寺山修司と佐々木昭一郎
 佐々木昭一郎と寺山修司は1965年から1966年にかけて、ラジオドラマ「二十歳」「コメット・イケヤ」「おはよう、インディア」という3本の作品を共同制作した。

「コメット」は世界最大のラジオ・テレビ国際フェスティバルであるイタリア賞でグランプリを、「おはよう、インディア」は芸術祭大賞を受賞した。両作品とも、今なお新鮮さを失わず、なおかつ力強さを持った大傑作である。寺山との作品創りを通した蜜月は約3年間だけだったが、2人の交流は寺山が亡くなるまで続いた。

「新宿伊勢丹で三島由紀夫展が開かれた時、寺山も来ていたので”三島は嫌いじゃなかったの?”と言うと、”あんたこそ、今や紅い花じゃないの”って切り返してきた」「寺山の家とNHKは近かったから、よく路上で偶然会っては立話をしました」

佐々木昭一郎と寺山修司の交流はどのようなものだったかーー。

出会い
 「都会の二つの顔」というラジオドラマを福田善之と一緒に作った後、福田が”今度は寺山と組んでみたら?”という。彼は人の才能を見抜く名人だからね。で、寺山に電話したら、”福田が忙しいからオレに回ってきたんでしょう”って笑いながら言う。寺山とは、良き仲間であり、よき教材=先生であった」
兄貴

 「寺山が12月、私が1月で、たった2カ月しか違わないんだけど、兄貴みたいな存在でした。電話すると、どんなに忙しくても、決していやな顔せず、人の気をそらさない。売れっ子なのに、それをひけらかすことは決してしない。わざとピントの外れた自慢をすることはあったけど、それは寺山一流のテレなんでしょう。あんなにいい人はいないと思う」
母一人子一人

 互いに早くに父を亡くし、母子家庭という共通項があった。
「”おはよう、インディア”は私の家の近所でロケしたんです。初日だけ寺山が顔を見せたから自宅に連れて行ったところ、玄関先でなかなか上がろうとしない。”手ぶらだから”って。で、引き返して、大きなスイカを買って来た。”よその家を訪問するときはおみやげを持っていかないといけない”というのがあったみたい」

 「私の母は寺山がどんな作品を作っているか知らなかったけど、会ったとたん、いっぺんで彼のファンになった。眼を見ればわかるというんだね。”あの人はいい人だ”って。以来、”お前は寺山さんと仕事をするな”って言う。なんでと聞くと”安いギャラ(NHKは安い)であの人を拘束してるんだろう。そんなことしちゃいけない”って言う。どうせ、原稿を催促しに家まで行って郵便ポストの前で待ってるんだろう、と。

 親父がジャーナリストだったから、作家と編集者との付き合いをよく知ってるんですね。後年、寺山が競馬の解説なんかでテレビに出てるのを見ると、オフクロ、それを見て泣いてました。
 
「二十歳」の頃

 吉永小百合さんの朗読劇「二十歳」を作った頃、寺山さんは新婚だったし、一番ハッピーな時代です。永福町の高架線下の寺山家に打ち合わせで行ったら、ジャガーだかBMWだか外車が家の前にある。奥さんは九條映子という大女優ですからね。ボクがうらやまし気に見えたのか、寺山さんが「佐々木さんも女優と結婚すれば」なんて言う。「そんな…、NHKの職員がそんなのできませんよ」って言うと「意外とそうじゃないんですよ、佐々木さん」って。九條さんと3人、毎日会ってた。ボクらの蜜月時代です。
コメット・イケヤ
 
 最初に寺山がつけたのは「盲目の少女のための天文学入門」。これは、詩人の飯島耕一のラジオドラマ「青少年のための火山学入門」をもじったもの。当時は差別語をめぐる糾弾闘争が激しい時期。最初の「コメットーー」でいきましょう…とタイトルは変えてもらった。ちょうどドラマ「Q」の頃です。寺山はこの「言葉狩り」に対し、「○○には○○と言おう」「××には××と言おう」とこれに激しく反発していました。

 少女役の岡田恭子は当時、ナベプロの歌謡学校の生徒。少女役にこだわって、散々探したので、寺山さんと二人で、「これだ!」と一発で決めました。寺山さんは水森亜土を考えていたらしい。
声色

 寺山さんは電話魔で、よくボクの家に電話してきた。とにかく相手を退屈させちゃいけないというんで、たまに声色を使うんです。「もしもし、三島由紀夫ですが…」なんてかけてよこす。でも、あの声と訛りですぐわかりますよね(笑い)。

 寺山さんが「佐々木さん、夜遊びする女だけはよしたほうがいいですよ」なんて言うこともあった。意外に潔癖というか、そんな面があるんです。