日韓・日中韓舞台芸術コラボレーホションフェスティバル2002「水漬く屍」(6月6日〜9日、東京芸術劇場小ホール2)

 作・演出=イ・ヘジュ。出演=大滝寛、加地竜也、白井圭太、太田志津香、朱鎮模、呉達洙ほか。

 戦時中、日本人兵士として従軍した一人の朝鮮人が回想する記憶の中の日本人兵士たちの幻影。
 年老いた男がいる。彼は日本人として戦後を生きてきたが、記憶の重圧に耐えかねて、故郷・韓国に戻り、海に沈んだ日本軍船を引き上げようとしていた。何日も続く引き上げ作業。ある日、米製のM1迫撃砲の一部の引き上げに成功する。それと同時に、記憶の底にしまい込んだ日本軍兵士との日々の思い出がよみがえる。ヒューズ大尉、マラリア上等兵、クソハンゴウ一等兵……。彼らはさまざまな事情で後方に配属された落伍者たち。任務は朝鮮・南海岸の巨斉島の海岸に待機し、米製の迫撃砲を運搬、荷渡しすること。しかし、その日本人兵士たちは軍人というにはあまりにも心やさしい人々であり、やがてそのために悲劇的な結末を迎えるのだった。

 作者は「この舞台は歴史を歪曲していると誤解を受けるかもしれない。韓国では親日として批判され、日本からは無政府主義者として烙印をおされるだろう」と語っている。確かに一種のファンタジーとして見ればいいのだろうが、戦時中にこのような軍隊が存在したかは疑問。史実に基づいているのだろうか?

 韓国語と日本語が混在し、やや展開がわかりにくい点があったが、俳優たちのコラボレーションは秀逸。韓日の友好劇として見るなら○。ただし2時間20分は長すぎる。(★★)

流山児★事務所「殺人狂時代」(6月7日〜16日、下北沢・本多劇場)
作=鐘下辰男。演出=流山児祥。
出演=観世栄夫、塩野谷政幸、大谷亮介、小川輝晃、みのすけ、保村大和、中谷政雄、里美和彦、大内厚雄、若杉宏二、関根靖晃、谷宗和、甲津拓平


 芝居を見て興奮したのは久しぶりのこと。ほとんどセットらしきものがない素舞台で12人+1人が繰り広げるディスカッションドラマ。ヘタすると目も当てられない単調で平板な舞台になるところを、鐘下辰男の脚本と演出・流山児祥の力技が絶妙に合致、ここ10年の演劇状況の中で超過激に突出した舞台になった。

 海鳴りが聞こえるどこかの町の倉庫の地下室。そこに閉じ込められた12人の男たち。彼らは新聞の「傭兵募集」の広告に応募し、ここに連れてこられたのだ。彼らを雇ったのは「戦場委員会」なるナゾのグループ。そのリーダーは真っ白な制服に身を包んだ少年だという。その少年が企てるのは「軍事クーデター」。12人で果たしてそんなことが出きるのか。「バカバカしい冗談に付き合っていられない」とばかりに、男たちが帰ろうとする。しかし、一人の男がそれに異議を唱える。果たしてクーデターは夢物語かと。密室での12人の男たちの壮絶なバトルトークが始まる。

 これは現在のアクチュアルな政治状況をダイレクトに反映した鐘下辰男版「12の怒れる男たち」だ。夢物語であるはずの12人だけのクーデターが男たちの討議が進むにつれ、次第に「現実味」を帯びていく。その過程が実にビビッド。役者たちの演技がこれ以上はないというくらいイキイキしている。こんなに役者が生きている舞台を見たのはほんとに久しぶり。

 「妻子をチンピラ少年たちに殺された男」を演じる大谷亮介も、この舞台では悲哀感漂わせ、迫真の演技をしている。元教師・保村大和も見事な演技。なによりもセリフに危うさがないのが好感もてる。小川輝晃の端正で静かな狂気、右翼青年の塩野谷もまさにピッタリ。元ジャーナリスト・みのすけ、大内厚雄もいい。ホンモノの自衛隊あがり、中谷はさすがに存在感が光る。
 そしてなによりも観世栄夫の巨大な存在感。素舞台だけにラストの観世栄夫の登場シーンは衝撃的。まるで、大友克洋の「アキラ」を「見た」ときの衝撃。

 劇中で語られる天皇をめぐるセリフ。ここまでタブーに踏みこんだ表現ができるのは今の時代、鐘下=流山児コンビしかできないのではないだろうか。上演にあたって、右翼を刺激するかもしれないと心配していたが、真の右翼なら逆に拍手を送るだろう。

 やみくもな有事法制=国家総動員体制が進められようとしている現在、国家と戦争を徹底的に笑い飛ばした肉弾戦=演劇の可能性に挑戦した流山児祥の捨て身の企ては演劇的成果として大きな実を結んだといえる。これは演劇ではなく事件である。(★★★★★)
文学座「月夜の道化師」(5月22日〜6月2日、新宿・紀伊國屋ホール)

作=渡辺えり子。演出=鵜山仁。
出演=金内喜久夫(青児)、神保共子(春)、外山誠二(光男)、南一恵(良子)、栗田桃子(笑)、清水明彦(鈴木保)、山本道子(神林竜子)、背戸口郁(緑川信)、大場泰正(大野正彦)、助川嘉隆(木村伸夫)


月夜の道化師
 渡辺えり子の文学座初書き下ろし作品。演出は文学座のエース鵜山仁。
 80年代小劇場の雄「劇団3OO」で展開してきた渡辺えり子の得意とする押入れと内宇宙が通底する”記憶の物語”はそのリリカルかつイメージ豊かな戯曲と演出が”言文一致”し、渡辺えり子ワールドとして成果をあげたが、えり子以外の演出では、戯曲をなぞるだけのわかりやすく、単調な芝居になってしまう危険性をはらんでいた。今回の舞台はそれがモロに出てしまったといえる。
 つまり、文学座という新劇の端正な作劇術フィルターを通してみると渡辺えり子の戯曲は意外な脆弱さをさらけ出してしまうのだ。

 戦時中、予科練に入隊し、戦死した兄・光児。弟・青児は病気のため召集されず生き残った。そして75歳になる今日まで独身を通し、兄の妻・春、その一人息子・光男と妻・良子、光男の娘・笑と暮らしてきた。彼が独身を貫いて嫂(あによめ)を守ってきたのには、兄は自分の身代わりに死んだという慙愧の念ともうひとつ別の理由があった。それは……。

 ウーン、どうにも通俗的なお話に見えてしまうのはなぜだろう。春と青児は互いに恋人同士だったのだが、ある夜、侵入してきた光児を青児と間違えて結ばれ、子供を宿してしまう。それが光男。青児は自ら身を引き、光児と春は結婚する。しかし、光児は特攻で出撃したまま行方不明。そして戦後57年、自分たちの思いを記憶の底に沈めてきた2人だったが、春のボケが進んだことで、青児の戦後の決算が迫られる。

 そこに現れたのが1人の若者。彼は阪神大震災で一家が全滅。1人生き残ったのだったが、死んだ祖父が残した遺言に従って花田家を訪れたのだ。その祖父こそ誰あろう死んだはず光児で……。
 戦後、死んだ兄弟の妻と結婚するのはよくあることで、むしろ奨励された時代でもあったらしい。しかし、春と青児は同じ屋根の下に暮らしながら死んだ兄・夫に遠慮してついに結ばれることはないまま晩年を迎えている。美談に見えて実は2人は非常に残酷な仕打ちを周りにしている。青児を慕いながら、独身を貫いてきた教師・竜子もその一人。「私と結婚して。ここまで待ったのだから……」
 彼女の悲痛な訴えを退ける青児。
 ラストシーン、降りしきる桜の花びらの下、満月に抱かれて春と2人立ちすくむわけだが、純愛というよりも身勝手な愛と見えなくもない。

 「特攻と自爆テロはどう違うの」「全然違う。向って来る敵に突っ込むのと、戦う意志のない一般人に向うのは……」「死んだら一緒じゃん」「全然違う!」という笑と青児の応酬があるが、こんな情緒的なセリフで「テロと特攻」を片付けてしまうのはどんなものか。渡辺えり子には同世代として、戦争に対する日本人のメンタリティーを検証してほしかったのだが、安易なセンチメンタリズムで思考停止してしまったのは残念。金内喜久夫、神保共子ほか役者陣はさすがに安定している。(★★)
MODE「屋上のひと」(16〜26日、下北沢ザ・スズナリ)
 作=北村想。演出=松本修。
出演=占部房子(本を読む女)、たかはしちづ(赤ん坊を背負った女)、金子智実(ボタン)、小城亜由(アヤメ)、鈴木美恵(ツバキ=女子高生3人組)、秋山京子(風呂敷女)、福士惠二(車椅子の教授)、中田春介(不倫男)、宮澤大地(変態男)、成川知也(作業服の男)、川口真吾(シンちゃんと呼ばれるサラリーマン)



 90年5月30日に本多劇場で上演されたプロジェクト・ナビのオリジナル初演は見ているが、正直いってこんなに面白い作品とは思わなかった。演出が変わると同じ戯曲でもこんなに違うものか。
 舞台はとあるビルの屋上。そこにやってくる人々の人間模様。
 赤ん坊を背負った女とその不倫相手の男。同級生が起した殺人未遂のウワサをあっけらかんと語る女子高生3人組。ストーカーの変態男、車椅子に乗った盲目の教授とその秘書。少し知恵の遅れた定食屋の女と若いサラリーマン。
 どのカップル、グループも互いにすれ違うだけで積極的な関わりはもたない。女子高生相手に変態行為をするコート男は自分の妻が向いのビルから飛び降りたのだと告白。また、若いサラリーマンは会社の重役の娘と結婚するため、定食屋の女を絞殺しようとする。美しい秘書に素粒子論から太宰まで、明滅する数多の事象を語らせる教授。性と死、科学と哲学が交錯する屋上の人々。終幕、彼らが耳にするのは遠くに聞こえるサイレンの音。咆哮する猛獣の声。それは動物園の火事。屋上からその火を見つめる人々。日常の中に見え隠れする不気味な終末感が漂う秀逸な場面だ。

 しかし……久しぶりに笑いに笑った。松本修の演出する舞台は汗ばんだ肌にまとわりつくようなエロスと、一方で対照的な乾いたユーモアが特徴。起用する女優も美形ぞろいだ。
 今回の女優陣もかなりイケてる。占部房子は朝の連続ドラマに出ている女優さん。金久美子と伊東由美子を足して2で割ったような美人。ツバキ役の鈴木恵は戸田恵子によく似ている。たかはしちづは小鹿ミキ。金子智実は昔の黒木美奈子と面差しが似ている。

