「証明」 作:セル



 確かに思ったことはある。もしもそうなってたら? なんて夢見がちに空想を繰り広げたこともある。でも、それはそんなに特別なことなのだろうか。

 ――朝起きたら女になってたら?

 思った。思ったけど、そんなこと起こるはずがないと思っていたし、思っただけでなりたいなんて願った覚えもない。考えた。考えたけど、それはやっぱり俺も男だから異性に興味がないわけじゃなく、むしろある。だからこういった空想を広げることも普通のはずなのに。

 そんなことを、“自分の膨らんだ胸”を直に見ながら思っていた。

 目覚めたら胸が重く、どうしたんだろうと思い、見下ろしてみたらパジャマを押し上げる謎の物体。予測はつくにはついたが、あまりに信じられなかったのでパジャマを脱ぎ、確かめてみた。それがこの結果。色は白くなり肌はきめ細かい。乳房がぷっくらと膨らみを持っており、その先端は綺麗な桃色。これは俺が男だからなのだろうか、しゃぶりつきたいと思ってしまうぐらいに綺麗だった。

 本来ならむらむらしていてもたってもいられないような状況になっている頃だろう。しかし股間から感じるのは確かな喪失感のみで、触ってみれば男のものが消えうせている。あるのは女の方のものだけ。

 体を見下ろして気づくのは、視界の両端を塞ぐ大量の髪。どのくらい長いだろうか、こうして頭を垂れている状態で、髪の先端が股まで届く。きっと腰ぐらいだろう。見てるだけでも綺麗な髪だと分かったが、触れてみてそれを確信した。

 ――女に、なってる……?

 慌てて洗面所に駆け込んだ。理由は当然今の自分を見るため。女が誰一人としていない我が家は鏡というものが非常に少ない。こうして体を見るための鏡なぞ、洗面所ぐらいにしかないのだ。

 そして、心なしか言うことを聞かない足で洗面所に辿りついた俺を待っていたのは、非常識な光景だった。

 鏡の中。それは当然鏡に映すものが現れるもので、こうして鏡の中に美少女といってもいいような女が現れるということは、俺がその女なのだろう。見た目の年齢は俺とあまり変わらず十六歳前後。それなのにメリハリのついた体で、シャツの前ボタンは全て外され胸が丸出し。黒髪のストレートが印象的で、まるでその髪に合わせて作られたかのような、少し暗い感じのする女の子が、鏡の中に一人で存在していた。

「なん、で……?」

 発する俺の声は高く、陳腐な言い方で鈴のよう。その声は男とは思えるはずのない声で、女ととるには十分すぎるほど高い、女の声。喉に触れるとあるはずの喉仏が失せており、これが原因なのだろうかと、回らぬ頭で考えた。

 ――どうして、女になってる?

 鏡の中の女――少女と目が合った。余程驚いているのだろう。瞳からは感じられるはずの生気が全くなく、しきりに喉を触っている。酷く惨めに見えた。

 とても、信じられる光景ではなかった。

 朝起きたら女になっている。男としてあるべきはずのものが全てなく、代わりにあるのは女のものだけ。俺が成ってしまった女に、俺という面影は全くなく、女としての印象のみが脳裏に焼き付けられる。

 何故?

 分からない。これが本当に起きていることなのかさえも判断しきれないほどに、頭がおかしくなりそうだった。

 右手を動かせば、鏡の中では対となる女の腕が動く。自身の腕の方を見れば、その細身の体には合わぬほど大きなパジャマを着ており、ぶかぶかと持て余していた。

 動くのは俺の腕で、でもそれは女の腕。

 俺は女になった? ――ああ、そうだ。分かる。現状を見れば分かる。

 何故なった? ――分からない。だから混乱している。

 次第にぼやけ始める視界の、その鏡の中。奥から――後ろから一人の男が姿を現した。

「だ、誰……?」

 振り返ると頭一つ分高く、その位置に、俺の兄貴の顔があった。

 兄貴は驚いていた。それはそうだろう。朝起きて洗面所に行ったら、突然知らない女が立っているのだ。しかも、普通の女なら隠すべき場所である胸を丸出しにして。

 もしかしたら顔に見覚えがあるかどうか再検討しているのだろうか。眉間にしわを寄せながら、舐めるようにして俺を見ている兄貴。そして、その結論は出たようだ。

「君、誰?」

 単語と単語の繋ぎ。恐らく兄貴とて俺同様に混乱しているのだろう。それはそうだ。俺は朝起きたら女になっていて、兄貴は朝洗面所に行ったら上半身裸の女が立っていたのだ。当事者であるかないかの違いはあれど、驚くことであるのは間違いない。

「あっ、あのね……っ」

 俺は、兄貴に“俺が俺であること”を伝えようと思った。このままでは兄貴は俺を俺だと分かってくれない。俺を知らない女だと思っている。だから説明しなくちゃいけない――が、俺はそれ以上言葉を紡ぎだすことができなかった。

 兄貴の視線。俺の様子を観察しているのか、または胸を見てはいけないと考えているのか。その兄貴の視線は俺の顔だけを捉え、じっと俺を見ていた――その視線。

 他人を見る視線。容赦のない視線。

 それは、家族である俺へ向けられるような視線ではなく、ただ知らない人を、他人を見るだけの冷たい視線。その視線がずん、と俺を突き抜け――怖くなった。

 兄貴は俺を知らない。家族である俺を知らない。

 知っている、俺ではない。

 誤解を解こう。その意思を必死に頭に張り巡らせても湧いてくるのは焦燥感。目の前にいる兄貴が、酷く遠かった。

 喉が渇き、どうしていいのか分からなくなる。混乱した頭は眩暈を招き、口が動かなくなる。

「え、えっと……何でうちにいるの?」

 他人行儀。兄貴の取る行動全ては、俺に対してではない。今目の前にいる“知らない女”に対しての行動。

 どうして……。

 俺は兄貴を知っている。家族だと思っている。でも、家族の俺は、兄貴の前にいない。いるのは知らない女で、他人。だから俺は兄貴に他人として扱われているし、でも、俺は兄貴の弟だ。家族だ。それなのに兄貴が俺を見る視線は――怖い。

 震え。いつも一緒に暮らしている兄貴に対して、俺は怯えている。怖がっている。何をされたわけでもない。それなのに、迫害された気になる。

 ――俺は、他人……?

