オーディオ・ドラマ短評
光る海(2001.03.31)
作:松田正隆/演出:角井佑好
出演:夫…原田大二郎、妻…幹季ジュンコ


「駅前、あれ何やってんのかなあ」
「えっ?」
「駅前、何やってんだ」
「何?」
「駅前でさあ、工事かなんかやってるだろう」
「工事? 何の?」
「何だか知らないけどさ、工事やってるだろ」
「どこで?」
「だから、駅前」
「最近工事ばっかりやってるでしょう」
「マンションかなんかだな」
「えーっ?」
「いや、だからね……。マンションかなんか。……もういい。あとで話すよ」
「何が?
「もういいって」
「……あ、そうそう、工事っていえば、駅前にマンションができるんですってよ」
「あ、ああ…」

 台風が近づく夜、台所で夕食の支度をする若い妻と、早めに帰宅した夫の会話が続いている。かみ合わない2人の会話が微苦笑を誘う。しかし、突然の停電によって、2人の会話は思わぬ方向へと転がっていく。

 ロウソクを捜すためにタンスを開けた時、妻の手に触れたもの。それは小さな貝殻。2人の間に横たわる闇が目をさます。

「なんでこんな所に貝殻があるの? ……これ、姉さんのでしょう」
「……ああ、それは海を見たことがないっていうから買ってきてやったんだ」
「私だって海を見たことがない。……ねえ、海って遠いの?」
  
 かつて、夫は妻の姉と暮らしていた。しかし、いつしか夫の心は妹に移り、妹は妊娠。しかし、その結晶は日の目を見ずに葬り去られる。そして、姉の事故死。
 2人の会話から、そんな過去が浮かび上がってくる。

「あいつは知ってた。お前とのこと。だから、黙ってるわけにいかなくて、話したんだ」
「でも、なんでわかったんだろう」
「とにかく知っていたんだ」
「そう……。今なら私だってわかると思う」

 踏み切り事故で死んだ姉。それは果たして事故だったのか、それとも……。

 暗闇の中で二人が幻視する海辺の情景。水平線に明滅する光。その光が灯っているうちに願い事をすればその願いがかなうという。

「私はなるべく考えまいとする。心に浮かんだ願い事だけじゃなく、心の奥底にある本当の願いがかなってしまうから。どうして? どうしてなんて、本気で聞くのかな? 答えてあげましょうか。それは、姉さんが生き返ってしまうから。だから、……私はあなたと一緒にいられなくなってしまう。それがあなたの本当の願い事」
「そんなことは……」
「だって、本当の願い事は自分にさえわからないんだもの。光る海は決して見ちゃいけないの……」

 雨脚は強くなり、遠くで避難勧告の広報車が通っていく。外に飛び出す夫。ほどなくして戻った彼はつぶやく。

「もうダメだな、きっと。もうしばらくしたら洪水がやってくる。この辺もじきに流されてしまう。ただ、あのマンションだけが残されて、水浸しの地面にポツンと立っている。その4階のベランダに男と女がいて、誰もいなくなった世界をぼんやり眺めている。あれは……そうだな、俺たちだよ、きっと」
「光る海を見たのね、私たち」
「…俺たちの願いがかなったんだよ……」

 光る海とは人間の心の奥底、当人でさえうかがい知ることができない心の闇。世界の終わりの日に立ちつくす2人。それはまるで終末のアダムとイブ。
 終幕。海辺で水平線を見つめる二人。

「もう、そろそろ帰りますか」
「ああ、そうだな。帰るか」
「ええ、帰りましょう。もうすぐ日が暮れますよ」
 まるで年老いた夫婦のような、静かな諦念をたたえた二人。