 ブスな定食屋の女を演じた秋山京子も松本修の手にかかれば可憐に見える。パンフを読むと、松本が「秋山京子は”風呂敷女”をやるために生まれてきたような女優」と書いてあったが、まさに至言。川口真吾=シンちゃんとの絡みのシーンは絶品。ちょっと”足りない”年上女と若い恋人のやり取りはこの芝居の中でも目を見張る素晴らしさ。相手役の川口真吾も難役を好演。福士惠二も「アメリカ」以来、すっかり松本作品の常連として渋い演技を見せてくれる。利賀から帰ったばかりということで、多少セリフをかんでいたがご愛嬌。

 この戯曲、今上演してもまったく違和感をおぼえないどころか、2002年の時代状況を先取りしていたように思える。北村想恐るべし。(★★★★)

劇団青年座第161回公演「湖底」(5月7日〜17日、新宿・紀伊國屋ホール)
 原作=薄井ゆうじ・脚色・演出=井上亨。
出演=五十嵐明、佐野美幸、青羽剛、松川真也、石母田史朗、名取幸政、声の出演=椿真由美。

 干ばつのために20年ぶりにダムの底から中学校の校舎が出現する。当時の中学生たちがその校舎で同窓会を開こうと集まる。来たのは4人の男と1人の女。広告代理店に勤めるエリート社員、斬られ役専門のアクション俳優、ラジオのDJetc。
 しかし、泥だらけの校舎は彼らにとって、忌まわしい記憶を呼び覚ます。彼らの前に現れ、執拗に嘲弄する一人の男。彼の正体は…。

 ダムの底から校舎が現れ……という設定は折原一の小説にもあるし、「学校の怪談」にもありそう。ありきたりな設定。そこから進んでいく物語も実に陳腐。最後のどんでん返しも、いかにもホラー小説にありがちな展開。「死と再生への希望」というテーマをむりやりくっつければそれでよし、とする脚本(原作?)はイージーすぎる。

 冒頭、干上がったダムを訪ねてきた元クラス委員長の長ゼリフ。そのセリフで状況をすべてを説明させるという、まさに絵に描いたような非演劇的な芝居が随所にあるのでびっくり。青年座ともあろうものが、こんな初歩的な説明演劇をするなんて。不気味な校舎のセットなどは背景として使われるだけ。立体的な演劇にならず、平板に流れてしまう。サラウンドっぽい音響効果もやすっぽいお化け屋敷のよう。初演出ということを割り引いても、どうも…。

 役者ではトミー役の石母田が健闘していたが、五十嵐明のセリフ回しはどうにも拙く聞こえてしまう。しっかりとした演技ができる役者のはずなのに、どうしたのだろう。1時間で終わる芝居を2時間10分に引き伸ばしたようなもので、演出の冗漫さがそこにも出ている。星一つの舞台としかいいようがない。


「おやすみの前に」(5月5日〜19日、渋谷パルコ劇場)
 作=福島三郎。演出=宮田慶子。
出演=宮本信子、川原亜矢子、岡田義徳、宮地雅子、二瓶鮫一、佐々木蔵之介。

おやすみの前に
 保険のセールスレディー・山野ユキコ(宮本)は実は魔女。死期の迫った人間の願いを叶えてあげる代わりに魂をもらうことが仕事。その相手によってポイントがつく。彼女の相手は80歳の大学教授・羽生。不老不死の研究の権威である。彼の願いは30歳になってもう一度恋をすること。どうやらその年齢に彼が初めて胸をときめかせた女性の思い出があるらしい。願いがかなって30歳になった羽生は近くのハーブティー・カフェのアルバイト店員・アカリ(川原)に恋をする。それを見守るユキコ。アカリに懸想する男がもう一人・羽生の研究所の研究員・若田部。

 一方、ユキコの同僚ハナヨ(宮地)は契約を交わした男・平次郎(二瓶)につきまとわれて困っている、彼はハナヨが好きになり、なかなか地獄行きのバスに乗れないのだ。
 こうしてさまざまな人間(?)模様が交差していくのだが…。結論から言えば、物語は少女小説にありそうなベタなオハナシ。特に一幕は物語がなかなか展開しない。苦労して書いたテストの論文のよう。話を転がせないので同じことを何度も繰り返してしまうのだ。若返った羽生が魔女によって大阪弁や鹿児島弁になるというのもくすぐり程度。ダイナミックな笑いの渦にならない。

 ニ幕で物語はようやく急進展するのだが、ほとんど想像した通りの展開。この「人間不在」の脚本ではいかな宮田慶子でもやりようがない。どうでもいい部分に凝るしかない。魔女の使った巨大な煙草の輪攻撃。初めて見た演出だが、あれはこれから舞台で多用されそう。たぶん、装置は単純なものに違いない。見るべきところはそんな小道具か。

 確かにハートウォ−ムな芝居ではあるけど、言葉を変えればぬるい芝居。福島三郎という才能ある作家にしてはちょっと残念。世界的ファッションモデルの川原亜矢子は初舞台だが、なかなか善戦していた。
 思わずクスクスと笑いが出たのが二瓶鮫一のトチリと宮地の受けの芝居とは…。ウーン、福島三郎好きなんだけど…。捲土重来に期待。(★)

加藤健一事務所第50回公演「煙が目にしみる」(5月1日〜12日、下北沢・本多劇場)
 原案=鈴置洋孝。脚本=堤泰之。演出=久世龍之介。
 出演=加藤健一、坂口芳貞、岸野幸正、松本きょうじ、岡田達也、有馬自由、長江英和、一柳みる、白木美貴子、加藤忍、平田敦子、橋本奈穂子。


 煙が目にしみる関東近郊の小さな町の斎場。野々村家と北見家の火葬が執り行われようとしている。その待合室に白装束の男2人が現れる。これからあの世に旅立とうとしている野々宮浩介と北見栄治だ。彼らの姿が見えるのは浩介の老母・桂だけ。周りは老母のボケが重くなったと意に介さない。
 浩介の家族はその老母と妻、高校生の娘、そして放浪中の息子。それに妹夫婦。一方、栄治の方は娘が一人とレンタルビデオ屋の店長がなぜか立ち会っているだけ。栄治は32歳も若い恋人・瀬能あずさがいて、その部屋で死んだらしい。あの世へ旅立つ心残りに一目、あずさに会いたいと栄治が桂に頼んだことから、二つの家族を巻き込んだドタバタが始まる。

 実力ある俳優の演技だけに安心して観ていられる。初演はドタバタ劇の趣が強かったが、今回は親子の情愛や恋人同士の切ない愛に重きが置かれ、人生の哀しみや喜びが丹念に描かれる。最後に明かされるビデオレンタルのナゾ解きが涙を誘う。

 おばあちゃんに扮する加藤健一の役作りは相変わらず絶品。笑えて泣けるカトケン芝居の佳品。これを観ると死ぬことが怖くなくなる…かも。(★★★)
「フォーティンブラス」(4月27日〜5月5日、ル テアトル銀座)。作=リー・ブレッシング。翻訳・演出=青井陽治。
出演=佐野瑞樹、堀内敬子、増沢望、前田美波里、近藤洋介、新井康弘、児玉信夫、沼田芳孝ほか。

フォーティンブラス
 「ハムレット」の後日譚であり、パロディーである。悩める貴公子・ハムレットが息絶える寸前に王位を継承する者の名前としてあげたのがフォーティンブラス。彼は、ハムレットの実父が決闘で倒したノルウェー王の息子。

 さて、ハムレット亡き後、ポーランドから凱旋したフォーティンブラスは生き残ったハムレットの友人・ホレイシオーから「事の次第を後世に語り継いでくれ」とのハムレットの遺言を託されるが、複雑怪奇な宮廷の惨劇をそのまま国民に説明するよりは、わかりやすい解説の方がいいだろうと一人合点し、ポーランドのスパイが王家を滅亡させたという物語をデッチ上げる。そのために悪気なく、生き残った宮廷人オズリックにすべての罪を着せようと謀る。しかも、それを裏付けるように、ポーランド国境まで軍を進出させるが行く先々で常勝、領土を広げていってしまう。もともとがお気楽者で単純なフォーティンブラス、事の成り行きに困惑するが事態は彼の思惑とは別にどんどん進行していく。

 そんなフォーティンブラスの前に、死んだ宰相ポローニアス、オフィーリア、王妃ガートルード、王クローディアス、そしてレアティーズが亡霊として現れる。ちゃっかりオフィーリアを寝とってしまうお調子者のフォーティンブラス。さらに、ハムレットまでがこの世に舞い戻り、フォーティンブラスに「事実を後世に伝えよ」と迫る。王と王妃はすっかり改悛。「自分たちを王家の墓から掘り起こし、悪者として葬ってくれと言い出す始末。

 ポーランドから略奪した2人の娘から迫られ、オフィーリアからも追いかけられるフォーティンブラス。霊界と現世を巻きこんだ色と欲のドタバタ劇。

 フォーティンブラス役の佐野瑞樹は口吻も鮮やか、聖俗併せ持つフォーティンブラスを軽やかに演じていた。衣装を大道具に引っ掛け、ちょっと慌てるシーンがあったが、そんなささいなハプニングにも悪びれない仕草には好感が持てる。対するハムレットはいささか舌足らずで、活舌に問題あり。

 ハムレットが巨大なモニターに閉じ込められ、その煉獄から脱出するために、怨念凝縮、大爆発を起させるという現代的なパロディー演出が笑える。

 繰り返された復讐劇の果ての死者と生者の最後のおだやかな交歓。もしかしたら、演出・青井陽治の頭に9・11テロ以降の世界情勢がよぎったのでは。その意味でまさに今の時代を反映した舞台といえる。

 出演者で一番の注目株はオフィーリア役の堀内敬子。「四季」出身ということで、歌良し、セリフ良し、姿良しの三拍子そろった逸材。これからの活躍を期待したい。休憩15分込みで2時間45分。(★★)

オフィス・サエ「広島の母たち」(4月24日〜29日、大塚スタジオVario)
 原作=山本真理子。構成・演出=露川冴。
出演=山崎勢津子、酒井麻吏、溝口園枝、金谷啓子、諏訪友紀、飯塚奈美、野口有紀、内山惠司、中村和三郎、桑島義明、橋本達也。


