春の雨(4・6)


 昨夜から一晩中降っていた雨に、窓辺のツバキの花が地面に落ちて、とてもきれいです。
 良く晴れた今朝は、ぶらぶら商店街の中の本屋をのぞき、二階の喫茶店で昼近くまで外を眺めて時間をつぶした。

 ともだちのNさんから、久しぶりに電話があって、夕方、新宿のスイミングクラブで泳ぐ約束をした。
 彼女はある銀行で、勤続8年のベテランOLです。驚くほどよく働き、よく遊びます。

 学生時代は全く運動に縁遠かった彼女が、テニスに、スキーに、水泳、揚げ句の果てに、宴会の隠し芸と、とりつかれたように彼女はますます活動的なのです。そして、時々すごく疲れた顔をして弱気なことを言う彼女を見る時、私は正直少しほっとするのです。

 一度、彼女を梅ケ丘の公園にテントを張って公演中の曲馬館の芝居を見に連れて行った折、坊主頭の桜井大造が生魚をくわえて舞台中央の浴槽から突然登場したのに驚き、すっかり拒否反応を示して途中で帰ってしまった。
 そんな彼女も今ではすっかりアンダーグラウンドの芝居が気に入ってしまった様子です。
 スイミングクラブの帰りの食事の後、彼女は「会社を辞めるかもしれない」とぼそっと言った。
 また降り始めた雨に、暗くなった新宿の雑踏の中で、彼女と「またネ」と言って別れた――。(シンガー・ソングライター)
少年U(4・13)

 私の事務所に十五歳の男の子が迷い込んできたのは三年前のことです――。小さな私の事務所は、コンサートが始まると毎日手伝いやアルバイトのひとで、足の踏み場もないほどごった返します。その中に、いつもアポロ帽子にサングラス、ウオークマン、クシャクシャの紙袋を小わきに抱えた二十歳の青年に変装したつもりのU少年がいました。

 ある日、街にポスターを張りに出かけたコンサート責任者のSさんの手伝いについで行ったU少年は、Sさんと軽犯罪法違反で警察に取り調べられ、U少年が十五歳だったことを知ってみんな驚きました。
「そう言えぱサガラナオミみたいな顔をして変だと思ったんだョ、体は大きいけどよく見るとやっぱり十五歳ですョ」。そして、U少年が弱度のメニエール病でで登校拒否児童であることが分かりました。

 それからSさんは、どうしても学校に行きたがらないU少年に、夜間中学の制度を調べたり、毎朝仕事の前に勉強を教えようとするのですが、一向にU少年はやる気がありません。それでもSさんは、U少年の髪が伸び過ぎれぱ散髪をしてやり、銭湯に連れて行く等、よく面倒をみていました――。
 あれからU少年は十八歳になり、Sさんは1年前に事務所を辞めました。少し寂しくなった事務所に電話をすると、すっかり大人ぴたU少年の元気な声が受話器の向こうから聞こえてきます。(シンガー・ソングライター)
たった一人の主催者(4・20)

 私は5年前、北海道の富良野ヘコンサートに行ったことがあります。私を呼んでくれたコンサート主催者の斉藤さんは二十七歳で精肉店で働いていました。彼は仕事の合間にチケットを店先で売り、肉の配達のついでにポスターを張るといった具合に、まさに孤立無援の主催者でした。コンサートの準備段階から事務所のスタッフは、斉藤さんがたったひとりでコンサートをやろうとしていることに気づき、何度も「何人か仲間とか、協力してくれる人がいませんか? 出来るだけ協力者が多い方が良いので……」と長距離電話の通話料を気にしながら説得するのですが、彼には一向に通じなかったようです。

 結局、コンサートは赤字でした。終わってから斉藤さんにスキ焼きをごちそうになりました。斉藤さんは二人前ものスキ焼きを食べ、少しのビールで酔ってしまうと「預金がたまったら、また来てヨ」と陽気に笑っています。何だか斉藤さんにすまない気持ちになった私たちは、食欲がだんだん無くなってゆくのでした。

 翌朝、駅のホームまで送ってきた斉藤さんは「今日からまた肉屋の配違だヨ」と言って白い息を吐いて笑っていました。あれから私は何人もの富良野の斉藤さんに似た人たちに出会いました。奄美大島の小玉さん、宮古島の高校生たち、福島の衣袋さん、岩手の昆さんや鈴木さんなど、みんな富良野の斉藤さんと同じ、たったひとりの主催者だったような気がします。(シンガー・ソングライター)
大酒飲みの順平さん(5・4)

 吉祥寺のライブプハウスNで長い間歌い続けている佐久間順平さんというシンガー・ソングライターがいます。順平さんは大変な酒好きでライプ始まる前に、まず酒を飲み、ステージの上でも一曲終わると酒を飲み、ライブが終わったといっては、朝まで飲むといった調子でした。

