作品解説( |
終点です(1962年) |
ボクの作品のモチーフになっているのは「夢」なんです。これはこの処女作から一貫して変わっていない。AD修行の傍ら、企画書を出すんだけど、まだ駆け出しだから、当然、ボツの山。ある日見た夢が作家の有馬頼義の作品と似ていた。そうだ、これでいこうと、社会的な意義云々という理屈をつけて企画書を出したら運良く通っちゃった。 脚本は新進の福田善之。バスガールにホレてしまう社長の妄想を描いたもので、処女作にしてすでに年寄りじみていたんです(笑い)。脚フェティシズムを強調したり、妄想の部分に凝って演出したけど、映像じゃないんだから、ムリがあった。さすがに福田善之でさえ放送後、ひと言も言葉をかけてくれなかった。出演は「ぶどうの会」のユニット。一晩ホン読みをやってすぐ録音でした。散々な評価だったので、うんざりして、二度と聴かなかったし、テープもありません。 |
手は手、足は足(1963年10月) |
これも見事な失敗作です。ある新入社員の異常な行動を通して、正常性とは何かというのを描いたものなんですが、宮本研さん、どうもボクにアテて書いたようで、主人公の名前がササキというんです。「それはやめてくれ」って変えましたけど(笑い)。 軸になっているのは男女の青春ものなんですけど、作家の書いたセリフの肉声化がうまくいってないし、作家に対してのネバっていない。宮本さんは「いいんじゃない」って励ましてくれたけど、誰一人としてほめなかった作品です。この失敗が、次の「都会の二つの顔」につながるんです。 |
都会の二つの顔(1963年12月) |
当時、福田善之さんの作品が映画化された時期(「真田風雲録」)。で、「佐々木さん、映画監督っていうのは作品をすべて自分で組み立てるんです」と言う。 「今度、ボクは台本一行も書かないから、佐々木さん、あなたが全部やってよ。そういう企画考えようよ」って福田さんが言う。それで、よし、と思ってまず、題名だけ先に決めた。「素顔の若者」。このほうが企画が通りやすいだろうって。 そしたら、たまたま12月のラジオ小劇場(第二放送)の枠がぽっかり空いていたんです。あと2週間後に放送っていうとき、企画がOKになった。それで福田さんと相談して男女を出会わせる物語にしようということになって人探し。文学座に行ったら養成所の研究生でコロコロ笑うかわいい女のコがいた。それが後に伊丹十三夫人となった宮本信子さん。 厳密な台本はなく、一日で録ってやろうと思っていたんです。相手役は誰にしようか。たまたま、滝野川に面白い魚屋がいるという話を知ってた。で、築地の魚河岸について行って仕入れの様子を録音して福田さんに聴かせたら抱腹絶倒。よし、彼で行こうということになった。 次に、六本木のボーリング場で出会わせようと手はずを整えた。そこで出会って飯食って最後は魚河岸で別れるというおおまかな筋もできた。 でも、ボーリング場のシーンだけは一日かけて録ることにした。二人はなかなか打ち解けないだろうと思ったからね。で、示し合わせて二人をボーリング場に呼んだんです。互いにまだ知らないままね。それで、「あの女のコを引っ掛けてきてよ」と指示を出す。彼は「一緒にボーリングやっていただけますか」と近づいていく。でも、やっぱり台本は必要かなと思って、ちょっと紙切れに書いて「これからこんな感じでストーリーが進むから」なんて言いながら渡してね。 その日、福田さんが松竹の助監督を連れてきて、その彼が映画論なんか、ボクに言ってくるわけ。何の意図があるんだろうと不思議だったけど、福田さんは見抜いていたんだね。佐々木は将来、映画を撮ることになるだろうって。脚本も自分で考えた方がいいって、翌日から福田さんは出てこなくなった。 ただ、最後のシーンの時には福田さんが顔を出したので「物語を終わらせてよ」って言ったら、「作家だから、終わらせるのは簡単だよ」とさらさらとシーンを書いた。このとき、よし、世界でまだ誰もやってない方法で作らなきゃいけないと思いましたね。 この作品は手持ちマイクで二人を追いかけてるから、すごく臨場感があって生き生きしてる。放送後、ハガキは山のように来るわ、問い合わせはくるわ、ものすごい評判になった。福田さんもびっくりしてましたね。気骨のある新聞社の記者たちが記者会賞をくれるという。その年の芸術祭に出してたら奨励賞を受賞した。それが寺山修司と出会うきっかけになったんです。福田善之と寺山修司は仲良しだったからね。福田さんは人を見る名人だったので、ボクに「次は寺山と組んでやれば」という。それが「おはよう、インディア」につながるんです。 |