 広島の母たち児童文学者・山本真理子の戦争民話「広島の姉妹」「広島の友」を舞台化してきたオフィス・サエによる「広島三部作」の第3作「広島の母たち」を舞台化。
 原爆投下直後の広島。被爆し、瓦礫の下に埋もれ、姉によって助けられた少女・秋子。姉は大怪我を負いながらも必死になって妹を掘り起こしてくれたのだ。至る所で火の手が上がり、やがて黒い雨が降り始める。姉はその日のうちに亡くなり、多くの友も同じ運命をたどる。
 物語は姉の死の後、秋子が広島の町をさまようところから始まる。

 「原作の言葉の美しさ、リアルさを大切にしたい」という演出・露川冴はあえて脚本化せず、原作をまるごと舞台にのせる。つまり少女の目から見た広島の光景が一人称で語られるのだ。ただし、単なるリーディングドラマにはしないで、役者が役を演じるというスタイル。「姉妹」では主人公・秋子を5〜6人の女優が演じたが、今回は3人の女優が秋子を演じる。そしてほかの俳優もまた一人で何役も演じることになる。この独自の手法が実に巧みに舞台に生かされている。

 冒頭、舞台に倒れ伏した人々からかすかに「お母さん、母さん、母ちゃん…」という呼びかけが聞こえ、それがうめき声に変わる。8月15日のヒロシマ。秋子は町をさまよううち、一人の母親の出産の現場に立ち会う。死者の群れの中から生まれた命。一方、秋子の母は疎開先で姉妹の様子を気にかけながらも、姑に気を遣い、駆けつけられずにいた。そこに姑の溺愛する次男が広島から帰還する。しかし、聡明で精悍だった彼の姿は見る影もなく衰弱していた。「なぜ俺が死ななければならないんだ」
 彼は戦争を呪いながら死んでいく。
 この次男役や地域の看護班長役を演じた中村和三郎が実に素晴らしい演技。劇団「帰燕風人会」出身とか。このようなリーディング劇は俳優の力量が試される舞台だが、その重厚かつ軽妙、巧みな演技に魅せられてしまった。

 その他の役者も誠心誠意演じているという熱意が伝わる。とくに主演の少女を演じた3人の女優の初々しい演技は特筆もの。芝居は役者の熱気が伝わってこそ観客を感動させる。しかし俳優の「実力」という裏づけがなければ、ただのうわっつらをなぞっただけのお涙頂戴劇になってしまう。小さな劇場だけに、観客の視線は役者の実力を見抜く。「本」をまるごと舞台にのせるという演出家・露川冴の新手法が実を結び、花開いたといえる舞台。こういう舞台こそ、演劇鑑賞会を通して全国民の見てもらいたいものだ。(★★★)

「大人げないおとなたち」(亀戸カメリアホール)

ラスベガス近郊(?)のある小さな町のショーパブ。かつて一世を風靡した日本人のコメディアン(小松政夫)が細々と経営している。近頃はテレビに客を奪われ、お抱えの芸人も突然の出演キャンセル。そんなある日、かつてコンビを組んだ相棒(団しん也)がふらりと現れる。彼もテレビに客を奪われ、スケジュール帖が真っ白。しかし、そんなことはおくびにも出さない。相棒は渡りに舟と、キャンセルされた芸人の穴をこの相棒の芸で埋めようとするが……。
 テレビに出るタレントだけがもてはやされ、テレビからお呼びがかからなくなった芸人は落伍者と見なされる昨今の風潮に異議申立てをするかのような舞台。
 小松、団の2人はそれぞれの持ちネタを披露するが、小松のギャグ(しらけ鳥飛んでいく南の空へ〜など)はいかにも懐メロであり、ギャグの耐用年数を越えている。それに対し、サッチモの「すばらしき世界」などを模写する団の歌は絶品。声帯模写芸も古さを感じない(模写の相手が森進一だの三船敏郎というのはちょっとしょぼいが)。小松の瞬間芸、ギャグの低調さはちょっとヘコむ。しかし、2人が掛け合いで演じる「淀川長治とゲストによるモノマネ」は笑える。これぞ芸人。最後はきっちり決めてくれる。芸なしタレントがテレビのバラエティー番組を席巻している現在、片隅に追いやられる芸人たちの哀歓はいかばかりか。2人の芸に★3つ。
薔薇笑亭SKD博品館劇場part1「夢で愛ま翔」(23〜25日、銀座博品館劇場)

出演=西紀佐江子、星里くらら、芹なづな、銀河京、英みつる、大曽根伸江、有沙美希、朝日奈ゆう子、麻生侑希、瑠璃あや夏、日高理恵、彩乃美紀。ゲスト=千月景子、甲斐京子


一部が江戸もの、二部が洋ものの二本立て。SKD(松竹歌劇団)は96年の解散前はよく見ていたし、好きだった。今回の公演はSKDのOBが夢よ再びと企画した公演。これから年に2回公演にもっていくという。その意味で試金石になる公演ではある。

 OB中心だから、どうしても年功序列のヒエラルキーになる。会場からの熱心なファンの声も大物OBへの声援がほとんど。しかし、懐かしのメロディーを続けていくならともかく、SKDのレビュースピリッツを伝えていくなら新しい血を入れたほうがいい。今はダンスも高度になっていて、SKD仕込みのダンスは懐メロふうに見えてしまう。突然の解散という苦難からようやく再出発する意気込みはわかるが、SKDレビューが時代の要請に合わなくなった理由も突き詰めて、新生SKDレビューを見せてほしかった。

 今回の公演は振り付けはあるが、演出がないに等しい。曲に合わせて踊り、曲が終わると暗転。板付きでまた次の曲・ダンス。これでは、どこかのダンス教室の発表会と変わらない。SKDらしい、ダンスとショーのダイナミズムが見たかった。盛り上がりに欠けるからラインダンスも今ひとつ華麗さがない。ちょっと残念。演出を再考したほうがいいと思う。(★)

入江雅人W1劇場「筑豊ロッキー」(4月18〜21日、新宿紀伊國屋ホール)
 作・演出=入江雅人、白崎和彦。出演=入江雅人。

 ロッキーのテーマとともに紗幕の向こうに自転車に乗った入江雅人が浮かび上がる。時々自転車を降りて新聞配達する入江。オープニングのネタは、福岡県直方市で新聞配達をしていた入江少年が、映画「ロッキー」を見た次の日、初めて配達時間1時間を切ったというエピソードを披露するつかみネタ。

 会場からゲストの八嶋智人が出てきてダメ出し。八嶋の突っ込みと入江のボケ。続く「イミテーションハンター」というネタはアニメネタ。いまいち笑えない。「男一匹ナレーション人生」はある男の一生をナレーションに合わせて演じる一人芝居、というより一人コント。これが抜群に面白い。入江のセリフの”間”の良さはなんといってもピカ一。

 リラクゼーションタイムという八嶋とのトークタイムで疲労回復。最後は約50分の大作「東京大パニックメガネ・2002REMIX」。メガネを拾った人たちがそのメガネによってありえないものを見てしまうパニックミステリー。ストーリーは壮大だが、意余って…。これもどうも笑えない。入江雅人という役者はいい役者で好きなのだが、一人芝居はちょっとツライ。それに「芝居」というわけでもないんだなぁ。コントネタ集?(★★)
劇団道学先生「兄妹どんぶり」(16〜24日、新宿シアタートップス)

作=中島淳彦。演出=堤泰之。
出演=青山勝、田岡美也子、谷本知美、福島勝美、辻親八、岸博之、海堂亙、藤原啓児、前田こうしん、東海林寿剛、竹田雅則、塩塚晃平、かんのひとみ



 尻尾まであんこが詰まったタイヤキのような舞台。どこを食べても口の中にあんこの甘さと皮のほどよい香ばしさが広がる。2時間15分だが、いつまでもこの至福の時間に身をゆだねていたいと思うほど、充実した舞台だった。
 登場人物がすべて個性的に描き分けられ、絶妙な集団劇となっているのだ。

 義理の妹を演歌歌手として売り出そうと最後の勝負をかけて大阪から上京した義兄。2人が訪れたのは「歌声」という名の居酒屋。まずは義妹をここでアルバイトさせようというわけだ。そこに大阪から妻が追いかけてくる。山師のような男に散々な目にあい、先行きに不安を募らせる妻。昔レコード会社で一発当てたものの、あとが続かずクビになった店の主人、儲け話に飛びつく客のレコードプロデューサー、常連の町内合唱クラブの面々、刑務所から出てきたばかりという下着泥棒男、そして落ち目の老作曲家、これらの人間模様が、中だるみもせず実に絶妙に描かれる。
 
 ジグソーパズルの最後の1ピースまでがきっちりとはめ込まれるような壮大な人間喜劇。どの役者も個性を描き分けられていて、捨て駒がない。

 演歌志望の女のコという重要な役どころは実際の演歌歌手・谷本知美。知らなかったので、最初、ホンモノの女優かと思ったくらい演技がこなれている。なによりも笑顔がチャーミング。こぶしのきいた歌声はさすが演歌の星。いっぺんでファンになってしまった。

 この舞台の面白さは1000万語費やしても語りきれるものではない。
 これほどまでに愛しく思える舞台はかつてあっただろうか。時よ止まれ、今この舞台をそのままタイムカプセルに閉じ込めて、何度でも繰り返し見ていたい。脚本、演出、役者ーーこの3者が奇跡的にうまく絡み合い、笑いの神様が俳優たちの肉体の細部までやどった好舞台。三谷幸喜も好きだが、彼のコメディーより百倍好き。(★★★★★)
テアトル・エコー「シルヴィアの結婚」(16〜28日。恵比寿エコー劇場)

作=ジミー・チン。訳・演出=酒井洋子。出演=根本泰彦、丸山真奈実、安達忍、納谷悟朗、田村三郎、牧野和子、火野カチコ
シルヴィアの結婚
 長年の交際を実らせてゴールインすることになったシルヴィアとゴードンはともに32歳。処女と童貞。しかし、両家は一方はお金持ち、一方は郵便配達夫でしかもリストラされたばかり。釣り合わない結婚だが、珍しくゴードンが結婚貫徹を表明、両親も折れることになる。しかし、見栄をはって盛大な結婚式にしようとしたため、重くのしかかる結婚費用。

 一方、2人の相談相手となるイボンヌはバツ2女。結婚の無意味を2人に聞かせているうちに、ゴードンはイボンヌに惹かれるようになる。知らぬはシルヴィアと家族たち。結婚式前夜、イボンヌの部屋に泊まったゴードンはどうやらそこでベッドをともにしたらしい。式の当日、打ち明けようとするゴードン。しかし、シルヴィアは幸福の絶頂で取り合わない。
 感づいたシルヴィアの父がぽつりと言う。「まあいいか」 
 
