8月31日(木)晴れ

 朝からフル稼働。午後からは「走りながら考える」状態。尋常じゃない。
 1630、ようやく本日の仕事終了。こうなることを予測してお茶の水のK記念病院をキャンセルしておいて正解。
 いつもなら新宿でT氏と会って打ち合わせだが、今回はパス。1800帰宅。

 このところ疲れがたまってるのか、遅くまで起きていられない。睡魔との戦い。「下北サンデーズ」を見てから22.30就寝。「サンデーズ」次週で最終回。予想外の早期終了。

8月30日(水)晴れ

 休日。0800起床。ゴミ出し。

 午後、シェアウエアの系図ソフトの本使用キーナンバーが届いたので、除籍謄本を元に、家系図作りに傾注。まずは父方から。

 役場の除籍謄本から遡れるのは文化2年(1805年)生まれの高祖父の父親まで。さらにその父親は何年生まれかは不明。宝暦あたりか。自分の系図をたどるのは結構スリリングなナゾ説きのよう。それにしても、昔の家の子だくさんなこと。しかし、生まれてすぐに亡くなる子供も多いわけで……。会ったことのないご先祖様たちの人生に思いを馳せるのも一興。

 今日は母の月命日。和菓子を備えて仏壇に手を合わせる。次は母方の系図作りか。

 夜、SZに電話。「送り忘れてました」と。よかった……。

8月29日(火)晴れ

 連休、出社、休日……ついつい浮き足立ってしまうような一週間。

 17.00、田舎から法大にスクーリングに来ているN谷さん歓迎飲み会。M田さんと三人で神楽坂の沖縄料理店へ。社会福祉士の資格を取るために頑張っているN谷さん、その熱意と向学心に頭が下がる。あれこれ四方山話で大笑い。

 2100、河岸を変えて、近くの「樽八」へ。この店は大間出身の女将さんが切り盛りしている。すぐそばのイタリアレストラン「トリノ」はそのお姉さんが経営。
 先日の高校同窓会の席で、この店の女将の旦那さんが民藝の俳優・佐々木梅治さんだと知って驚いたのだった。店に入ると、その佐々木さんがカウンターに。以前、元ジァンジァンの菊地さんの紹介でお会いしたことがあるので挨拶。「どうも、その節は……」と佐々木さん。

 カウンター10席余りのこじんまりとした店は常連客でいっぱい。なんとか席を空けてもらい、3人で乾杯。
 「実は……」と、大間の話を出すと、女将さんも佐々木さんもビックリ顔。それから話の弾むこと。女将さんはN谷さんのお母さんと同級生とか。店には大間関係者が上京するたびにやってくるとか。
「今週、金澤町長も来るって言ってたなぁ」と佐々木さん。文学座や昴などの役者も打ち上げの流れでここを利用するとか。なんと、ここは青森と演劇と地域住民の交流地点。神楽坂の一等地にこんな店があったとは。
 佐々木さんに初めて会ったとき、神楽坂に店が……という話を聞いたが、もっと突っ込んで聞けばよかった。
「今は吹き替えの仕事が多くてね。今度、WOWOWで太陽の黙示録っていうアニメの吹き替えをやります。面白いから見てください」「宮廷女官チャングムの誓い」「パーレーツ・オブ・カリビアン」などのアフレコでも活躍している。
「(一人芝居)”父と暮らせば”は今年もう26回公演です。去年よりも公演数が多いんです。10月は六戸で公演します。それやこれやで、忙しくて劇団の公演にはなかなか参加できません」

「ここには大間の原発建設に最初の段階から関わった電力関係の重鎮も顔を出すんです。私の”父と暮らせば”も何度も見に来てくれる。しかも、その方は広島で被爆している。それなのに、原発推進の旗振り役を何十年にも渡って務めているんですから……。人間というのは不条理なものですね……」

 2200、N谷さんは一足先に引き上げ、あとは2300まで。3人が大間だと聞いたとたん、自分も大間弁でしゃべり、笑う女将さん。それは懐かしい故郷の響き。心地よい酔いに身を委ねながら家路に。2415帰宅。
8月28日(月)晴れ
 
 最後の夏休み1日分。ゆっくりのんびりと思いつつも、この前の写真を発送したり、日記をまとめてつけたりと、一日はあっという間。

8月27日(日)晴れ

 昨夜の疲れと、沢で足を滑らせたときに打った右ひざの痛みがあるため、躰道稽古休み。

 大会まであと10日。大丈夫か?

 午後は家人の買い物の付き合いで1900まで。ヘトヘト。
 ダイエーの1階で古書店フェア。いまさら欲しい本などないが、1960年代の少年マガジンやマーガレットに食指。1957年の明星、マーガレットの創刊号など合わせて6200円。少年マガジンなど1冊2000円以上。高い。
 夜、寝しなに読むとこれが意外と面白い。丸山明宏(当時)さんがまだシスターボーイと呼ばれている頃。男装のりりしい姿。昔の芸能雑誌は読みごたえ十分。

8月26日(土)晴れ

 朝、Sさんから電話。Y駅にいるという。Iさんも。万全の構え。
1800まで会社で仕事。今日はマンションの祭り。帰宅すると、近所の子供たちが占拠。祭りの流れで2300まで、ほかの家族と家で飲み会。疲労困憊。

8月25日(金)晴れ

 なんとはなしに過ぎる一日。夕方、早めの帰宅。

8月24日(木)晴れ

 帰京翌日は憂鬱な一日に。ま、毎度のことなのだけど。
 なんとか乗り切れば、あとはまた同じ日常。

 1620、K記念病院で鍼。1740、新宿。トップスでT取さんと打ち合わせ。
1900、トップスでモダンスイマーズ「赤木5兄弟」。蓬莱竜太の作・演出。

 多作なのに質を落とさないのはすごい。
8月23日(水)快晴


 0700起床。燃えるゴミ出し。
 0800、親戚の家へ挨拶回り。

 母方の実家に行くと、亡くなった伯父の妻、義理の伯母が茶飲み友だちと談笑中。
 気になっていた本家のルーツ探しに関することを聞いてみる。

 祖母が生きている頃、隣村・原田に養子に行った人の子孫という女性が訪ねてきたことがあったという。「どこから来たのかおぼえていない。でも、その人が持っていた昔の写真が、うちにもあったのでびっくりした。それは、ソフト帽に背広姿でステッキを持った男の人が写ってる写真。その家には、刀剣や掛け軸があったそうだ」

 当時は、「付き合いのない遠い血縁の人とは関わらないほうがいい」という叔父の判断で、結局、訪ねてきた人とは没交渉。その人がどこからやってきたのかも判然としないという。

 そして、二度目は、祖母が亡くなった後。今度は、北海道のどこかから、立派な身なりの夫婦連れが、材木の佐々木ハルジ(春治?)さんを訪ねてきたという。この時も、「関わらないほうがいい」との進言で、会わずに帰したとか。なんと、祖先探しのチャンスを逃していたのか。
 このときの夫婦がもしかしたら、桜井大造氏の姉が嫁いだ家の両親なのかもしれない。

 ソフト帽、ステッキ姿の男の写真も祖母が亡くなったあと、どこかに紛失したという。惜しい。手がかりはあったのに。



 ふと、小学校の旧校舎が見たくなって小学校を訪ねてみる。今まで何度となく帰省しながら、小学校を訪ねるなんて、そんな気にもならなかったのに、不思議。
急に木造の旧校舎が気になったのだ。今の校舎は20数年前に建てたもの。旧校舎はそれに付随する形で一部が残っている。

 思い立って、校門に立つと、明日から始業式ということで、先生方が何人か校外活動。その中の一人の男の先生に訪問目的を告げると、「どうぞどうぞ、中に入って見ていってください」と歓迎してくれる。

