初めに
最近よく耳にする「市町村合併」。しかし、なぜ今「合併」なのか、よくわからない人がほとんどだろう。先ごろ、大宮・浦和・与野の3市が合併し、さいたま市になったが、大規模自治体の合併は稀であり、都市部に住む人にとっては、市町村合併は関心が低いに違いない。さらに、当事者である市町村の住民もこの合併の意味がよくわかっていないのが実情ではないだろうか。

 中には「合併すればその自治体の借金が帳消しになる」というデタラメなウワサも流されているという。いったい、自治体(市町村)の合併にどんな意味があるのか。かく言う私も調べてみるまでは五里霧中。なぜ合併なのか、どんな意味があるのか、そしてどんな問題があるのか、正直言って皆目見当がつかなかった。

 このコーナーでは、誰でもわかるように、自治体合併の意味と影響をまとめてみた。「市町村合併」は決して「地域」だけの問題ではなく、日本のこれからの進路を決定する重要な問題であるということが見えてくるはず。(2003・06・13)
[地方自治体]一定の地域およびそこに住む住民を存立の基礎とし、その地域における行政事務を住民の自治によって行う団体。都道府県・市町村などの普通地方公共団体と、特別区、地方公共団体の財産区などの特別地方公共団体とがある。
市町村合併って何
 いくつかの市町村が一緒になって、より大きな自治体になること。「新設合併」(いわゆる対等合併)と「編入合併」(吸収合併)の2つに分けられる。
合併の沿革 明治・昭和の大合併とどう違うのか
 明治になり、江戸時代から日本に存在した自然村、いわゆる基礎自治体が統廃合されて、中央集権的な行政区域に再編統合された。その数1888年(明治21年)で7万1314。それが、1889年の市町村制の施行で約5分の1の1万5859に減少した。これがいわゆる明治の大合併

 1945年には1万520に減ったものが、「町村合併促進法」(1953年)、「新市町村建設促進法」(1956年)を経て、1961年には約3分の1の3472になった。これがいわゆる昭和の大合併
 その後、1965年に「合併特例法」が施行されるが、その効果はほとんどなく、市町村の数は現在までほとんど変わらないまま推移してきた。

 それぞれ、合併の目的は異なり、「明治の大合併」は行政上の目的に合った規模と、自治体としての町村の単位の隔たりをなくすために、300〜500戸を村の標準単位にして行われた合併。つまり、明治以前の自然村・集落を行政単位に再編したということ。基本的に地方自治意識を国民に知らしめる意図があった。

 「昭和の大合併」の場合は敗戦後に行われた新制中学の設置管理、消防、自治体警察の創設に関連して、事務などを効率的に処理するために行われた、いわば合理化合併。500人の集落が5つ同じ地域にあったとしたら、それぞれに警察を5つ作るより、まとめて1つにしたほうが、警察・消防活動も合理的にできるということだ。

 これらは、名目上、自治の大義に則ったもので、今展開している「平成の大合併」とは理念が大きく異なる。

 明治、昭和の合併にも国家の要請による「中央集権化」の意図があったが、これに関しては後述。
なぜ今合併なのか
 2001年4月の小泉内閣成立による、いわゆる構造改革論がその背景にある。
「医療費の本人負担率3割にアップ」など、国民の弱い部分に「痛み」を押し付けるのが「構造改革」の実体。国は国民だけでなく、地方自治体ーー中でも弱小自治体に、その「痛み」を押し付けようとする。結論から言えば、それが「市町村合併」だ。

 つまり、国と地方合わせて700兆円近い財政破綻を打開するために、国からの地方交付税を減らそうというのが狙い。

 市町村の数が減れば交付税の「出費」も少なくなる。いってみれば、親に家計をやりくりする才覚が無く、バクチに手を出したりしたあげく、借金を背負い、その責任を、子供たちに押し付け、「おまえら、明日から食事は一日ニ食だけにしろ」と言ってるようなもの。

 もちろん、子供(市町村)は親の手伝いをして、家にお金を入れているのに、親がそのカネを野放図に使っている、という構図が背景にある。いわゆる「3割自治」だ。

 これは、行政サービスの7割を提供しているのに、国民の納める税金の3割しか自治体の直接収入にならないことを指す。当然、国からの交付金、補助金がなければ、自治体の運営はできない。自治体の借金は200兆円以上の巨額にのぼっている。その原因は公共投資に伴う国からの補助金のツケがほとんど。

