俺はあいつに千円貸している。
それは突然のことだ。もうじき梅雨が明け、一昔前より幾分か紫外線量が多くなった日差しに当たりながら暮らす日々が訪れるのかぁ、とほんのり憂鬱になりかけていたある日、何の前触れもなくあの女は俺の前にやってきた。気が早いのか、もう夏服を着て意気揚々としている女。その長い髪を揺らして、俺の机に手を置く。
「千円貸して!」
何迷うことない真っ直ぐな眼差し。それが俺を突き抜け、心を刺した。やっべ、軽く惚れそう。なんて思ったりしてたりしてなかったりでなんだったり。
さらに、こう付け加える。
「うちの家族がピンチなの!」
彼女――美菜が言うには、俺から千円借りたら命が救われるとのこと。どうも、親の作った借金があと千円で返せるのだそうだが、今そのたった千円が足りないそうだ。しかも、その返済の期限が今日とのことで、あと一日でも過ぎれば利子が何倍にも増えて返せなくなってしまうらしい。
千円ぐらい親戚に借りるとかしろよ! とか、どんな高利貸しだよ! とかいろいろ突っ込みどころはありすぎて困ったが、俺は貸した。
俺は千円を貸した。
だってそうだろ? たった千円で人を救うことが出来るのだ。それに、こんなにも懇願している相手を前にして貸さないのは男じゃない。下心あるだとか、そんなことは気にしちゃいけない。しちゃだめなんだ。
長財布から、心なしか素敵笑顔に輝く野口さんを取り出し、美菜に手渡す。軽く手に触れてどきどき思春期を堪能しつつ、女の手って細くて綺麗だなぁ、とか思いつつ顔を見上げると、ニッコリとした心なしどころか心ありありの素敵笑顔で美菜が微笑んでいた。
「ありがと」
笑顔って素敵だよね。
そして、その日から一ヶ月過ぎた。今やもう日差しなんてガンガンに俺たちを照らして、「ほら、俺なんてこんなに日焼けしちゃったぜ」なんて男どもはくだらない日焼け自慢をしている季節。
「そろそろあの時の千円返してくんない?」
美菜が一人図書室で本を読んでる時にそう言うと、彼女は俺を見上げこう言った。
「ごめん、実はまだ……」
聞くと、借金を返すことには返せたらしいのだが、元々そんな借金を作るような親だ。ろくな収入源があるわけでもなく、借金を作るまではいかないにしろ、収入らしい収入がなく、家計が火の車らしい。だから、まだ俺の千円を返せないのだそうだ。
「ごめんね」
まあ、気にすんな。今度返せばいいさ。そう言って俺は図書室を後にした。
も、もちろん、胸の前に両手を合わせて「ごめんねっ」と可愛らしく謝られた時に、「あっれ、こいつケッコー胸あんじゃね?」とか、寄せられた美菜の胸にドギマギなんてしてない。断じてしてない。
さらに一ヶ月過ぎ、二ヶ月目。あつはなついねー、なんてギャグもまかり通ってくれないほどジリジリ照りつける日差しが俺たちの体力気力を根こそぎ奪っていく、もっとも勉学に向かない季節。
「そろそろ千円いいかな?」
今から帰ろうと下駄箱に上履きをしまっている美菜に話かけると、一瞬彼女の時が止まった。え? という顔をしたかと思うと、その残像を残すこともなくすぐに笑顔に変わる。
「あー、ごめんごめん。実はね……」
どうもまだ千円を返せる状況じゃないらしい。父親が競馬にハマったらしく、初挑戦で万馬券を当てたのはいいものの、それ以来めっきり当たりはこず、見る見る間に金が減っているのだそうだ。
ふむふむ、そういうことならしょうがないな。うん、しょうがない。
と、当然、美菜が靴を履こうと前屈みになった時にチラリと見えた胸の谷間に鼻の下を伸ばしたわけじゃないんだからな! 勘違いするなよ!