 旧校舎事務職員の案内で、旧校舎へ。不思議な感覚。卒業してから40年近い年月が流れたというのに、目の前には、卒業式の日、お世話になった先生がたの教室を回って挨拶した時の光景がよみがえる。廊下も壁面も、黒光りする板そのまま。懐かしい記憶。部分的に残っているだけなので、最初は、思い出せなかったが、次第に、当時の学校の全体図が浮かんでくる。中央廊下があった場所は壁でふさがれているが、そこに、自分の風景画が飾られていたのだ。小学校5年の時に描いた町の風景。あの風景画はどこに行ったのか。




「職員室でコーヒーでも飲んで行きませんか」と事務員。

 職員室も昔と違って小さな一室。十数人の先生方。
 校長が「まあ、どうぞこちらへ」と校長室へ。

「卒業した頃の校舎はどうだったんでしょう。残念ながら昭和30年代の写真はほとんどないんですよ」

 校長室に飾られた校舎の俯瞰写真も昭和40年代以降。校舎脇にプールがあるのは、自分が卒業してかなり後の風景だろう。

 しかし、写真よりも貴重で懐かしいものを見せていただいたのには感動。それは、当時の教員の教務日誌。創立以来の資料が残っている。その中には、私が在学中の教師の日誌も。
 北村先生、西村先生、山道先生、樋口先生、山形先生……。それぞれの肉筆の日誌。「異常なし」「〇〇先生出張」

 あの頃の先生はたぶんまだ20代から30代だっただろう。どんな字を書いたかおぼえていないが、その日誌の字を見ただけで、先生の顔が浮かんでくる。

 よかった。訪ねてみて。

 旧校舎は数年後には改修するとか。

「20年前に建てた体育館はもう、ガタがきてるし、ほかの校舎も雨漏りがするのに、旧校舎はびくともしないんです。昔の大工の仕事がいかに素晴らしいかですね」と校長。

 秋には旧校舎を使って石原プロのテレビドラマのロケがあるとか。

 別れ際に、佐藤校長の出身と年齢を聞くと、なんと、同じ高校の出身。しかも、1学年先輩だ。世間は狭い?

 10.00、墓参りを済ません、戸締りをして家を出る。わずか3日だけの我が家。しかし、今回の帰省は何十日分もの充実感があった。

 おそらく、家の中から手を振っているであろう父母に別れを告げて、クルマは始発駅の大湊まで。

 途中、島製材所に立ち寄ると、旦那さんが「今、保養センターで打ち合わせしてますよ」というので、保養センターへ。支配人のミッカとヤスコさん打ち合わせ中。割って入って、おしゃべりして5分で退散。疾風のように現われて……。

 1200、むつ市。友人のYに会おうと思ったが、会議に出席とのことで会えず。残念。
 まさかりプラザでほたてラーメン。

 1300、明神町の親戚に立ち寄り、仏壇にお線香。もうじき13回忌というK上さんのおばあちゃんは祖父の妹という縁筋。祖父が生きている頃はよく本家にも訪れたものだったが、子供の自分には、そんな縁戚はよくわからなかった。高校時代にお世話になったおばさんたちは、父の従妹ということになる。

1330、レンタカー返却。

1415、出発。車内満席。早めに並んだので座れたが、荷物が多いため、乗換えが大変。

1842、新幹線でO宮駅着。

 新幹線を降りて、在来線に乗り換えようと改札を出た瞬間、猛烈な疲労感に襲われる。人、人、人……。群れをなす「人」を見たとたん、吐き気にも似た嫌悪感に襲われる。

 普段気にも止めていない光景が、突然、不快感を伴って飛び込んでくる。


 これじゃ、都会人がストレスを感じるのも当然だ。
 よく、みんなこの人波の中で生きているものだ……。今まで何十回となく繰り返してきた「帰京」で、たぶん初めて感じた疲労感。

 帰省し、帰京する度ごとに増すこのイヤな感じ。単なる「ホームシック」とは違う。根源的な「疲れ」なのか。

 日差しを浴びて、自然の中で過ごした短い日々。山の気にあてられたか。むしょうに、田舎の暮らしが恋しい。

 テレビも新聞も見なかった4日間。誰と誰がくっついた、殺された、虐待された……そんな活字が躍る生活とは無縁の暮らし。もっと違う人生であっていいのでは。

 都市生活の最前線で身をすり減らして生きていく。魂をすり減らして何かを失っていく……。
 猛烈な欝に襲われて足がすくんでしまう。

8月22日(火)晴れ時々雨

 0630起床。押入れの中、タンスの中を点検。何点か父の遺品を整理。

 しかし、家中に父と母の洋服は眠ったまま。


 世の中の遺族は、亡くなった家族の遺品をどう処理しているのだろう。そのままにしておくしかないにしても、いつか整理しなければならないだろうし。自分のように一人っ子だと、この先、この家や土地、田畑も含めて考えなければならないことが山積している。

 漠然とだが、あと35年は生きたいものだと思う。35年は16歳から今までの人生をもう一度やり直せるということと同じ。高校生から今まで……そう考えると、なんとなく安心する。

 10.00、思い立ってドライブへ。名勝地・仏ケ浦。昔と違って道路事情は格段と良くなっただろうし……。そう思ったのだが、福浦港から先は曲がりくねった山道。そう簡単に仏ケ浦にはたどり着けない。

北限の猿 出発して約1時間で到着。途中の道で、目の前を何かが横切ったので驚いてよく見ると数匹の猿。ガードレールにちょこんと乗っかり、こちらを見ている。野生の猿がこんなところまで。しかも、あまり人を恐れる気配はない。

 近くに「野生の猿にエサを与えないでください」の看板。脇野沢村の猿被害の話はよく知られているが、まさか、このへんにまで出没するとは。

 熊といい猿といい、私が子供の頃は見たことも聞いたこともない野生の獣が里に下りてきている。山が人の手によって乱開発されている証拠。物欲しげな猿の表情があわれ。

仏ケ浦 長い木の階段を下りて仏ケ浦海岸に到着。時期外れだからか人の姿も少ない。巨大な岩のオブジェにはいつもながら圧倒される。

 前から歩いてくる男の人とすれ違った瞬間、俳優の梅沢富美男だと気付く。二週間ほど前に、テレビの「いい旅夢気分」で下北めぐりをしていたっけ。地元情報通によれば、「よっぽど気に入ったらしく、帰京後すぐに座員たちを連れてもう一度下北を訪れたい」と語っていたとか。22日に来るらしい、の噂。やっぱり噂は本当だったか。観光船をチャーターして仏ケ浦めぐり。豪勢だ。

 この一帯は携帯電波が届くので、T市に住む友人のKさんにメール。すると、今、旦那さんと尻屋崎にいるとの返事。なんという偶然。同行の親戚と恐山観光をするとか。
 私も恐山に行くつもりだったが、こちら方面に来るかもしれないので待機。結局、途中で断念したというが……。

 その間に、仏ケ浦に来ていたE子さん一家は恐山に向ったとか。ウーン、高校生の時に交流のあった二人の女の子(当時)の軌跡が錯綜している。

 結局、午後から夕方まで家の片付けで終始。夜8時、もう街は静か。昼の疲れもあって早めに就寝。最後の夜。

8月21日(月)晴れ

 布団を敷いた二階の部屋にはカーテンがなく、朝の光が直接差し込むため、知らず、目覚めが早い。有線放送で「私の青空」のテーマ曲が流れる前に掃除を始める。カーテンを洗うと洗濯機の水が真っ黒に。母が亡くなってからおそらく一度も洗っていなかったのでは。きれい好きの父もカーテンには気が回らなかったようだ。