「おい、正也のやつ知らねえ、か……?」

 兄貴の後ろから無精ひげの男――親父が顔を出してきた。

 いつもと同じようにランニングをだらしなく着ている親父も、やはり俺の存在に驚いたのだろう。口をあんぐりと開けていた。

「だ、誰だ……?」

 親父が兄貴に耳打ちして聞く。しかし距離が近すぎるせいで、耳打ちをする意味もなく、俺にまで聞こえた。それに対して兄貴は返事をしたが、その内容は「知らない」だった。

 ――っ。

 刺すような二人の視線が俺に向けられる。不法侵入か? そう言わんばかりに遠慮ない視線が俺を突き――また、俺の弁解を封じさせた。

 自分が酷く遠くに置いていかれたような気分になる。親父たちは目の前にいるはずなのに、でも、親父たちは“俺”を見ていなかった……。

 嫌だ……。

 ふと鏡を見れば、映るのは“俺”ではなく、俺の見知らぬ女。そいつが俺のいるべき場所に立ち、俺という存在をなくしている。見れば、表情は酷く引きつっており、恐怖に顔を歪めている。

 何を怯えている? ――兄貴たちが、俺を俺として見てくれないことに。

 どうしてそう見られる? ――俺が、兄貴たちの知らない女になってしまっているから。

 ……そうか。

 俺は、女になったんだ。

 鏡に手を伸ばすと、触れる鏡面。まるで吸い付くかのように鏡の向こうにいる女も手を伸ばし、合わせられている。

 俺ではない俺が、俺となっている。

 振り向けば、気味悪そうな顔で俺を見る兄貴たち。

 ――家族。

 昨日まではそうだった。でも、今はどうだ。例えどんなに俺が兄貴たちを家族だと思っていようとも、兄貴たちは俺を家族として見てはくれない。

「……はは」

 笑いが込み上げてきた。おかしい。おかしいすぎる。まるで、俺だけ馬鹿みたいだ。ずっと家族だと思っていた人たちに他人のように見られ、扱われる。

 ああ、そうさ。理由は分かってる。俺が女になってしまっているからだ。そして、それは同時に“俺”ではないと告げている。“俺”じゃないと伝えている。

「あはははは!」

 馬鹿馬鹿しい。

 溢れてきた涙のせいで視界まで歪む。兄貴たちが歪む。何もかも、全て歪んだ。

 それから間もなく、俺は家から追い出された。







     *






 何だってこんなことになっているんだろう。

 突然女の子になったと思ったら、家を追い出された。知らない女が家にいたのだから当然の行動だと思うが、それでも兄貴たちの俺を見る視線は辛かった。知っている人物――親しい人物が俺を他人を見るかのような目で見てくる。まるで俺が場違いなところに放り出されてしまったかのようで、俺だけが親父たちを家族だと思っていたようで、痛かった。

 驚いて言葉も出ない。何も反論することが出来ず……そして、家を追い出された。

 外で半裸でいるのは恥ずかしいと思ったんだろう。無意識のうちにパジャマの前ボタンは閉じられていて、裸足でコンクリートの上を歩くのは痛かった。

 今更家に戻るわけにもいかない。戻ったところで入れてもらえない。それが分かっているせいか、後ろを振り向く気にもなれず、ただ当てもなく歩いた。

 裸足で歩く道路は痛い。歩くたびに、地に足が着くたびに自重で足の裏にアスファルトの不揃いなおうとつが刺さってくる。一歩一歩、俺は足から突き上げる痛みに顔を歪めた。

 初めは気のせいかと思っていたが、どうやら俺は女になったことで体力がなくなってしまったらしい。足からくる痛みのせいで体力、気力共に奪われ、ゆっくりと歩くので精一杯だった。

 陽炎か、眩暈か。どちらとも取れぬ視界の揺れで、吐き気を覚えた。

 きっと色々なことに気を取られていたのだろう。足元にあったガラスの破片に気づくことが出来ず、俺はそれを踏んでしまった。

「――っ!」

 転んだ。突っ伏すようにアスファルトに顔から打ちつけた俺に今まで以上の痛みが突き刺さってきた。

 三箇所からくる痛み。地面に突っ込んだ額は擦りむき、傷口を思われる箇所を触ってみたら痛みが増した。地に擦り切れた肘と破片で切った足の裏からは血がどくどくと溢れ、道路に染みる。赤黒くなる地を見て、背筋が冷たくなった。

 立とうと思った。でも痛みのせいで力が入らず、立てた膝がまた折れた。

 どうしよう……。這いつくばるわけにも、その場で座り込むわけにもいかず途方に暮れた。

 見上げると空は遠く、酷く青かった。太陽はまだ上がりきっていない。きっとまだ俺の後ろにあるのだろう。太陽のない真っ青な空を見上げてると、理不尽さに悲しくなった。

 じんわりと歪む視界の中、一人の男が現れた。

「大丈夫……?」

 それは、学生服を着た親友の明人だった。

「どうしたの?」

 心配そうな顔を俺に向け、覗きこんでくる明人。心なしかそれはいつもより大きく見え、俺を見つめている目が優しく見えた。

「助けて……」

 どうしてだろう。先ほどまで出ることのなかった声が、高い声が俺から出、意思のない意思を明人に伝える。意図しない言葉は、俺を混乱させた。

 何故助けてと言った? ――どうしてだろう?

