立正安国論を現代に
立正安国論は
生涯の句・辞世の句 では
(中山法華経寺蔵・日蓮宗〈写真〉)
建暦 2年(1212)             (浄土宗祖・法然上人入滅)
貞応 元年(1222)日蓮聖人誕生、幼名・善日麿(千葉県安房小湊)
天福 元年(1233)清澄入山、薬王丸と名のる(11歳)
嘉禎 3年(1237)出家、是聖房蓮長と名のる。(16歳)
暦仁 元年(1238)鎌倉遊学(17歳)念仏・禅を学ぶ。
仁治 3年(1242)清澄に戻り、比叡山留学へ(21歳)
             
             諸寺諸山遊学(約10年間)

建長 4年(1252)頃、 帰路、伊勢神宮・外宮近郊・
              常明寺『誓願の井戸』で百日間水垢離説有り。
             
建長 5年(1253)清澄山で立教開宗後、鎌倉で布教活動
                          (道元禅師入滅)
正嘉 元年(1257)うち続く天変地異に疑問をいだき、駿河・
           岩本実相寺で一切経を閲覧、原因を追究。
正元 元年(1259)元が朝鮮半島を属国化(三別抄・軍その後3年間
           戦闘)元は中国・ロシア・東欧・中東(シリア迄)侵攻。
文応 元年(1260)鎌倉幕府に『立正安国論』を諫暁(7月16日)
              四大法難
              松ヶ谷法難(8月27日)
弘長 元年(1261)伊豆流罪(5月12日)
文永 元年(1264)小松原法難(11月11日)
弘長 2年(1262)              (親鸞聖人入滅)
文永 5年(1268)蒙古国書が高麗経由で到着→幕府は南宋亡命僧の進言で返書せず。
            蒙古は平和的国交希望説有(NHKその時歴史が動いた2005・4.6)        
陸の制圧者が海洋制圧のため日本海軍力に触手?

文永 8年(1269)第二回国家諫暁、龍口・佐渡法難(9月12日)
文永 9年(1270)『開目抄』著作(2月)
           「我日本国の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、
           我日本の大船とならむ等と誓いし願破るべからず。」
文永10年(1271)『観心本尊抄』著作(2月)大曼荼羅始顕(7月8日)
文永11年(1272)赦免状(2月14日)、佐渡出発(3月13日)、
             鎌倉着(3月26日)
             三度目の諫暁(4月8日)(撰時抄)
幕府「蒙古はいつ襲来か?」と問い、
日蓮聖人「経文にはいつとはみへ候はねども。今年はすごし候はじ」
             
             身延入山(5月17日)。(一遍聖人が時宗開宗)。

 「三度は諫むべし、用ひずんば山林に身を隠せ(波木井殿御書)」の故事により身延山へ入山。
(佐渡流罪時、鎌倉では一〇〇〇人が九九九人堕候〈新尼御前御返事〉とあり、日蓮聖人が鎌倉に留まると、檀信徒に危害が加わる恐れで、身延入山説も有り)

  同年       第1回蒙古襲来・文永の役、約 3万人・900隻 

  日蓮聖人は「日本の上下がなおも日蓮の言葉を信ぜぬことを歎じ、彼らが法華不信謗法の罪によって無間地獄に堕ちることは疑いないことであり、又、わが門家も日本全国に下ったこの総罰の連坐からまぬがれることはできぬであろうが信心をいよいよ堅固にたもって大難を克服し、現世の罪を消滅して霊山浄土を期せよ(顕立正意抄)」と教戒され(12月)。(日蓮辞典P・生26)

建治元年(1275) 幕府は元の使者を斬首。
弘安 2年(1279)幕府、宋より無学禅師招き「莫煩悩」と助言受。
             一遍聖人の踊り念仏流行。

弘安 4年(1281)第2回蒙古襲来・弘安の役、約14万人・4400隻

 日本全国の神社仏閣で蒙古調伏の祈祷が行われ、特に、律宗・思円(叡尊)の祈祷の効験により、大風(神風)が吹いたと世間で取沙汰されたという。これに対して、日蓮聖人は「いつもの秋の大風に敵船が沈没したのを、大将軍を生け捕ったというのはおこがましい。勝ったというならば蒙古王の頸でも取ったのか(富木入道殿御返事)」と反論(日蓮辞典P.生30)

弘安 5年(1282)体調崩され、常陸の湯へ静養へ向かう途中、
           武蔵国・池上宗仲の館で入滅(10月13日・61歳)
           現池上本門寺・大坊本行寺
           日蓮聖人は、入寂の18日前の9月25日最期の
           『立正安国論』講義をされたという。
           (行学院日朝・元祖化導記)立正安国論は
           生涯の句でもあり・辞世の句では。

