルバムと曲をいっしょくたにしており、よくわからない記事。

 チャールズ・ブロンソン死去。ブロンソンといえば、「雨の訪問者」だ。三船、ドロンと共演した「レッドサン」を見たのは高校生のとき、むつ市の「銀映」だったか。

 5.00帰宅。駅を降りて、BRさんに電話。北海道からフェリーで南下し、今、大間にいるとの情報がOさんから寄せられたので、激励電話。職を投げ捨て、全国を巡っているBRさん。30代のうちに、1カ月でいいから束縛されない自由な旅をしてみたかったなぁ…とついついうらやましくなるが、たぶん、状況が許しても、できなかっただろうし……。でも、やはりうらやましい。

 5.30、歯医者へ。この前の知覚過敏の治療が不十分のようで、まだ水にしみる。「プラスチックが壊れてますね」と担当医。歯の表面に塗るプラスチックはすぐに壊れるものだが、ちょっと早過ぎないか。
 6.30帰宅。
 息子とお祭りで買った伸縮紙筒で戦いごっこ。
「最近、急にトシとったんじゃない。なんかカッコ悪いよ。ハツラツとしてないし」と娘。ウーン、確かに疲れている…。プチ・ショック。

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