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■新島繁・年譜
1901.11.3 山口県に生まれる。本名野上巌。
1919 県立山口中学を4年修了、山口高等学校文科乙類入学。
1922 山口高等学校卒業、東京帝国大学文学部ドイツ文学科入学。入学と同時に生田長江に師事。
1923 村田綾子と結婚。
1926 大学卒業、日本大学予科教授に就任(ドイツ語担当)。
1929 初めて新島繁の筆名を使う(雑誌「尖兵旗」に訳詩を寄稿)。プロレタリア科学研究所に参加。
1930 新興教育研究所に参加。
1931 思想上の理由で日本大学を退職させられ、古書店「大衆書房」を開く(杉並区高円寺)。
1934 「唯物論研究」に寄稿開始(創立当初からメンバーになっていた)。
1936 唯物論研究会総会において幹事となる。
1937 「社会運動思想史」(「唯物論全書」)を著わす。
1938.11 唯研事件により検挙、1940.4起訴されるまで各警察署で「たらい回し」にされる。
上掲の他1929年以後の加入団体 プロレタリア作家同盟、ナップ、明治文学研究会、戦闘的無神論者同盟など。
1940.4 起訴、未決拘留入獄、12月保釈出獄。
1941.6〜1945.5 駐日ドイツ大使館翻訳室嘱託。
1945 日本共産党に入党。
1945.10 自由懇話会事務局員(兼理事)。
1945.12 民主主義教育研究会創立に協力。
1945.12〜1946.6 全日本教員組合(全教)中央委員。
1946.2 日本民主主義文化連盟参加。
1946 日本民主主義科学者協会設立に尽力、幹事。
1948.4〜1950.8 杉並区民生委員。
1948〜1951 文部省科学助成金の支給を受ける、研究題目「欧州古典作家の社会思想史的研究」。
1951.5頃 「人権民報」編集長。
1952.2 杉並区長選挙立候補。
1952 破防法反対のために杉並文化人懇談会を組織。
1952.11 新居格記念館を起こし、新居格文庫3000冊を杉並区立図書館に寄贈。(新居格氏は文化人区長といわれ、1951年11月死去)
1952 破防法反対のために杉並文化人懇談会を組織。 その他戦後主な関係事項 自由大学(創設事務局長)、民報、人民日報、新日本文学会(中央委員)、人民文学、日本文学協会、日本国民救援会、著作権組合。
1954.1.24 妻綾子死。
1955.3 都議会議員立候補を中途辞退して神戸大学に赴任、文学部講師。
1957.12 同教授に昇任。
1957.12.19 肝臓癌のため永眠。12.21自宅において告別式。
1958.3.18 青山墓地解放運動無名戦士の墓に合葬。
1958.3.30 杉並区公民館において文化葬。
■著書・訳書
1.アマデウス・ホフマン著、野上巌訳『天国と地獄』アルス社、1925
2.ダンテ著、生田長江訳『神曲』(註解を担当)新潮社、1929
3.ダニエル・アレヴィ著、生田長江・野上巌共訳『ニイチエ伝』新潮社、1930
4.ソヴエート教育研究会訳(翻訳責任者新島繁)『ソヴエート同盟に於ける文化革命』双文閣、1931
5.ウイットフォーゲル著、水野力・新島繁・久米誠訳『人類社会発達史』上巻、大畑書店、1934
6. ウイットフォーゲル著、新島繁訳『市民社会史』双文閣、1935
7.フランツ・ボルケナウ著、横川次郎・新島繁訳『近代世界観成立史』上巻、双文閣、1935
8.『社会運動思想史』(唯物論全書14)三笠書房、1937
9.クルティウス著、野上巌訳『バルザック論』河出書房、1942
10.エルンスト・クリーク著、野上巌訳『全体主義教育原理』栗田書店、1943
11.共訳『シルレル詩全集』白水社、1944
12. ウイットフォーゲル著、新島繁訳『資本主義前史』解放社、1946
13.『現代思想の相貌』社会教育連合会、1949
14.『時代の青春―新しい人間形成のために』伊藤書店、1948
15.自由懇話会編、新島繁司会『くにのあゆみを検討する』自由懇話会、1947
16. 新島繁編著『社会科学文献解題』東峰書房、1947
17.『現代ヒューマニズムの世界』伸展書房、1950
18.『ジャーナリズム』ナウカ社、1950
(「近代」新島繁追悼特集号の著作目録には、このほかに「単行本中の分担執筆」27点、「雑誌掲載論文・評論・随想・詩・短歌・書評・その他」217点、「新聞掲載の評論、書評、その他」108点があります。)
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■追悼文のタイトル(執筆者)は次の通り