 俺は助けて欲しいのか? ――そう、なのかもしれない。

 家族に捨てられた。俺は家族に家族であるということを伝えられず、俺であるということを伝えることが出来ず――何も出来ないまま捨てられた。

 どうして欲しいか。それは分からないが、俺は何かに飢えていた。

 明人は俺の足を見て、途端に顔の色を変えた。それだけ血が酷かったのだろうか。立てない俺を明人は抱きかかえてくれ、近くの公園まで運んでくれた。明人の腕がたくましく思えた。

 運ばれた公園のベンチに寝かされた俺は、仰向けに空を見た。突き抜けるだけの空が俺を見下しているように見え、涙が止めどなく溢れてきた。

 どうしてこんなことに……。

 ただそれだけが俺の心を満たし、気がついた時には明人が俺を見ていた。少しの逆光。眩しくはないが、明人の顔は見て取れない。

「泣いてるみたいだけど、どうしたの? 怪我も酷いし……もしかして、誰かに? 助けてって言ってたけど……僕でよければ話聞くけど」

 とん、と俺の横に腰をかける明人。

 言って信じてもらえるだろうか? ……いや、信じてもらえないだろう。朝起きたら女になっていたなんて、誰が信じてくれるだろうか。もしも俺が相談される立場だったら、信じないと思う。悲しくても、それが現実。そう思うと、ちくりと痛かった。

「泣いてるだけじゃ分からないってば……」

 優しく目元に置かれた明人の指。それがそっと涙を拭う。少し雑で痛かったけど、温かかった。

 ふと、親父たちの目を思い出した。それは酷く冷たく、胸に刺さる。突然裏切られたような気分になり、悲しくなる。たぶん、俺が弁解をする出来たとしても、信じてもらえなかっただろう。そう思うと、憤る。そのときのことを思い出すだけで、辛くなる。

 そんな目とは対称にある明人の目を見て、なんだかほっとなった。

「ねえ、聞いてる?」

「う、うん……」

 なんだろう、この高い声。俺の声ではないのに、俺の喉から出てくる声。それは俺の言葉で、でも俺の声じゃない。耳にきんと響く声だった。

「どうして泣いてるの?」

 普通に聞いても無駄だと思ったのだろうか、明人は小さな子供に問いかけるように俺に聞く。しゃくりをあげる俺の頬を撫でた。











 結果から言うと、俺は全て明人に話した。

 俺が男の正也であるということ。朝起きたら女になっていたということ。家から出てきたこと。その全てだ。

 それからというもの、明人は難しい顔をして黙ってしまった。しん、とした沈黙が場を包み、俺もそれに飲まれた。

 顎に手をやって考えている様子の明人の横、まだ痛いが地に足をつけなければ平気なようだったのでベンチに座る。足裏に結ばれたハンカチは、さっき明人につけてもらった。

 隣に座り明人を見上げる。こうして見ると、大きかった。いや、俺が小さくなったのだろう。俺の顔の横にあるのは明人の肩で、顔は上にある。なんだか、少しちくりときた。

「本当に、正也?」

 明人が俺に目を向ける。明人を見ていたせいですぐに目が合った。疑いの眼差し、といった様子。その視線は少しだけ痛く、でも当然のものだった。

 小さく頷くと、明人はまた難しい顔を俺に向ける。

「こう言っちゃなんだけど……突然そんなこと言われても信じられないって言うか……」

 その当たり前の反応は、とうに予想していた。むしろそれしかないとさえ思っていた。こんなことありえない。信じられるわけがない。それが普通であるということを認識しているのに、それを聞いた俺の目が、また熱くなった。

「わっ……ご、ごめん……」

 どうしてこんなに泣いているんだろう。信じてもらえないってことぐらい分かっていたのに、どうして話したりなんかしたんだろう。涙は拭っても出てくる。痛くなるほど擦っても溢れてくる。手がびしょびしょになるまで拭いた。

「どうしよう……」

 俺への問いではない。独り言のように呟く明人の声は、すごく困っていたように聞こえた。きっと俺への対処の仕方を悩んでいるんだろう。邪険に扱っても泣くだけだし、そんなこと信じられない。そう思っているはずだ。

 どうしようもなく溢れてくる涙。悲しみの感情が涙に後押しされるように湧いて出てくる。

 そうだ……明人は“俺”だと信じてくれない。当たり前じゃないか。もう“俺”はいないんだ。俺は俺じゃなくて、知らない女だ。一人の女だ。明人の知る正也じゃない。

 右足から全身に突き抜ける痛覚。それを我慢して、俺は立った。

「いいよ……」

 迷惑。俺は、明人に迷惑をかけている。服装から見るに、明人は学校へ行く途中だ。それなのにわざわざ“見知らぬ俺”に声をかけてくれ、“見知らぬ俺”を気にかけてくれている。迷惑以外のなにものでもない。

 俺はそれだけ言って、明人の前から立ち去ろうと歩き出した――が、その腕を掴まれる。

「待って!」

「――ッ!」

 怪我したところを掴んだのがまずかった。抉られるような痛みが俺を刺し、耐え切れずに俺は倒れた。

「ご、ごめんっ。だ、大丈夫!?」

 明人は掴んだ腕を離し、慌てて駆け寄ってきた。公園の砂利を踏む靴が目の前に現れたかと思うと、それがすぐに明人の顔へと変わる。心配そう、というよりは怯えている顔で、まるで怒られた時の子供のような顔。

 ああ……また迷惑かけた。

「大丈夫……?」

 差し伸べてくれている明人の手を制し、俺は自力で起き上がる。足の裏から痛烈な刺激が走るが――我慢。これ以上、明人に迷惑かけたくない。

 迷惑だろ? だからほっといて。そんなことを言ったら明人は今以上に俺を気にし、優しくしてくれる。だから俺は何も言わない。本当に迷惑をかけたくなければ、嫌われ者になればいい。嫌いなら誰も近づかないし、迷惑もかけない。落ちるのは、俺という見知らぬ女の株だけだ。