 結局、イボンヌ、ゴードン、シルヴィアの三角関係は誰に知られることなく祝宴へ。三角関係の清算もつけないあいまいなままの幕引きにちょっととまどい。これがイギリス風の新感覚コメディーか。客席の通路を使った入退場は余計な演出だったかも。女優に魅力があればもう少し楽しめたのだろうが…。(★★)

劇団離風霊船「サブジェクション2002」(下北沢本多劇場、4月9〜14日)

 作・演出=大橋泰彦。出演=伊東由美子、神野美紀、松戸俊一ほか。

 結成20周年を記念して料金を半額に設定した感謝祭公演。
 照明もセットもない素舞台のまま幕が開くと、下手から一人ずつ役者登場。家族4人の食卓のシーンが始まる。耳をそばだてないと聞き取れないようなぼぞぼそとした一人言のようなセリフ。むろん、テーブルなど小道具の類はいっさいない。延々と続く食卓シーンに客席がじれてきた頃、一人の老女が登場。その”見えない食事シーン”に加わる。いったいこれは……といぶかしく思う間もなく、また数人の男女が闖入する。「大道具搬入しますよ」

 彼らは役者たちで、ここは劇場。4人の家族もまた俳優たちだが、自分たちの芝居が初日を迎えた日、ある殺人事件が起こったため、そのショックのあまり、現実と虚構の区別がつかなくなり、こうして舞台で延々と芝居を続けているのだという。老女は劇場の小屋主。
 入ってきた人たちは次の公演を行う劇団員たちだ。
 なんとか「家族」を排除しようとするが、どうしても、そこを去ろうとしない彼ら。

 初日に起こった殺人事件とは、彼らの座長が何者かによって絞殺された事件。彼らが待っているのはその座長が演じる、長女の恋人が登場するシーンなのだ。
 果たして、事件の真相は。彼らは本当に心を病んでいるのか……。

 初演時はちょうど「静かな演劇」がもてはやされた時期。物語性を重視する離風霊船の芝居とは対極にある「静かな演劇」を意識したセリフが随所に飛び交う。
「役者が頑張るのが私たちの芝居で、お客さんが頑張るのが静かな演劇」というセリフに大爆笑。

 「ゴジラ」「赤い鳥、逃げた」など過去の代表作を織り込みながら、演劇とはなにかを模索するメタ演劇。演劇が作られていく過程がスリリングに描かれる。

 久しぶりのリブレは若手役者も成長し、高橋克実の抜けた穴を補っていた。座長の死の真相がやや尻切れトンボではあるが、かつてあった「小劇場」の上質な部分がそこにはあった。

 「劇団のアトホームなところが好き」と昔、神野美紀が言っていた。ともすれば「ぬるま湯」になる危険性をはらむ「アトホームな劇団」だが、劇団でしか表現できない俳優同士の緊密な関係が生きた舞台になった。ムダに長くせず、2時間にまとめたのも好感がもてる。伊東由美子はやはりホームグラウンドでの芝居が一番イキイキしている。神野・松戸夫婦も看板俳優としてすっかり貫禄がついた。なんだか久しぶりにホッとできる舞台を見たような気がした。ただ、料金半額でも客席が薄かったのは残念。若い世代はこんな芝居も見てほしい。(★★★)
ハイレグジーザス新人公演「威風凛凛ハラキリカーニバル(23〜24日、新宿パンプルムス)

作・演出=ハイレグジーザス。
出演=栃木那須子、信川清順、伊藤海、及川水生来、謎のマスクマン。


 総代・河原雅彦のVTR挨拶に続いて、「メルヘン組長」(小林愛演出)「ミラクルアニマル大作戦」(岸潤一郎演出)「カメラのFF物語」(森本訓央演出)「ミスター☆ナガシマジカル」(岸潤一郎)「おまじない」(小林一英演出)「I will survive」(中坪由起子演出)「ハラキリカーニバル「水生来の作文コーナー」(岸潤一郎)「フード・ファイト」(野村朋子)とネタが続く。

 森本がバイトしているカメラ屋さんの人間模様をデフォルメした「カメラのFF物語」と「フードファイト」が面白い。フードファイトはそのまんま、女の子たちの大食いサバイバル・プロレス戦争。可愛い顔した伊藤海、及川水生来が青いビニールシートの上でのた打ち回る姿は壮絶。しかし、エロもゲロも醜悪にならないのはハイレグならでは。女の子たちが下着一枚になっての奮闘。親が見たら泣くこと必至だろうけど、見事に潔い。ものみな楽な方に流れる今の時代、あえて「エロ・バカ・ショック」ハード路線を堅持するハイレグの姿勢はエラい。頑張れハイレグ。世の良識や演劇界の常識に叛旗を!
(★★)
遊気舎「俺バカ」(2月20〜24日、下北沢・本多劇場)

 作=石原正一。演出=久保田浩。
出演=久保田浩、西田政彦、うべん、魔人ハンターミツルギ、中平みほ、菊丸、エル・ニンジャ、森野久美子、林真也、バカボン、魔瑠、工藤まき、根岸千里ほか。


 公演ごとにまったくカラーの違う芝居を見せてくれる遊気舎。劇団でありながらこれほど落差の激しい芝居内容になるのは毎回作者が変わるからで、今回は石原正一の脚本。自らプロレスラー役で登場。「おもしろい役者がいるなあ」と思ったら、最後の役者紹介で作者と判明。ウーム、役者としてもなかなかユニーク。第二の宮藤官九郎か?

 ある私立学園に新任の熱血教師(久保田)が赴任してくる。受け持った優秀なクラスの全員がカンニングで高得点していることがバレ、教師はそんな彼らをいさめ、実力でテストを受けさせ、全員を合格させるという、いわば青春ドラマのパロディー。「ハレンチ学園+青春とは何だ」か? しかし、パロディーという以前に、全編ギャグ満載のコメディーなのだから、単純にスピ−ディーな展開とシュールで型破りなギャグを楽しむべきだろう。

 三代目座長の久保田浩は「羽曳野の伊藤」としてときおり、友好劇団やプロデュース公演に顔を出すことがある。ワンポイントなのだが、その場を完璧に食ってしまう。その茫洋とした個性は私の大のお気に入り。その久保田浩が出ずっぱりなのだから、もうそれだけで至福の時間。

 遊気舎のコメディーセンスは抜群だ。パロディーやギャグに真摯な愛情があるのだ。
 今回は歌とダンスにもめいっぱい挑戦、チアガールのお色気、学校へ行こう=未成年の主張、70年代の青春学園ものパロディーなどテンコ盛り。
 単なるギャグ・コメディーではなく、底に流れるのは上質な批判精神と”ヒューマニズム”。徹底的に笑わせながら、ちょっぴり泣かせる。そのさじ加減が大事。イヤミにならず、ノー天気にならず。遊気舎のコメディーはその加減が絶妙。今回は腹の底から笑わせてもらいました。1時間45分。(★★★)
MOTHER最終公演「ロング・ディスタンス」(2月23〜3月3日、新宿・紀伊國屋ホール)

 原案=升毅。作・演出=G2。
出演=升毅、牧野エミ、宮吉康夫、近江谷太朗、岩橋道子、ますもとたくや、高倉良文、福山亜弥、奥田義人、河合綾子、清水順、阿川領、木村陽子。西村健、伊東多恵子、萬谷真之、垂水徹、住田圭子、松利光、湯田昌次。酒井元舟ほか。


 ロングディスタンスマザー解散公演。
 今回は座長・升毅がリスペクトしてやまない香港フィルム・ノワールの代表作「男たちの挽歌」=チョウ・ユンファへのオマージュ芝居。
 物語の場所は香港。凄腕の泥棒・ジェフ(升)は恋人メイ(岩橋)との新生活を始めるため、闇社会から足を洗おうとしていた。しかし、新進マフィアのトニー(近江谷)から「最後の大仕事」を頼まれ、引き受けてしまう。金庫破りのプロで相棒のディッキー(宮吉)、仲間のフェイ(牧野)と目的のビルに潜入するが、何者かの裏切りにあい、ディッキーは射殺されてしまう。投獄されたジェフは警察部長と取引し、ディッキーの双子の兄とともに、マフィアの組織に潜入するのだが…。というのがおおまかなストーリー。旅行中の日本人おたく青年、インチキ風水師、スリの少女、日本ヤクザとその情婦など登場人物も多彩。しかし、全体を眺めるとマザー流の黒社会活劇コメディーはやや冗漫。

 解散公演ということで、劇団員一人ひとりにオイシイ役を振ったのは座長の心遣いなのだろうが、2時間強の枠内でそれぞれの役柄の差異化をはかるのは至難のわざ。それでも、役者の個性が強烈だからだろうか、類型的で単純な活劇芝居ではあるが、個々の役者は際立っていた。残念なのは牧野エミ振り付けのダンスシーンが少ないこと。ギャグのパターンもマンネリ気味でクスリともできなかった。解散公演を意識した「決別」と「再出発」を象徴する3人の終幕シーンも説明過多。ウーン、そこまで言わなくても…と思うのだ。マザーのスタイリッシュな芝居のファンとしては最後はクールに決めて欲しかった。

 でも、役者の粒はそろっている。「一粒の麦もし死なずば…」これからあちこちで新しい集団が芽吹くことだろう。旗揚げから見続けた劇団がなくなるのはやはり感慨深いものがある。2時間15分。(★★)
文学座三創立者記念公演・岸田國士作品「顔」「音の世界」「女人渇仰」(2月20日〜3月5日、文学座アトリエ)

 「顔」(演出=今村由香。出演=倉野章子、富沢亜古、大野容子、高瀬哲朗、瀬戸口郁)

 海岸に建つさびれたホテル。滞在するのはいわくありげな一組の男女、子爵家の御曹司、そして有閑マダムの4人。蓄音機のレコードを取り替えたり、4人の世話をするのは女中頭の「るい」という老女。有閑マダムのたいくつさを紛らわすために、るいが始めた思い出話。それは20年も前に客船のメイドをしていた頃、夜の甲板で燃料係の「火夫」と過ちをもったこと。しかし、男の正体が誰なのか知らないまま時は過ぎ、たった一つの痛恨事はいまでは、人生の甘美な思い出として胸の奥底に秘められてきた。その男こそ、ホテルに滞在する客の一人なのだが、彼女はそれに気がつかないまま再び、暗闇の中ですれ違っていく……。