 悪どい高利貸しに、「カネならいくらでも貸すから、高級な家具を買え、インテリアを新しくしろ」と無駄な出費を強いられ、借金漬けになっているようなもの。立派な庁舎、競技場など、いわゆる「ハコもの」行政のツケが回ってきているといえる。

 しかし、親が子供を養育する義務があるように、国は地方自治体への交付金を勝手にストップしたり、削減することはできない。それは憲法に謳われた「地方自治の本旨」から逸脱するからだ。

 それなら、合併させて市町村の数を減らし、交付金の総額を減らそうというのが、この合併問題の「正体」であり、国がシャカリキになる一番の理由。しかし、「合併してくれ」と上から押し付けるわけにはいかない。合併は下から自発的に行われることが国にとって望ましい。
 で、アメとムチが登場することになる。 
地方交付税

地方公共団体の財源不足や団体間の財政不均衡を是正し、その事務を遂行できるよう国から地方公共団体へ交付される資金。

合併に伴うアメとム
「アメ」は「合併特例債」、「地方交付税の合併算定替え」。ムチは「2005年3月までに合併しなければ、合併特例法が期限切れになる。つまり目の前のアメは溶けてなくなるゾ」、しかも「合併しない自治体は交付金を減らされるゾ」といった漠然とした不安感をあおること。
合併特例債」って何?
 簡単に言えば、「合併すれば何かとモノ入りになるだろう。国がそのカネを出してあげよう」という合併支度金

 しかし、当然のことながら、タダで国がカネを出すはずはない。住民がありがたくいただくように、あの手この手で、ケムにまくのが官僚たちのやり方。住民たちが「合併すれば借金がチャラになる」と思い込むのもムリはない。

 合併に伴う新たな市町建設にかかる事業費(離島同士の場合は村と村を結ぶ橋が必要となるだろう。この道路を建設したり、体育館、町民会館など両村の親睦・一体化をはかる施設建設・運営する費用)は国の試算で予算が決められる。それを標準全体事業費という。これは「市町村建設計画」に基づいて算出された実際の全体事業費とは別もの。「市町村建設計画」というのは、「合併協議会」が作成する合併後の自治体の青写真のこと。

 ごちゃごちゃして分かりにくいと思うので整理すると次のようになる。

 合併自治体が協議会で打ち出した町の建設計画が110億円。しかし、国が算出した全体事業費は100億円だとする。町の予算が10億円大きいわけで、この場合は差額の10億円は自治体の純粋な負担になる。

 ただし、「合併特例債」の対象になるのは実際の事業費110億円となる。

 これだと計算がわかりにくいので、国の算定と自治体の事業費算定額が同じだと仮定しよう。

 さて、合併すると、この全体事業費が丸ごと合併特例債として国から借り入れできるわけではない。充当率95%、つまり、算出された事業費総額の95%が「合併特例債」によって賄うことができる。つまり、国からの借金ができるということ。
 さらに、その「合併特例債」の70%は後から「普通交付税」として国から交付されることになる。

 具体的に見てみよう。

 A村、B村が合併してC町になる場合。その標準全体事業費が100億円になるとする。その95%の95億円を国から借金することができる。さらにその70%に当たる66億7000万円は地方交付税として後から戻ってくる。結果、100億円マイナス66億7000万円=33億3000万円。100億の合併事業を遂行するにあたり、地方自治体は33億3000万円の負担で済む、という計算になる。

 100億の事業が33億余りの出費で済むならオンの字じゃないかと思うかもしれないが、その33億3000万円も国からの借金であることに変わりはない。これに年利1・8%の利息がかかる。さらに借金は増えるというわけだ。

 言い換えれば、67億円の財政支援を受けるためには33億の借金をしなければならないということ。「7万円はあげるから、3万円借りてくれ」というのは高利貸しの手口。3万円はそのうち利息でどんどん膨れ上がる。

 カンフル剤で一時的に持ち直した患者が次第に体力をなくしていくのと似ているかもしれない。
[50兆円]
国の描く合併の青写真が完成すれば今の3分の1、1000に自治体は減少するが、その場合、「合併特例債」は50兆円必要になるという。700兆円も借金があるのに、50兆円の財源をどうするのか? そんなにカネを使っても元は取れるということなのか? まったく不思議な話。ツケはどうせ自分たちが死んだ後、次の世代に引き継がれるだけ、という官僚の思惑が見え隠れしないでもない。
「合併算定替え」って何?
 もう一つの「アメ」が「合併算定替え」