「邪魔……」

 それでも心配そうに声をかけてくる明人に対して一蹴。足からくる強烈な痛みのせいで目の前が霞むが、それはどうでもいい。ゆっくりと一歩一歩進み、俺は公園から出た。

 明人の心配そうな声を背に聞いて。







     *






 目元が腫れぼったい。足が痛い。眩暈がしてきた。不調ならいくらでもあったが、良いことは何一つなかった。

 歩けば焼けるような足の痛み。時間が経てば喉は渇き、何をしていても眩暈がしてくる。とんでもない苦痛。それが常に俺にまとわりつき、まともな思考をさせてくれない。

 他にも苦痛はある。歩けば胸が揺れ、先端がこすれて痛い。背が縮んでしまったのか、服がだぶだぶとして足に絡みつき歩くことも辛い。腰まである髪がまとわりついてきて気持ち悪い。女になってから初めての経験はどれも不愉快なものばかりで、気持ちを酷く億劫にさせた。

 どこを歩いているだろう……? ぼやける視界の中で見つけるのはたくさんの人と、たくさんの建物。微かに見覚えのある八百屋の文字が見え、ここが近所の商店街なのだと分かった。

 何で歩いてるんだろう? 歩くから足が痛いのに、でも足は動いた。

 何で泣いてるんだろう? 泣くから腫れぼったくなるのに、でも涙は溢れた。

 パジャマで裸足の、泣きながら歩く女。傍から見たらさぞかし怪しいだろう。家出か何かと思われているかもしれない。

 どれだけ嘆こうとも全ては去る。何かに急かされるように人は流れ、俺の前から消えていく。

 俺はもう俺ではない。悲観するべきことさえ、誰一人信じてはくれない。

 何のために生きてきたのか。どうして生まれてきたのか。――生きているのか。

 痛みは感覚を麻痺させ、麻痺した感覚は痛みさえも麻痺させる。全てはっきりとしない、全て曖昧な世界で、ただ俺は歩く。

 どこに行く? 目的はなんだ? 何をしたいんだ? とりとめのない疑問のみが反芻し、狂わせる。今ではもう、何を大事にしていたのかさえ分からない。分かったとしても、それはもう掴めない。思い出したくない。

 気がついたら路地裏に俺は座っていた。どこかの汚れた建物の壁を背もたれにして座っている。足を見ると、明人に巻いてもらったハンカチはいつの間にかなくし、すごく汚れていた。血と土。でも、俺はそれを拭き取る気も起きなかった。汚れても構わないというのもある。歩いたらまた汚れるというのもある。どうでもよかった。

 そんな無気力のせいで、俺は数人の男たちに囲まれていることに気づかなかった。

「なァにしてんの?」

 顔を上げると、そこには見るからにチャラけた頭の悪そうな男。髪は金に染めているが、面倒なのか丁寧にされてはおらず所々黒い。毛の根元は黒く、いわゆるプリンだった。

「なあ、こいつ危なくね?」

 もう一人の男。耳に大きな輪のピアスをつけているのが印象的で、日に焼けた浅黒い肌も目に付く。俺を見て「こいつ」と言ったから、俺に対してあまりいい感情を抱いていないみたいだ。

 他にも数人、見て取れる数で二人ほど後ろにいるが、この前の二人にほとんどの視界を遮られてよく見て取れない。声からして最低四人か。

 何が目的だろう。俺なんかを囲んで。今の俺は金なんか持ってない。恐らく傍から見てもそう見えるだろう。だとしたら、こいつらは?

「どうしてだよ? 見てみろ、結構いい女だぞォ。けけけ」

「問題はそこじゃねえよ。この女をよく見てみろ。明らかにおかしいだろ」

「んなこたァねェよ。いい女なら俺はどんなやつでも歓迎だぜ」

「はあ……俺知らね」

 ピアスの男はため息混じりにそう言うと、後ろの男を二人ほど連れてどこかへと行ってしまった。残ったのは一人……いや、後ろにまだ一人いた。

「安田さん、高橋さんたち行っちゃいましたよ?」

「いいんだよ、あいつにャあ女の見る目がねェ。あとでたっぷり自慢して悔しがらせてやる」

 けけけ。そんな気持ちの悪い笑みを浮かべると、安田と呼ばれたプリンの男は再び俺に視線を向けた。右目だけが大きく見開いた目が、俺を刺す。

「つうわけだ。お前暇だろ? 付き合えよ」

 半ば強引だった。俺の腕を無理に引っ掴むとそのまま起こし、立たせた。足の痛みのせいでふらつくが、それは男が俺の肩を支えて倒れずに済んだ。

 俺の肩を抱くのとは逆の手で、男は俺の顎を持ち上げた。

「お? もしかして男にでも振られて傷心か? 目ェ死んでんぞ?」

 どうやらこの男にはそう見えたらしい。後ろでもう一人の男が「そうかもっすね」と言っているあたり、本当にそう見えるのだろう。俺自身でさえ生気がないことは分かる。

「俺的には公園で、ッつうのもなかなか乙だと思うんだが、そこんとこどうよ?」

「いいっすねぇ。でも、今の時間はまずくないっすか? まだ真昼間っすよ?」

「そうなんだよなァ。それがちとまずい。この女に叫ばれでもしたら大変……つうか叫びそうにないな、こりャ」

 けけけ。こいつはそう笑うのが癖なのだろうか。さもおかしそうに俺を見て笑う。にかっと開いた口から覗いた並びの悪い歯が気持ち悪かった。

「でも叫ばれなくっても、誰かに見られたらその時点でお終いっすよ? 最近物騒だとかどうだとかで警察がよく巡回するらしいっすし」

「んだよ、せっかく乗り気だったのによォ。いいや、とりあえずホテル突っ込むから金はお前が頼むわ」

「ええ! そんな、酷いっすよ! 安田さんの方が金持ってるじゃないっすか!」

 そんな男の声が後ろで聞こえたが、既に俺はこの安田という男に腕を引っ張られ歩かされていた。俺よりも長いコンパスで歩く安田はどんどん先に行き、俺はつんのめるようにして追うしかなかった。

 がっちり掴まれた腕からは、逃げられそうになかった。











 ラブホテルだろう。その一室に連れ込まれるやいなやベッドに押し倒され、着ていたパジャマをひん剥かれた。元々安物のパジャマだ、強度があるわけがなく、一瞬のうちに破り捨てられた。