 ある時、ライブハウスのカウンターで知人と酒を飲んで出番を待っていた順平さんは、すっかり飲み過ぎてしまい、二、三曲進むにつれて、気持ちが悪くなり、吐き気を止められないところまできてしまっていたのです。ステージの上にはどうしても吐けないと思った順平さんは、とっさに、自分のギターのサウンドホールの中へ吐いてしまったといいます。

 大酒飲みの順平さんのうわさ話には、どんどん尾ひれが付いて、演奏中にステージの上で順平は眠ってしまった」などと信じられないような話が出る始末でした。
5年近くもの長い間、私ののステージのバックを付き合ってくれた順平さんは、ギターにバイオリンにハーモニカと、マルチプレーヤーぷりを発輝して、私のステージをよく盛りたててくれました。
 もしも、気が向いたら吉祥寺の裏通りにあるライプハウスNへ酒飲みの順平さんの歌を聴きに行ってみて下さい。(シンガー・ソングライター)
天井桟敷の人々(5.11)

 天井桟敷のけいこ場に、寺山修司さんの棺(ひつぎ)が帰って来るのを、劇団の人たが待っている様子がテレビの画面に映し出された。地面に座り込んでしまっている人、腕組みして茫然(ぼうぜん)と立ちつくしている人、後ろにひときわ背の高いシーザーがうつむいていた。

 私が天井桟敷のシーザーに編曲をお願いしたのは7年前。その折、「音楽の仕事を、どうしてもっとたくさんやらないの?」と言った私の愚問に、「僕は、天井桟敷が好きで、あまりほかの仕事をしたいと思わないんだ」と言った意味の言葉が返ってきたことを覚えています。その後私は、天井桟敷の田中未知さん、岸田理生さん、昭和精吾さん、高取英さんを知りました。みんなどこか寺山さんによく似た、寺山さんの分身のような人たちです。そして、最も詩人寺山さんを愛していた人たちなのです。私は、ふとここでバイエルン国王二世ルードウィヒとワーグナーを思います。寺山さんのすべての作品に音楽をつけていたシーザーは、これからはだれのために音楽を創(つく)るのだろう、役者はだれのために演じるのだろう、美術家はだれのために舞台を飾るのだろうか。

 寺山修司さんが「時には母のない子のように黙って海を見つめていたい」とうたったように、天井桟敷の人々は、みんな同じ海を見てきてしまった人たちなのだからーー。(シンガー・ソングライター)
ほおが火照っていた(5・18)

 東京・中央線の西荻窪駅北口商店街に、バラック建てのライプハウス「西荻ロフト」があった。この小さな店で、私が歌い始めたのは、8年前のことです。髪を背中までのぱしていたISA君、黒装束の”男浅川マキ”の山チャン、ヒゲに黒メガネのアナキスト風な裕さん……店はまるでアングラ役者の楽屋のようににぎやかでした。

 ライブの日は、午前中から店の中は客でごった返し、商店街にまであふれた客は、ライブの始まる夕方まで本屋、パチンコ屋、ラーメン屋と思い思いに時聞をつぶして待っていました。入場30分前には近くの公園に客を行儀よく並べたISA君は、団体旅行の誘導員よろしく「何番から何番の人」と叫んで、商店街をぞろぞろと往復するのでした。控室からカウンターの中まで客に占領された私たちは、店の前の電器屋、隣の肉屋の店先で出番を待ったものです。ライブが終わると、また客は、音楽と酒と話で朝方近くまで帰らなかったものです。

 4年前、西荻ロフトはきれいな「ポテトハウス」に変わりました。そのころ、ライプをやっていた4軒のロフトのチェーン店も今は新宿ロフト1軒になりました。
 かつてのライブハウスには音楽だけではない、60−70年代の様々な若い人たちの火照りにも似た時代の残像があったのです。すっかり変わってしまった新宿ロフトで私はまだ月に一度、歌っています。(シンガー・ソングライター)
大声のT君のこと(5・25)

 私と同じころ、音楽活動を始めたT君というシンガー・ソングライターがいた。
 高校時代から地方のライプハウスで歌ったり、自分で会場を借り、チケットを売ってコンサートを開いてしまうなど、エネルギッシュなT君の行動カに、レコード会社やイベンターも大変な期待をかけたものです。
 小さな体から想像もつかないほど、大きな声の出るT君は、その日の音響の調子などおかまいなしに、いつも気持ち良さそうに歌い、忙しいコンサートスケジュールをこなし、「年間、百本のコンサートをやるんだ!」とスケジュール帳を、得意そうに見せるのでした。