 いかにも古めかしい「記憶の告白」をオーソドックスに演出。過不足はない。しかし、岸田國士の戯曲の台詞そのまま舞台にのせて、果たして観客の何人が理解できるのだろうか。「かふ」という音でしかわからない言葉を前後関係から「火夫」と今の若者に理解させるのは無理があるのでは。それにしてもたった一度の「過ち」を「宝石のような思い出」として生涯引きずる女性の喜劇性・悲劇性。それはもはや古典の中でしか成立しない物語なのだろう。約1時間。(★★)


 「音の世界」(演出=松本祐子。出演=戸井田稔、若松泰弘、山本郁子)

 情熱的に高鳴ったエゴ・ラッピンの「NERVOUS BREAKDOWN」がフェイドアウトし、舞台に照明が灯ると、そこに3人の男女。上手に年配の男と若い女性。どうやら新婚旅行先の京都のホテルの一室らしい。高級なソファが一つ。下手には小さなベッドが置かれ、若い男が一人。こちらは場末のビジネスホテル。
 外から帰り、電話に手をのばす若い男。交換手を通じて相手を呼び出す。「ボクの名前は言わなくていいから」
 上手のホテルの電話のベルが鳴る。女が受話器を取る。電話の相手が誰だかとっさに理解する。
「ボクだよ。さっきは失敬」
「……そう、あなたも旦那様と一緒なの……まだ赤ちゃんはできないの?」。受話器の向こうの言葉と微妙にすれ違った会話が続く。
 新聞を広げ、無関心を装いながらもときおり顔をあげ、新妻の会話に耳をそばだてる夫。

 この導入部だけで3人の関係を観客に理解させ、この後の危うい展開を予見させるのだから、脚本の面白さはもちろん、松本祐子の演出力は並大抵のものではない。未練がましく二度目の電話をかけてきて狂言自殺する男、それと知りつつ部屋にかけつける女。二人の関係を薄々感づきながら、妻の行動を黙認している夫。
 3人の人間関係が電話という当時としては近代的なコミュニケーションツールを絶妙に活用してスリリングに展開する。

 松本祐子の演出は相変わらずシャープ。単純な三角関係ではなく、それぞれに打算や、諦念といった負の感情を背負った人間の弱さ、割り切れなさなど微妙な心理の陰影をきっちりと表現する。
 最後の「悲劇」は脚本通りなのだろうけど、現代ふうな結末なら、空砲、哄笑でジ・エンドとなるのだろうか。若松泰弘、山本郁子、戸井田稔、3人の俳優の絶妙なアンサンブルが作り上げた巧みな心理劇。脚本自体はまったく古びていない。この作品がほとんど上演されたことがないというのは不思議。40分。(★★★)

 「女人渇仰」(演出=松本祐子。出演=北村和夫、栗田桃子、山谷典子)

 街で拾った娼婦と連れ込み宿で一夜を明かす老人。彼は自分の孫娘のような街娼を先に休ませ、その傍のソファーにもたれながら自分の過去の女性観を語る。母、妻、そして娘、彼女たちから得られなかった「癒し」「赦し」の思い。それが娼婦にはあるのだというのだが…。翌朝、家に帰った老人。江ノ島に出かける支度をする娘との丁々発止のやり取りは微苦笑を誘う。男にとっての理想の女人とは…。
 この日の北村和夫の体調が悪く、肝心の娼婦相手のモノローグがヨレヨレ。そのためにセリフの流れが澱んでしまい、舞台を成立させることができなかった。名優といえど舞台でセリフを忘れて立ち往生するのだから、舞台は怖い。
 女優二人は可もなく不可もなし。娼婦と娘を一人二役にした方が戯曲の構造上、対照性があってよかったのではと思うのは素人考えか。45分。(★★)

自転車キンクリートSTORE「OUT」(2月13〜24日、パルコ劇場)

 原作=桐野夏生。脚本=飯島早苗。演出=鈴木裕美。
出演=久世星佳(香取雅子)、千葉哲也(佐竹光義)、竹内都子(城之内邦子)、松本紀保(山本弥生)、歌川椎子(吾妻ヨシエ)、大石継太、増沢望、樋渡真司。


 弁当工場で働く4人のパートタイマー。彼女たちの仲間の一人・弥生が賭博と女狂いの夫の暴力に耐えかねて夫を絞殺する。その死体処理を引き受けたのが、謎めく美貌の雅子。借金漬けの邦子、息子の進学資金目当てのヨシエを仲間に引き入れ、雅子のアパートの風呂場で解体作業をする。
 遺体の一部が発見されたことから、弥生に疑いがかけられるが、殺される前夜、言い争っている現場を見られたポーカー賭博の経営者・佐竹が警察の取調べを受けることに。しかし、嫌疑が晴れた佐竹は行方をくらまし、4人の女への復讐の機会をうかがっていた…。

 と、ここまでが前半の展開。後半は一転して、佐竹と雅子の「負を背負った者同士の愛の物語に転調する。原作を読んでいないので、この後半の展開はいささか唐突で、なぜ二人がひかれ合うのかがよく理解できない。犯罪者同士、不幸を背負った者同士の血の引力か。同じにおいを持つ獣が寄り添い、骨の髄まで愛し、憎む関係。言葉で説明すればいくらでも書けるのだろうけど、実のところ、二人の関係は理解しにくい。「羊たちの沈黙」のレクター博士とクラリスの関係と似ている。一種のファンタジーとして見るべきなのだろう。
 それにしても、千葉哲也、いつもながら暴力演技には鬼気迫るものがある。極悪非情の中に少年の無垢さを演じられるのは彼くらいか。久世星佳もいい。陰のある女、過去を背負った女を演じて無理がない。
 殺風景な弁当工場の休憩室をジュラルミンの盾を並べたような美術セットで表現。鈴木裕美の演出は適切で、サスペンスフルな物語を過不足なく展開する。役者では増沢望のチンピラぶりが印象に残った。達者な役者だ。(★★★)


かもねぎショット「出来事」(2月13日〜18日、新宿シアタートップス)

 作・演出=高見亮子。出演=重田千穂子、多田慶子、笠久美、大城誉、栗栖千尋、高見亮子。

出来事 コンビでミステリーを書いてきた作家の渡会(重田)と由井(多田)。マンションの上と下をハシゴで行き来する2人。今は互いに確執があるらしい。ミステリーの登場人物が彼女たちの意に反して一人歩きしはじめたことも影を落としている。「夢十夜」シリーズの最終話。「夢」というのは当人にとっては居心地のいいものだが、他人にすれば他人の「夢」を聞かされても面白くないし、とまどうだけ。芝居も同じ。二人の女性の心理や確執、和解という展開は伝わってくるが、それが舞台として面白いかどうかは別物。残念ながら、こういう”女性だけで作る芝居”は思い込みが強く、不得手。重田千穂子のがなり声もちょっと耳障り。劇中でウィリアム・カッツの「恐怖の誕生パーティー」などカッツ・ミステリーを手にとってタイトルを読み上げるシーンがある。聞いた事ないタイトルがあったので、すわ、カッツに新作登場?(10年以上出していない)と思って紀伊國屋に駆け込んだら、ガセだった。ぬか喜びさせた罪も重い。(★)


流山児★事務所「EVER MORE」(2月12日〜18日、SPACE早稲田)

原作&テキスト=石井貴久。台本構成・演出=流山児祥。
出演=竹内大介、木内尚、斎藤千晶、金井あずさ、平野直美、冨沢力、伊藤弘子、小林七緒、竹村絵美ほか。


 原作の石井貴久氏の台本を5回以上も書き直させて、なおかつそれに不満足だった流山児が石井氏のホンの台詞を解体・再構築したのだと、「ごあいさつ」」に書かれてあった。つまり、これは流山児★事務所の俳優たちによる集団”妄想”ミュージカルというわけだ。

 売れない貧乏劇団の演出家が、自分を有名人にしてもらいたいと”神”に頼む。翌日、刑事たちがやってきて質屋の老婆殺しの疑いで彼を逮捕する。彼はラスコーリニコフ? しかし、劇団員たちの手引きで脱走。夜の女たちの手助けで逃亡生活を続けるが…。
 前日まで路上パフォーマンスをやっていたが、警察に通報され、この日から劇場内で前口上。小さな小屋で展開するアングラ色濃厚な音楽劇は今の演劇シーンでは異端に違いない。汗と怒号、エロスと暴力ーーまさに70年代アングラ芝居。
 しばらく見ないうちに若手の役者が育ってきたようだ。一人、これは、と思う役者がいた。自覚しない狂気を漂わせる男優。坊主頭の研究生、冨澤力とい男優か。これは買いだ。久しぶりにヘンな役者に出会った。彼は今に大きくなる。
 (★★)


CREATIVE FORCE OSAKA 内藤裕敬・永盛丸プロジェクト「大胸騒ぎ」(12〜17日、紀伊國屋ホール)

作・演出=内藤裕敬。
出演=宇梶剛士、西田シャトナー、福田転球、松本キック、松下安良、藤田辰也、原健三郎、荒谷清水、三浦隆志、高本章子、岡ひとみ、谷山佐知子、内藤裕敬ほか。

 創造のための劇場「CREATIVE FORCE」を基本コンセプトとする舞台芸術総合センターの建設計画を進める大阪市が主催する演劇公演。南河内万歳一座、兵庫県立ピッコロ劇団、Ugly duckling」など関西劇団やワークショップで選ばれた出演者45人が出演した。

 タイトルは到来した21世紀社会への漠然とした不安感を意味する。遺伝子技術の発達によるクローン人間の可能性、クローンを使った臓器移植。人工授精。その先に見え隠れする「家族関係=血」の崩壊。「血縁関係の崩壊は血による差別や男女差別、宗教をなくし、真の平等社会をもたらす」とうそぶくマッドサイエンティスト2人組を登場させるなど、「血」をキーワードに物語は展開する。むろん、不安の象徴である大地震の到来も射程に入れながら。

 40人以上が舞台狭しと動き回り、銭湯シーンでは男優たちがタオルで前を隠すだけの集団ストリーキング。いつもの南河内流肉体芝居。どんな時代になっても「システム」に対抗できるのは生身の肉体だけ、という内藤裕敬の信念と願いが込められているかのような汗と怒号の猥雑芝居。ラストシ−ン、コマネズミのように回転舞台の上を走り続ける役者たちの姿は、愚かしくも未来を信じ続ける我々の姿に重なる。松本キック、福田転球など外部の血の導入で舞台が活性化した。大人数の出演者だが、それぞれの個性を生かした内藤裕敬のまなざしは同じ大人数芝居を得意とする蜷川幸雄のガヤへの冷徹さに比べ格段にやさしい。2時間15分。(★★)


