8月16日(金)曇り 朝、6時に起きて岸壁の突端まで行く。お盆で飾った花や供物を海に流すのだ。海を汚すようで、昔からの慣わしとはいえ、心に引っかかる。昔なら自然に分解されルモノばかりだったろうが、今はプラスチック、発泡スチロール…自然が分解できない物質が多いから。 午前中、ビデオデッキを買いにM市まで。去年から壊れたままだった。途中、氷水屋に立ち寄り、いちごミルクを。これこれ、この雪のような、氷水を食べたかったのだ。 M市に着き、今日、帰京する予定の高校時代の同級生Hがまだ帰っていなかったら会おうと思い、Bに電話して連絡を取ってもらう。夕方、クルマで帰る予定というので、急遽、Bとともに、同じく高校の同窓生Mの経営する店で会うことにする。Bに誘導され、市の外れにあるMの店に行くとHが待っていた。約17年ぶり。年齢を重ねたが、そんなには変わっていない。「相変わらず」という言葉が適切。福生に住んでいるという。 「そうだな、管理職だし…。相変わらず、ギター弾いてるよ。たまにブルースやってるバンドと一緒にやったり…。オジサンが入れるのはブルースバンドしかないでしょ」 うらやましい…。 Mの店はラジコン・模型ショップ。隣接した屋内サーキットはかなり大きなもの。県内から好事家が集まってレースをするのだとか。バイク好きのMの趣味的ショップ? ネットオークションもするらしく、店にパソコンが1台。拝借して自分のHPを見る。ブラウザがネットスケープだとずいぶん見え方が違うものだ。 小半時、三人であれこれよもやま話。時間がきて、Hもクルマで去っていく。高校時代から30年。しかし、こうして会ってるとまるで、学校帰りにどこかの家でダべっているような錯覚に陥る。まるで、いつまでも高校生。 PM4帰宅。夕方、神社のほうからホラ貝の音。明日の祭の宵宮が行われるのだ。神社に行って宵宮の儀式を見る。獅子舞、神楽、祝詞の後、神殿の御簾が下ろされ、灯りが消える。魂入れの儀式。奥の宝物殿から御神体を運んできて神輿に入れるらしいのだが、近くで目を凝らしても、その御神体が何か、見た人はいないという。 デジカメで儀式を撮影していたが、ここで急にファインダーが曇って画像の焦点が合わなくなる。カメラのレンズを見ると、レンズの裏側が白く曇ってしまい、そのために撮影ができないのだった。気温の変化があったわけでもないし、まして、今まで温度差のある場所でもレンズが曇ったことはない。不思議。儀式が終わった瞬間、スーッとレンズの曇りが消えていく。ウーン、なんだろう? 神社の下では山車が勢ぞろい。 家に帰り、おみやげをもって来てくれた従姉たちと話をしているうちに、11時。さて、今夜でお別れ。 父から聞く昔の話がすこぶる面白い。 森林鉄道がない時代、川をせき止め、簡易ダムを作り、山から切り出した丸太を水の放出とともに下流に流したという。「昔は川をせき止める技術が発達していた。ボウズと呼ばれる柱二本を川の真ん中に立て、それを支える小ボウズという小さな木片を外すと、ダムが決壊する。小ボウズ作りをする人は熟練した年寄りじゃないとできなかった。だいたい1日に2回、丸太流しをやったものだ。激流を丸太が縦になり横になり流れていく様は恐ろしいくらいだった」 両岸が岩場というのがダムを作る最適な場所。そこを「ツヅメ」と呼んだという。むろん、父の子供の頃の話であり、今は誰も知らないことだろう。帰省の時にはこんな昔の話を書き留めておくのが、息子の務めか。 8月15日(木)曇り 曇り空。8・00起床。PM6から打ち合わせ兼飲み会。本マグロのおいしいこと。Bzも駆けつけるが、高校時代の同級生THが久しぶりに帰省しており、明日帰京するというのでPM9でさよなら。その後、翌2時まで狂熱のカラオケ。若いエネルギーに圧倒される。 タクシーで帰る途中、小さなキツネがヘッドライトに浮かぶ。道端でクルマに轢かれているキツネはよく見るが、生きているキツネを見たのは初めて。地元では珍しくないのだろうが、妙にうれしくなってしまう。 「この頃のキツネはバカだ」と父。「昔のキツネはどんなに巧妙にワナを仕掛けても、それを嘲笑うように、避けて通ったもんだ」。人間に慣れてしまったキツネは警戒心も弱くなる。 