 玄関の戸、窓、台所、洗面所、トイレ……。掃除上手だった母と同様、父も、まめに掃除をしていたからか、表面のほこりを落とすだけでピカピカになる。

 0900、いったん掃除終了。

 迎えに来てくれた遠縁のK山さん、従姉の夫・Kさんと連れ立って山へ。

 今回の帰省の目的の一つは、K山さんが川釣りの途中、見つけたという「鳥居」にお参りをすること。

 鳥居は、人の背丈くらいの大きさで、営林署の職員が、伐採のため、山に入るとき、山の神様に祈りをささげるために作ったものという。昔からの風習で、12月12日に、杣夫(山子=やまご、木の伐採に従事する人)が全員集まり、安全祈願をしたものという。K山さんは偶然、山の中でこの鳥居を見つけ、そこに墨文字で書かれた父の名前を発見したのだという。

「何十年も前の鳥居なのに、字が消えないで残っていた」とのこと。

 その鳥居を見つけるのが、父の供養になるような気がしたのだった。生前、父からは一度もそんな話は聞いたことがなかった。父にとってはわざわざ話すほどのことではなかったのだろう。

 古木15分ほどクルマで進み、後は徒歩。まずは「イジチゲドウ」(一違道?)という沢道に。
「昔は誰も足を踏み入れない狭い道だったのに、今は自動車道が通って、誰でも簡単に来られるようになった。このあたりには、自分しか知らないマイタケやシメジの群生箇所があったのに、もうダメだなあ」とK山さん。
「この辺のヒバはうちの父や○○の父さんが植えたものに間違いない」

 K山さんの父親と私の父は山子仲間だった。確か血のつながりもあるはず。
「○○の父さんは、うちのオヤジを、”熊よりおっかない人だった”って、よく言ってたよ」

 鬱蒼とした山林。暖かい日差し。蝶が飛び交い、セミの鳴く声。
 思わず、「山はいいなあ」と一人ごち。母は漁師の娘だが、やはり「海よりも山が好き」だといっていた。父に嫁いだのはそのためもあったのか。
 秋の山菜採りには夫婦揃って出かけ、山歩きを楽しみにしていたものだ。

 母が自分の病気に最初に気がついたのも山の中での出来事だった。なんでもない丸太橋を前に足がすくみ、渡る事ができなかったという。バランス感覚の欠如。それが、母の病気の初期症状だった。

鳥居 さて、そのイジチゲドウから沢に下りたところで、K山さんが「ここだ」。

 声のする方を見ると、確かに「鳥居」がある。何重にも重なっているのは、何年も同じ場所に入山したからだろう。
 近くに行ってみると、一部は木が腐って傾いているが、墨で書かれた文字はハッキリ見える。
 目を凝らすまでもなく、父の名前が飛び込んでくる。
 ……感慨無量。古い鳥居から新しい鳥居まで。新しい鳥居の年号は昭和59年。父が56歳。今の自分とさほど変わらない。入山した年によって、鳥居の位置は変わるから、おそらく父の若い頃の鳥居は今もこの山奥のどこかに立っていることだろう(後で叔父に聞いたら、「一本杉」という場所にも鳥居はあるという)。
記帳
 墨痕あざやかに残る父の名を見ながら、山の静けさの中に身を委ねる。

「せっかくだから、もう少し先まで行ってみよう」
とK山さん。

 この先の沢は初めて踏み入る場所。子供の頃、炊事遠足で来たのはもう少し下流だったか。あの頃は線路もあって、それを伝って来たのだったが……。

 あの線路は昔、木材を運搬するためのトロッコが走っていた線路。やがて、ディーゼル機関車が牽引するようになったが、それまでは、麓から何十キロにもわたって、人力でトロッコを運び上げたのだとか。想像を絶する作業。しかも、その線路ができる前は、川を堰き止め、ダムを作って木材を下流に放流したという。川まで運ぶのは木材ソリ。
線路跡
「横に木をさし渡して、その上を馬ソリのように滑らせて川まで運ぶんだとか。猛スピードだし、丸太を背中に背負ってソリを操るわけだから命がけ。命を落とした人もいるそうだよ」とK山さん。

 そうか、ここでつながった。伯母から聞いた「山ソリ」の話が。
「あんたの父さんはソリを操るのがうまかったんだよ。急斜面を丸太を背中の荷台に積んで滑降するんだから、腕も度胸もなかったらできないよ。それが父さん、腕がよくてね」
古木2
「少し前まではトロッコの線路もあったけど、乱伐で土砂が崩れたりしたために、線路も埋もれてしまった」とK山さん。

 なるほど、川の沢にグニャリと曲がり、錆びたレールが埋もれている。無残な姿。

「林野庁も、調査だなんだって、こんな山奥まで自動車道を作って、そのために熊は山を追われて里に出るようになった。綺麗な沢も、木がなくなったために、保水力がなくなり、流れ出した土砂で埋もれてしまった。ここは昔はもっと綺麗な原生林の川だったんだ」と憤るK山さん。
原生林
 イワナが目の前の川の水を横切る。
 歩を進めるにつれて、原生林が広がる。樹齢500年、600年の杉。
紅葉の季節に来たらさぞかし絶景だろう。

 ひょい、ひょいと急斜面の沢を歩いていくK山さん。その後をついていくので精一杯の私とSさん。時々、巨木の根っこの間に堆積した土に足が吸い込まれ、滑り落ちそうになる。
 約1時間でかなりの山奥まで。さすがにK山さんもここまででお役御免と思っていたらしいが「せっかくここまで来たんだから、有名なオダキ(大滝)まで行きませんか」と私。こんな機会を逃がしたら二度と来ることはないかもしれない。
 せめて、どん詰まりの「大滝」まで行きたかったのだ。K山さんも、「まあ、あと15分くらいかな」

 大滝ところが、その15分が長いこと。ようやく「大滝」までたどり着いたのは、それから1時間後。
 9時半に出発して正午を過ぎている。二時間半も歩き通し。それも道のない沢を。最初、スニーカーで十分かと思ったが、父のはいていた長靴を見つけたのでそれに履き替えてよかった。父が見ていたら「山のことも全然知らなくて、このバガ」と言われただろう。

「大滝」の近くには「鉱山」があるらしいが、K山さんも行ったことがないとか。戦前、黄鉄鉱を産出し、麓に運ばれた黄鉄鉱の一次貯蔵所が生家の近く。こぼれた黄鉄鉱がいつしか地中深く埋もれ、子供の頃に、その一帯を掘り起こすと出る金色に光る石を「金」だと思っていたのだった。

 さすがに疲労困憊で帰り道の足取りは重い。熊避けにSさんが腰に下げた鈴の音がチリンチリンと山にこだまする。
 カモシカ白骨化した若いカモシカが川辺にあったが、熊に襲われたのかもしれない。
 熊避けには鈴や鐘が一番。

 帰りは下り道とあってか、来たときよりも早いペースで下山。1330には麓まで。

 1400、Sさんの家でシャワー。家に戻り、休む間もなく、掃除の続き。掃除、洗濯って心が休まる。

 1600、漁業組合へ。
 父の漁業権をどうするのかを相談。「もし、〇〇さんが将来田舎に帰ってきたとき、漁業権がないと、昆布採りの手伝いもできないし、海釣りに行って魚を獲るのも規制が厳しくなるから……」と漁協職員で、幼馴染のTくん。なるほど。そういう問題があるか。まさか将来漁師になることはないと思うが、漁業権は確保しておかないと。次に帰郷したときに手続きをすることに。