さらにさらに一ヶ月が過ぎ、三ヶ月目。もう夏休みも終わり、またこれから学期が始まるのかぁ、と目に見える形でだらける休みボケ野郎どもがクラス中に横行する季節。
「あん時の千円、まだ?」
これから理科室に向かおうと机の中から教科書を取り出している美菜に言う。
「えーっと……」
ぽかーんとした眼差しを俺に向けたまま止まる時。
その十秒後。
「あー! うんうん。そう、千円。千円千円。」
ポン、と手を打つ。
「ごめんねっ、あれはまだ……」
どうしてもだめらしい。なんで? と聞いたが、とにかくだめなのだそうだ。
うん、なら仕方ないな。とにかくだめなら仕方ない。うんうん。
べ、別に手を握られてしょんぼりと儚しげに「ごめんね……」と言われてズキューンなんてハートを打ち抜かれてないんだからな! 嘘じゃないぞ! ホントだぞ!
さらにさらにさらに、さらに時は過ぎて四ヶ月目。人は読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋などと称し、己の欲望のままに謳歌することが黙認されつつある、そんな素敵な季節。
「千円まだ?」
さてさて、どれにしましょうかなぁ? と言わんばかりに図書室のマンガコーナーを陣取って選んでいる美菜。その真後ろに立って聞くと、美菜は俺の顔を見て呆けた顔をした。
「え、千円? なんの話?」
うんうん、そっかそっか。覚えないのか。それはしょうがな――くねぇよッ!
「ちょっと待て!」
「待つ」
「そうでなくて!」
何だこの女は! ちょっと待て、という突っ込みに対して気をつけの体勢で「待つ」だと!? シュールにもほどがあ――って、突っ込みどころそこじゃねぇ!
つうか覚えてないって何事だゴラ! つうか先月の思い出すまで十秒かかったあれはなんじゃそりゃ! つうか先々月の一瞬のぽかーんは可愛いぞゴルァ! つうか話ずれてんぞ俺! つうか気付くのも遅すぎるんだぜ俺!!
「千円返せよ!」
怒鳴り声が図書室に響いて「あ、やっちまった……」なんて声を上げたことに後悔しようかな、と思いつつ睨むと、美菜は俺にニッコリ笑った。
「やだ」
その微笑み、まるで子悪魔――いや、悪魔だ。こいつ、ゼッテー悪魔だ。
にしし。なんのキャラだかよく分からない意味不明な笑い声を出し、美菜は俺の脇の間をすり抜けて図書室から駆けて行った。
あ、意外と俊敏なんだなぁ。もっと文系の子だと思ってたけど、意外と――って、
ちょっと待てぇぇぇえええええッ!!
「待つ」
「だからそうじゃねぇよ!」
あれ以来、美菜のやつは俺を見るたびに小馬鹿にするように笑ってくる。
え、なになに? キミは四ヶ月も騙され続けてたの? ちょーダサーい。ありえないんですけどー。めっちゃキモ。うわぁ、ひくー。
まるでそう蔑むかのような目線。後半、一昔前のギャルっぽくなってるあたりが俺クオリティ。
さて、今日もヤツのところへおもむく。ちょうど校門から出ようとしているところだ。そこへ、俺が呼び止める。
「ちょっと待て」
「待つ」
そう言うと止まってくれるので、意外と便利だったりする。
「お前、そろそろ千円返せよ。いい加減家計も大丈夫なんだろ?」
「えー、まだちょー無理だしぃー。ってゆーかー、ちょーだめだめなんですけどー」
日本語としてなってないとか、時代が古すぎるとか、さっきの俺の想像の通りだったりするとか、いろいろ突っ込みたいところではあるが、突っ込んだら負けのような気がしたから突っ込まない。決して、セリフとは反してさりげなく上目遣いに見てきた美菜が可愛いとか思ったりしてない。間違いない。
さて。と言わんばかりに一呼吸を置く美菜。俺から少し距離を取り、アキレス腱を伸ばしながら俺に言う。
「家計が火の車っていうあれ、ホントは嘘だから」
カーオブザファイアーが嘘ですと?
「そもそも、うちの親って公務員だから滅多にお金に困ることなんてないし、っていうか借金してるような家が高校に行けてると思う?」
ああ、そういえばそうだなぁ。借金なんかしてたらここの学費払えてるわけないし。うんうん、合理的合理的――って、なんじゃそりゃあッ!!