それにしても、自然の中で生活しているキツネを見たのは生まれて初めて。クマやサルの被害も最近は甚大だという。子供の頃など、クマはおろかサル、キツネなど見たことない。ここ十数年の山奥の開発で里に押し出されたのだ。景観を悪くする崖の斜面のコンクリート化も根っこは同じ。土石流が発生し、それを防ぐのが目的という。しかし、もとはといえば、森林を伐採し過ぎたのが原因。豪雨を食い止める森林がなくなり、そのために土石流が発生する。そのために、コンクリで川を固める。ダムを作る。林を切り開いてコンクリの斜面にする。景観は悪いし、保水作用の弱くなった斜面はいつかまた土砂崩れを起こす。地域振興の名のもとに推し進められる環境破壊。土木国家ニッポンは北の外れの小さな村まで侵食する。公共事業で土建屋が潤うだけ。因果関係は歴然。クマ、サル、カラスなど鳥獣の被害、土石流、崖崩れ、それらはすべて人間が引き起こした人災にほかならない。変わりゆく古里に索漠とした思い…。 8月14日(水)雨 10・00AM。父を病院に送って行き、大間のフェリー港で町興しグループ「あおぞら組」の旗振り歓送迎イベントに参加。Aさん、Oさん、Tさんらが参加。函館に行っていたDさんがフェリーで帰港するも赤灯台での旗振りに旗が間に合わず。「泣く」Dさん。 今日は恒例のブルーマリンフェスティバル。港で行われるお祭。本まぐろの解体ショー&まぐろ刺身の配布も。あおぞら組のTシャツ売り場でYさんらと再会。T塚の女さん、T部のふとさん、函館からキャンプに来ているhoshibooさんらネット仲間と邂逅。あおぞら組のアイドルとしてTシャツの売り子をしている高三のNちゃんが同級生の娘と知ってびっくり。 会場を歩いていると、「久しぶり」と声をかけられる。役場に勤める同級生のOS。今日は広報のための一日カメラマンとか。次いで、高校時代の寮の先輩だったTさんに声をかけられる。何十年たっても、高校の寮の先輩に会うと、かしこまってしまうのは不思議。 函館のグループもゲストでパフォーマンスを披露したソーラン大会の後は歌謡ショー。地元出身の熟年演歌歌手3人のステージ。しかし、ソーランの熱狂が終わると、潮が引くように会場は人気がなくなる。会場の一角でに場所を縮小して歌謡ショー。にこやかに地元出身歌手が登場するが、残ったのはおじいさんおばあさんばかり。売れない歌手というのはちょっとかわいそう。 あおぞら組のTシャツ売れ行きはなかなかのもの。売り場に立つと通りかかった近所の人が、「何やってるんだ、ここで」と不思議そうな顔。「○○が売ってるんだったら、一枚買おうかな」と買ってくれる親戚のおばさん。 PM4・30帰宅。父の晩御飯作り。 その後、中学の同級生の家に行き、10時まで痛飲。 8月13日(火)雨 AM8・30起床。すでに父は朝食を済ませている。早く起きたいが、気候がいいので、つい朝寝してしまう。親戚からもらったイカを調理。刺身にして食べる。その後、午後まで、大掃除。 一人住まいだし、体も弱くなっているので、掃除もままならないようだ。仏間の桟を雑巾掛けしていると、額縁の裏にお札の入った封筒が見つかる。どうやら父のヘソクリのようだ。 「すっかり忘れていた。そんなところに隠していたのは、たぶんお前が大学に行ってた頃だ。当時は結構な額だったはずだ」と父。 仏間に飾ってある絵もホコリとススで真っ黒。モナリザと並べて、飾ってあるローレンスの絵の裏を見ると、学校頒布料金50円とある。中学のときに学校に業者が販売に来たとき買ったものだ。50円とは。このローレンスの絵の女の子に惹かれて買ったのだったが、あとでよくタイトルを見ると、「son of ○○○」とある。女ではなく美少年だったのだ……。 PM3、掃除を終えて、墓参り。雨が降り続いている。雨の中のお盆墓参りは記憶にない。今年がいかに異常気象か。お墓と地蔵様、そしてお寺の中の仏壇の3カ所をお参り。帰宅して昼寝。大掃除で疲れてしまったようだ。 PM4、Oさんがお母さんと訪問。青空組からマグロTシャツを預かってきたという。オリジナルメンバーには名前入りのプレミア。これはかなりイケてる。 PM6、夕食。PM7、墓参り。小雨なので、墓の花火も少ない。お墓で花火をやるのは珍しいとテレビの取材も入ったことがある。奇習? 