 次いで、役場に行って、ルーツ探索。除籍謄本を取って、父・母双方の先祖をたどってみる。除籍謄本5200円分。結構役場の書類は高い

 それから、懸案のハガキを印刷するためにDさんの家に。帰郷したばかりでパソコンも立ち上げたばかりとか。Dさんに感謝。

 帰宅し、レコードを聴きながら掃除の続き。


1900、O間の「T」でクラス会。生まれたときから小中学卒業まで一緒。72人の同窓生は4人が物故。地元にいるのは約3分の1か。東京組は私とEさん。そもそも、Eさんが帰省するというので急遽組まれたクラス会。20人が参加してわいわいガヤガヤ。三々五々集まり、自然に始まったので、乾杯の音頭も、しかつめらしい挨拶もなし。昨日、別れた友だちが、また集まったような、気安い集まり。こういう雰囲気はまさにわが故郷。

「じゃあ、○○さんから一言」なんていう会につきものの形式的なもの一切無し。飲み、話し、時間がくれば解散。

 深夜0時、二次会は地元へのスナックへ。数人が引き揚げただけであとは1時まで。

「それじゃ、おやすみ」 とぞろぞろと店を出たのが1時半。名残を惜しむでもなく、ごく普通に、また明日会うような、さりげない別れ。

 夫を病気で亡くしたN子、子供を亡くしたR子、妻子と別居しているH、妻子は実家に、自分は母親と同居しているS、独身のYとT……。中学を卒業して30数年もたつと、皆それぞれいろんな人生を抱えている。
 家に戻ると、点けっぱなしの電灯の光。待つ人のいない家のわびしさ。
0200就寝。

8月20日(日)快晴

 0530起床。0630駅へ。
 一人旅の気楽さからか、つい電車の時間に無頓着に。発車5分前にホームへ滑り込み。危うく新幹線に乗り遅れるところ。

「いつも、ギリギリに乗って……。もう少し余裕持って出ないと」と昔から父母に言われたものだ。今ではその教えどおり、家族旅行の時は、余裕を持たせるように、家族には時間をサバ読んで伝えているのだが、一人の時はつい昔のクセが出るものらしい。

 お盆の時期を外して帰省する人たちなのだろうか、新幹線は満席。八戸できらきらみちのく号に乗り換え、後はO湊まで一直線。乗車率は半分? 座席は窓の方に45度席を回転させることができるため、窓外の景色を眺めながらIPodに耳を傾ける。
 1310、O湊着。

 レンタカーに乗り込み一路我が家へ。見慣れた景色がフロントガラスを流れていく。「わが町」に入り、工事現場を迂回し「わが地区」に。
1430到着。
 熊避けのために、親戚が設えたという柵を通って自宅へ。
 半年ぶり。よどんだ空気が鼻腔をくすぐる。しかし、思ったほど「すえた匂い」はない。

 窓という窓、襖という襖を開け放つ。

 今夏、田舎に引き揚げた友人のDさんと老人介護センター「K」で待ち合わせ。職員のMさんと3人で旧交をあたためる。Mさんは独り暮らしの父を訪問してくれるなど、最後までお世話になった。今度はDさんの相談。老親の世話をするために帰郷したDさん。これ以上の親孝行はない。なぜ自分にはできなかったのか……。

 帰宅し、仏壇を開け、線香に火をつける。
いつも思う。なぜ、ここに二人はいないのかと。人は死んだら二度と還ってこない。改めてその現実を思う。

 不在の家。しかし、ここに立っている自分だとて、あと何十年かしたら地上から消え去る。

あとには、この家が残っているだけ……。自分が消えた後の光景を幻視する。なんだ、そうか。簡単なこと。あと百年もたてば、今生きている世界中の人も消えている。私たちは、今この瞬間に、地上に立っている影法師に過ぎない。その影法師が消えるのに20年、30年のタイムラグがあったとしても、いずれは消え去る影。恐れることはない。いつかは、父母がある日、目の前から消えたように、自分も消える。死を恐れることはない……。


 花を買ってくるのを忘れたので、クルマでMストアへ。ついでに朝食用のパンと牛乳を。

 バケツと桶を持って墓参り。お盆の名残があるかと思ったが、きれいに掃き清められ、墓石も汚れがない。親戚の誰かが掃除してくれたのか。

 1530、親戚回り。先日亡くなった父の勤務先の職員O部さんの家に弔問。
「急に病状が悪化して……」と奥さん。几帳面で生真面目。「定年退職する日まで職場の仲間のために書類仕事を続けていた。本当はその当時からだいぶ病状が進んでいたはずなのに」
 私が子供の頃、叔父と麻雀をやるために遊びに来ていた記憶があるが、長じてからは顔を合わせたのはほんの何度か。遺影は最近、運転免許を更新した時のものとか。白髪まじりではあるが、若い頃の面影を残している。

 定年退職後の父の社会保障関係の事務手続きなど、退職者の面倒を見ていたというOさん。どうして、いい人ばかり辛い目にあわせるのか。神を怨んでしまう。

 雑巾がけ、洗濯。布団干し。
 伯母の家に寄ると、「これから灯篭流し」とのこと。急遽、婦人会から灯篭を一つ分けてもらい、灯篭流しに参加することに。
「ちょうどいい時に来た。父(とう)も母(あっちゃ)も喜んでるベサ」と伯母。

灯籠 1730、集会所に灯篭を集めて念仏読経。本来は寺のお坊さんが読経する予定が、雨で順延になったため、予定が合わず、おばあさんたちが南無阿弥陀仏の念仏読経。

 その儀式が終わると、それぞれ灯篭を胸に抱き、鐘と鈴を鳴らしながら海岸へ。約30人。
 海岸に着くと100人余りがすでに集まっている。
灯りをつけた無数の灯篭が薄明の中に浮かび上がる。

 子供の頃、海岸から灯篭を流した光景を覚えているが、今は小船に乗せて沖合いまで運び、そこで海に流すのだ。
「みんなに遅れないように一緒についていくんだよ」
 年寄は、そう灯篭に話しかけるのだそうだ。

 灯籠流し日も落ちて、あたりは真っ暗。海岸から沖合いの灯篭の灯りが見える。 台座に発泡スチロールをつけた灯篭はそのまま潮に乗って流れていくが、ほかの多くは海に沈む。
 つまり、海の汚染物になる。この灯篭流しも環境汚染問題として一部で取り上げられ始めている。時代の趨勢。やがて、昔からの風習、灯篭流しも時代に合わせて変化していかざるを得ないのだろう。

 本家で晩御飯を食べ、その足で従姉の家へ。
 中学の同級生で役場勤めのHも顔を出し、深夜0時過ぎまで痛飲。笑いの絶えない席。


 Hの話によれば、大奥村だった昔、ここ奥戸は自治意識が高く、小学校も自分たちの浄財で建てたのだという。今でも「地区総代」の名称が残り、「地区総代費」が徴収されているのはその名残。逆に、大間地区は学校も町政から出した「町立」なのだという。

 両村の自治意識の違い。町政に寄りかかって、予算を按配する地区と、自分たちで学校を建てた地域の違い。なるほど、「自分たちが作った学校」だから、運動会が地域の大きなイベントになるはずだ。運動会になると、村をあげて人々が集まり応援する。就学児童がなくても年寄りはみんな集まってくる。むしろを敷いて応援。

 そうか、あの光景は「わが学校」意識の高まりだったのか。それで合点がいく。隣りの大間では、町民が運動会に参集する光景は見られない。子供の頃から、なぜ、村民が学校行事をそんなに大切にするのかが理解できなかったが、Hの説明で氷解した。「自治意識」−今こそ、わが村を誇りに思う。


家に帰り、布団に横になる。東京と同じように、蒸し暑く、タオルケット一枚で十分。

 昔、東京から田舎に送った私物の中にあった父母の手紙を読んでみる。

 30数年前、上京したばかりの息子の身を案じて投函した手紙の数々。「何も連絡がないので心配しています。せめて電話だけでもするように」

 70年代初め。母の文字。ちょうど、田舎に電話が入った頃だ。都会で暮らす一人息子を心配しているのに、私は電話一本の手間を惜しんだ。「わかってるよ」
 都会で悶々と過ごす10代の若者にとって、田舎からの手紙は苛立ちの対象だったのか。
「元気にしてますか。手紙が届いたら、電話だけでも……」

