絶対平等(悉皆成仏)
 法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり(略)(法華経方便品第二の)十如是の始めの如是相が第一の大事にて候へば、佛は世にいでさせ給(撰時抄)。
 法華経の肝心は(法華経方便品第二において)諸法実相と説かれて本末究竟等と述べられて候は是也(種種御振舞書)。
            人はなぜ生きるのでしょうか?
@   一般的には、種の保存や。
A又、一般的には、知識の継承
等と思われます。 

           人身受難し
しかし、
「人はパンのみにて生くるにあらず(マタイ伝・第四章)」(文化的生活も大切)
日蓮聖人も「人身を受くる事は稀也(寂日房御書)」と述べられています。 

            仏教の宇宙観
 仏教の宇宙観では、一つの宇宙の中心に須弥山がそびえ、その周りに九海八山あり、最外海に東西南北・四洲(閻浮提)があり、私達はその南洲に住み、他の洲よりは苦しみが多いが、佛・菩薩が出現し法楽を得る事ができるのは、南洲の大・中・小の国々だけ。 
 ただし、日本国は南洲には含まれず、その周辺の微小な粟の粒を散らした、粟散国(ぞくさんこく)の一つと言う。

           一眼浮木の喩え
    (諸仏には甚だ値いたてまつること難し)
私達が佛に出会う確率は、「百年(一説には千年)に一度、息継ぎのために海面に顔を出す盲目の亀が、大海原を漂う『一つ穴の空いた浮き木』に頭を通すようもの」という喩え(妙荘厳王本事品第二七)。

尚、有り難うの語源は、法句経一八二「諸仏の世に出づるも有り難し」。

             佛の真意
 曰く、悪人成仏・女人成仏等々。
しかし、本来この世の中に一切の差別がなく『絶対平等=悉皆成仏』が確立していれば、取り立てて、悪人成仏・女人成仏と強調する必要はない。

 佛の真意は絶対平等=悉皆成仏であり。『絶対平等の根拠』・『絶対平等を証明する本佛』・『絶対平等を誰が、どう顕現するのか』が大切です。「人に依らず法によれ(涅槃経)」の通り。
釈尊一代八万四千経典の内、唯一絶対平等を説く『法華経』を拝読し、絶対平等の理論を理解しましょう。

            方便品第二
「佛の成就したまえる所は、第一希有の難解の法なり。」
「唯佛と佛と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。」
「所謂〈いわゆる〉諸法の・・・是の如きの相・性・体・力・作・因・縁・果・報・(は)本末究竟等(本末は、究極的に等しい)。」

※この世に存在するものは、一つとして無駄なものはない。たとえ一つが欠けても、全体が存在することができない。つまり究極的には皆(尊く)等しい存在。
※皆生まれながらにして平等「皆佛の子(譬喩品第三)」。

  例えば、『お米』は
『相』 稲の姿。
『性』 稲の性質。
『体』 稲の本体。
『力』 稲の稲穂を実らす力。
『作』 稲の諸の作用。
『因』 稲の収穫への直接的原因。
『縁』 稲の収穫への間接的原因。
『果』 稲の収穫の因縁の結果。
『報』 稲の諸々の報い。 
『本末究竟等』 稲の諸々が絡み合うが、皆は究極的に(尊く)等しい。

     三車火宅の喩え(譬喩品第三)→二乗作仏
 法華経以前の経典では、声聞乗・縁覚乗は、自分の悟り(自利)にのみ修行の重点をおいた(小乗の修行者の)為、成仏することはできないとされていました。しかし、法華経において「十方仏土の中には唯一乗の法のみありて、二も無く亦三もなし(方便品第二)」とされ、法華経では、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗すべてが一仏乗に帰入し、三乗が説かれたのは方便であった。

 「ある長者の家が火事になりましたが、なかの3人の子供達は遊びに夢中で火事に気づきません(実は、この娑婆世界は煩悩の火で焼かれているが、私達は気づいていない)。長者(実は釈尊)は子供達を助けようと、羊の車・鹿の車・牛の車を与えると言い、子供達を無事に助け出します。しかし、長者は子供達に約束した三種の車を用意せず、一台の大白牛車に乗せました。」つまり、能力に差のある三種の車ではなく、同一の車で同一の場所(涅槃=さとり)へ導きます。これ即ち一仏乗です。

