涙を流す と言う行為は別に尊いものなんかじゃない。

泣くというのはあくまでもただの生理的反応のひとつで
それ以外の何物でもない。

感情が揺さぶられた時人は泣くけど、それすらも身勝手な行為だ。


自分が悲しいから泣き
自分が怒ったから泣き
自分が哀れだから泣き
自分が嬉しいから泣き


全ては自分を基本に巡る衝動。
ナミダなんてモンは、吐き気がするほど自己欺瞞の結晶なのだ。


例えそれが俗に言う 『人のため』の涙であっても。



他者が不幸であり、その不憫さに泣くこともある。
他人の不遇を知り、それに悲しむこともある。

しかしそれも
他者を「自分より哀れだ」と思うから涙が出るんだ。
その根底にあるものは、その『他者』よりも自分は幸福であるという『優越感』。
とんだ偽善者、反吐が出やがる。


そう、だから

人に対する死への涙すらも自己満足。


人が死んで悲しむっていうのは、その人の奪われた未来に泣くけれど
もうその人に会えないという後悔の念からっていうものもある。


「まだ言ってないことがある」
「まだ一緒にやりたかったことがある」
「あの時こう言ってやれれば」
「あの時私がそうしていれば」


それ見てみろ。
笑ってしまう。

全部出発点は『自分』なんだ。


だって考えても見てみなよ?
死んだ人間には感情なんて残ってやしない。
自分を可哀想なんて、思いやしないんだ。

ヒトは所詮、『客観』なんて芸当が出来ないイキモンで
『その人』の死を悼むふりをしながら結局は
その人との楽しかった時間をもう過ごせない と
思い通りにコトの運ばなかった、『自分』を哀れがっているんだ。



他者の不幸を探して何か理由をつけて 自分を哀れがって
そうして 涙を流しているんだ。


醜い。
笑える。
冗談じゃない。



そう、だから

この世に人の為の涙なんて一粒だってありゃしない。



これこそ真に
『泣けてくる』ことじゃない?










だから
だからきっと


今この頬を流れる温かい水も
ズキズキ嘔吐感を伴って胸を這いずり回る痛みも


死んだあいつのためなんかじゃなくて
単なる俺の自己満足。


開きかけた唇をギュッと噛んで、声は喉の奥で毛糸玉になる。


名前を呼ぶなんておこがましい。
そんな自分勝手な感傷で
そんなモンであいつを穢しちゃいけない。



塩辛さを鼻をすすって堪えてから
ぼやける視界を真っ直ぐ上げる。

そうして 小さくこれだけ言う。




「さよなら、      」






声は風に散る。
俺の、俺のための欺瞞の結晶は。


『あいつ』は可哀想なんかじゃない。
俺が勝手に哀れんでるだけ。






そうさ、だって


そう考えた方が ずっと楽。


























それでも『主観』があるからこそ

人は歓びを織るのだ。