 手紙の文字が涙でにじんでくる。自分はなんという親不孝者だったのか。その親不孝は最期まで……。

 酔いと疲労と悔恨。何度も同じ夢を見たような気がするが……。


8月19日(土)晴れ

 さくさくと仕事を片付け、1500、下北沢。スズナリで少年王者館「イキル」。天野天街ワールド全面展開。夕沈ダンスもパワーアップ。独自性という意味においてこの劇団を超える劇団はない。めくるめくイメージ詩劇を堪能。終演後、天野天街と立話。あがた森魚さんも一緒。この前、寺山記念館で会ったばかり。
 
1900、すべての暗雲が吹き飛ぶ。これで心置きなく故郷に旅立つことができる。感謝。

2120帰宅。駅を降りると祭りが終わったばかり。帰り仕度の観光客たちの大移動。

 とにかく、すべては終わった。

8月18日(金)晴れ

 加藤紘一事務所焼き討ち事件に関して、マスコミは一様に口をつぐんだまま。テロによって相手を恐怖させ、言論を封じる。その意味で右翼の手口は成功している。他国のテロに関してはヒステリックに騒ぎ立てるワイドショー、そして新聞は犯人の所属団体さえ公表しない。テロの標的にされることを恐れて。

 午後、恐れていたことが再発。またしても地獄の一丁目。

8月17日(木)晴れのち雨

 1620、K記念病院で鍼。終わったらどしゃ降りの雨。傘を借りて新宿へ。
T氏と打ち合わせ。
1900、サザンシアターで「ニコラス・マクファーソン」。後藤ひろひと作、竹下宏太郎。小須田康人、みのすけ(ナイロン100℃)、三上市朗(劇団M.O.P)、六角慎司、平田敦子、アドゴニー、川下大洋(Piper)と面子は面白い。が、典型的な「くすぐり芝居」。まったく受け付けず。クスリともしないまま1時間半。

8月16日(水)晴れ

 休み。

8月15日(火)快晴

 コイズミ靖国参拝。「世界中が注視する”私的行為”」とはなんぞや。「心の問題」というならば、「殺された側の心の問題」はどうなるのか。夜郎自大とはコイズミのような輩を言う。
 強盗殺人犯が「鍵がかかっていないのが悪い。殺された家族にも責任がある」と居直っているようなもの。侵略された中国・韓国国民の憎悪はどこに向うか。それを、「外圧問題」と言い募る桜井よしこらの右翼言論人。天皇に敬意を表するならばこれは「国内問題」だといわなければならないはず。
 居直り強盗の類がニッポン人の間に増えている。「美しい国」とはよく言うよ、だ。

 靖国参拝客は昨年の三倍にも増えたとか。ただの空疎なカラ元気だけの男に熱狂する国民。ヒトラーに熱狂したドイツ国民と同じ。かつての道を逆戻り。急激に坂道を転げ落ちるこの国。
 地獄の一丁目。自分の家族は自分の手で守らなくてはならない。

 1630、新宿でT取さんと打ち合わせ。1900まで。途中、S氏から電話。が、現われず。

2000帰宅。ダイエーの安売りコーナーで田端義夫のCDを買う。「かえり船」「大利根無情」が聴きたくなったのだ。なぜか……。

 家に帰り、その「なぜか」に思い至る。父がよく歌っていたのだった。CDに合わせて口ずさむ。父はお盆で還ってきているのだろうか。今頃、故郷は最後のお墓参り。夜道、花火、開け放たれた玄関、子供らの嬌声。……夏の風物詩。

 20年ほど前に録音した田舎の祭囃子。CDラックから取り出してかけてみる。目の前に広がる田舎の町。沿道、神輿、山車、裃姿の父、スイカを切ってくれる母……。今はない故郷の幻。

故郷の廃屋
 
幾年ふるさと 来てみれば
 咲く花鳴く鳥 そよぐ風
 門辺の小川の ささやきも
 なれにし昔に 変らねど
 あれたる我家に 住む人絶えてなく

 昔を語るか そよぐ風
 昔をうつすか 澄める水
 朝夕かたみに 手をとりて
 遊びし友人 いまいずこ
 さびしき故郷や さびしき我家や

 夜、突然、豚児が「かくれんぼ」提案。狭い我が家で、にわかの子供遊び。これもまた楽し。
 
8月14日(月)晴れ

 お盆の最中の仕事。町は閑散、電車もまばら。今頃、故郷は夏の風景。照りつける太陽、久しぶりに会う顔、顔、顔。どうにもヤル気が起きない。

 1700、帰宅。そして早めの就寝。
8月13日(日)快晴

 0900〜1200、躰道稽古。お盆とあって、Y生さん一家を除いて子供たちがほとんど休み。大人の方が多い。Y先生も田舎でお盆の墓参り。人数が少ない分、稽古に熱が入る。壮年組は命の法形の研究に余念がない。1カ月ぶりとあって、体力続かず、バテバテ。

1300、帰省の切符を手配するため東武トラベルへ。夏休みの最後を海外や近郊で過ごそうという人たちが大勢。順番待ちも長い。ようやく回ってきたと思ったら、「JRの切符はこちらで」と別コーナー。応対は胸に「研修中」の札をつけた新人の女性。美形だし、丁寧で親切、真摯。まだスレていないのがいい。じきに慣れて、相手の足元を見るようになるのだろうけど。今のままの初々しさを失ってほしくないものだ。
 レンタカー込みで3泊4日5万3000円。

 帰宅し、食後の仮眠。夕方、家人の買い物につきあい外出。

 仏壇を飾る小さな回り灯籠の電球が切れて、点かない。近所の「長谷川」に行くと、「在庫がないので取り寄せになります」と。ばかな。お盆が終わってしまうではないか。「仏壇の長谷川」というなら、消耗品もきちんと在庫があるようにしなければ。若い男の子が応対して、探し回ってくれたが、「そんな小口の客に応対するより何十万の仏壇を買う人につきなさい」とでも言いたげな店長クラスの女性の視線。ちょっとカチンとくる。「S本店には在庫があるそうです」というので、電車に乗ってS駅へ。そこから2キロ。タクシーを使わなければ行けない距離。往復1460円。電車賃320円。それだけの費用を使って電球代が160円。

 「長谷川」さんよ、電球ぐらいちゃんと用意しとけよ。

 というわけで、町は閑散、情緒もなにもない都会のお盆。今頃、田舎では墓参りするために、赤飯やニシメを作り、お寺に行ってる頃。墓で花火をやってるだろう。年に一度、帰省する人たちが、町で顔を合わせ、言葉を交わしながらすれ違う。年に一度……。

 ああ、味気ない都会のお盆……。日常がそのまま続いている。
8月12日(土)晴れ

 夕方まで会社で仕事に没頭。
1800、ベニサン・ピットでtpt「血の婚礼」(作=フェデリコ・ガルシア・ロルカ、演出=アリ・エデルソン)。

 婚礼のさなか、花嫁が一人の男と抜け出した。
その男とは、花嫁の父親と兄を殺した一族の人間だった……
運命と情熱に導かれるまま愛し合い、死へと駆りゆく若者たち。
 
 ロルカの神話的世界を若手俳優陣が熱演。娘役の宮菜穂子の鋭く情熱的な視線が印象的。桟敷童子の板垣桃子はややオーバーアクション。テント芝居ではいいが、もう少し抑えた演技が欲しい。元宝塚の中村音子は森の精霊? 歌、雰囲気〇。大きな白布を使った美術も面白い。
 ほとんど「無名」の役者たちのアンサンブルは新鮮。
 1時間40分。K井さんに挨拶して家路に。