おはよう、インディア |
これも「都会の二つの顔」に続く、”出会わせる物語”なんですが、今度は少年とインド人の女性を出会わせたら、ということになった。 イラ・メータさんという女性は私が、少年(横倉健児)は寺山さんが見つけてきた。渋谷の児童館に出入りしていたチビカっていう綽名の子供で、ホラ吹きコンクールをやったら1等になったという。会いに行ったらなんとも面白い発想をする。でも、子供はみんな詩人だからね。やっぱり大人がコントロールしなくちゃいけないと(笑い)。 寺山さんはがっちりした詩を書いてきてくれた。「おはよう 立ち上がるような大きな言葉…」っていう素晴らしい詩。「でも、寺山さん、”おはよう、インディア”ってなんかカマトトにならない?」ってボクが言うと、「いやそんなことはない。おはようってきれいな言葉なんだ」と。寺山さんは三島由紀夫と同じで、一ひねり、二ひねりするタイプ、カーブを投げるタイプでしょう。「ストレートすぎない」って言うと、「佐々木さん、この作品は剛速球がいいんだ」という。寺山プロデューサーだね。詩は「今浮かんだんだ」と言ってその場で書いてくれました。 「おはよう、インディア」と鉛筆でタイトルを書いてね。寺山さん独特のあのかっちりとした文字です。 基本は、いなくなった犬を2人で探すというお話。 ケンちゃん、イラさん、ケンちゃん、イラさん…と会話を割り振ってボクが考えながらとっていった。寺山さんは詩をその会話の間にクサビとして打ち込む。完成したので、上の意向で「寺山修司構成」とクレジットを入れて放送したら、寺山さん怒ってね。「少なくともオレは詩を書いている」と言う(笑い)。「でもダイアローグの部分はオレにない、あなただけのもの。この作品は2人の合作。これからも、2人で作品を分かち合う”林檎半分こ”の思想でやっていこうよ」と。これが次の「コメット・イケヤ」につながっていくんです。 |
二十歳(1965年1月) |
吉永小百合さんの20歳の成人式の記念に作ったラジオ番組。 「おはよう、インディア」で、構成=寺山とやったから、申し訳なくて、次は寺山さんが楽々書けて、5分の打ち合わせで済むような作品を提案した。「物語の時間」の枠。 ただ俳優が読むだけじゃつまらない。たまには脚色や作り物をやってもいいんじゃないかと思って提案したら通った。吉永さんと寺山さんと永福町の喫茶店で会って、話は2分で終わっちゃった。 「1歳から20歳までを1分で区切っていきたい…」と言うと、寺山さんは「なんとなくわかるような気がする」。それで打ち合わせは終わりです。後は書くのは寺山さん。 その中で、後にカルメン・マキが歌って大ヒットした「時には母のない子のように」を吉永さんに朗読させた。原曲は「SOMETIMES I FEEL LIKE MOTHERLESS CHILD…」でしょ。訳詩そのままじゃない、っていうと「その方がいいんです」と言う。 「二十歳」は寺山さんのもっともやわらかい部分が出た少女向けの詩。 「1歳、私のバラックの上の空はなんだかとても頼りなさそうでした」 「7歳、小学校の運動場の屋根に 私はツバメの巣を見つけました。そのことは誰にも言いませんでした…」 そういう詩で区切っていって、間にドキュメンタリーの音を入れていく。吉永さんもこの作品は気に入っていて、後に、40歳になったとき、突然、ボクのところに電話をかけてきて「あのテープありませんでしょうか」という。散々探したけどなかったですね。 最後に「二十歳、私はただ”質問”になりたいと思っていたのです。いつでも、なぜ?と問うことのできる質問。決して年老いることのない、みずみずしい問いかけに…。そしてわたしの気持ちは、いまでもかわりません。私は二十歳。私の名前は、吉永小百合です」と結ぶ。 すごくよかったですよ。寺山さんも1時間くらいで書いちゃったと思う。湯浅さんも一晩で曲を書き上げたし、ボクも一日、いや数時間で作ったかな。鮮やかなものですよ。でも、放送直前まで、編集作業してたけどね。今なら大変な騒ぎになりますよね。 (寺山修司、吉永小百合のスナップ写真は佐々木昭一郎氏の撮影) |