文化座「瞽女さ、きてくんない」(2月9日〜17日、池袋サンシャイン劇場)

原作=斎藤真一「越後瞽女日記」。脚本=堀江安夫。演出=佐々木雄二。
出演=佐々木愛、阿部敦子、桐山京、大井川象子、小林真喜子、浅野文代、河村久子、阿部勉、津田二朗、青木和宣、佐藤哲也ほか。声の出演=鈴木光枝。

瞽女さ これを傑作といわずして何を傑作と言おう。間然することのない舞台とはまさにこの舞台を言う。

 正直なところ、主題を「瞽女」と聞いて、映画「はなれ瞽女おりん」のような荒涼とした風景の中を旅する盲目の女芸人たちの暗鬱な物語を想像していた。しかも、文化座の60周年記念公演。民衆演劇の文化座には「地味」「ドロくささ」のイメージがある。鈴木光枝、佐々木愛の親子二代に支えられた劇団の演目は今の時代の観客の嗜好とはおよそかけはなれたものだろう。いくつかの演目を除けば、文化座はこの二人の座長公演の様相を呈していて、極端にいえば、高齢の観客向けの「顔見世興行」という舞台が多い。むろん、二人の実力が抜きん出ていることは事実だが、劇団の次代を考えるならば、二人に頼らない文化座演劇の創出が焦眉の急のはず。この舞台はそうした文化座の展望を切り開く舞台ともなった。

 物語は1919年、日露戦争の時代から、太平洋戦争を経て、1963年、日本が高度経済成長に差し掛かり、日本の原風景を失っていく激動の時代を背景に、盲目の旅芸人・瞽女たちの喜びと悲しみを描いていく。
 主人公は牡丹という名の瞽女。子供の頃に病で失明、不憫に思った親が瞽女宿の前に置き去りにしたのだった。光を失ったものが生きていくには芸を身につけ、世間からの「温情」にすがって身を守るしかない。瞽女たちが世間と折り合って生きていくには厳しい戒律を必要とする。恋愛ご法度もその戒律の一つ。

 牡丹は旅先の漁師町で幼馴染の周作と再会する。戦争で片足が不自由になり、網元の下働きをする周作は1年たったら必ず牡丹を迎えに行くと約束する。しかし、約束の1年が来た時、牡丹の親方・ふきが吹雪の中で死んでいく。「美穂」というナゾの言葉を残し…。それは彼女には昔生んだ子供の名前だった。
 ふきの死によって廃絶の危機に直面する瞽女宿。それを守るためには牡丹が跡を継ぐしかない。周作への思いに心乱れる牡丹だが、女として生きることより、瞽女として生きていく決意をする。半年遅れで現れた周作。網元の要請でどうしても仕事を抜けることができなかったのだという。瞽女を抜けて、一緒になろうと言う周作に、牡丹は悲痛な別れを告げる。

 物語の筋を追っても仕方ないが、終幕、豊かになった時代に、すでに自分たちの居所をなくした瞽女たちが最後の旅に出るシーンが美しい。それを迎え入れる没落した旧家の内儀。彼女もまた戦争で二人の子供を失った時代の犠牲者だ。高らかに鳴り響く三味線の音、瞽女の明るい歌が心にしみる。
 戦時中、瞽女たちから米を奪う官憲の横暴に遭い、「なぜ戦争があるの?」と問う瞽女の少女に牡丹がつぶやく。「五体満足な人間に限って自分の身の丈以上の世界を欲しがるものさ。体が不自由な人が戦争を始めたって聞いたことがあるかい」
 ーーさりげない戦争批判。

 それにしても、この舞台の奇跡的なこと。脚本、演出、照明、音楽、そして役者。これらの要素が絶妙に絡み合い完璧な作品世界を形作った。まるで神の手で操られるかのように、役者の一挙手一投足の細部にまで戯曲が体現される。主演の阿部敦子にいたっては役が乗り移ったかのような鬼気迫る演技。少女から老婆まで、その演技の練達ぶりは陶然とするほど。なによりも彼女を支える俳優たちのアンサンブルのよさよ。佐々木愛、ナレーションの鈴木光枝が突出することなくアンサンブルの一翼を担ったのがいい。観客におもねることのない強靭な舞台。それがこの舞台の成功のすべてだろう。新劇にありがちな「独善」と「おもねり」を廃し、徹頭徹尾、舞台の整合性にこだわった。欲をいえば、三味線の演奏のさらなる上達か。

 休憩15分をはさんで2時間55分。しかし、まったく長いとは感じない。間違いなく今年のベストプレイだ。(★★★★)


プロジェクト・ナビ「処女水(2月8〜10日、世田谷パブリックシアター・シアタートラム)

作・演出=北村想。
出演=佳梯かこ、小林正和、木村庄之助、田中知砂、スズキナコ、千葉ペイトンほか。

 ある研究所。10年前に、この地下室の巨大な水槽に一人の女性が全裸で浮かんでいたのを発見された。水槽の水は太古の「処女水」と呼ばれる水と同じ成分であり、机の下には琥珀のかけらが落ちていた。彼女はこの研究所の職員で、進化論が研究テーマ。他殺か、自殺か、それとも事故か……。地下室を遊び場にする一人の少年の日記が明らかにする女性の死の真相ーー。

 東京公演は久しぶりのナビだが、実に濃密なミステリー劇を見せてくれた。名探偵が登場したりハデな殺人事件が起こるだけがミステリーじゃない。事件が起こらなくても観客の想像力を刺激し、人間存在の深淵を垣間見させるのがミステリー。さすがは北村想、いつになく音楽、照明にも凝り、じわじわと観客を虚実のあわいに引き込む。

 水槽に浮かんでいた美女のナゾをめぐって証言するのは、同僚、姉、刑事、上司など。彼らの回想の積み重ねから、ある「真実」が仄見えてくる。それは同時に作者の「進化」に対する洞察と哲学を浮かび上がらせる。

 種の進化と死の相関関係ーーやや強引と見える論理も妙に納得させる北村想の作劇術は健在。
 役者たちの充実ぶりも特筆もの。小林正和、木村庄之助、田中知砂などベテラン勢は言うに及ばず、若手も北村想の世界をよく体現している。そして看板女優の佳梯かこ。いくぶん年齢を重ね、役どころも変わってきたが、蜻蛉のような透明感ある演技はやはりナビに欠かせない。
 「進化と死」は歴史・社会のメタファーなのか、北村想の歴史観の一端がうかがえて興趣の尽きない舞台だった。
 ナビが東京を撤退して何年になるだろう。本拠地・名古屋は2カ月ごとに公演を行なっているようだが、東京の観客は今の時代、大事な演劇を見損なっているような気がする。1時間45分。(★★★)
「ミュージカル ボーダーレス 天使たちの休日(2月5〜11日、銀座・博品館劇場)

構成・台本=西村由紀。演出・音楽=橋爪貴明。出演=寿ひずる、蘭香レア、小野妃香里、光海昌帆、小山みゆき、大洋あゆ夢、水野江莉花、鈴木葉子。

 天使の最高位にありながら神の座を狙ったために天上界を追われ人間界に落ちた堕天使ルシファー。混乱する人間界を見て、大天使ミカエルは6人の天使に7日間の休日を与え、ルシファーを連れ戻そうとするがルシファーは手強く、なかなかつかまらない。ついにミカエルが説得することに……。

 劇場には母親に連れられた小学生の姿も。セーラームーンの悪役として活躍する小野妃香里がお目当てらしく、彼女が登場すると身を乗り出して見ていた。元宝塚やJAC出身など、平均身長が170aの女優たちが歌い踊る、まさに理屈抜きで楽しめるミュージカル。R&B、ヒップホップナンバーにのってダイナミックなダンスが展開される。

ルシファー役の蘭香レアがキュート。麻生祐実にちょっと似。若い女優たちの間で大ベテランの存在感を示すのが寿ひずる。その歌唱力たるや圧倒的。劇中で歌う「アメージング・グレイス」は鳥肌もの。こんなに歌がうまい女優だったとは、カムバックしてよかった。あっという間の1時間半。もう少し見ていたかったと思わせるくらいがちょうどいい。(★★)

Studio Life「月の子」(1〜10日、天王洲アイル・アートスフィア)

 原作=清水玲子。脚色・演出=倉田淳。
出演=笠原浩夫、石飛幸治、山崎康一、及川健、藤原啓児、河内喜一朗ほか。

 10数年前にどこかの小さな劇場で見たきりで、今回がたぶん2度目になる。観客の99%は若い女性。評判に違わぬ美少年劇団であり、それもむべなるかな。ひいきの男優目当てのOLたちが詰めかけ、アクセスのよくないことで敬遠されがちのアートスフィアが超満席。

 確かに俳優たちは美少年(青年?)ぞろいで、ファンが胸をこがすのはわかる。ギルを演じた笠原浩夫などは若い頃の木下清=ケン・ソゴルにそっくり。理知的で野性味あふれるまなざしーーまさに貴公子然としたたたずまい。男もほれるイイ男なのだ。

 ところが舞台ときたらまるで「額縁ショー」。演劇的文法やダイナミズムとは無縁の段取り芝居にしか見えない。もともとが13巻に及ぶ大長編マンガの舞台化だから、いくぶんダイジェスト的になるのは仕方ないにしても、その見せ方に工夫があってもいい。単にマンガのワンシーンをつなぎ合わせたような展開は見ていてツライ。

 物語は月に棲む人魚族の3つ子、ティルト、セツ、ベンジャミンーー3人の愛憎を描いたもので、地球に産卵するためにやってきた彼らの運命を1985年〜86年という時代とリンクさせる。その時代にあった事件はスペースシャトル打ち上げ、ハレー彗星大接近、そしてチェルノブイリ原発爆発事故……。その事件や事故も人魚族の3つ子の一人で、セツを愛するティナがセツに女性化=産卵させるため、悪魔に魂を売った「地球滅亡計画」の1つであり……というのが大まかな流れ。

 人魚族はふだん、少年の姿なのだが、やがて女性の姿となり、産卵するという設定。そのために、この劇団の特徴である男優の女装も見どころとなる。倒錯と耽美。少女マンガふうのギムナジウムルック、つまり、外国の高校生寄宿舎制服、そしてまさに「人魚」ふうの金髪ロングヘア、真っ白なドレス。宝塚のファンが男装の麗人にため息をもらすように、Studio Lifeのファンもその女装に随喜の涙を流すのだろう。それはいいとして、せっかくの耽美的な物語を舞台に乗せるのなら、原作そのままをダイジェストにするよりも、誰か一人にスポットを当てて物語を再構成した方がよかったのではと思う。