 2100帰宅。
8月11日(金)晴れ

 1330、Iさんから連絡。「えっ、もう……?」
 早過ぎる。
 1530、会社近くのデニーズでIさんらとお茶。前途に暗雲。

 1900帰宅。

 昨日、一人の友人が田舎に引き揚げた。

 自分もいつかは、いつかは……と思いながら、ついに帰郷がかなわないまま、両親が没し、おそらく仮住まいのはずだったマンションが終の栖となるのだろう。


人と別るる一瞬の
思ひつめたる風景は
松の梢のてつぺんに
海一寸に青みたり。

 佐藤春夫の「別離」は愛する人との別れをうたったものだが、この詩を暗唱するたびに目に浮かぶのは、白砂青松を詠われたわが故郷の海岸。
 いまや松の梢のてっぺんには海一寸さえ見えない。故郷とは永遠の蜃気楼なのか。
8月10日(木)晴れ

1700、新宿。トップスでT取さんと打ち合わせ。
1830、紀伊國屋ホールでこまつ座「紙屋町さくらホテル」。
 1945年5月、広島。紙屋町ホテルに滞在する移動演劇班「櫻隊」。「無法松の一生」を上演するため、同宿する客たちが丸ごと急ごしらえの座員となる。座長は新劇の団十郎よ呼ばれた丸山定夫。相方は元宝塚スターで、今は新劇に情熱を燃やす園井恵子。座員はホテルの女主人、その従妹、学者ら。その中には、薬の行商人(海軍大将で天皇の密使)、傷痍軍人(陸軍省の密偵)、特高刑事ら。
 それぞれの思い、思惑が交差する中、2日後の芝居の幕は開くのか。

 戦争と演劇を描いた作品でこれほど密度の濃い舞台は見たことがない。キャストもしっくり。特に、熊田正子役の栗田桃子がメリハリのきいた演技がいい。森奈みはる、木場克己はいうに及ばず、海軍大将役の辻萬長はまさにはまり役。河野洋一郎もすごみのある演技。学者役の久保酎吉が戦争に送り出した教え子の遺書を慟哭しながら読み上げるシーンでは、たまらず滂沱の涙。
 芝居の冒頭は、巣鴨プリズンでの二人の男の対面。天皇の密使、長谷川元海軍大将(辻萬長)と、今はアメリカGHQで働く元陸軍大佐・針生武夫(河野洋一郎)。二人は、芝居上演の後、広島を離れたため、被爆しなかったのだ。
 長谷川は「自分は戦犯であるから裁判にかけてくれ」と談判する。なぜなら、自分の報告によって天皇は早期降伏に傾いたにもかかわらず、ポツダム宣言受諾まで逡巡し、その間に原爆投下によって国民の命を犠牲にした、その責任はすべて自分にあるから逮捕せよというわけだ。

 当然、針生は拒否する。長谷川の要求を飲めば、天皇の戦争責任を問わなければならなくなるからだ。

 この冒頭の対決は、紙屋町ホテルでのエピソードをはさみ、エピローグで再現される。
 長谷川は言う。「私の目、耳……それは天皇の目であり、耳であった。つまり私は天皇の名代だったのだ。しかし、今は、あの広島で死んだ、さくら隊の人々をはじめとした多くの民衆の目であり耳である。私は今、名もなき戦死者の名代として、ここにやってきたのだ」と。
 劇構造、登場人物の描き分けも見事なら、演劇とは何か、戦争とは何かといったテーマ性も見事。井上ひさしのすべてが凝縮された作品といえる。

 二人の男のエピローグの途中、紗幕の向こう側で「すみれの花咲く頃」を歌うさくら隊が浮かび上がり、その合唱が、フッと途絶える。その瞬間、広島で原爆が炸裂したのだと観客は気付かされる。
 舞台はそこまでだが、被爆した劇団員のその後はあまりにもむごい。
 丸山定夫は地獄絵さながらの町をさまよい、臨時収容所に運び込まれるが、大量の放射性ガスを吸い込んでおり、高熱と錯乱の中、15日、朝からシャックリが止まらず、水も飲めないまま、翌16日死亡する。
 スター女優・園井恵子は命からがら六甲の知人宅に逃げ込んだものの、下血。出血が止まらず、全身皮下出血。出血瘤は桃の実大にも膨れ上がったという。髪の毛は抜け落ち、40度を越す高熱に意識は乱れ、その姿を見せまいと「私の両足をきつく縛ってください」と頼んだ。注射をすると黒紫の血膿がほとばしり出る。最後は言語中枢が侵され、声にならない声を上げながら絶命した。
 女優・仲みどりは、破れシーツをまとい、東京の実家に帰還したが、被爆10日目、白血球の数が6000から8000あるべきところを500から600と急減。脱毛、潰瘍、出血、そして被爆から19日目に死亡。その症状は原爆による放射性物質の作用によるものとして、「原子爆弾症」という名の人類初めての死者となった。その臓器の一部は今も医学部標本室に保存されている。

 個人の尊厳を損う死という意味で、原爆による殺人がいかにむごくすさまじいものか。仲みどりのカルテを見るだけで全身に震えが来る。
 
「小泉やら安倍某のお坊ちゃまクンたちにけしかけられて、戦争?いいんじゃない。やっちまおうぜ」などと肩をいからせる若者たち。
 彼らには、仲みどりや園井恵子の死亡検案書を読み聞かせてあげたい。

 戦争の本質は、相手に恐怖を抱かせ、降伏させることにある。それは相手をいかに多く殺すかだ。
「今の世の中、昔と違って食糧も医療も完ぺき。飢えることはない。近代兵器だってあるし」
 なんて言う若者がいたが、イラク戦争を見ても分かるように、国内が戦場になれば、非戦闘員が標的になる。この狭い国土、原子力発電所一発で全滅だ。
 そうなったら、戦争指導者はまた生き延びるのか。死んだ者だけがバカを見る。
 いつの時代もワリを食うのは庶民なのだ。
 
 2006年現在、時代風潮として、「中国・韓国相手に戦争やっちまおうぜ」の雰囲気が醸成されている、という事実。このまま進めば、一気に戦前回帰となる。

 戦争準備を進める者にとって邪魔なのは国民の「自由」。ウヨ・オタク、気分右翼たちでさえ、その「もの言う」権利が剥奪されることは間違いない。

 8月9日(水)雨のち晴れ

 久しぶりの慈雨。1700には晴れ渡り蒸し暑い夕暮れ。

 たまにはのんびり体を休めないと、もたない。……が、なんだかんだの涙橋で、一日こまねずみのように動き回ることに。

 昨日買った文春文庫、佐野真一の「小泉政権 非情の歳月」を読み始める。

 小泉を支える秘書、飯島勲のすさまじい経歴を初めて知る。

 長野の極貧の家に生まれ、母は病弱で、姉、妹、弟が知的障害者という家庭。幼稚園時代は足袋も満足に買えず、夜なべして母が作った足袋を履いていくが、その足袋の底が周りの子供たちのと違って黒かったため、裸足で通したというエピソード。小学校時代から納豆売りで生計を助けたという。その母も早くに亡くなり、施設に暮らす姉、妹の面倒を今も見ている。弟は今も故郷の家で一人暮らし。

 そのような環境と最底辺の中からはい上がった飯島がなぜ小泉のような、自分とは正反対の環境に生まれ育った男を主君とし、秘書として立ち働いてきたのか。

「本当は共産党の議員の秘書になろうとしたこともある」という飯島。その弁は本当だろう。

 絵が得意で、絵で身を立てようとしながらも、「いつ自分も弟姉妹のような境遇になるのでは」との根源的な恐れのために、絵の道を断念したという。

 世の中の恵まれた人々、その中でも、世襲政治家という特権階級の中に身を置き、その背後から彼らを操ってきた飯島勲。彼の心の中の暗黒よ。

 しかし……人一倍、障害者問題には敏感なはずの飯島が、主君・コイズミの手による「障害者自立支援法」という名の「障害者抹殺法」を認めたのはなぜか。権謀術数渦巻く政治の世界。飯島という男はこれからどうなるのか。
8月8日(火)快晴

