グッドバイ 森田童子を初めて聴いたのは1975年。1stアルバムが出た年のこと。それは1970年という政治の季節の挽歌として耳に響いた。「仲間がパクられた日曜の朝、雨の中をゆがんで走る/キミはボクのいいともだちだった」「弱虫で静かなキミがボクはとっても好きだった」「故郷へ帰る後姿ボクはよくおぼえてる/悲しく色あせていく青春たち」
 
 無残な青春の死を内包した歌詞。それは漫画家・永島慎二の「青春残酷物語」と同じように、失われていく時代への痛切な哀しみをうたっていた。永遠に青春を彷徨する森田童子。彼女にどうしても会いたくて、彼女の友人を介して打診したが、「NO」の答え。「今は一人の主婦として静かな生活をしているから」というのがその理由。その半年後、テレビドラマで「高校教師」が始まり、主題歌として使われた森田童子の歌が大ヒット。しかし、彼女はついにメディアに登場することはなかった。青春の痛みを歌った歌手が、懐メロ番組で当時の歌を歌ったとしたらウソになる。繰り返さないからこそ青春なのだ。その潔さに心から喝采をおくりたい。下の文章は当時の日記の抜粋。


1975年12月13日(土)晴れ

「RFテレサを初めて聴く。不思議な女の子がゲストだった。森田童子23歳。やりきれない青春の痛みを歌っている。四畳半フォークじゃない。淋しさ。なにか非常に懐かしさをおぼえる。あまり上手とはいえない歌い方だが、奇妙に歌詞と曲調が合っている。山羊座の女の子、不可思議な…。
 ※RFテレサって何だろう。ラジオ番組だと思うが、まったくおぼえていない。
1976年9月20日(月)晴れ

 ルイードで森田童子のライブがある。

 PM7、「ルパンV」というフォークグループが前座(?)。くだらないジョークで観客の笑いをとる。前列に陣取っていたファンらしき女の子たちは彼らの出番が終わったらサッサと帰っていく。次に森田童子登場。スポットが当たり、ジーパンにサングラス姿の彼女が出てくる。端正な顔立ち。少女のような雰囲気。 

「こんにちは、森田童子です」

 椅子に腰を下ろし、マイクの位置を直しながら、つぶやくように言う。
 後ろの客席で高校生らしきグループが「女なんだ、男かと思った」と囁くのがきこえる。

「もしも君が疲れてしまってもうこれ以上歩けなくなったら……」

 一曲目は「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」。体を左右に揺らしながらリズムをとり、透き通るような高音が耳に突き刺さってくる。 

「2枚目のLPの録音を終わって、2、3日前から少しずつ、仕事を始めました。そのLPのジャケットを××さんという画家に頼んだんですけど、××さんは昔、パリの反戦ポスターコンクールに出品して賞金を稼いでいたそうです。××さんの絵はとても繊細なため1カ月に2枚か3枚しか描けません。だから生活はとても苦しいようです。××さんは、もう最近では生きる希望も気力も失って毎日奥さんと女の子を連れてパチンコばかりやってるそうです」

  客席を奇妙な静寂が包む。

「もうすぐ2枚目のLPのジャケットができあがります。××さんもそれを楽しみに待ってます」
 
  5〜6曲歌い、ラストソングは「地平線の向うにはお母さんの〜」と「地平線」を。
 
 歌い終わるとぺこりと頭を下げ、楽屋に引き上げていく。まばらな拍手。アンコールもなし。帰りしな、楽屋口をのぞくと、彼女が一人でギターをしまっているところだった。そのはかなげな姿。
 目の前の森田童子はオレの思っていた通りの人だった。愛想笑いをしたり、つまらない冗談のひと言でも言ったなら、それは森田童子ではない。