     三草二木の喩え(薬草喩品第五)
「雨は皆に平等に降り注ぐが、生物の育成には個体差が存在する。」

※絶対平等=悉皆成仏が顕され、さらに提婆達多品第十二で、個別に悪人成仏・女人成仏を顕す。

 女人成仏「八歳の幼稚の女子が龍女の身でありながら成仏」。日蓮聖人は「龍女が成仏は此一人の成仏にあらず、一切の女人の成仏をあらわす(開目鈔)」。

 悪人成仏(提婆達多は釈尊の従弟で、釈尊に従い出家しながら、釈尊に嫉妬し、釈尊暗殺・教団破壊を企て、生きながらにして無間地獄に堕ちた大悪人)「提婆達多こそ善智識、過去世の師。(略)未来世の成仏」。日蓮聖人は「提婆達多は一闡提なり。天王如来と記せられる。(略)毒薬変じて甘呂となる(開く目鈔)」。

日蓮聖人は提婆達多を大曼荼羅御本尊に勧請。
「大逆なれども、懺悔すれば罪きえぬ(光日房御書)」。


本佛は久遠実成本師釈迦牟尼佛
(諸法・諸仏・諸菩薩を統一)
 ↓
不滅の滅を現ず
本佛が娑婆常住だと
衆生が怠惰心を起すので
 
 法華経によって『絶対平等=悉皆成仏』が顕されました。しかし、仏教では様々な諸仏・諸菩薩が勧請されています。諸仏のうち、いかなる佛がそれを証明してくださるのでしょうか?「天に二道無く、地に二王無し」と申す通り、やはり諸仏も各々が主張されていては真理の法は乱れてしまいます。やはり本佛により諸仏を統一していただかなければならないと思います。
   
           開方便門 示真実相(法師品第十)
          (方便の門を開いて真実の相を示す)
 釈尊は四〇余年にわたり、衆生の機根が熟すまで、方便として三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の差別的教え説いてきたが、衆生の機根が熟したので、方便を開いて。本門である、平等で真実の教えである法華経(一仏乗)に皆を帰入せしめます。

         化城宝処の喩(化城喩品第七)
 遥か遠くに宝の城があったとします。旅人(衆生)はそこへ行こうと志しますが、あまりに遠く、途中で疲れはて歩みを止めてしまいます。その時、指導者(佛)は『まぼろしの城(三乗方便の果)』を現し休息させた後、その城を消し去り、また、まぼろしの城を見せ歩ませます。その繰り返しの後、遂に『宝の城(法華一乗の果)』に連れていったという喩え。

           久遠本佛の開顕
 釈尊が約2500年前(又は約3000年前)にインドの仏陀伽耶(ブッダガヤ)の菩提樹の下で初めて成道した佛であると思っているのは執近の情であります。実には五百億塵点劫の過去世に成仏し、以来常に娑婆世界に在って人々を説法教化されてきた本佛であることをあかされます。

(釈迦誕生年代は近年の研究により、紀元前463年〈中村元〉説・紀元前565年〈宇井伯寿〉説とするのが一般的です。しかし、各宗祖は『周書異記』→『末法燈明記〈伝最澄作・平安末の偽書説有〉により紀元前1029年4月8日をご降誕・ご入滅を紀元前949年とされ、その日時より末法初年を、永承7年(1052)と割り出され、立教されたのでしょうから、約3000年前説を取る方が自然のような気がします。)

日蓮聖人の御本尊には『佛滅後二二二〇余年未顕真実』とあります。
日蓮聖人の大曼荼羅御本尊の始顕は、文永10年(1273)7月8日です。

   紀元前  949 年(佛滅年代)
+      1273 年(日蓮聖人始顕本尊年代)
計      2222 年(御本尊に佛滅後二二二〇余年)

+       732 年(平成17年は始顕以来732年)
計      2954 年(平成17年度の佛滅年数)     



永遠の佛(久遠本佛)である、久遠実成本師釈迦牟尼佛が顕されて、始めて『絶対平等=悉皆成仏』が確かなものになります。

      
          如来寿量品第十六
「我佛を得てよりこのかた、経たるところの諸の劫数、無量百千万、億載阿僧祗なり。」
「常に法を説いて、無数億の衆生を教化して、佛道に入らしむ。」
「衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず。」
「而も実には滅度せず。」
「常に此に住して法を説く。」
「方便力を以ての故に、滅不滅有りと現ず。」

※応身佛(有始有終)歴史上の釈尊         人→菩薩→仏→滅
※報身佛(有始無終)阿弥陀如来・薬師如来等  人→菩薩→仏
※法身佛(無始無終)久遠実成本師釈迦牟尼佛    永遠の佛  
法華経で説く釈尊はこの永遠の本佛です。
   (諸仏は皆本佛の分身佛)

      良医治子の喩え(如来寿量品第十六)
 「父(釈尊)の不在中に誤って毒薬を飲み苦しんでいる子供達(衆生)に対し、父が良薬(法華経)を与え救わんとしましたが、失心の子供達は薬を飲もうとしません。そこで父は一計を案じ使者に『父は死せり(方便)』と告げさせ、失心の子供達も悲しみのあまり本心を取り戻し、良薬を服用し病は全治しました。この時、父は帰り、仏の寿命の久遠常住を開顕されました。」