「何? お前、トランクスはいてんのかよ。まあ、そういう女もいるらしいって聞いたことあるがよ」

 中に着ていたインナーも下着も全て破かれた。脱がすのが面倒なのか、または逃がさないためなのか。そんなことを裸になった俺は、不思議と考えていた。

 男は息が荒かった。十分離れているはずなのにその鼻息は顔にかかり、臭かった。吐き気のするような臭い。それが顔にかかるたびに、息が苦しくなるのが分かった。

 ぬちゃり。男の舌が俺の胸を這う。まるで味わおうとしているかのようにしつこく、粘着に嘗め回す。気持ち悪い……。

 がさつな手が俺の股間に回り、もう片方の手で男は自分の性器を取り出した。

 逆立つもの。俺を、犯すもの。


 ――犯される。


 その認識が頭を駆けたとき――何かが切れた。

「う……うわぁああああッ!!」

 腕を振り回す。右腕が男の顔面に当たった。喘ぐ声が聞こえる。

 嫌だ……嫌だ……嫌だ……嫌だぁああああ!!

 俺は男だ! 女じゃない! 正也だ! 女じゃない! 犯されるなんて嫌だ! 女じゃない!

「ッなろ……!」

 男の呻く声が聞こえる。

 逃げる。タイル張りの床を抉るように蹴り、必死に足を動かした。

 足が止まらずドアにぶつかった。

 ノブを回して、もたつく。押しても押しても開かない。

 慌てて引くと、開いた。

 逃げろ! 逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!

 廊下を駆ける。必死に駆ける。

 足が痛い。肺が痛い。

 怖い。恐い。怖い。恐い。怖い。恐い。

 段差に足を取られ、蹴躓く。

 起きる。

 走る。

 上下する胸が千切れそうに痛い。

 フロントが見えた。遠くにドアも見える。

 あと少しで逃げられる。

 あと少しで――


 ――ガッ。


 視界が大きくぶれる。

 がっしりとした腕が俺の髪を掴まえている。

 長い髪の先には、男。

 あの、男。

「この糞女……ッ!」

「う……わ……っ」

 やられる……犯される!

 髪を千切らんばかりに頭を振り乱す。

 が、すぐ男の手が俺の頭を掴み――地面に叩きつけられた。

「おらァ!」

「っ……!」

 ぐわん、と揺れる視界に少し遅れて痛みがやってくる。

「ぃ……い……ッ!」

 言葉が出てこない。いつの間にか俺は仰向けにされ、こめかみを鷲掴まれる。

 ぎりぎりと軋む骨。じわじわ溢れる涙が視界を失わせ、指の間から覗く男の顔が見えない。

「調子乗りやがって!」

 がん! もう一度地面に叩きつけられる。痛みと共にくる吐き気。

「俺から逃げられると思うなよ!」

 がん! がん! 幾度となく叩きつけられる。揺れる視界は止めどなく、痛み以上の吐き気が俺を包む。

 視界が赤く染まる。

 ――死ぬ。

 そう悟ったとき、意識が遠くなるのが分かった……。











「おい! 起きろ!」

 つんざくような激しい男の声。目を閉じた暗い視界の中、頬を引っ叩かれる感覚がした。

「――ッ」

 声にもならない声。目を開けると、俺を馬乗りにした男の姿。見れば、男と俺は全裸。場所は……さっきの部屋。

「てめェ、さッきはよくもやってくれやがったな」

 怒り心頭。そんな様子で男は俺を見下している。その目は酷く濁り、半分だけ開かれただらしない口と相まって気持ち悪いの印象しか与えない。

 状況を認識し――逃げようと体を捻った。が、男が重く、まるで動かない。

 振り回そうと腕に力を入れる――しかし、押さえつけられて動く余地をなくした。

 足は――乗られてて動けない。

 八方塞がりだった。

「ぁ……ゃめ……ッ!}

「もう遅ェよ」

 視界に現れる、いきりたった男のもの。

 それが一瞬の間もなく、女のものと化してしまっている俺に―― 一突き。

 ――俺は、犯された。







     *






 俺は女として犯された。それは揺らぎようのない事実で、つまり俺の存在消失を示すこと。俺は男だ。だから“女として犯される”ということはありえないはずなのに、俺は犯された。故に女として犯された俺は俺ではないと示され、存在するのは俺という女だけ。誰も知らない女だけ。

 ――俺は消えた。

 完璧に女のものと化してしまった股間が疼く。まだ入っているような気がする、とはよく言ったものだ。犯されてからしばらくしたというのに、下腹部にはまだ異物感が残っている。ずきずきと時折思い出したように鈍い痛みを発し、例えようのない不快感が身を包む。

 もうどのくらい経ったのだろう。俺が不良に犯されてから。俺が女になってから。そう経ってはいないはずなのに、酷く昔のことのように感じる。

 背にごつごつとした小石を感じながら、空を仰いだ。木陰から見え隠れする、虚しいほどに遠くに突き抜けた青い空。逆光で眩しい太陽も、すごく遠くにある。そよそよと流れた微風が全身を撫ぜたことで、俺が全裸になっていたことを思い出させてくれた。

 俺は捨てられた。散々犯された後のまだ夜が深い頃、俺はあの不良にこの公園まで連れて来られ、捨てられた。服という服は行為の前に破られていたせいで、着るものがない。俺を捨てるときに、ぶつけるようにして投げてきた服の切れ端は、もうとっくに風に流された。

 背中に地面を感じる。大小さまざまな石が触れる肌を痛めつけ、傷つける。じり、と微かに身を動かすたびに食い込んだ石が更なる痛み与えてくる。まるでそれ自身が意思を持っているかのように。

 空は嘲笑う。風は俺を困らせ、地は体を傷つける。全てが遠くに、近寄っては俺を壊す。どれだけ壊しても気が済むことがなく、そして最期まで壊してはくれない。中途半端に壊すということしかしない全ては、俺を見てくれはしない。

 ああ……もう涙も出てこない。全て失った俺は、全てに裏切られた俺は、一体どうすればいい。思えど答えなどあるはずがなく、ただ俺は風に撫ぜられる。風化するのを待つかのように空が見る。

 ――どうして、全て壊してくれないの?