 ウーン、でもカーテンコールが役者全員での”キメ”のポーズだから、結局、男にはわからない美少年耽美ショーでいいのか……。(★)


木山事務所「はごろも」(7日〜16日、六本木・俳優座劇場)

作=別役実。演出=末木利文。
出演=森塚敏(青年座)、新村礼子(昴)、楠侑子、高木均、小林のり一、林次樹、水野ゆふ、内田龍麿、田中実幸、森源次郎。

 はごろも「はるなつあきふゆ」(93)、「山猫理髪店」(98)、「青空・もんしろちょう」(00)に続く、木山事務所と別役実のタッグ新作。

 広い砂浜に松の古木が一本、ベンチが1つ、街燈が1本、そして抜けるような青空。羽衣伝説で有名なこの場所で7年前に若い女性の惨殺事件があったという。

 ここに入れ替わり立ち代り現れるのは、未婚の母、彼女を自分の母と言い募る孤児の青年、惨殺された女性を自分たちの娘だと言う老夫婦。事件の担当だった車椅子の刑事とその娘、通報で飛んできた警察官、そして、ふーせん売りの男etc

 彼らの言い分は微妙に食い違い、その人間関係も虚実錯綜している。青年は自分がバットで女を殴り殺したと言い、リュックから被害者の衣類を取り出すがそれは真新しく、とても7年前の着衣とは思えない。二場では、松葉杖をついた男とその恋人が通りかかり、青年は松葉杖男を高校野球で戦った相手高校のピッチャーだと言うが、男は青年を知らないと言い返す。
 互いに相手の名前を忘れてしまった老夫婦、自分が生んだのが男なのか女なのか判然としない女……。誰もが自分だけの真実を語りながら、その真実は藪の中。


 終幕、老夫婦がつぶやく。「何をしてるんでしょうね、私たち」「さっきから私もそれを考えているところなんだ……」

 不条理な設定の中に、不倫や暴力、ストーカー問題など、現代人がかかえるさまざまな病理をぶち込み、あっけらかんとした情景の中に立ち上げる別役コメディー。

「何をしているんでしょうね、私たち」とはまさに今の時代の私たちのセリフだろう。黒い笑いから立ち上がる荒涼とした風景には慄然とする。

 森塚敏、新村礼子コンビ、高木均、楠侑子など味わいのあるベテラン陣の演技、林次樹、水野ゆふのの充実ぶりも光る。二場で登場する田中美幸、森源次郎コンビもはつらつとしていい。なによりも、ひょうひょうとした小林のり一(三木のり平の息子)の演技が心に残った。(★★★)


「パードレ・ノーストローー我らが父よ」(世田谷パブリックシター、2月3〜10日)

原作=ルイージ・ルナーリ。演出=佐藤信。
出演=白井晃、毬谷友子。


 この公演でパブリックシターの芸術監督を退任する佐藤信の最終演出作品。だからというわけでもないだろうが、気迫のこもった素晴らしい舞台となった。

 登場人物は2人。1人はローズマリー。彼女の父はアイルランドからアメリカに渡り、成功した大富豪、ジョゼフ・P・ケネディの長女。つまり、悲劇の大統領J・F・ケネディの姉。もう1人はイタリア人の男性アルド。彼の父はファシズムと闘い、第二次世界大戦後、イタリア共産党の輝ける指導者となったパルミーロ・トリアッティ。
 偉大な父親を持った二人だが、現実には彼らはこの世で出会うことはなかった。

 幕が開くと、舞台一面に砂が敷き詰められ、正面にノブ付のドア(だけ)が立っている。寺山修司の短編映画に出てくる田んぼの中のドアのようにそれをくぐる人を待っている。そして、上手には階段。その階段の端は空中に消えている。それはあたかも天国への階段。その下にはグランドピアノが半分傾いて砂に埋まっている。
 ドアをくぐり抜け、男と女が現れる。まだ他人同士。言葉もイタリア語と米語、フランス語がごっちゃになっている。それでもなぜか意思が通じ合う二人。彼らは互いを認め、誰かを待ち、そしてどこかに旅発つのを待っている様子。そのつかのまの時間に親愛を深めていく。

 お互いの家庭のことを語り始める二人。彼らの偉大なる父ーーかたや資本主義の象徴たる大富豪。息子たちを犠牲にしてすべてを手に入れた男。かたや貧しい人々のために革命を成し遂げようとした男。
 しかし、その二人に共通するのは、自分の娘、息子に対する非道ともいえる態度。父との葛藤の果てに自らのアイディンティティーさえ奪われていく二つのさまよえる魂。

 二幕目でローズマリーの悲惨な運命が観客に提示される。「反逆者」への処分ーーロボトミー手術。このシーンの毬谷の演技の神々しさよ。長い告白を終えた二人に待っていたのは旅立ちの時。

「ねぇ、子守唄を歌って」
「父がぼくに歌ってくれたのはインターナショナルだけなんだ」
「それは子守唄なの?」
「いや、違う。でも歌詞を歌わないで君に聴かせるよ」
 「インターナショナル」をハミングするアルド。

 砂の上に横たわり、ゆっくりと目を閉じる二人。その上に無数の白い花びらが舞い降りる。インターナショナルのメロディーが二人を包み溶暗。

 インターナショナルのメロディーがこれほど美しく劇場を包んだのはおそらく初めてかもしれない。きわめて寓意に満ちた舞台。それを支えたのは白井、毬谷のコンビのピュアな演技。前半、ともすると白井の「母親役」演技は遊◎機械での「おかま」演技に堕す危険性があったが、後半持ち直した。それは多分に毬谷の鬼気迫る演技の感応があるのでは。毬谷友子がこれほどまでに巧みな女優とは思わなかった。
 佐藤信の美術・演出も出色。屈指の舞台となった。(★★★★)


月蝕歌劇団「ネオ・ファウスト 地獄変」(2月1〜5日。ザムザ阿佐ヶ谷)

作・演出=高取英。
出演=長崎萌、一ノ瀬めぐみ、麻田真夕、山口擦蔵、松井祐二、小沢里沙、保鳴美凛、スギウラユカ、中村美穂、森永理科ほか。


ネオ・ファウスト 冒頭、劇場内に「ワルシャワ労働歌」がこだまする。それもセーラー服に黒ヘル、ゲバ棒姿の「女子高全共闘」の面々が「♪暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は 吹きすさぶ 怯まず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖をうち砕け」と高らかに合唱するのだから、70年安保の時代を知る人は思わず空気が入り、知らない世代は「なんのこっちゃ」となる。

 それにしても高取英恐るべし。セーラー服の美少女たちにワルシャワ労働歌を歌わせるとは。かつて池上遼一+雁屋哲の劇画「男組」の最終巻で影の総理邸に斬り込む主人公・流全次郎の壮絶なシーンにこのワルシャワ労働歌の歌詞が刻印され、今も名ラストシーンとして語り継がれている。今回の美少女たちによるワルシャワ労働歌はその「男組」に次ぐロマンチシズムあふれる名シーンといえるのではないか。

 物語は、「ファウスト」をモチーフにした手塚治虫の同名作品にインスパイアされたもの。70年安保の学園紛争の最中、バリケードに立てこもる女子高全共闘のメンバー。機動隊の突入する寸前、彼女たちはタイムスリップして60年安保前夜の日本に移動する。それは、悪魔マイナス(メフィスト)と契約して永遠の命と全世界を手に入れようとする老教授・西村の策略によるものだった。未来を知る女子高生たちは60年安保闘争に勝利するかに見えたが……。少女たちに味方する右翼一派、不審な動きを見せる公安警察、そしてグループ内の裏切り。前作「ワルキューレ海底行」で記憶を封印された石川真理子が目覚め、娘・理生とともに、再び神・オーディーンと対決するシーンは「緋牡丹博徒」のパロディー。
 物語の糸が錯綜し、時間軸も目まぐるしく過去と未来を往還するため、全体の流れがわかりにくいかもしれないのが難。旗揚げ以来16年、「聖ミカエラ学園漂流記」のテーマでもある「神」との戦いというテーマは変わっていない。「音」の使い方に一工夫あれば引き締まったかも。(★★)


公共ホール演劇製作ネットワーク「若草物語」(世田谷パブリックシアター、26日〜29日)

原作=ルイザ・メイ・オルコット。翻案=菅原政雄、台本・演出=松本修。
出演=木野花(ばあや)、金沢碧(母)、裕木奈江(三女・夏実)、黒木美奈子(二女・芙美)、伊東由美子、西田薫(長女・春恵)、金子智実(四女・静香)、齋藤歩、尾形岳之(二女に恋する隣家の息子)、松本修(父)、坂口芳貞。


若草物語 商業的に成立しにくいが質の高い作品を低料金で提供することを目的とした財団法人地域創造による公共ホールネットワーク演劇製作事業の第2弾。

 原作は南北戦争を背景に、四姉妹が父母とともに、貧しいながらも家族として助け合い、健気に生きていく姿を描いたもの。今回、北見市在住の菅原政雄が明治時代の北海道に舞台を翻案。日露戦争を背景にした物語とした。
 一幕は軍医である父親が病で倒れたとの報に、家族が力を合わせて支え合う姿を。ニ幕は上京し、作家修業をする二女の恋の行方にスポットが当てられる。
 地方巡演するため、”わかりやすさ”が求められたのだろうか。いつもの松本修の演出とはかなり毛色が変わっている。
 それは”笑い”の取り方によく現れている。姉妹を慕う男(齋藤歩)に口にものを入れてしゃべらせるなどという演出は松本修の中にはないはず。二昔前のアングラならいざ知らず、いまどきそれはないんじゃないの、と言いたい。
 木野花の狂言回し(というか解説)もそう。いちいち舞台袖に出てきて舞台進行の解説をするのはかなりわずらわしい。観客にはウケていたようだが、客席に媚びるような演出は松本修らしくない。プロデュース公演ということで、まず「客にウケること」を優先させたのだろうか。ちょっと”遊び”が過ぎるのでは。
 などと、アラを言いたてるのもどうかと思うが、松本ファンとして、あえて苦言を。そういう点を抜きに、舞台全体を見れば、むろん水準以上のデキではある。裕木奈江もおきゃんな三女を、黒木美奈子は自立していく二女をそれぞれ好演。オーディションで選ばれた二人の娘役にも瑕疵がない。特に長女を演じた西田薫がいい。松本修の父親もはまり役。これからは役者と演出の二役でいくのか?(★★)