子供たちは墓参りをしたあと、墓の前で、思い思いに花火をする。墓の上に噴出し花火「ドラゴン」を立てて墓を火花で包む。連発花火を打ち上げる。墓所は花火の煙がもうもうと立ちこめ、墓所全体が暗闇の中に燐光を放つがごとく浮かび上がる。子供の頃、お墓で花火をやるのが楽しみだった。今でも駄菓子屋で花火を買ってお墓へ向かうのが慣わし。隣町の大間、蛇浦、材木くらいしかこの「奇習」はないとか。半島の突端の町がなぜお墓で花火をやる習慣ができたのか。海上守護の神様・天妃信仰を通じて、台湾・中国の花火祭が伝わってきたいう説もあるが不明。お墓で花火なんて罰当たりというのが他の地域の大方の見方に違いない。 海の夕陽がきれいなのでパチリ。写っているのは飾りつけする前の祭の山車。 PM9〜10、NHKテレビ「幻の大本営発表」を見る。米艦隊を奇襲した台湾沖海戦で海軍の「空母13撃沈・撃破」という誇大報告がどのようなプロセスで作られ、それがその後の戦局に大きな影響を与えたかを検証する見ごたえのあるドキュメント。 この海軍の大ウソ戦果報告を信じた陸軍が決戦場を移動、無傷の米艦隊に大敗し、その後のレイテ玉砕、沖縄戦へとつながっていく。事態を察知した情報将校の緊急電報を握り潰し、最後まで「戦果は間違いだった」と陸軍に伝えなかった海軍・大本営が結果的に何百万もの兵士を見殺しにしたといえる。天皇直属の大本営は陸軍・海軍の確執が激しく、両者の軍功争いは熾烈だったという話は知っていたが、まさか、自分の間違いを糊塗するために、日本軍全体を死地に追いやるとは。「幻の大戦果」がなかったら、レイテも沖縄の惨劇もなかったかもしれない。歴史に「もし」は許されないが、少なくとも、軍人の「体面」が戦況に大きな影響を与えたのは間違いない。台湾沖海戦を立案したのが源田実。彼の想定した「空母10撃沈・撃破」の数字通りに「戦果」をあげたというのは、なにやら今の時代の企業戦士たちにも通じる。本社の指示通りの数字につじつまを合わせる。ウソにウソを積み重ねる。日本人の体質は変わっていない。 8月12日(月)雨 7時起床。食事の支度。味噌汁を作り、魚を焼き、もらったウニの身を調理。父と食事。 AM7・50、父を病院に送っていき、その足でM市へ。9・00着。Bzの事務所に行き、しばしダベリング。1年ぶり(?)のはずだが、この頃はネット、携帯もあり、毎日会っているような感覚。9・30、市内のコミュニティーラジオ「FM A」に行き、高校の後輩・Yクンと会う。「東京で活躍している地元出身者にインタビュー」という依頼がきていたので、その録音。「活躍」なんて面映いが、コミュニティー局の録音の様子を見たかったのと、同窓会報のネタになればと思って引き受けたのだ。高校時代は放送部に所属し、「キュー」を出すのが役割。放送局というだけで、なんだか、まぶしい存在。 あらかじめ質問事項をもらっていたが、帰省の準備やらなにやらで忙しく、ほとんど予習していかなかった。1時間録音というので、編集して15分くらいにまとめるものだとばかり思っていた。雑誌・新聞の取材でも長時間のインタビューをうまく構成・編集するのが取材者の能力。「しゃべったことを適当に編集してくれるのだろう」。 ところが、なんと「一発生録音」。放送時間に合わせて「リアルタイム」で録音するという「徹子の部屋」方式。 言い間違えや言い澱みもそのまま流れるのだ。1時間、冷や汗がタラーリ。スイマセン、Yクン、内容のない話になってしまいました。後になってあああ言えばよかったこう言えばよかったと反省材料が山ほど湧き上がってきましたがすべて後の祭り。ラジオやテレビのコメンテーター、アナウンサーがいかに大変か、よーくわかりました。 11・30、病院に父を迎えに行く予定だが、せっかくなのでBzと昼食。その後、地元では知らない人はないというT旅館のT氏のところへ。旅館の空き部屋、専用の倉庫…いたるところにプラモの山。組み立ててジオラマにしているもの、箱のまま保存してあるもの、数え切れないほどのプラモデル。「オークションに出したらとてつない値段がつく」というレアものばかり。しかも、もう一つのナゾの倉庫には驚天動地のブツが。「全国のマニアの中にはもっとすごい人がたくさんいますよ」と平然と言うが、プラモ収集にかける情熱と実績には気圧されてしまう。