 さりげない日常会話から孤独を抱えたまま、永遠にわかりあえない男と女の姿を浮き彫りにする松田正隆の世界は深い。二人の会話が明るくピンボケなほど、背後の闇が濃く広がっていく。その意味で、”天然ボケ”原田大二郎と幹季ジュンコのキャラクターはぴったり。手堅くまとめたベテラン角井佑好の演出にも好感。
春を待つ丘(2001.04.07)
作:北阪昌人/演出:吉田努
出演:健一…小須田康人、良雄…國村隼、健一の母…水島かおり



作者の作品への過度の思い入れは時として単なる「感傷」に堕してしまうことがある。

物語]一見、順風満帆な人生を送りながら、最近、会社でも家庭でも、自分の居場所をなくした健一(38)。
それは妻にいわせれば「あなたは他人を信用しないところがある」からだという。健一には幼くして母と別れ、その母は事故で亡くなるまで自分に一通の手紙さえくれなかったという苦い思いが心の傷として残っていた。
 そんなとき、健一は30年ぶりに幼なじみの良雄(42)から連絡を受け、母の故郷を訪れる。そこは、健一が8歳の時に暮らした村。母との別れを余儀なくされた場所でもある。良雄とは祖母の家で半年だけ一緒に暮らした仲良しだった。再会した良雄は健一に告白する。健一宛の母からの手紙をすべて良雄が郵便受けから抜き取り、隠し持っていたということを。事実を知った健一は良雄へ怒りをぶつける。「オレのこれまではいったい何だったんだよ」。しかし、良雄はガンに冒され、それが彼にとって必死の告白だということを知る……。



 聴いている最中、何度か「あれ? 前に聴いたような気がするけど、これは再放送だっけ?」と首をひねってしまった。既視感ならぬ「既聴感」。考えてみれば、トラウマを抱えた男が故郷に帰り、その原因となった思い出に新たな事実を発見し、人生を再出発するという物語は巷にあふれかえっているわけで、このドラマだけが特別に、「既聴感」があるというものでもない。
 
 しかし、この作品は、そういったステロタイプな物語であることを別にしても、何か違和感をおぼえてしまうのだ。それは有体にいえば、作者と作品の距離がきちんととられていないことに起因するのではないだろうか。
 つまり、作者の思い入れが直截的すぎるため、「感傷の押し売り」になってしまっているのだ。作品は作者の分身ではあるが、そこに「距離」を置かなければ、作品の裏に、作者の自己憐憫、感傷のみがが透けて見えるだけ。ベタついた、ただのお涙頂戴のオハナシに堕してしまう。感傷の押し売りほど始末に負えないものはない。聴いていて居心地の悪さを感じたのはそのせいだ。

 成島東一郎監督の作品に「青幻記」(73年)という映画があった。一色次郎の原作を翻案したもので、副題は「遠い日の母は美しく」。30年ぶりに故郷を訪れた男の、若くして死んだ母への追慕の情を描いたもの。海で死んだ母を回想する男の前に、30年前の自分が現れ、2人は同じ時空間の中で、「母親探し」をする。沖永良部島を舞台に、生者と死者、過去と現実が交差する抒情的な作品だった。
 この「春を待つ丘」のラストシーンも、丘に立ち、母の乗ったバスを待つ8歳の「私」に大人の「私」が「大丈夫、キミは会えるよ。もう一度、お母さんに」と呼びかける”感動的”なセリフで終わる。
 この、ムード先行で、作り物めいた物語と比較すると、松田正隆の「光る海」は、たわいない夫婦の日常会話の中に、姉の死、そして”世界の死”が忍び寄る硬質な”ハードボイルド”作品で、作者と作品の「距離」を考える上で、対極にあるといえよう。
スマイル (2001.02.03) NHK福岡放送局制作
作:副島直 /音楽:松浦義和 / 演出:平位敦
出演:松下純一…光石研/和宏…中村有志 /典子…井上美那津/良江…北川湛子 /マリア…ながのちえ他

  やたらと技巧を凝らした作品よりも、一見、平易でステロタイプな作品の方が時としてオーディオドラマとして面白かったりする。このドラマも中年男の陥った絶望とそれを乗り越えての再生という、ありがちな題材ながら、聴き応えは十分だ。