コメット・イケヤ(1966年NHK) |
寺山さんが劇団を作る前の年です。「話の泉」のプロデューサーだった放送部長が「あなたに絶対、ドラマ化してもらいたいものがある」と言うので、浜松にイケヤ彗星の発見者である池谷さんに会いに行った。 実は、その前に、夢に、失踪した父を探す少年が現れた。それで、浜松の池谷さんのことと、その夢の話をしたら、寺山さんが、「面白い。それやろう。どんなに忙しくてもやるよ」って言う。「なんていったって星ってのはいいよ」って。すぐにジェラール・フィリップの「星の王子さま」というレコードを聴きながら書いてくれた。「少女、失踪人間、彗星ーーその三角形の中の形而上学を書くからさ。あなたは怒りだけを考えて」という。これはまったく手を加えていない完全な寺山さんの台本でした。 寺山さんには三稿、四稿まで書いてもらったかな。「ボクが三稿まで書いたのは初めてだよ」と怒ってたけど「でも、それじゃ、世界の賞はとれません」って言うと、寺山さんも納得してくれてね。「じゃあ、りんご半分この思想でいこう。二人でイタリア賞グランプリだ」なんて言って(笑い)。 その頃、寺山さん、僕のウワサをわざと流すんです。朝起きたらポストの前にじっと立っていたとか、牛乳取りに行ったら、原稿の催促に来ていた、なんて…(笑い)。文化放送のディレクターに、「佐々木に何も書いてない白紙の渡したら、面白い面白いって読んでた」なんて話したり。そうやって寺山さんという人は他人を飽きさせない人なんです。同時に、人を誉める名人だしね。人の才能を見い出す目は福田善之さんと同じ。僕に才能があるって言ったのはは福田、寺山、宮本研の3人だけでした。当時、書いたことも、芝居の演出もしたこともないのに。 さて、「コメット」ですけど、それで、最初の詩でもうテーマ音楽ができるというので、湯浅さんが作り始めた。一番こだわったのは若林さんのナレーション部分。主人公は失踪人間なんだけど、それは我々自身のことなんだね。もう、この部分はあからさまにやっちゃおうよ、と。作りながら絶対、イタリア賞をとったと思った。今まで賞を狙って作ったのはこれだけなんです。 イタリア賞の賞金120万円もらったからレコードを作ろうと。ところが、NHKに90万円持って行かれたので、残りは30万円。これでどうやって作ろうか、と思っているうちに2年が過ぎてしまった。寺山さん、怒り出してね。で、なんとかレコードを仕上げて届けたら、喜んだこと。「オレ、これを死ぬとき聴くよ」って言う。なぜ?って聞くと、「落ち込んでいる時に聞くと力が出てくるから」と言うんです。 前衛音楽だし、きつい作品だから聴くには体力がいる作品だからね。そうなのかなあって思っていた。 ただ、去年(2000年)、「北信越制作者フォーラム・イン・富山」という民放、NHKの若手放送人の会合があって、お呼びがかかった。帯状疱疹で体調が良くなかったけど、ぜひ来てくださいといので行きました。そうしたら、上演作品が「コメット・イケヤ」と「アンダルシアの虹」だった。コメット・イケヤはボクが「川」シリーズを撮り始めた頃、ついにNHKからテープが全部なくなってしまったんです。60分の作品だけど、差別用語が出てくるし長いからって、45分に編集し直して何度も再放送していたんですが…。その完全版のテープを熊本放送のMさんという芸術選奨新人賞をとった方が保存していたそうです。Mさんはボクのファンで「アンダルシアの虹」が放送されたとき、熊本に呼んでくれて、喫茶店で上映会を開いてくれた方。 何百人も入る大劇場で果たして、オーディオドラマ「コメットイケヤ」を放送して反応はどうなのか心配でした。でも、聴いてみたらまるで今できたばかりのホットな作品なんです。暗闇の中でステレオ放送が流れると、星座が頭上に広がっていくのがわかるんです。オレたちすごいのを作ったと思いました。2人ともまだ30歳前後だったけど、70歳の人生の達人が作ったようなすばらしい作品ですね。今見ても全然古くなっていないもの。観客の反応を寺山に聞かせたい。こういう場所にこそ彼がいるべきだと思いました。早く死にすぎたね…。 「アンダルシアの虹」もデジタル処理しているから、映像がきれいだし、これもいい作品です。ただ、時間の関係で半分に編集したので、それが残念でしたけどね。 |
佐々木昭一郎氏の談話から構成 |