マニアと名のつく人は大勢いるだろうが、間違いなく日本のプラモ・マニアのベスト5に入るだろう。第一、専用倉庫が二つもあるマニアはザラにはいない。ウーン、脱帽。 午後、Bzの家に行き、ノートパソコンでBBSをのぞく。異郷の地で自分のHPに書き込むのはなんだか新鮮。その後、 M市の親戚を回り、おみやげを渡して帰る。 PM3、家に帰り、親戚回り。10軒近いので、1軒ずつ、上がってお茶を飲んでいると、あっという間に時間が過ぎる。夕方、お寺の和尚さんが読経に来る。「1日早いんじゃないですか」と父。普通はお盆初日のはずだが。PM9。親戚のKさんが来て、アワビやツブ貝をくれる。ツブも昔はたくさんあったが、今では数も少ないらしい。新鮮なアワビとツブに舌鼓。 8月11日(日)東京快晴。青森大雨 午前6時に起床。8時4分発の東京発新幹線に間に合うように早目に家を出る。Tシャツに短パン。念のためにジーンズを1着バッグに入れるが、まず使うことはないだろう。東京駅で帰省のおみやげを買ったので、手荷物の多いこと。前もって親戚へのおみやげはまとめて実家に送ってあるが、お菓子類も念のため、多めに購入。 電車がホームを離れ、北上し始めると、いつものことながら漠とした寂寥感に襲われる。旅行に出るのではなく、故郷に帰省する。単なる移動ではなく、自分の生まれ育った場所に「帰る」というのは大きな違いがある。車窓を流れる景色に目をやりながら、持ってきた文庫を開く。読みさしの「晴子情歌」はさすがに重いので部屋に置きっぱなし。机の上にあった未読の田口ランディ「コンセント」。さして読みたかった本でもないのに、バッグに突っ込んだのはなぜだろう。車中の読書を想定していなかったのか。 11・25、盛岡に到着。途中から雨粒が窓を叩きつけはじめる。「東北は雨か。東京の暑さとは大違いだ」などと軽く考えていたが、窓の外に見える川は濁流渦巻いている。 乗り換えの11・39発「はつかり7号」の乗り場に移動する。ところが、駅員たちの動きが慌しい。そのうち「はつかり7号は折返し運転の列車の到着が遅れています」のアナウンス。なんと1時間半以上も遅れているという。駅のホームでなすすべもなくひたすら列車の到着を待つことに。ようやく折り返し列車に乗り込んだのが12・30。1時間遅れ。ところが、出発したはいいが、次の一戸駅で停車したまま動かない。大雨で青森ー浅虫間が土砂崩れ。先に出発した列車が玉突き状態なので、動くことができない。2時間の停車後、再開するも、徐行運転。午後1時半には野辺地駅に着いているはずが、4時間の遅れ。5時半過ぎにようやく到着。レンタカーの営業時間に遅れるところだった。 野辺地でレンタカーを借りて、出発。予定が大幅に狂ってしまう。予定では午前中に親戚回りを済ませ、翌日からのんびりするつもりだったのに…。 途中の木野部峠の電光気温表示を見たら15・6度。寒い! 季節の境界線を飛び越えてしまったようだ。PM8・00、実家に到着。 玄関を入ると、父が一人でぽつねんとテレビを見ている。母が逝って7年目の夏。老親の侘しい一人暮らし。「遅かったな」とぶっきらぼうな声。生真面目で人一倍情に厚いのに、生き方が下手な人。 すぐに、仏間に行き、母の遺影に手を合わせる。もう少し長く生きていてくれたらと詮無いことをつい思う。 自分の体の細胞の組成が徐々に変化し、細胞が受容する時間の流れさえ変容していく。頭の先からつま先まで、次第に土地の記憶のモードに切り替わっていく。 二階の自分の部屋に入る。去年の夏、後片付けをし、帰京したときのまま。机、本棚、アルバム…。去年の夏の子供たちの嬌声がかすかに聞こえてきそうな気がする。中に入り、ドサリと荷物を投げ出す。その瞬間、封印された時間が解き放たれ、2002年の夏がまた時を刻み始める。 風呂から上がると寒い。昨日までの寝苦しい夜とは大違い。東京の暑さ、あれは本当のことなのか。次第に感覚がズレていく。ネットを通して「暑い」「寒い」などと言ってみても、体感の差は埋めようもない。自分の肉体が分裂していく…。 父が敷いてくれていた厚掛けの布団に横たわり、目を閉じる。全くの静けさ。今日は耳鳴りも気にならない。やがてまどろみの中に。 |