 これは合併前の地方交付税額の合算額を合併後10年間は保障するというもの。A村で10億の交付金、B村で20億円の交付金が国から交付されていた場合、C町になっても、10年間は2つの交付金を合算した30億円の交付金がもらえる、というもの。

 合併したら交付税を大幅に減額するのが、本来の合併の目的。A村10億、B村20億の交付金をもらっていた2つの村が合併すれば、30億よりも激減するのは当たり前。 「それならヤーメタ」という自治体を懐柔するのが、この「合併算定替え」の意味。

 しかし、当然のことながら、この合併推進の目的は「財政縮小」にあるのだから、いつまでもアメをしゃぶらせておくわけにはいかない。10年が過ぎると、地方交付税は縮小されていくことになる。

 10年が過ぎた後、5年間で段階的に引き下げられ、15年で本来の普通交付税の交付に戻る。

 その段階的引き下げを総務省の資料では「激減緩和措置」と表現している。 語るに落ちるとはこのこと。「合併すれば急激には減らさないヨ」と、合併しない場合へのブラフをかけているのだ。「合併しなければ交付税は激減するかもしれないよ」という脅しだろう。 
なぜアメを使うのか
 このように、アメとムチを使わなくても、国が地方交付金を減らせば、わざわざ合併という回りくどい方法で財政削減をはからなくても……と思うかもしれない。
 しかし、地方交付税は国が勝手に削減できるものではない。

 確かに、総務省は1998度年から3年間、人口4000人未満の町村に対する交付税の配分を減額した。さらに、2002年度から3年間かけて、人口5万人以下の市町村の地方交付税を削減することにしている。しかし、これらは、段階補正にかかる割り増し率を一律にするというウラの手を使ったもの。

 この引き下げは1000人規模の村で約2400万円、4000人規模で5500万円、8000人規模で5200万円、3万人規模の市で3000万円の減額になるという。人口が少ない方が、交付税の減額が大きいが、これは人口、自治体の態様などにかかる補正係数によって上乗せされ、人口が少ないほど、交付額が大きいケースがあるからだ。

 この先、地方交付税額を決定するもとになる基準財政需要額の算定に用いられる様々な補正係数の見直しによって、今以上の減額になる可能性もある。しかし、そのことは国が地方交付税を勝手に半額にしたり、大幅減額できるということを意味しない。

 なぜならば、基準財政需要算定に用いられる単位費用は法定事項であり、各行政項目ごとに数値が決められていて、法律を変更しない限り、勝手にその数値を変更するわけにはいかないのだ。

 
だから、国は自分たちの裁量で可能な補正係数をいじって「減額」しようとするしかない。それにも限度があるから、「合併」で一気にカタをつけようとしているというのだ。姑息といえば姑息な手段。

 もとはといえば、国の行政事務の7割を請け負って、3割しかその「報酬」を受け取っていない自治の不均衡が背景にある。国が勝手に地方交付税を半減することは憲法や地方自治法に定められた「地方自治の本旨」から大きく逸脱することであり、国としても腰が引けるし、地方から反抗ののろしがあがったら元も子もない。なだめすかしながら、地方自治体の力を弱めるやり方がないか考えた結果がこの合併推進なのだ。

 そもそも、国民・自治体に負担を強いる前に、国がやるべきことはいっぱいある。
 世界有数の巨大な軍事費の削減。行政組織の簡素化、無駄な公共事業の見直し。そして、政党助成金というふざけた名の政治家献金の廃止etc。
 まずは自分たちの足もとから見直すことがたくさんある。
[地方交付税法第1条]
 この法律は、地方団体が自主的にその財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能をそこなわずに、その財源の均衡化を図り、及び地方交付税の交付の基準の設定を通じて地方行政の計画的な運営を保障することによって、地方自治の本旨の実現に資するとともに、地方団体の独自性を強化することを目的とする。
地方交付税の目的
 地方交付税の目的は憲法が保障する地方自治の本旨を保障すること。「地方団体の強化をするために、各自治体の財源の均衡化を図ることにある。

 しかし、国の進める「合併政策」はこの目的にことごとく反する。地方交付税という、地方自治体にとっては命の綱を盾にとって、自治体を脅し、自治体の独自性を損なわせ、あげくの果てに、本来、保護されなければならない弱小自治体を消滅させようとしている。まるで、ヤクザの地上げと一緒。
「住民投票」より重い「住民発議の制度
 「何が何でも合併ありき」という国の方針を端的に示すのが「住民発議の制度」。これは住民の50分の1人以上の署名が集まり、議会で請求が承認されると法定協議会が設置されるというもの。法定協議会が設置されれば、事実上、合併に向けた第一歩を踏み出したことになる。

