大川仙助紅白の歴史

大川仙助紅白の誕生!

 「大川仙助紅白」の源は、今から35年程前、1964年ごろ2本の仙助紅白直系から始まった。当時18才、錦鯉に若き情熱を傾ける田中利明(現当主)が新潟の宮寅養鯉場より3才65cmの仙助紅白メスを入手した。その当時、錦鯉で65cmという大きさは異常に大きいもので、それを見た誰もが仙助紅白のすばらしさに感嘆しました。そうです、その驚きは現在の80cm以上の錦鯉にあたるものでした。緋は真っ赤で白地も良く、模様は体の後半に白地の多い鯉でした。その鯉の風格、緋の美しさに惹かれた当主田中利明は、この仙助紅白で日本一の錦鯉を創る決意をします。それから数年後、田中氏は、全日本錦鯉振興会第一回東京大会で農林大臣賞を作った岩間木の三九郎系統のオスを求めこの2本の交配により美麗なる「大川仙助紅白」が創り出されます。その2年後には、直接 綱作太郎氏のもとに行き68cm位の仙助紅白(メス)を入手しそれも交配していき、体型のよさと特に白地の良い錦鯉を目指し交配を繰り返し品質の向上をはかり「大川仙助紅白」の現在に至っております。

 

仙助紅白とは?

仙助紅白とは、今から40年程前、1960年頃、新潟県で、 メス鯉に木沢の源次郎が作った「友右衛門紅白」と オス鯉に相川の常七が作った「友右衛門紅白」の組み合わせにより綱 作太郎が作り出した錦鯉である。特徴としては、骨格が良く 大型の鯉になり前ザシがなく剃刀ギワである。

 

 

エピソード

 「大川仙助紅白」の誕生の歴史わかっていただきましたでしょうか。 さてここでは錦鯉にまつわるお話を続けていきましょう。 錦鯉の歴史は古く、江戸時代は文化・文政の世には、錦鯉に付いての記述が現れているようです。新潟県は山古志村付近を起源とする錦鯉の生産は、明治時代の末期にその技術が確立されたと考えられます。 錦鯉の美しさは世界の多くの人の心を魅了しています。 

 この筑後の地の福岡県大川市で錦鯉の生産に情熱を傾けている田中利明氏、彼は日本を代表する錦鯉の生産者の一人です。 錦鯉「大川仙助紅白」が誕生するエピソードについてお話ししましょう。
 1964年10月頃のことです。当主田中利明氏は当時18才、新潟県に錦鯉の仕入れに行きます。1964年はどんな年だったんでしょうか? 日本で東京オリンピックが開催されて日本が高度成長を始めよとしたころです。福岡県は大川市から新潟に鯉の仕入れに行った田中氏は、新潟県は荒谷の宮寅の養鯉場で紅白の大きな錦鯉を目の当たりにして魅せられてしまい、その紅白の錦鯉を2本手に入れます。現在の道路環境をしてもかなりの時間がかかる福岡と新潟、当時はそれは、大変な旅だったようです。航空機が大型化し、高速道路が発達した今、貨物を大量に短時間に長距離を輸送することは、簡単なことです。錦鯉も海外に輸出される今日ですが、1960年代の日本を想像してください、福岡から新潟まで片道1000キロメートルを越える道のりの旅は、困難を極めるものです。高速道路がない当時、国道3号線、国道9号線、国道8号線を2人交替で27時間かけて昼夜を問わず走り続けないといけない旅路でした。トラックは、トヨタスタウト1.75トン。荷台には酸素ボンベとビニールと段ボール箱を積んで日本海行脚。途中、越前の国では越前ガニを食べて長旅の合間にほっと一息したのは旅のいい思い出の一つのようです。でもトラックは長岡までの道を急ぎます。当時の新潟の田舎道は、砂利道が多く雨が降るとトラックが滑って坂を上らないこともしばしばあったとか。でもそんな旅の疲れを吹き飛ばしてくれるほどの錦鯉がそこに待っていたのです。 
 帰りのトラックは、錦鯉と水が満載です。重い車は行きの道のりにまして条件が悪くトラックにも運転している人にも負担が大きなものでした、何度か衝突しそうになったこともありました。センターラインを超えてきたオートバイにぶつかりそうになったり・・・。錦鯉も無事に福岡に帰り着いたかと思う往復2500キロメートルを超える旅の結末には、トラックの車輪のベアリングが砕け散っていていて、もう少しのところで帰り着けなかったかもしれなかった・・・。旧き良き時代の思い出を語っていただきました。

 

 

 

  

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