 しゃがれた声で問おうとも、誰一人、何一つ答えてはくれない。誰も、何も俺を見ることなく流れ、半端に壊すのみ。

 全ては壊すことを怖がっている。壊せば傷つく、己が傷つく。故に誰も触れず、故に壊れるのを待つのみ。

 憎しみは湧かない。悲しみも湧かない。何もかも失った俺は、空の人間。

 どのくらい経っただろうか。ただひたすらに青く遠い空を仰いでいた俺の映像の中に、一人の男が現れた。逆光で顔がよく見えない。

「ま……まさ――!?」

 顔は見えども声は聞こえる。その様子から男は慌てているようだった。余程興奮しているのだろう。顔に数滴唾が飛んでくる。

「――や!? ま――しょ!?」

 男は俺に向かって何か言っている。けれどもうまく聞き取れない。それは男の呂律が回っていないせいだろうか、それとも俺の耳が、頭が言葉を避けているのだろうか。

 途切れ途切れに聞こえる男の声は酷くうるさい。思わず耳を塞ごうとしたが、腕が思うように動かなかった。

 突然、男が着ていたスーツのような上着を被せられる。俺が全裸であることを気にしてだろうか。間もなく俺は男に抱き寄せられ、抱え上げられた。

 いわゆるお姫様抱っこ。それを認識するのと同時に、空になったはずの心から感情が湧き出てきた。

 ――怖い。

 恐怖。

 震える。がちがちと音を鳴らす歯を意識した瞬間――動かなかったはずの拳が男の顎を捉えた。

「ッ――!?」

 拍子に男の腕から落ち、強かに腰を打つ。

 構ってなどいられない。

 怯え震える足に鞭を打ち、地を蹴った。

 勢い余ってつんのめる。

 嫌だ――

 視界が闇に染まる。

 ホテルでの出来事がフラッシュバックし、より身を強張らせた。

 犯される犯される犯される犯される――!!

「う……ぁあ……ッ!!」

 男に腕を掴まれる。

 赤に包まれる意識。

 頭を叩きつけられる。顔を殴られる。――殺される。

 やめろ……やめろぉおお!

 振り乱す腕が男の肩に当たる。

 痛覚。

 大した被害も与えず、弾かれた。

 逃げなきゃ――!

 捕らえられた右腕を振り――離れない。

 無理に走ろうと足に力を入れ――激痛が走る。

 うわ……やめ――

「正也!!」

 俺の名を呼ぶ声。

 その声の先を向くと――俺の腕を掴む男。

 ――明人。

「え……ぁ、あ……?」

 声が、言葉がうまく出てこない。

 明人が俺の目の前にいて、それで俺の腕を掴んで……俺の名前を呼んで……。

 刹那、肩を抱かれる。明人の胸に顔を押し付けられ、じんわりと滲む汗を感じた。とくとく脈打つ音さえも、はっきりと聞こえてきた。

「正也……やっと見つけた……」

 ぎゅっ。俺の後頭部を包む、大きな手。俺は再びその手に、明人に抱きかかえられた。

 間もなく、見えたのは明人の家だった。







     *






 朝のことだった。

「じゃあ、行ってくるね。勝手に出かけちゃだめだよ? 出かけたいときは僕のケータイに電話してね。絶対だよ?」

 念を押すようにそう言って、明人は毎朝学校へ行く。両親は共働きらしい。俺が起きた頃にはとうにおず、空になった家に俺一人が残される。

 天井に手を掲げると、明人から借りた大きいTシャツの裾が少しめくれた。未だ見慣れぬ白い天井が遠くにあり、俺を小さくさせた。

 今日も長い一日が始まる。そう考えるだけで億劫で、退屈で、憂鬱。それを察してだろうか。明人の部屋に行けば俺に分かりやすいようにゲームがセットされてあったり、漫画を見やすく陳列されてある。中には遊び方のメモが貼ってあるものもあり、遊びやすいような工夫までされたあった。でも、俺は明人の部屋で遊ぶことはない。

 朝食を食べるためだけに明人に連れてこられるテーブルに着いたまま、息をつく。ゆっくり上体を倒すと、外気の蒸し暑さとは違った、ひんやりとした木の冷たさが頬に染みた。

 首を右に向けると、カレンダーが見えた。もうすぐ七月の中旬。本来なら俺は明人と一緒に学校へ行き、期末テストを受けている頃。それが今では一人テーブルに突っ伏すのみ。

 ――中途半端に壊された。

 壊せるものをあえて壊さず、なぶって愉しむ。心の底から嘲笑い、貶す。誰一人として認められぬ俺は“俺”ではない。

 体を起こして席を立つ。昔来たときよりも大きくなっている部屋を見渡した。開けられた窓からじめっと湿っぽい熱風が吹いている。

 じんわりと汗ばむ、細くて白い手。その手でドアノブを掴むと、俺はその部屋から出て、明人の部屋に向かった。











 夜のことだった。

『ねぇ、明人。まだあの子かくまってるの?』

 明人のベッドを借り、寝ていた俺に、隣の部屋から声が聞こえてきた。明人の母親だろう。数度しか会ったことはないが、たぶんそうだ。続いて明人の声も聞こえてくる。

『ごめん、明日にでも正也のお父さんたちに会わせて……』

 ドア越しに聞く声はくぐもり、最後の小さな声は聞こえなかったが、それでも俺の話をしていることは分かる。神経を耳に集中させると、少しだが聞こえるようになった。

『無理に決まってるでしょ。あんな訳の分からない子を突然正也くんだなんて言われても、普通の人は信じられるわけないのよ? そんなこと信じるのなんて、明人、あなたぐらいなの。分かる?』