 
 主人公・純一は40歳。父が裸一貫で興した町工場をつぶしてしまい、常に自責の念にかられている。そのため再就職しても長続きせず、妻のパート代と母の年金に頼る日々。逃げ込むのは輝いていた過去への郷愁。酒場では、「ネコジャラ市の11人」に登場するバンチョー・ホーホケキョーなるキャラクターがテレビから出現したのか、あるいは百科事典から登場したのか、言い争った末のケンカ沙汰。

 そんなある日、ぼんやりとしていて、車道に飛び出そうとした純一は後ろから誰かに引き止められる。23年ぶりに再会した幼馴染の和宏だ。彼に誘われるまま、南九州バス旅行に出る2人。途中で転校した和宏が果たせなかった修学旅行のコースを2人でたどろうというのだ。
 
  しかし、和宏は横領事件に連座して指名手配中ということがわかる。しかも、どうやらすでにこの世の者ではないということが示唆される。和宏がこだわるのは、修学旅行の夜に「二人で押入れで酒を飲もう」という約束。その約束が果たされた時、何が起こるのか…。


 前半は鈴江俊郎ふうの死者と生者の交歓を描いた心象劇かと見せかけて、一転、後半はホラー調のスラプスティック劇になる。これはドラマの破綻かと思ったが、作者の言わんとするテーマの基調低音は変わらず。「破綻」と見せかけた意図的な「破調」と納得する。

 冒頭、警察署から釈放される純一の脳裏に浮かぶのは、わずか6カ月で突然死した赤ん坊のこと。今年が十三回忌とわかり、「死の影」が純一を包み始めたことをさりげなく示唆する。スナックでのBGMは山口百恵の「プレイバック・パート2」。純一を待つ母と妻がお茶の間で見ている番組は昭和40年代の懐メロ番組。純一と和宏が旅館でヤクザ相手に大立ち回りを演ずる、その武器はヌンチャクであり、すべては記憶の亡霊なのだ。
 
  脚本もそうだが、演出も実に細やか。音楽の使い方はまるでラジオドラマのお手本のよう。純一と和宏の再会の直後、救急車の不穏なサイレンをかぶせ、和宏の死の伏線とするのも見事。また、純一を待つ妻と実母を「生」の象徴として、純一の世界と対極に置く。「典子さん、昼はなににしましょうかね」。嫁に話し掛ける義母。それに答える妻も、夫の帰還を信じて、あくまで明るい。それは「無知」の明るさではなく、「信じる」明るさなのだ。

   タイトルの「スマイル」とは1970年頃にはやったスマイルバッジのこと。純一が万博のおみやげとして和宏に買ってきてあげたもの。友情の証として、ずっと和宏が大事にしていた「お守り」だ。現実と向き合わず、「半分、死者」のような生活を送っていた純一にとって、スマイルバッジは美しい過去の象徴。しかし、終幕、和宏が去った後に残されたスマイルバッジは未来への生の象徴として、純一に手渡される。このドラマには悪人は登場しない。和宏とても、純一を黄泉の世界へ引きずり込もうと現れたのではなく、現実の世界に引き戻すために現れたのだった。
 
  「記憶なんていい加減なもんさ。純ちゃんはそんな所に還りたかったのか?」
和宏はそうつぶやいて消えていく。


 「おかえりなさい」
  
 純一の生還を出迎えてくれたのは妻と母。

「長い夢を見ていたのね」−−映画「逢いびき」でつかの間のせつない不倫を清算し、家に戻ると、何も知らないと思っていた妻がそうつぶやくシーンが印象的だったが、「おかえりなさい」とはなんて素敵な言葉なんだろう。
 
 純一を出迎えた、そのくったくのない妻と母の笑顔に未来への希望を含ませる。俳優陣も好演。「記憶」に残る作品となった。
 (★★★)