 フル回転で仕事をさばき、午後からは「人生万才」に注力。

1800、新宿。コマ劇場で「リボンの騎士 ザ・ミュージカル」。

 「モーニング娘。」、美勇伝、マルシア。特別出演(日替わり)で安倍なつみ、辻希美、松浦亜弥。今日は辻希美が出演。

 アイドルが出演するミュージカル……たかが知れてる……そう思ったら大間違い。見てびっくりだ。

 原作にはない(と思う)人間が生まれる前の天上界のシーン。神様から盗んだ男の魂を飲み込んだために、男と女の二つの魂を持って生まれたのがサファイア姫というオープニング。生まれる順番を待つ子供たちという設定は「青い鳥」。その援用がうまい。


 そして、女であるために、王位を継承できず、男として生活しなければならないサファイアの葛藤と、恋するフランツ王子との出会い、大臣の謀反、父の死、王妃と共に牢獄に囚われ、牢番の手引きで脱出、フランツ王子と勇者たちの奮戦でシルバー王国を取り戻す……。
 テンポのいい展開、アイドルたちの歌とダンス、まったく飽きさせない3時間。

 特筆すべきは脚本の巧みさと演出の妙。ともに宝塚の木村信司が担当。これが素晴らしい。
 この手のアイドル・ミュージカルのお決まりコースは、演技の達者な俳優で周りを固め、アイドルはそれに絡むだけ。実力のある役者の手の上で遊んでいれば、それで一丁上がり。そんなお手軽な舞台のなんと多いことか。

 ところが、この「リボンの騎士」は違う。

 コメディーリリーフ的な男優もいなければ、アイドルたちの手綱を握る重鎮俳優もいない。つまるところ、アイドル自ら舞台に立ち続け、その空間を埋めなくてはならない。至難の技だ。
 しかし、その正統の舞台を最後まで弛緩することなく演じているのだから拍手喝采。多少拙い演技は致し方ないが、その気迫と気概は買える。

 その舞台の根底にある「精神」がまた崇高で素晴らしい。

 手塚治虫の「罪を赦し、憎悪の連鎖を断ち切る」戦後民主主義、理想主義の精神がきちんと表現されているのだ。

 「女に生まれたばかりに王位につけず、追放されるこの国の掟……」と歌い上げるサファイアの悲嘆は、まるで現代のどこかの国のだれかの不幸を言い当てているようだ。

 感心したのは、衣装や美術などのビジュアル。「神様」は「火の鳥」に出てくる「神様」とそっくり。意識的に手塚治虫の世界を模したものか。上品で、繊細な手塚作品へのオマージュになっている。

 歌唱ではマルシアと宝塚のトップ・箙かおるに尽きる。こんな素晴らしい歌声聴いたことがない。マルシアもこんなにすごい歌手とは知らなかった。

 牢番役をやった辻希美。終盤のヒットメドレーショーでも松葉杖をついていたので、「?」と思ったら、なんと公演前に足を痛め、松葉杖なしでは歩けないのだとか。それでも、違和感のないように演出し、しかも、フィナーレでは心温まる挨拶。手塚治虫のヒューマニズムがここでも生きている。本人の心意気もそうだが、カンパニーの息がぴったり。それを演出した木村信司という演出家は只者ではない。

 ただのアイドル・ミュージカルにすることなく、「愛と自由と平和」を「清く正しく美しく」、観客に訴えかけ、なおかつ宝塚ミュージカルの大階段をセットにし、手塚・宝塚双方へのオマージュにした手腕は見事の一語。無償の愛も、人を信じることも、今の時代にはただの夢想に映るかも知れない。しかし、そんな時代だからこそ、この舞台の意義がある。

 アイドル・ミュージカルと蔑むことなかれ、ここには、アイドルしか到達できない至福千年の王国がある。

 休憩25分。茶屋でお弁当。

 2100終演。歌舞伎町は宵の口。路上にはゲイバーやキャバクラから抜け出した魑魅魍魎が跋扈。

 2200帰宅。
8月6日(月)晴れ

 一応、「出張」報告を作成。今後の展開を協議。旗色悪し。また胃の痛い日々が続く。

 Sザー、T取氏から入稿。

 1900、新宿。スペーズゼロで上演中の「舞台版”こちら葛飾区亀有公園前派出所”30周年だよ!おいしいとこ取りスペシャル!!」を家族と一緒に観劇。

 待ち合わせするだけで大変な気遣いと労力だが、終わってみれば、そんな心労も吹き飛ぶ爽快さ。家人と二人の子供も大喜び。

 婦人警官を秋葉原のメイド喫茶で「ボランティア」と称して働かせ、フィギュアやDVDで大儲けを企む両津勘吉。今度は浅草サンバカーニバルで一儲けしようと、条件である、婦警の女子寮に地下鉄駅を開通させようとするが……。老スリ、心を開かない少女、みなし子で結成された「下町破壊団」、そして新任の警官、部長たち。

 財宝探しや昭和30年博覧会など、レトロ感もいっぱいで、面白さてんこ盛り。

 脚本・演出はラサール石井。笑って泣けて感動して、という喜劇の王道。ギャグも緻密。清水宏の客つかみは天才的だし、海パン刑事の海津義孝の登場シーンの絶妙さ、グラビア・アイドル(森下千里、瀬戸早妃)のキュートさ、坂本あきらの芸の細かさ……。挙げていったらキリがない。
 とにかく無敵のコメディー作品。

 ラサール石井の作品の底流にあるのは、昭和30年代を原風景とするメンタリティー。「愛と平和と自由」の精神。悪を赦し、憎しみの連鎖を断ち切る。そんな戦後民主主義の子供たちがバックボーンなのだ。

 大笑いし、ちょっぴり涙し、未来へのささやかな希望を感じさせる。ラサール石井に同世代の希望を見る。
 チームワークも抜群。松村武、松永玲子、仲坪由紀子、木村靖司ら小劇場の役者の使い方も抜群にうまい。至福の3時間。

 2200終演。

 楽屋見舞いは長蛇の列。海津義孝に面会。海パン刑事は子供たちにも大人気。「体を絞ったけど、もうおなかの周りはだめですね。なかなか脂肪が取れないですよ。来年はボクも大台に乗るし……」といつもながらのニッコリ笑顔。
 娘は隣りでおしゃべりする森下千里が気になっていたようだが……。

 ちょうど草野徹さんが通りかかったので、声をかけると、「ああ、どうも!」と笑顔。公認の山田まりやちゃんと一緒。さわやかなカップルだ。

 帰宅は午前0時。さすがにくたびれ果てて、シャワーを浴びてバタンキュー。
8月6日(日)快晴

 0730起床。0900、寺山記念館へ移動。
 前回は3年前か。新高恵子さんがゲストの時。珍しく雨で、屋内イベントになったが、今回はピーカン照り。関係者は準備で大忙し。

 今季の展示ブースは死後23年間の寺山修司の軌跡。メディアがどう報じたかを検証。新聞、雑誌の切り抜き、演劇ポスター、出版物の展示。生前に出版した180点余の作品数をすでに大きく越えて、死後に出版された関連本は250点にも迫るという。おそらく世界的にも珍しいのではないか。死後、さらに加速し続けるテラヤマ・ワールド。