『でも、それしか方法が……』

『言い訳はいいから、明日にでも警察に連れて行きなさい。お母さんは行かないからね。自分で何とかするのよ?』

『い、嫌だよ! 何で正也を警察に連れて行くんだよ!』

『正也くんじゃないでしょ。あの子は知らない子なの。明人が勝手に正也くんだって勘違いしてるのよ。突然友達が行方不明になったからって……』

『ち、違う! あれは絶対正也だよ!』

『何でそう言いきれるの?』

『だって、あの時僕に事情を説明してくれて……』

 暗い。部屋を見渡すと、窓から差し込む月明かりだけが僅かな照明。ぼんやりと輪郭を濁す部屋の中、俺は独りぼっちだった。











 昼のことだった。

「これが本当にうちの正也なんですか?」

「らしい。信じられないけど、でも確かにあの時洗面所に……」

 次から次へと俺の前に来ては顔を覗きこんでいく二人の男。親父。兄貴。見覚えのあるやつらが次々と俺を物珍しそうに見てくる。

 一人は怪訝そうに。一人は確かめるように。俺の中の何かを見んと遠慮ない視線を降り注がせる。その視線を振り解こうと上を見上げると、いつもの天井“だった”もの。俺の家。もうそこには、俺の居場所はなかった。

「信じてもらえますか?」

 明人。俺の隣に座り、親父たちと話している。内容は俺についてのこと。今まさに俺を正也だと証明させようとしている。もちろん、根拠など何一つ持っていない。

「そんなこと言われても急には……」

 首を傾げ、何とも信じられないといった様子なのは親父。俺の真正面に座り、どんと構えている。

「でもよ、あんとき確かにこいつがいたんだぜ? 状況から考えればこいつが正也ってのが納得いくんだけど……」

 その横に座り、明人の意見を聞き入ろうとするのは兄貴。言動から冷静というよりも、今目の前にある可能性にかけたいという切羽詰った様子。それだけ俺を探していたのだろうか。

「でも正也なんです。信じてください!」

「しかしなあ……」

「まあ、親父が納得できないのも一理あるし……」

 三人は延々とこの話を続けている。当事者である俺をただ席に並べるだけ並べ、中心には置こうとしない。明人が必死に進めるが、親父が拒み、兄貴は決めかねている。

 誰が今の俺を見ているのだろうか?

 親父は今の俺を否定している。兄貴は明人の意見に通じているようだが、信じているわけじゃない。それは見れば分かる。消去法で考えた挙句の、仕方なしの結論だ。

 例えどれだけ明人が説明しようとも、親父たちは一切の納得をしないだろう。もし俺を受け入れたとしても、それは折れたということ。真に信じるわけでもなしに、ただ可能性として俺を認めるだけ。

 それに、明人には証拠というものが何一つない。それは当事者である俺にさえないものであり、当然明人が持つはずがない。だからこうして口先のみで信じさせようと、俺と親父たちを引き合わせようとしている。

 明人が俺の肩に手を回し、俺を親父たちに見せ付ける。

「今はこんな女の子みたいな容姿ですけど、あなたたちも正也がいなくなった朝にこの子を家で見たんでしょ?」

「ああ……」

「じゃあどうして信用してくれないんですか? 一番可能性があるのはこの子でしょ?」

 明人も同じだ。俺が証拠を持ち合わせていないのだから、明人が俺を信じきれるわけがない。だから明人は可能性としてだけ俺を信じ、上っ面で俺を見ている。

 誰が本当の俺を見てるのだろうか?

 遠く離れてしまった天井。見下すように大きくなった家具。全てが全て俺の居場所をかき消す。見覚えのあるものさえ、全て違う。

 途方もない虚無感。捻じ曲がる距離感。

 この二人はいつも一緒にいた。毎日一緒にいた。家族というくくりに包まれていた俺は、ただの抜け殻。

 たった一つの存在さえ失う。

 親父は遠くにいる。もう二度と届かない位置に行ってしまった。

 兄貴は近くにいる。でも触れられない。触れようと手を伸ばしても、するりと抜けてしまう。

 一つの出来事。非常識な出来事。

 少しは期待していた。もしかしたら、と思っていた。――でも、所詮はこうなった。

 俺は誰だ?

 俺は正也なのか?

 俺は本当に正也なのか?

 男だったのか?

 女じゃないのか?

 親父たちと家族だったのか?

 明人と親友だったのか?


 ――本当にそうなのか?


 証拠は俺の記憶だけ。ただの記憶だけ。

 正也が生きていた証はある。

 俺が生きていた証はない。

 誰も信じてくれないなら、それは正也ではない。

 否定された俺。

 肯定される正也。

 俺は誰だ?

 誰が俺だ?


 ――誰が正也だった?


 映る男たちの視線。

 誰も俺とは見てくれない視線。

 …………。

 俺は前より幾分か大きくなった席から立ち上がり、踵を返すとすぐさまその場を後にした。











「ま、正也? どうしたの?」

 どたどたと激しい足音がしたかと思うと、間もなく明人の顔が俺を覗いてくる。頭一つ分も身長差があると自然に視線を合わせようと顔を近づけてくる。わざわざ腰を曲げてまで俺の視界に映りこんできた明人を一目見、また俺は歩き出した。

「ごめんね、正也。なんか気に障ることでもしちゃった?」

 俺の歩調は決して速いものではない。それにこの体は前の体よりも断然にコンパスが短く、故に明人よりも遅い。苦もなく横についてくる明人は、俺の機嫌ばかり気にする。

 公園で明人に発見されてからもう五日目だ。明人の話によると、俺が放浪していたのも五日。彷徨っていたときと同じ時を過ごしたのにも関わらず、体感ではそんな気が一切せず、今日もまた沈みゆく太陽と、右足からくる鈍く淡い痛みだけが時の経過を伝えてくれる。

「ごめんね。僕、何にも出来なくて……」

 謝り続ける明人は、小さな俺より小さかった。


 ――――。

 視界の隅に“蛇”がちらつく。嘲笑うかのように舌をちょろちょろと出す。

『大丈夫?』

『壊れてないの?』

 ぶれる。

『生きてる?』

『死んでないの?』

 ざわつく。


『夕日が綺麗だよ』

 ――ああ、綺麗だね。









     *








 どうして誰も俺を壊そうとしないのだろう?