法華経・立正安国論は不戦の誓い
日本国憲法九条そのものでは
蒙古襲来時の日蓮聖人
(元寇の地・博多に立つ日蓮聖人銅像)
 
 日蓮宗は、『お題目』修行という『易行』ととらえられがちです。
しかし、『ご真筆にふれる・中尾尭著P.110等・日蓮宗新聞社』によると、
日蓮聖人は、文永5年頃より(予言的中等で)増え続けた弟子達に対し、先ず最初に、釈尊八万四千経典を『釈尊一代・五時八教図(中山法華経寺蔵)』等を使用し、理論的に『法華経(絶対平等=悉皆成仏・久遠本佛・菩薩行道)』の最勝なることを証明され、次に経典・御書の抜書きを指示されていたという。当然この教育方針は文永11年の、身延山入山後も継続されていたのでは。
   
         正行は『お題目』。
         助行は『受持・読・誦・解説・書写』
       (四信五品鈔・神力品第二一等・五種法師)

(第1回元寇の翌年に)
「日本国にして此法門を立は大事なるべし(撰時抄)。」

 日蓮聖人は、『蒙古調伏(祈祷)』という、『勝敗』という姿勢ではなく、絶対平等思想である『法華経』に立脚し、お互いの話し合いにより、『平和的な解決』を望まれ、法華経・立正安国論を弟子・檀信徒に教育されたのではないでしょうか。

 つまり、法華経・立正安国論は、日本国憲法・九条・不戦の誓いそのものであったのではないでしょうか。

「天下泰平と国家安穏は君主・君臣が共に願い、万民が望むところ。国は法に依って繁栄し、人は法を尊ぶ。国が破れ、人が滅んだら、誰が仏を崇め法を信ずるであろうか。ゆえに、先ず、国家(の平和安穏)を祈りて、須らく仏法を立てるべし(立正安国論)


 しかし、『不戦の誓い』ということは容易なことではないと思います。


      苦楽ともにお題目を唱える

 日蓮聖人は、龍の口の刑場で頸をはねられそうになった時に、「相模殿こそ善智識よ。平左衛門こそ提婆達多よ(種種御振舞御書)=鎌倉幕府の執権・北条時宗こそ私の良き導き手であり、私の命を奪おうとした平左衛門尉頼綱こそ私にとっての提婆達多であります」と述べられています。
「日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん(開目抄)」

「この病は仏の御はからいか(妙心尼御返事)。」

「一切衆生南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なき也。(略)現世安穏・後生善処とは是也。(略)苦を苦と悟り、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思合て南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ。此豈に自受法楽にあらずや、弥々強盛の信力を致し給へ(四條金吾殿御返事)」とも述べられています。

(プラス思考という事では。例えば、車の祈祷を受け、事故を起したとする。@全然ご利益が無かったと思うかAこの程度で済んでよかったと思うか。だと思います。)

      日本の仏法の月氏に帰る
 日蓮聖人は日本国で始めて本佛の本意が顕された『お題目』が、釈尊の顕現の聖地(歴史上の釈尊の出現した地)に帰るべきであるとされました。
「天竺国をば月氏国と申すは佛の出現し給ふべき名也、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出給はざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相也、日は東より西に入る、日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相也(諫暁八幡鈔)。」

今こそ、私達が法華経(絶対平等=悉皆成仏・久遠本佛の統一真理・菩薩行道)を世界に流布すべき時(一天四海 皆帰妙法)では。


            対馬海峡
博多〜釜山間は約210kmの距離で、ジェツト・フォイルで約2時間55分で結ばれています。大変近い関係です。


       釜山(大韓民国)                    
        |(約50km・1時間)
       対馬(長崎県)
        |(人口約42000人)
        |(約160km・2時間) 
       博多(福岡県)
文永の役(第1回元寇・10月20日=新暦では11月26日)
「十月に蒙古より築紫によせて有りしに、対馬の者固めて有りしに、宗総馬尉逃げれば、百姓等は、男をば或いは殺し或い生取りにし、女をば或いは取り集めて手を通して船に結い付け、或いは生取りにす。一人も助かる者なし(一谷入道御書)」
壱岐では鎮西奉行の大友入道・豊前前司の小弐資能が逃走、松浦党が惨殺され、九州・大宰府まで侵攻を受けたと伝えられます。

@日蓮聖人は自ら、「センダラが子也(佐渡御勘気抄)」と述べられています。漁師⇔水軍との関連。
A日蓮聖人の大檀越である富木常忍⇔(上司である)守護〈又地頭〉下総千葉氏は肥前にも領地を所有(後に肥前千葉氏となる)との関連。