 1000、従妹が訪ねてきたので、木陰で話を。追って旦那さんも現われ、3人で館内散策。

 控え室の九條さんにはひっきりなしの訪問客。成田本店の社長・吉田氏。青森大学の助教授・久慈さん、京武久美氏、青森市民図書館の副館長で舞踏家の福士正一氏etc。歌手のあがた森魚さんも、ライブ公演の合間に偶然通りかかったということで、表敬訪問。「昔、新宿でよく一緒に飲んだのよ」と九條さん。

 吉田氏は同志社OBの団塊の世代。寺山修司とも親交があり、青森ペンクラブ副会長。青森文化に造詣が深く、いわゆる青森の名士。

 イベントの合間に立話をした澤田繁親氏は早大法学部を68年に卒業。自分よりはるか先輩に当たる方。ねぶた祭りを中心に青森の祭りの研究をしているとのことで、大部の研究書を刊行。「送りますからよかったら読んでみてださい」と。

 このように、地元に根付いた諸問題、県史、近代史に粘り強く取り組んでいる人たちがいる。
 それに比べて、果たして、自分は今何をしているのだろう、そして何を残せるのか。先ごろの「はまなす」に載った、太平洋無着陸横断飛行のエピソード、東通村に不時着したワシントン州タコマ市の「タコマ号」事件のこともまったく知らなかった。

 中原中也ではないが、「おお、お前はいったい何をしてきたというのだ」。


寺山1寺山3 さて、イベント。
 高取、九條さんのトークも絶妙。月蝕の二人によるパフォーマンスも無事に終了。晴れ渡った空に吸い込まれていく寺山修司の言葉。

 ただ、初期作品の淫猥な言葉に、列席している小中学生、父兄がどう反応したか、が気になったが。寺山2

1610、第三部の小中学生の俳句大会、表彰と選評が終わったので帰り仕度。
記念館
 わざわざT市から来てくれたKさんのクルマで三沢駅へ。車中、駅待合室であれやこれやの四方山話。「お互い、いろいろ大変……」と。

 1702、急行、新幹線を乗り継ぎ、帰京。

 今頃、打ち上げでみんなはしじみラーメンを食べている頃。先に帰らざるを得ない、さびしさよ。

 2100、帰宅。
8月5日(土)快晴

 午前中で仕事を終えて、1405の新幹線で東上。T取氏一行は1328の新幹線で出発したとか。しかし、急行待ちの八戸で合流。一ノ瀬、スギウラに加え、偏陸氏も一緒。三沢では大澤氏、麻屋さんが出迎え。

 宿泊は三沢シティホテル。 チェックイン後は近所の中華店で会食。米兵の家族で賑わうという店。今日到着組に加え、K條、K川、S目、O澤、M屋さんの総勢10人。1830から2100まで。天井桟敷、寺山修司の話題で盛り上がり。死後23年もたっているのに、いまだに話題の中心にいる寺山修司。その仕掛けたナゾと罠の時計は今もコチコチと動き続けている。

 三沢居酒屋途中、携帯の着信を見ると、八戸の従妹から。こちらに来ていることを告げると驚いた様子。なにやら相談事があるようで……。
 
 一次会解散後はT取氏らと居酒屋へ。狭い界隈にひしめくように立ち並ぶ飲み屋。人口の割に飲み屋が異常に多いという一帯。むつ市もそうだが、東北の町はこの傾向が多い。新しい店も続々と開店する。これでよく店が潰れないものだ。

 2300、ホテルに戻って就寝。

8月4日(金)快晴

 楽しさ半分不安半分の金曜日。10.00、T取さんのところの劇団員・K島さん来社。今日の担当者。

 16.20、現場に行く途中で「結果判明」。なんとも予想外の展開。新たな不安材料。タワー下でK島さんと待ち合わせ。「先方」が戻ってきたところで面談。
 ウーム、先行き不安。暗雲たちこめる展開。胃がしくしく痛むような悪材料だらけ。

 2100、社に報告。思った通りの反応。また地獄へまっさかさま。

8月3日(木)晴れ

1620、K記念病院で鍼。

1730、新宿。トップスで打ち合わせ。T取、Sザー氏と。アイドル・ジャパンのT橋さんも同席。今後の方向を検討。少しお酒の入ったSザー饒舌。

 新宿タワーレコードでCD3枚購入。GOOD LOVIN(グッドラヴィン)のCD「EVER GROOVE」。「DOWNTOWN」「雨のウェンズデイ」「恋の予感」「冷たい雨」などJポップの名曲をカバー。男性ボーカルのCDを買うのは久しぶり。
 DONNAの「踊LADIES」。「DONNA(ダナ)を中心とし、マイクダイ、KOMA2から成る3MC」。ダンスホールレゲエとヒップホップを基本としたレゲエサウンド。元気のいいドンナの歌声がいい。

PUSHIMの「Sing A Song...Lighter!」。レゲエ界の女王プシンの最新作。安定性は抜群。夏はやっぱりプシン。

 1930、トップスで「おとうふ」。中島淳彦の10年前の作品を和田憲明が演出。色合いのまったく異なる両者がどのようにシンクロするか期待半分不安半分。

 テレビ局のバラエティーに出演する仕出し屋さん、いわゆる「笑い屋」のおばさん3人組をペーソスたっぷりに描いたもの。倉庫のような楽屋をあてがわれ、主役の遅れで、どんどん収録時間がずれ込み、いらいらするおばさんたち。それを、時に威圧的に、時に搦め手で慰撫するADたち。やがて、おばさんたちの家庭環境や過去も浮かび上がり……、という人情喜劇。

 これまでは「中島作品に失敗なし」だったが、ここまで演出が違うと、まったく別の作品に一変する。喜劇というよりも、心理ミステリー。和田憲明の持ち味である重厚さが全面に出て、「喜劇」としてはくすりともできない。白土三平の絵でさざえさんを読んでいるようなもの。
 中島作品が、演出次第でこんなにも変わるものか、という驚きはあったが。

 21.30終演。
8月2日(水)快晴

 0730起床。ゴミ出し。
 終日、家で部屋掃除。たまった本やDVDの整理。

 合間にS氏やT氏と打ち合わせ。

2100、WBA世界ライトフライ級王座決定戦をテレビ観戦。最終ラウンドが終わって、ファン・ランダエタの判定勝ちと誰もが思っただろうに、結果は亀田のポイント差勝利。暮れのレコード大賞の日程をずらしてまで亀田に入れ込んでいるTBS。今日も最終ラウンドまでもつれ込んだのは予想外の展開か。この判定は明らかに不当だと思うんだけど……。負けたっていい。そこからスタートすれば新たな物語が始まるのに。巨大マネーが動くエンターテインメント。資本の論理.。
8月1日(火)快晴

 1230、後片付けをして、九十九里出発。平日とあって道路はスイスイ。98`。片道1時間ちょっとで到着。

 休暇の間も仕事のことが気になっていたが、帰宅後、T氏らと連絡。今年の夏休みは気ぜわしい。

 向井氏から「はまなす」第22号いただく。特集は「下北の海と大地に残る戦争の爪跡」。

 幻の大間鉄道のことは知っていても、風間浦村にあったという、幻の特攻艇「震洋」の格納豪のことは地元の人でも知る人は少ないに違いない。海軍基地、大湊工作部造船科で作られていたという。ベニヤ製の小型モーターボートで、緑色に塗装されているため、「青蛙」と呼ばれた特攻艇。その震洋の基地計画が下北にもあったとは。元田名部高校教師の斎藤作治氏が丹念に調査した下北の現代史。

 下北出身の川島雄三監督の処女作「還って来た男」は戦時下で作られた「国策」映画だが、そこに「反軍調のユーモア」を見出す鳴海健太郎の論など、「戦争と下北」の特集、なかなか面白いラインナップ。
 このような研究を続ける斎藤氏らのあとを継いでくれる若い世代がいるのか、が気がかり。
 さて、夏休みはあと一日。

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