 この制度がいかに国に都合のいい制度かは、環境問題などについての「住民投票」と比べてみればわかる。住民投票条例を求める直接請求の場合、議会で条例制定が承認されても、住民投票で地域住民の最終意思が明らかになるに過ぎないし、住民投票の結果に法的拘束力はない。

 しかし、「合併促進のための住民発議」は合併の是非を問うのではなく、推進を前提とした議論となることは火を見るより明らか。「住民発議制度」は一見、住民の自主性を尊重したように見えて、実は国の合併推進機関であるといえる。
合併したらどうなる  弱小地域の切り捨て
 合併したらどうなるか。未来は国が言うように、いいことづくめと考えるのは早計。最悪の絵図も描いてみるべきだろう。

 [A村、B村、C村が合併してD町になった場合]

 比較的交通の便の良い旧A村に町役場がおかれるようになった。役場から遠方に位置するC村には支所が残された。しかし、自治体の中心部が栄えるのは当然のこと。町の行政機関がある場所に交通・経済、文教施設は集中する。

 C村の人々も、買い物ついでに行く旧A村の役場で行政手続きをするようになる。次第にC村の支所はさびれていき、ついには閉鎖となる。モータリゼーションの恩恵を受けて、A村にひんぱんに行けるのは若い世代。不便をこうむるのは常にお年寄りや体の不自由な人たち。町議選挙でも、人口の多い中心部の地域が多く議員を輩出することになる。町の公共事業は旧A村から着手される。

 やがて、町の中心部は完全に旧A村に移り、町の名前も旧A村の名前に変更される。

 こうして、合併された自治体の中でも比較的「弱い」地域は切り捨てられる。過疎の村はますます過疎化が進み、幼稚園、学校の統廃合問題も日程に上る。合併することによって本来あった基礎自治体の一つが消えていくのだ。

 これは何もシミュレーションではなく、現実に全国の合併地区で起こっていることだ。実際はこんなに単純ではなく、複雑な要素が絡み合うのはもちろんだが。


 実体験としても、私の生まれたA村は昭和の大合併以前に隣りのB村と合併し、今に至っている。しかし、合併に伴う村の消長の推移は前述のシミュレーションをなぞるようなもの。かつては村役場が置かれ、鉱山、林業で賑わい、旅館、映画館もB村より多かったわがA村は、合併により、比重がB村に移り、次第に活力を失っていく。町名もB町となった。

 自治体同士の合併による「市町村民の一体化」云々を総務省は懸念しているが、確かに、別々な自治体が一つになるのは多くの問題を抱えることになる。

 その一つが住民同士の反目。これも実体験からいえば、合併してB町になったとはいっても、長い間、両地域の住民同士の感情的しこりが残り、半世紀以上たった今も完全に解消されたわけではない。

 私自身、愛着を感じるのはどちらかといえばA地域という自分が生まれた村の自然、一木一草であり、正直なところ、B地域には愛着は薄い。しかし、これは住民感情として当然のことと思う。人間は自分の生まれ育った地域にこそ愛着が湧こく。もちろん、これは感情論であり、地方自治体の問題とは別物かもしれないが、弱小自治体が切り捨てられていけば、必ずこういった住民間の感情の齟齬は生まれるに違いない。
合併の弊害
合併して「ガタイ」が大きくなるということは、小回りがきかなくなるということ。別な言い方をすれば、直接民主主義が機能しにくくなるということだ。

 「住民請求」を例にとれば、署名集めをする時、住民の50分の1という数字は当然、飛躍的にアップする。浦和市の場合、7000人の署名を集めればよかったのに、合併してさいたま市になったら、3万5000人の署名が必要となったという。

 また議員定数が減るので、小さな政党・グループの得票にいわゆる死票が多くなる。小選挙区制で死票が多くなったのと同じ。こうして、間接民主主義も機能しにくくなる。結果的に、大政党が幅をきかす国と同じ政治体制が生まれる。地方の独自性は薄れていく。
併の真の狙いは何か
 このように、合併はさまざまな問題を内包する。それでも国が合併を進めるウラには、単に「財政削減」というよりも別な意図が隠されていると考えられる。

 それはハッキリ言えば「中央集権」の強化だ。つまり、国は自分の言うことを聞いてくれる子分が作りたいということ。そのために分散された「小さな力」をまとめたいということだ。

