「夢の島」の翌1975年秋、佐々木はその年始まったぱかりの「土躍ドラマ」に劇画シリースを企画する。佐々木39歳。「企画書とシノプシス3本を原稿用紙で400枚書いた。私は『紅い花』だけをやることになり、原作のつげ義春に会いに調布に出かけた。つげ作品でなく佐々木作品にして下さい、とつげ義春さんは言った。この作品を私は3日で撮った。スタジオ2日、ロケ1日。タイトルのみのフィルムだ。タイトル部分は名場画だと思う。夢にいざなうからだ。この企画は私の妹の夢から生まれた。少女の花だ。葛城に言われてあわててつげ作品を買った。私は私自身を脚本のどこかに忍ばすことができない場合、脚色ものは引き受けない。この作品で私は十分私自身を侵入させることができた」
 佐々木は同作品で2度目の芸術祭大賞と初の国際エミー賞優秀作品賞を受賞。3度目の3年間助監督生活をしながら「四季・ユートピアノ」の脚本を書き続けた。TBS調査情報の若き大編集長・村上紀史郎の決断で佐々木は2年間にわたり「四季」のディレクターズノートを連載。この2年間は貴重だ。その後の佐々木を国際的に飛躍させる準備期間となった。

「四季・ユートピアノ」の100分版(ディレクターズカット)で1980年度イタリア賞グランプリ受賞。初のラジオとテレビ併せての同賞受賞となる。佐々木44歳だ。
 国際エミー賞は特別に佐々木の名を彫り、監督賞としたほどだ。「紅い花」と「四季」は今のところ、イギリスBBCと全米ネットに乗った日本最後のテレビドラマである。
 この年を境に佐々木はその後の作品のほとんどを海外との合作で撮ることになる。川三部作「川の流れはヴァイオリンの音」(4度目の芸術祭大賞)、「アンダルシアの虹」「春・音の光」や「東京・オンザ・シティー」「夏のアルバム」「鐘のひびき」「クーリパの木の下で」「七色村」「ヤン・レツル物語」「八月の叫ぴ」などだ。

 1985年、佐々木は川三部作で芸術選奨。放送文化基金賞、毎日芸術賞という大きな個人賞をすべて受賞。佐々木49歳。以後佐々木は海外テレビフェスティバルの審査員を現在まで31回もつとめながら、その往路復路で海外合作のシナリオ・ハンティング、ロケーション・ハンティング、交渉をほとんど一人でこなした。

「きつかったが、チェコのように予算の大半を持ってくれる国での撮影はいくら苦しくても我慢した。90分単発ドラマの予算が3800万円の時代に私の作品はわずか600万円だ。航空運賃などすべてを賄うのでチェコは私の最大のスポンサーだった。チェコには何人かの親友がいて今でも親しい。その中の一人はピアニストで、彼は私にアマデウスと命名した。何故か? ウィーンのバブルが弾け、モーツァルトは何を書いても同じじゃないかと相手にされなくなった。そこを助けたのがプラハの人々だった。チェコの私の親友は、私が川シリーズを最低予算で創っているのを知り、その川シリーズが佐々木はまだあれをやっている、まだあれを? などという流言がなされ、打ち切りになったことを理解していて、アマデウスに喩え、援助し続けてくれた。社会主義時代からずっとだ」
 筆者は最後に佐々木に、最も影響を与えた映画監督は誰なのかと聞いた。佐々木はこう答えた。

「映画監督についたことがないので一人もいない。周囲が全部教材だった。福田、寺山、宮本、湯浅譲二などの作家や作曲家、撮影監督の妹尾新、葛城哲郎、吉田秀夫などで、演出家では小林猛と遠藤利男だ。小林猛はラジオのよきライバルで、彼がいなかったら私の作品はない。

 逮藤利男は先輩だが、私が入った60年代はすでに若い作家や役者の問で人気のリーダーだった。放送詩集という時間をつくった彼は、大岡信や秋浜悟史といった後に世に出る作家を多く育てた。彼が放送詩集で徹夜し、水飲み場で水を飲みながら眠っているという噂が流れた。ある朝、スタジオに閉じ込められた役者に注文を出す遠藤の声が聞こえ、私はその前を通った。数時間後、彼は水飲み場で噂通り倒れていた。ひどく感動した。
 テレビに転じた遠藤は大江健三郎を呼び、廊下で毎日打ち合わせをしていた。朝そこを通ると2人はいた。真夜中そこを通ってもそこにいた。こうして2人は、日本初のザルツプルクオペラ賞受賞の名作『ヒロシマのオルフェ』を創った。小林のテレビ『真夜中のブルース』は私の選ぷテレビベスト10」のトップだ。受難作だ。遠藤は『マザー』『さすらい』、小林は『四季・ユートピアノ』のプロデューサーだ」

 年齢に関係なく佐々木作品は面白い、と言う外国人の批評家がいる。次回作は果たして何か。ファンが待つ。大いに期待しよう!(了)