友をしのぶ(矢川徳光)、二十年間のあれこれ(江森盛弥)、新島繁─その精神の歴史の粗描(小島輝正)、中学時代の野上君(篠田一人)、あの頃この頃(能智愛子)、野上先生を憶う(神達八郎)、新島繁回想─日大時代のことなど(藤原春雄)、新島繁君(平野義太郎)、文化活動家としての新島繁君(舟木重信)、新島君の霊に(蔵原惟人)、思い出断片(本田喜代治)、立派な知識人(高山洋吉)、小さな思い出(壷井繁治)、一九三〇前後(松本正雄)、永遠の青年新島繁─農民運動との関係その他(渋谷定輔)、思い出(甘粕石介)、新島さんと教育運動(クロタキチカラ)、教育運動家としての新島繁(池田種生)、唯研時代の新島君(岡邦雄)、独文学者としての新島さん(井上正蔵)、新島さんのお仕事で書きとめておきたいこと(高橋しん[石へんに眞]一)、民科芸術部会での新島さん(松山映)、人権民報編集長時代の新島氏(難波英夫)、新島君の地域活動について(橋本良一)、追想(野中春水)、新島さんを思う(阿部真琴)、野上先生と私(森田哲郎)、新島さん(永積安明)、新島さんのこと─大阪民科・神戸日文協での(小松摂郎)、先生の授業と研究会に出た学生の記(小林一三)、教室での野上先生(森公児)、ああ新島先生(小松とき子)、新島さんと生田長江(猪野謙二)、社会思想家としての新島繁(西村勝彦)、文芸理論家としての新島さん(一條重美)
このなかのはじめの3編、矢川徳光、江森盛弥、小島輝正の3氏の追悼文は長文であり、新島繁の人と仕事、生きた時代を浮き彫りにしています。
■追悼特集号から重要と思われる記述を要約して紹介します
●大学での専攻はドイツ文学であるが、専門に固まらずに自らのあらゆる資質を総合的に育てていった。学問的反省と深化によってマルクシズムの承認へと発展、学問と実践を両立させた精力的な活動を展開し、ひじょうに大きな成果をもたらした。
●新島繁をアナーキズムからマルクス主義思想ヘ導いたのはコミュニストたちの「高い研ぎ澄まされた理論」と「人としての魅力」だった。時期的には1929年。
●戦後の活動は杉並区。新島繁ほど地域に目を向け、地域を愛した知識人は少ない。中央での文化活動のねばり強さは、地域におろした根から養分を吸い上げていた。
●新島繁の地域活動は、杉並の土にいろいろな種をまいた。その種の一つは原水爆禁止運動として成長した。
●活動から夜おそく帰宅すると、まず病妻をいたわり、ついで、夜食をつめこみ、四畳半の書斎で研究や執筆、夜明けとともに就寝、正午頃に起床するのが長年の習慣だった。
●神戸大学への赴任は、トミコ夫人との再婚と同時のこと。そのトミコ夫人は、彼の若き日の自伝小説に出てくる初恋の「民子」としるされている美しいむすめさんその人だった。
●20歳のころの恋愛が彼の精神形成の上の重大な契機になっている。
●戦後の自由懇話会の創立から自然消滅まで、一日の休みもなく、その中心になって、熱心に働きつづけたのは、新島繁ただ一人だった。
●新島繁のもっとも実質的な学問的寄与は1932年から37年にかけての唯研の合法性のなかでなしとげられた。そのピークが主著『社会運動思想史』であり、日本の知的良心の最後のモニュメントになった唯物論全書150巻のなかの、すぐれて個性的な一冊となった。
●「科学者にも芸術家にも、人間性の美しき全面的開発に努めるという、その根本的任務が常に顧みられてあることを希望します。科学者は科学の日常生活化ということのために実践及び啓蒙に尚一層努めてもらいたく、また芸術家は美の発現をば知性の高さ若しくはその向上の線に沿って勇敢に進めてもらいたいと思います。それというのも、科学と芸術とは終極的には─即ち人類社会の遠い将来では─接近し一致し、かくて生活自体を正しく美しき科学的芸術的成果としてもつことができるものと少くとも私には考えられるからです」(1938年4月、「唯物論研究」の後身「学芸」第1号のアンケート「科学者・芸術家に何を要求するか」に寄せた新島繁の回答)
●1941年からドイツ大使館嘱託であった時期、「全線崩壊状態の最悪時期には無念ながらも一落伍者だった」ことは、自認する痛苦の体験だった。
●戦後の文筆活動の圧倒的部分は啓蒙的労作に当てられている。否定しがたい民衆との隔絶感を今度こそはのおもいだった。
●貧乏につきまとわれ、さまざまな圧迫に出会った生涯だったが、どんな困難なときにも悲壮になることがなかった。いつでも余裕と明るさを失わなかった。
●その活動のほとんど全期間にわたって、民主教育のために力を注いだ。
●民科芸術部会の活動した全期間を通じてのリーダーだった。
●社会思想や社会科学の領域での新島繁の業績には、数多くの文学面の翻訳や著作に劣らない重要な位置づけを与えてもよいのではないか。
●筆名新島繁は、生田長江の感化もあって「ニーチェ、それからマルクス、そしてそれにジーゲル(勝利者)をまぜて作ったもの」。
(2008.2.10記)
■追記
雑誌「世界」2月号に山田洋次さんと野上照代さんの対談が掲載されています。 たいへん興味深い内容です。野上巌(新島繁)は「細かいのを入れると七回ぐらい」逮捕されている、とあります。
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