 どうして俺は中途半端にしか壊れされないのだろう?

 誰が? 何のために?

 突然女になってしまった俺は、もう俺ではない。

 俺と名乗ることの出来ない俺は、ただの女。

 人は虐めて壊す。

 空は嘲笑し壊す。

 全てが全て俺を壊しにかかり、とどめは刺さない。

 どうして刺さないの? 何で残してしまうの?

 中途半端に残された心は痛覚を伴って存在し続ける。

 誰かが壊すまで動き続ける。

 死ぬまで――

 殺されるまで――

 壊すのは誰? 壊してくれるのは誰?

 親父たちはもう、俺を見てくれない。

 明人は壊れた俺を見ているだけ。

 ――誰が“俺”を壊してくれる?













「ま、正也!? 何してるの!?」

 帰ってきて早々、明人は慌てふためいて俺に走り寄ってきた。勢い余って俺にぶつかる。どんと押されて、“腕に刺さったナイフ”が少しずれた。

「腕に、蛇が」

 ほら。そう言って“ナイフが突き刺さっている蛇”を腕ごと明人に見せてやる。それほどグロテスクな蛇だったんだろう。ナイフで突き立ててやった蛇を見て、明人の顔が青くなっていった。

 それはそうだろう。今の俺でさえ気持ち悪いと思って刺したのだ。感性豊かな明人からしてみたら相当すごいに違いない。

 刺し殺してなお、ぴくぴくと動き続ける気色の悪い蛇からナイフを抜き――血が噴き出す。しゅー、と俺にも聞こえるような音を立て、舞った。

 少し痛いかな。そう感じた刹那、ものすごい勢いで明人に腕を押さえ込まれた。腕の付け根部分をきつく締められ、ナイフの刺さったあとに手の平を押し当てる。そっちの方が痛い。

「どうしたの?」

「どうしたのじゃないよ! 何で……何でリストカットなんてしてるんだよ!?」











「もう……何で……っ」

 泣きべそをかきながら明人は無理矢理俺を椅子に座らせ、“蛇を殺した痕”に包帯を巻いている。

「だから、蛇が腕に……」

 そう言いかけた俺を、明人はきつく睨んでくる。涙を浮かべた瞳は濁り、零れる。

「蛇なんて、いないのに……」

 巻き終えた包帯の端をテープで止めた明人は、ゆっくりと立ち上がった。視線が上に行き、少し痛くなるほど首を持ち上げたら明人の顎が見えた。

 ふるふると小刻みに震えている。その様子を認めた刹那、明人が腰を曲げて座っている俺に視線を合わせた。両手で俺の頬を挟みこみ、言い聞かせるように囁く。

「お願いだから、もうこんなことしないで……」

 明人の手はそのまま俺の肩に回り、抱き寄せられた。まるで大事なものを抱えるかのように優しく、大きく包み込まれる。

 とく。とく。ゆっくりと流れる明人の脈が手に取るように分かる。頭上に水滴が数度零れ、俺の頭を濡らした。

 窓から覗く惜しむように沈む太陽を背に、明人はいつまでも俺を放してくれなかった。







     *






 あれから、刃物などは俺の手の届かない場所に置かれることになった。包丁やナイフをしまう引き出しにはしっかりと鍵が取り付けられ、その鍵は明人と明人の母親が常備している。

 しかし刃物をしまおうとも、蛇は毎日のように現れた。昼下がりになると蛇は現れ、体を蝕む。ゆっくりと、着実に体を這い回る蛇が俺をなぶり、不快にさせる。

 一度、明人の机にあったはさみで突き立てたこともあった。でもすぐに明人が帰宅してきて、今度は怒られた。次の日から、先端の尖ったもの全てが見当たらなくなった。

 暇で退屈な昼は、ただ蛇と戯れる。初めは気持ち悪かったが、慣れたらそうでもなかった。しゅるしゅると這い回るだけの蛇は決して噛んだりせず、ただ腕や足を這う。じゃれているのようなものだと思うと、少し可愛くさえ思えた。

 でも、その蛇は明人が帰ってくるといなくなってしまう。まるで察しているかのように、明人が帰ってくる数分前にはどこかへ行ってしまうのだ。

 今日もまた、腕の蛇が消えた。もうすぐ明人が帰ってくるのだろう。

 明人は、最近悲しい顔しか俺に向けてくれない。まるで何かをなくしてしまった顔。明人は何一つなくしてなどいないのに。

「ただいま……」

 帰ってきた。明人は帰宅後すぐに俺のところまでやってくる。心配した様子で覗き込んだあと安堵の息をつくから、たぶん俺を心配しているのだろう。それほど、蛇を殺したのがいけなかったみたいだ。

 もうすぐ部屋のドアを開けて覗き込んでくるだろう。そう予測していたのだが、なかなか明人が来なかった。ドア越しになにやらがちゃがちゃといじっている音が聞こえる。

 どうしたのだろう? そう思って部屋から出ると、目の前に明人が佇んでいた。

「明人……?」

 ゆっくりと問いかけると、俯いて見えなかった明人の顔が見えた。

 ――泣いている。

「ごめんね、正也」

 泣きながら俺に微笑む。

「僕のせいだよね……。僕のせいで、正也がそうなっちゃったんだよね……」

 明人が振り上げた手には、逆手に包丁が握られていた。







「僕も、すぐにいくからね」























 あは。

 やっと壊してくれた――




















































『二十五日午後六時ごろ、日向さん宅で息子の明人くん(十六)と身元不明の女性一名が変死体となって、母親の真里子さん(三十八)に発見された。学生服姿のまま明人くんの腹部に鋭利な刃物が刺さっていたことから、県警は、明人くんが衝動的に女性を殺害したあと自殺した可能性が高いものと見て捜査を進めている。現状ではその女性の身元ははっきりしておらず――』























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