「ちょ、おま――」
文句言ってビッシバッシ。どんどん責め立てバッシビッシやろうとしたら……走ってた。
美菜は走ってた。
え、あれマジ走り? って聞きたくなるぐらいものすごいスピードでローファーを鳴らしながら俺の目の前から駆けて行った。
「ばーかばーかっ」
赤い舌を出して俺を蔑んでいた。
あんのクソ女ぁぁぁああああああああああッ!!
「おい」
「お、おとっちゃんは渡さないよ! あんたになんか渡さないんだから!」
「おとっちゃんって誰だよ!」
これから学校だよぉ。めんどくさいなぁ。今日も体育あるしぃ。はーぁ。あの教師、目付きがエロくていやなんだよなぁ。すごく気持ち悪いしぃ。そう文句を垂れ流さんばかりにとぼとぼと登校してくる美菜。学校から目と鼻の先のところで、俺は待ち伏せていた。す、ストーカーじゃないんだからね! 千円返してもらうためなんだからね!
俺の存在に気付くや否やソッコーボケに走る美菜のお笑い精神に拍手喝采を送りたいところだが、送ったところで俺の千円は返ってこないのでしない。してあげない。
「なんでしょーか?」
「千円」
「あげないよ!」
「ちげーよ! 返せよ!」
「やだー」
そう言って逃げようと美菜が走り出す。
あ、逃げられた! なんてドジはもうしない。俺だって学習するのだ、人間だもの。華麗すぎてため息しか出ないような素敵すぎるステップ(ただのダッシュ)で美菜に追いつくと、その腕を掴む。思いのほか腕が柔らかくて、ついつい女の体の神秘について小一時間考え込みそうになったが、かぶりを振る。
「千円返せって言って――」
腕を引いて無理矢理話を聞かせようとした俺。その俺の声を、金切り声が破った。
「キャ――ッ!!」
美菜だった。
ぶんぶん腕を振り回してひたすら俺を殴ってくる。
いてて、いてぇなコンチクショウ。なにしやがるこの腐れアマが。そう文句言おうとする間もなく、美菜が叫んだ。
「何すんのよ、この変態! 悪魔! 鬼! 痴漢! 盗撮魔! 露出狂! バカ! アホ! ドジ! マヌケ! 女の敵! 男の敵! 人類の敵! 人々に怨まれ憎しまれながら死にやがれ!」
後半のそれは一体なんですか!?
なんだなんだ? そういった様子で集まってくる人の山。通称野次馬。どれだけ好奇心旺盛なのか、見える限りでも老若男女全て揃ってる。オールマイティな品揃えだ。
それらから向けられる視線。視線。視線。痛いってレベルじゃねぇぞ!
ねね、警察呼んだほうがよくない? やばいよ……誰か助けてあげようよ。明らかに聞こえるほど大きな声で囁きあってる野次馬連中。
ふっ、甘いぜ。今時の警察なんか当てにならねぇ。事件発生からしばらく経って到着することなんてザラもザラ。つまり、それまでの間に、この“突然人を犯罪者に仕立て上げて周囲の注目を集めるのが大得意なクソ女”から千円取り返して、すぐにキサマら野次馬どもに弁解すればイッチョ解決。俺ってばすげぇ!
どれだけ叫んだところで警察は来ないんだよォ! フッハッハッハッハ! どこぞの大悪役顔負けの悪役なセリフで叫び蔑み続ける美菜を笑ってやろうと大口を開けると、その口はあんぐり口に変わった。
――ガチャリ。
え? なになに? なんで俺の横にごっつい警官が二人もいるの? どうして俺は手錠をつけられてるの?
見上げなければいけないほど背の高い警官二人が俺を挟んでいる。俺の手には手錠が。そしてそのまま布を被せられて、署まで連行……って、ちょっと待てッ!!
え、なにコレ? 俺の妄想じゃねぇよ? めちゃくちゃ現実だよ!? どういうこと!?
見れば、警官の一人が胸のトランシーバーでどこかと連絡を取っている。
「午前七時五十分、暴漢容疑で男を逮捕。繰り返す――」
えええぇえぇぇえぇぇぇぇえええええッ!?