 たとえは悪いが、ヤクザの下部団体が100あれば、その頂点に立つ組長にとってそれを統制しようとするには多大な労力が必要となる。しかし、それを再編成して数を10に減らせば、グループをまとめやすくなる。それと同じ。

 小さな自治体がたくさんあれば、それへの国の対処も煩雑で面倒になる。なぜなら、1000人の自治体でも、10万人の自治体でも、国に対する「対抗力」は同じように保障されているからだ(それが憲法と地方自治法の本旨)。

 しかし、合併することによって、その力を統合し、より大きな自治体を作れば、国にとって、組みしやすくなる。

 極論を言えば、国に楯突くような元気のいい自治体を潰し、「国家の意思を遂行するために、なるべく言うことを聞くような自治体規模に再編成したいというのが国の狙いの主眼。この背景には、「地方分権の時代」への動きが加速された昨今の地方自治体をめぐる局面がある。

 情報公開と住民参加を謳った北海道のニセコ町、町の景観に関する基本理念をうたった神奈川県真鶴町、合併に明確な反対を打ち出した福島・矢祭町。人口数千人〜2、3万の町がやたらと元気がいい。それは、小さい町ゆえに直接民主主義が機能し、住民の自治の意識が高いということにほかならない。

 地方分権を背景に始まった本格的な「地方の時代」は国にとって一つの脅威となる。「外国人参政権」「国策の地方への押し付け」「廃棄物処理」「財源をめぐる法整備」など、これから「国と衝突する自治体」の局面は多くなっていくだろう。

 その時に備えて、国と自治体の力関係を国に有利にもっていこうという官僚、政治家の意図が見え隠れする。
  
 政治学者・神島二郎氏の研究によれば、明治以来、国の町村合併の背景にあったのは常に自治体の「国家化」だったという。

 明治の大合併で旧来の自治体を再編成して新しい自治体にすると、その新しい自治体は時間がたつにつれ「自立」するようになる。これは国にとって目障りな存在。だから、昭和の大合併で、その自治体を分断・再統合する。

 そしてまた時間がたつと、分断・再編成された自治体が「自立」し、自分の言葉を持つようになる。自分独自の「憲法」を持つようになる。

 まがりなりにも「地方分権の時代」の今、また自治体が「自立」しはじめた。だから、その「自立」を潰し、国になびくように再編成するのが「平成の大合併」のもう一つの意味というわけだ。

 スパイ防止法、有事法制、個人情報保護法、人権擁護法…と国家の権力が強大になりつつある現在、「市町村合併」もその「ファシズム」の流れと軌を一にするものといえる。ファシズムとはイタリア語で「薪を一つにまとめる」の意味があると言ったのは評論家の故羽仁五郎氏。今まさに、市町村を解体・再編成していく国家による合併推進の流れはファシズムそのものといえるだろう。

 そして、その行き着く先は道州制であることは間違いない。

 道州制といえば、なにやら米国の連邦制のようで「カッコいい、地方の時代にふさわしい」などと考える人も多いだろうが、それが成立する時は、日本の地方自治は終わりを告げ、完璧な中央集権国家が完成する時といっていいだろう。

 敗戦前の日本ーー国家が強大な権力・機能を持つことへの反省から生まれたのが地方自治の本来の目的。その地方自治の精神がカネと脅しで粉砕されようとしているのが、今の「市町村合併」であると私は思う。

 地域の文化、社会、政治的な独自性を無視した合併による、「地方切り捨て」は、やがて国民の切り捨てにつながるに違いない。
真の地方自治
 以上、ごく大雑把に「市町村合併」の問題点を述べてきたが、問題なのは、今の「合併」が上(国)からの押し付けだということ。期限を決めて、「それまでに合併しなければ、どうなるかわかってるんだろうな」というヤクザの脅しと同じやり方はあまりにもあざとい。

 自治体の合併は、当事者同士の自主的な発案で行うべきで、地域住民が自分たちの未来を決めていくことが大事。合併すべてがいけないということではなく、合併して活力を取り戻す自治体も中にはあるかもしれない。あくまで、「押し付け」ではなく、「下からの合議による合併」、それが地方自治の本旨なのだと私は思う。その意味で、今、国の進める「市町村合併」は将来に禍根を残すものであり、地方自治を潰す「百害あって一利なし」の政策であると断ぜざるを得ない。(2003.06.13)
[参考資料]南方新社刊「田舎の町村を消せ!」ほか。