文学座アトリエの会「大寺学校」(1月22日〜2月7日、文学座アトリエ)

作=久保田万太郎。演出=戌井市郎。
出演=加藤武、平淑恵、早坂直家、関輝雄、飯沼慧、醍醐貢正、大場泰正、大原康裕ほか。

 初演は1957年。久保田万太郎自身の演出で三津田健、宮口精二、北条真記子らが出演。再演は1967年。戌井市郎演出、大矢市次郎、三津田健、吉野佳子。今回は35年ぶりの再演となる。
 明治末年の浅草。代用小学校の校長・大寺三平は姪のたか子と二人暮らし。生徒の一人である「魚吉」の娘を若い教員の峰が叱ったことから、校長と峰は衝突。峰は教員を辞任する。「魚吉」一家は校長の教え子であり、親戚同様のつきあいをしている家なのだ。校長としては穏便にすませたいところだが、血気盛んな峰は原理原則を貫き通すことになる。
 さて、創立20周年を迎える大寺学校は記念祝賀会でてんてこ舞い。そこに峰も現れ、二人のわだかまりはあっけなく氷解する。
 しかし、その数日後に老教員が校長のもとを訪れ酒を酌み交わすうちに、思いもかけぬ打ち明け話をする。それは、「魚吉」が市に土地を売り、その跡地に公立小学校が建てられるというもの。近所に公立小学校ができれば大寺学校の経営は立ち行かなくなる。信じていたものに裏切られた校長は、杯を重ね、深い酔いに身を任せていく。

 アトリエ公演には珍しく、プロセニアム舞台を設え、幕を開け閉めする。しかし、幕を閉めての場面転換は時間がかかる上、なぐり(かなづち)の音がガンガン響き、興を殺ぐこと甚だしい。この場面転換の無作法はなんとかならなかったものか。

 時代に取り残されながら、それさえ自覚できない校長を演じた加藤武はベテランの余裕。しかし、教頭との会話の途中で奇妙な間ができるなど、明かなセリフ忘れも目立った(どちらが忘れたのかはわからないが)。半世紀前の作品ながら、時代と微妙にずれていく老年世代の悲哀というテーマには普遍性がある。(★★)


パルコプロデュース「彦馬がゆく」@パルコ劇場(1月7日2月3日、3月9日〜31日はル テアトル銀座)
作・演出=三谷幸喜。
出演=筒井道隆、酒井美紀、伊原剛志、松重豊、梶原善、阿南健治、温水洋一、本間憲一、大倉孝ニ、瀬戸カトリーヌ、松金よね子、小日向文世。

 幕末の浅草・神田写真館を舞台に、写真館一家の目を通して幕末の動乱と写真館を訪れる勤皇・佐幕両者の有名人の素顔、そしてひとつの時代の終焉を描いた三谷コメディー。

 高杉晋作の奇兵隊に志願したかと思えば、新撰組にも首を突っ込み、コロコロと思想信条を変える節操のない長男・陽一郎(伊原)、その恋人・しの(瀬戸)、兄とは対照的に写真師の道を突き進む職人気質の二男・金之介(筒井)、計算高く、一家を切り盛りしながらも、坂本竜馬と恋に陥ってしまう長女・小豆(酒井)、時代の流れにまったく頓着しない母・菊(松金)、飄々としているが、時に怒りを顕わにしかけては言葉を飲みこむのがクセの父・彦馬(小日向)。

 人物造形の面白さは三谷ならでは。そしてこの写真館に現れるのは坂本竜馬(松重)、桂小五郎(梶原)、伊藤俊輔(大倉)、高杉晋作(本間)、近藤勇(阿南)、西郷吉之助(温水)といった幕末の有名人たち。一見、コミカルな彼らの顔の裏には凄絶な権力闘争が透けて見える。

 幼名で登場させ、後で「えっ? あの人が後にあの有名人になるの?」と見る人にトラップをかける手法は半世紀前に山田風太郎が得意としたことで、今さらの感なきにしもあらず。

 役者陣では元サンシャインボーイズ組が三谷戯曲の体現で一日の長あり。阿南健治のムーンウォーカーはこの舞台のハイライト。近藤ら散りゆく桜にシンパシーを寄せてみせる三谷は今までの舞台でおそらく初めて(?)大掛かりな屋台崩しを使ったのではないか。時代を駆けて行った若者たちへの万感の思いがこめられた終幕の桜吹雪が美しい。休憩20分をはさんでの3時間15分。(★★★)
ARROW「月と青空」@新宿タイニィアリス(1月10〜13日)

脚本・演出=アンリコマツ(小松杏里)
出演=服部真和、石垣綾子、井田征男ほか。

 元演劇舎螳螂、現・月光舎主宰の小松杏里が横浜を中心に活動するARROWのワークショップ公演のために書いた作品。
 ある町の小さな喫茶店。そこにやってくるニューハーフ、フリーター、街娼、香港フリークの女性、彼女を慕う男……。みんな気のいい連中だが、それぞれに悩みや不満を抱えている。

 ニューハーフのショーパブに勤めるダンサーは店を父から引き継いだ娘と恋仲だが、その恋にはいくぶん打算が含まれている。ある日、刑務所から出所したばかりという老人が店のマスターを尋ねてくる。どうやらマスターも人には隠しておきたい過去があるらしい。そして喫茶店の看板娘ノノにも自殺した母の道連れを危うく逃れたという過去が……。

 小さな喫茶店を舞台に、さまざまな人間模様が交錯し、哀切極まるエンディングに向って収束していく。使われた曲は小椋佳の「失われた藍の色」ほか。オープニングは「幻の町」の合唱。客席に両腕を差し出しながら熱唱するスタイルは、どこかで見た舞台、そう、東京キッドブラザース。これは小松南杏里版の「キッド・リスペクト・ミュージカル」なのだ。傷ついた魂たちの再生と癒しの物語。

しかし、2002年の小松版キッドにはひたすら「個人的事情」があるだけ。東由多加が描いてきた理想と現実の狭間で揺れ動く若者たちの苦悩、社会性はすっぽり抜け落ちている。これも時代なのだろう。ひたすら「個」に退行していく時代の中でキッドのミュージカルはすでに時代遅れの遺物になっていたのだろうか。

ワークショップで培った若手俳優たちの演技は未熟ではあるが真剣なまなざしが初々しい。純粋さという点でまさにキッドの舞台と共通している。舞台を見ながら懐かしい感情が湧きあがってきた。芝居は技術ではなく、表現しようとする意志の力なのだということを。(☆★)2002.01.05

シューズ・オン!3(1月9日〜20日、銀座博品館劇場)

構成・演出=福田陽一郎。
出演=川平慈英、藤浦功一、平沢智、玉野和紀、シルビア・グラブ、岡千絵、高谷あゆみ、吉岡小鼓音。


 去年の「シューズ・オン!2」は”遊び”が多すぎていまひとつ楽しめなかったが、今年は初演のシンプルな構成に立ち返り、これぞプロと呼びたいゾクゾクするような至芸を堪能することができた。大劇場、小劇場を問わず、今東京で上演されているミュージカルの中では抜群の面白さだろう。ショーはシンプルな方がいい。ゴテゴテと飾っても暑苦しいだけ。俳優、ダンサーの肉体の奏でる音楽はストレートなロックミュージック。タップからヒップホップまで多彩なダンスとコミカルなショーの連鎖。中でもシルビア・グラブと平沢智(さとし)は肉体の切れ、柔軟さ、目を奪う華やかさ、どれもが超一級品。今年最初の星3つ。
 曲目は以下の通り。
1、ザ・ブーツガイズ
2、タップで蹴っ飛ばせ3、ハッピー・ドッグス4、アイ・ガッチャ
5、アクシデント!
6、デュークで行こう
7、ジーン・ケリーの世界
8、別れの夜
9、ゲット・バック
10、イメージ・S
11、パペッツ幕末編
12、もし彼が知ってくれたら ルート66
13、アイ・ガット・リズム
14、ピープル
15、ミスター・ボージャングル
16、クランチ グラノーラ
17、タップメドレー
(シング!・シング!・シング!、42nd ストリート、雨に歌えば、マイワン・アンド・オンリー、アンダー・ザ・バンブウ・ツリー、スイーティン・ロウ・ダウン、サプライズ・サプライズ、ダンシング・クイーン、マネー・マネー・マネー、ア・サンシャイン・オン・ユア・シューズ
18、スウィングしなきゃ
カーテンコール
19、スウィングしなきゃ20、クランチ グラノーラ


美少女戦士セーラームーン 誕生! 暗黒のプリンセス ブラック・レディ」(1月2〜15日、池袋サンシャイン劇場)

原作=武内直子。脚本・総合演出=斉樹潤哉。作・編曲・音楽監督=小坂明子。振付=柳昭子。
出演=黒木マリナ、河辺千恵子、吉田恵、小野妃香里、中丸シオン、河崎美貴ほか。


 30世紀のクリスタルパレス。時空の扉に迷い込んだ「ちびうさ」はセーラープルートに出会い、時空の扉を開ける鍵であるペンダントを受け取る。その瞬間、クリスタルトーキョーに邪悪水晶が撃ち込まれ、街は壊滅状態に。一方、21世紀の現代ではUFO騒ぎが頻発、うさぎたちが事件を調べていたが、そこに30世紀から「ちびうさ」がやってくる。そして、銀水晶を奪いにブラックムーン一族が……。「ちびうさ」はワイズマンの邪悪な力によって暗黒の女王・ブラック・レディに変身してしまうのだった。

 ……などとストーリーを説明しても、脚本は長編マンガをダイジェストにしているだろうから、実はキャラクターの相関関係はよくわからない。
 たまたま後ろの席に小さな女の子2人が陣取っていたため、最後まで子供たちのおしゃべりが耳に入るハメになったのだが、子供たちも「あれっ、悪い人たちが二つになった」などと得心がいかない様子。絶対悪と相対悪、そして絶対正義と相対正義の4つ巴の争い? 子供向けにしては結構テーマはハード。ここは無心にステージ上のセーラー戦士たちの歌とダンスを楽しみたい。

 セーラー・マキュリー役の水野亜美が一番人気らしいが、マーズの吉田恵美、ヴィーナスの村田あゆみがイチ押し。ストーリーが入り組んでいて、舞台のキーポイントとなる敵役がいまひとつ「コメディ・リリーフ」としてのこなれた演技をしていないので、全体に堅い印象。もう少し面白くなるはずなのに残念。(★☆)