ちょ、ま……な、なんでッ!? 今にもそう叫んで不運な少年を演じようとする俺の視界に、飛び込むほくそ笑み。
美菜の笑み。
な……っ。言葉にならない言葉をあげることもなく、美菜は俺にケータイを見せつける。そして、指で110のところを押す振りをして、今度はその指で自分を指している。
えぇと、つまり……「私が前もって通報しといたんだ。えへへ、すごいでしょー?」だって?
ふむふむ、なるほどなるほど。俺が待ち伏せしていることを予測して、先に警察を呼んでおく。それからいつも通りにふざけて俺を挑発して逃げれば、いつもとは違って成長した俺は腕を掴む。その瞬間に警察がくれば、もう俺はお陀仏と。なぁるほど。そこまで読めるなんて、美菜のやつって結構頭回るんだなぁ。すげぇ――
って、ふざけんなぁぁぁぁあああああああああああああッ!!
「キミ、来なさい」
え、あ、ちょ……。
どう見ても俺のに倍近くある太さの腕が俺を引っ張る。ずるずる引っ張る。ずるずる引きずられる。
もちろん、その後は警察署まで連行された。
十七歳の秋、俺は初めて罪を犯した――いや、犯してねぇよッ!!
「おい!」
ダンッ! 美菜の机を強く叩きつける。おかげで手がじーんと痺れたけど、まあいい。
「な、なに? なにか用?」
怯えたように俺を見上げる美菜。
放課後。友達のマサの名前を借りて美菜に教室に待つように指示しておいた。もちろん下駄箱にラブレター調で「放課後、教室で待ってます。byキミのマサ♡」と手紙を入れておいたあたりからして、俺はひっじょーに乙女心を分かってる。うん、よぉく分かってる。
美菜は当然のように「マサくんは?」と聞いてきたが、無視だ無視。虫三匹で蟲だとかいうギャグを思いつけた俺は天才だ! ……あ、ごめん、嘘。
「お前、よくもやってくれやがったな!」
もう一度、バンッ! と机を叩きつける。二回目は予想以上に痛くて泣きそうになった。
「な、なんのことかなぁー?」
ぽりぽりと頭をかく。
「とぼけるな! あん時だよあん時!」
「えっと……ああ! キミが読んでる本のしおりを五ページ前に戻したこと怒ってるの?」
「マジで!? だから妙に読んだ気がすんなぁ、って思ってた――って、ちげーよ! それもそれで怒るべきだけど、今は違うの!」
つうか、それは軽いいじめになると思うんだ。
「千円だよ! 千円! 昔は夏目漱石、今は野口英世のあれだ!」
「え? さらにその昔は聖徳太子だったっていうあれ?」
こいつが嫌にシュールなのは気にしないでおく。
「それだ、それ! 十人の話をいっぺんに聞けるそいつだよ! っていうか、千円返せ!」
「えっ、で、でも……っ」
今までのノリとは裏腹に身じろぎをする美菜。
なんだこいつは。今さら千円が惜しくなったのか? ふざけるな、と声を大にして言いたい。叫びたい。叫び続けて返してもらいたい。
だいたい、俺はこいつのためにものすごい被害に遭ったのだ。警察署に連行されてからあれやこれや調べられたり「イヤーン♪」な展開になったり、取調室で刑事さんが俺を諭そうとカツ丼出そうとして周りの警官に止められてたり(本当は出しちゃいけないらしい)、無実だと分かって親父に引き取られにきたときに「バッキャモーン!」と四の五の言わさずビンタされたり。軽く家族愛と現実逃避度が深まったり高まったりしちゃったんだぞコノヤロウ。
ガタッ、と席から立ち上がる美菜。両手を胸の前にやって、心なしか震えてるように見えた。――え、震えてる?
そのまま数歩下がる……っと、危ない。今日こそは逃がすわけにいかないから、しっかりと両手を広げて美菜の前に立ちふさがる。あぶねーあぶねー。危うく逃がすところだったぜ。さ、もう逃げられねぇぞ、と言おうとして、俺は二の句を継げなかった。
美菜の肩が小刻みに震えている。顔はうつむき、鼻をすすっている。
もしかして……――泣いてる?