 小さな体に大きなギターケースを2台も抱えて、コンサート会揚を飛び歩いていました。
それから1年後、ライブハウスで少し疲れたT君に会いました。T君はレコード会社を変えて、「イメージチェンジだヨ、もうメジャーでないとだめだヨ」と4人ぐらいのバックバンドを付けて、髪にパーマをかけ、ジーパンにアプリケ、とかわいい感じ。T君の驚異の大声も半分程におさえられ、甘いラブソングに変わっていました。私はあれからすっかりT君を忘れていました。地方ヘコンサートに行った折、楽屋に会いに来てくれたT君は「革細工のカバンを作っているんだ」と私が初めて会ったころの大声のT君の笑顔に戻っているのがとても、懐かしく思ったものです。(シンガー・ソングライター)
時代屋の気分(6・1)


「最近の歌は、意昧のない言葉の羅列が多いでしょう。言葉だけで聞くと何を言っているのか、さっぱり分からないんだよなァ、本来、歌は言葉なんて重要でなくて、気分なんじゃないかなァ」と、作詞家志望のE君は、まるで漫画の吹き出しの中の「ギャッ」「オッ」「ワッ」とかいっぱい言葉がつまった原稿用紙の束を投げ出した。

 E君の言う通り、流行歌は、まさにその時代の気分なのです。「ビートルズ」も「サイモンとガーファンクル」も私たちの学生時代のBGMだったような気がします。最近はTVと雑誌で作り出されていく時代の気分の比重がとても大きくなってしまっていて、本当はE君の主張する「時代の気分」という漫画の吹き出しのような歌は、TVと雑誌が作り出す「広告的な気分」なのではないかと私は思うのです。

「部屋の中ではTVを見て、行きつけの店で雑誌を見て―ー。おれもTVと雑誌人間なのかなァ。TVも雑誌も広告で成り立っている訳だから、買わせる気分をバンバン作り出している訳だよネ」と、E君は少し自信がなくなってきた。

 経済がすべての時代には、歌がCMソングとして共存を迫られるのは物理的にも仕方のない一面があります。私はここにも、自分を座標軸としてまわりを昆つめる「私の気分」が成り立ちにくくなった状況、生まじめで純粋だった時代精神の終わりを思うのです。(シンガー・ソングライター)
野戦の好きな軍曹たち(6・8)

 私のコンサートは、小劇劇場とか集会所、幼稚園、テント、多目的ホール、映画館といったあまり舞台設備のない会場が多いのです。予算を出来るだけ縮小するために、組まれたスタッフは、自分の持ち場以上のものを要求されます。

 照明のAさんは、以前、年に二百日以上も芝居の旅回りをやっていたひとです。コンサートマネジャー兼舞台監督の裏方出身で、どんな会場でもAさんと二人でなんとか仮設舞台を作ってしまいます。音響のKさんは、山形の電器屋さんで、コンアートのない時は、電気の配線工事をしています。

 前日の夜、山形を出て徹夜で4トントラックを運転して、早朝現地入りしたKさんは、会場わきの駐車場で仮眠をとり、私たちが着くのを待っています。予算が少ない時は、Kさんが運転するPA車と照明機材を運ぶAさんのライトバンに、私たちは便乗して移動することもあります。

 8年余り、私たちは二百から三百人の人たちが集まって待っている村や町の会場へと、コンサート活動を続けてきました。そして、よく8年間もこういった形で続けてこられたものだと時々みんなと話し合うことがあります。
 今にもなくなってしまいそうな私たちの小さな集団は、やがて変わってゆく状況に対応することを迫られ、より個人的な活動へと、変ぼうしていかざるを得ないでしょう。(シンガー・ソングライター)
さわやかな笑い(6・15)

 新聞記者のひとと雑談の折、とてもおかしい謡が出て久しぶりに楽しい気分になりました。その話では、柔道の山下選手が、園遊会で、天皇陛下が「さぞ骨がおれることでしょう」とねぎらいの言葉を山下選手にかけられました。そこで山下選手は「はい、二度ほど折りました」と答えたそうです。その後、女優の藤真利子さんが美智子妃殿下と会った折、美智子妃殿下が「同じ学校ですネ」と言葉をかけられたのに、彼女は「スミマセン」と頭を下げたという話を聞き、私は、また笑ってしまったのです。

 私は最近、ひとが一生懸命になっている時にでる、無意識のおかしさを忘れていたような気がします。
「寅さんシリーズ」にも一生懸命に生きている人々が織り成す、善意なるがゆえのおかしさがあります。無理におかしさを作り出そうとする今のマスメディアに正直言って笑えないのです。

「音楽は面白くなくなった」「レコードが売れなくなった」「コンサートが入らなくなった」という声が強くなっているいま、私は作り手側が結果を計算しすぎて作っていることにも一つの原因があると思っています。

 私たちが、日常までも作意的に生き過ぎる余り、感動的なことが本当に少なくなってしまっていることを、私は寂しく思うのです。(シンガー・ソング一ライター)
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