※まったくの私論で恐縮ですが、元により朝鮮半島が属国化された、翌年に立正安国論が著述されています。緊迫する国際情勢の中、@A等々で日蓮聖人の元に、世界情勢がもたらされていたとは考えられないでしょうか。



終戦60周年法要
         平成17年5月18日午前11時 
               於平和祈念公園・平和の礎前(沖縄)
              差定
           献花
           献香
           道場偈
           勧請
           開経偈
           方便品第二
           欲令衆
           如来寿量品第十六(自我偈)
           運想
           唱題(百八遍)
           宝塔偈
           回向(世界の戦没者への慰霊回向)
           祈願(絶対平等・立正安国祈願)            
           四弘誓願
           奉送

 当日は、近郊の小学校低学年が遠足で多数が来園中で。私達が読経しておりましたら、物珍しいのか多くの児童が寄って来ました。初めは「何しているのかな?」という感じで遠巻きに見ていましたが、誰に言われるでもなく、自然と一人・二人・三人と一緒に手を合わせ、いつしか皆で合掌となりました。

           読経・唱題の意義
まさに、
『籠の中の鳥鳴けば空とぶ鳥の呼ばれて集るが如し、空とぶ鳥の集れば籠の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法を呼び奉れば我が身の仏性も呼ばれて必ず顕われたまう(法華初心成仏抄)」の如しでした。

又(安心立命の境地→初住妙覚の佛→)妙覚果満の本佛(三十二相八十種好具足)の姿の内、三十一相は姿で顕せるが、一相だけは顕せない。なぜなら梵声相=声であるから。したがって私達が読経して充足しなければならず。何より、唯一私達が佛を顕せる姿なのかもしれません。

            生死の仏で立正安国社会を建設
「さだめて霊山浄土にて娑婆の事をば昼夜にきき、御覧じ候らむ、妻子は肉眼なれば見させ聞かせ給う事なし(上野殿後家尼御返事)=(亡夫は)霊山浄土にてあなたがた妻子を見守っているでしょう。今は肉眼なので霊山浄土にいる亡夫は見えませんね(→心眼を鍛える事も大切)。」
娑婆世界の私達と霊山浄土の先祖が共に、上求菩提(自分の修行に精進し)・下化衆生(自分の利より他者の利を最優先にする)の精神で、生死の仏で浄仏国土(立正安国論)を顕現。

私達が、お題目を唱え、菩薩行道に精進する姿が、尊い生の仏・菩薩の姿に映ります。

             お題目を唱える功徳

安心立命の境地 法華経の信心によって得る安定し不動なる境地。
    ↓   自己を久遠釈尊(本佛)の永遠の生命の中にみる事。
      (佛界の中の人界)
          現在の安心は三世の安心。後生の大楽(開目抄)。
             お題目受持により釈尊の因行果徳の二法を
            自然に譲与される(観心本尊抄)。

初住妙覚の佛   法華経を信じまいらせし大善は、
   ↓       皆、初住妙覚の佛となりぬ(盂蘭盆御書)。

妙覚果満の佛   仏果を得たとしても、あくまでも安心立命の境地、
(三十二相八十種好を具足)  三十二相八十種好具足の佛になる
 (本佛と同意)           には、立正安国の大目的を
                     果たし終えた後である。
                     (観心本尊抄ノートP.92)
                     (全国日蓮宗青年会)
 本佛と同意の三十二相八十種好の佛に成るには、立正安国の大願=この娑婆世界が浄仏国土と成り、世界中の人々が佛に成り、真に個人の成仏が顕われた時。その時こそ、皆で三十二相八十種好の佛に成る事ができます。それまでは、生死の仏ともにお題目を唱え、上求菩提・下化衆生いたしましょう。

「命と申す物は、一切の財の中に第一の財なり(事理供養御書)」
「蔵の財よりも身の財勝れたり。身の財より心の財第一也(崇岐天皇御書)」

 このたび縁あって、第二次世界大戦・唯一の国内地上戦を経験した沖縄を訪れ『日本国憲法九条・不戦の誓い』を守り、皆で世界平和を実現しなければと痛感いたしました。平和の根底には、あらゆる差別のない『絶対平等思想』が絶対条件です。世界で唯一、生まれながらにしての絶対平等を説く『法華経(絶対平等=悉皆成仏・久遠本佛・菩薩行道)』、そして『お題目=法華経の魂=本佛釈尊の魂=日蓮聖人の魂』を唱えることが大切。

(『三箇の霊宝』等の日蓮聖人直伝の宝物の有無ではなく→P.4最下段)
日蓮聖人の生涯の思想である『立正安国論』を相承し、皆でお題目を唱え、娑婆世界に浄仏国土を顕現し、皆で成仏いたしましょう。