「ご、ごめんね……っ」
聞こえるかどうかの小さな声。それが誰もいなくなった教室に染み渡る。
え、なになに? なにこのいきなりすぎる展開。ご、ご都合主義なんて認めないんだからね!
「ホントはね、千円なんて、すぐに返したいの……。返してあげたいの……っ」
ぐすっ……。
続かぬ言葉を必死に口に出し続ける。どうしてだろう。空気にのまれているのか、いつもいつもうっとうしくてしょうがなかった美菜が、すごく儚く見えた。
じきに暮れゆく夕日が教室の窓から差し込み、教室を、美菜をぼうと濁している。
「でも、ね……っ」
美菜の言葉、一つ一つが静かに響く。
「でも……千円、返しちゃったら……もう、キミと関われることなんてなくなっちゃう、って、思って……っ」
ひっく。一つのしゃっくりを置き、美菜は口にした。
「私、キミのこと……好きだったんだ……っ」
な、なんですと?
「でも、いつも一緒に話してたりしたけど……でも、キミは他の女の子と話してることも多くて……男の子と遊んでることも多くて……っ」
そうだ。こいつに千円を貸す前、俺はここまでこいつに構っていたことなんてない。
美菜のことはただ一人の友人として見ていたし、ただの一人の友人としてしか見ていなかった。
「それで、こうして千円借りれば、キミともっとお話出来るって、思って……もっと構ってくれるって、思って……っ。だから……千円、返しちゃったら……もうキミと……っ」
真の男なら、こういう時は黙って抱いてやるものだろう。だが、俺にそんな勇気があるはずがない。
分かるだろ? 千円ごときにここまで必死になって女の子を追いかけ回して、怒鳴って、泣かせて……。「えっと……」から始まる言葉しか吐いてやれない自分が、ひどくみじめだった。
「その……なんだ。怒鳴ったりして悪かった。ほ、ほら、お前がそんなに思いつめてたなんて思ってもみなくてさ……」
俺のことが好きだったなんて初耳だ。
「それで……その……千円なんてなくてもさ、付き合ってやるからさ。あ、もちろん千円返せって意味じゃないぜ。千円なんかどうでもいいしさ」
こんな時にまで「千円返せ」なんて言うほど俺はバカじゃない。空気も読める。大事なことも分かる。
「ホントに……?」
まだ美菜はうつむいている。だが、その声は少しながら弾みつつあった。
「ああ、ホントだ。千円なんかなくっても大丈夫だ」
「千円、どうでもいいの……?」
「ああ、気にすんな。そんなもん、くれてやる」
――ニヤリ。
微かに美菜の口元が歪んだ。
え? そう思う刹那、美菜はその場にいなかった――否。その場から駆けていた。俺の脇をすり抜け、バタバタと激しく上履きで教室の床を鳴らし、教室のドアの前にいた。
そして、長らくうつむいていた顔が上げる。
その表情は、なんとも言えぬほどムカつくニヤニヤ笑顔だった。当然のように、涙の跡なんて見て取れなかった。
「へーんだっ。だーれがお前のことなんか好きになるか! ばーかばーかっ!」
あっかんべー。小さな舌を出して右目をむくと、ドタドタと激しい音を立てて美菜は廊下を走っていった。
お……
俺のトキメキを返せぇぇぇええええええええええッ!!
あ、それと千円も。
未だに俺は千円を返してもらっていない。
「え? 千円? なにそれ、おいしいの?」
「この間くれるって言ったじゃーん。今さら惜しくなったって無駄だよ〜」
「うっさい、けーち。千円ぐらいくれたっていいじゃんかぁ」
「ねぇ、いい加減あきらめない? 見苦しいよ?」
「ぷっ、キモ」
もう半年。季節はもうすぐ冬に移ろうと落ち葉を散らし、ふと感傷に浸ってもいいような気がしてきてしまう危うい季節になった。
あいつはもう冬服に着替えている。
今日も俺は、美菜の元へ請求を急いだ。