 佛が娑婆に常住であると、衆生は怠惰の心を持ち修行を怠るであろうから、仮の滅を顕し私達の前から滅されました。しかしその本体は常住不滅の佛です。

 中国の天台大師は釈尊一代の教え(一切経=八四〇〇〇経典)を系統づけ、釈尊の出世の本懐は、法華経であるとされました。
法華経は一部八巻二十八品の経典で六九三八四文字で成りたちます。


菩薩行道

釈尊は正法を顕されました
しかし、不滅の滅を現されました
 ↓
私達自身が、
本佛の名代=地涌の菩薩=
本佛が末法の弘通を託した
特別な菩薩として 
衆生救済
 ↓
慈悲=抜苦与楽
 ↓
上求菩提 下化衆生

 『絶対平等=悉皆成仏』が、『久遠実成本師釈迦牟尼佛』により、顕されました。しかしその尊い法をそのままでは、「佛作って魂入れず」です。誰かが、本佛の名代(地涌の菩薩)として布教しなければなりません。それは私達です。

            上求菩提 下化衆生
大乗仏教では、自分の修行に励み、懺悔罪障消滅し。それ以上に他者の利を最優先にする事が大切です。
     
          常不軽菩薩品第二十
「(釈尊の前世・不軽菩薩は)礼拝讃歎して、是の言を作さく、我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、當に作仏することを得べし、(略)但礼拝を行ず。」
「不軽命終して、無数の佛に値いたてまつる、この経を説くが故に、無量の福を得、漸く功徳を具して、疾く佛道を成ず。彼の時の不軽は、則ち我が身是なり。」

 時の人々は心不浄の増上慢だったので、礼拝を受けて逆に怒り、無智比丘の虚妄の授記など用いぬと悪口罵言(り→正字が無いので似てる文字→言を使用・ご寛容ください)したが、菩薩は罵られても常に礼拝を続けた。菩薩は臨終の時、忍難礼拝の功により宿罪を消滅し六根清浄を得た。これを見て、増上慢者も皆信伏随従したが、今までの謗法の失により千劫の間、阿鼻地獄の苦を受けての後に成仏した。過去の不軽とは今の釈尊。

※本佛の直接教化を顕す。
 
 日蓮聖人は菩薩行道の規範として、不軽菩薩を仰ぎ、本佛・釈尊の名代(地涌の菩薩)として南無妙法蓮華経(=法華経の魂=絶対平等)を流布する事が末法の菩薩行道であるとする。

           五時八教
 天台大師(538〜595)が、釈尊一代の聖教を整理・体系づけ、釈尊の説法の真意は『法華経』であるとする。釈尊の真理の統一理論。

※華厳時     釈尊が菩提樹下で成道後37日間。『華厳経』(35歳)
※阿含時(鹿苑時)『阿含経』  
※方等時      『維摩経』『思益経』『金光明経』『各種の浄土経』     
※般若時      『種々の般若経』       
※法華時・涅槃時 『法華経』『涅槃経』              (80歳)   
 前時までに機根が熟したので、釈尊の『出世の本懐』である『法華経』を説く。
法華経を聞法できなかった増上慢の人の為に、最期の一日一夜に『涅槃経』と前時の概説を説き、総ての人を覚りに入らしめんとする。 
尚、天台大師は、涅槃経は秋の収穫後の落ち穂拾いのようなもので、『法華経』が出世の本懐であるとされました。(天台教学・日蓮辞典P.216)
日蓮聖人は「涅槃経をよむと申すは法華経をよむ(報恩抄)。」と述べられています。 

         久遠本佛  
          ↓
         釈尊(84000経典)
釈尊の説法を聴聞した人が口伝し、後に経典に編纂。
   ↓        ↓             ↓
 原始仏典     南方仏教       北方仏教
           (小乗仏教)      (大乗仏教) 

釈迦肉声に近い。 自利の修行。   上求菩提下化衆生
           出家者が編纂。   在家者が編纂説。
           多聞第一阿難尊者。 龍樹が南海の龍宮で得る説。
          (釈迦十大弟子)   (紀元後150年頃の人)

                        法華経  紀元前後頃 
                       (鳩摩羅什訳は紀元406年) 
                        浄土経系 紀元1世紀頃    
                       (鳩摩羅什訳は402年)
                        華厳経  紀元4世紀頃
                        禅系   紀元6世紀頃
                       (教外別伝・不立文字)
                        大日経  紀元6世紀頃
                        金剛経  紀元7世紀頃
                              

(参考文献・日蓮宗事典・日蓮事典・新・佛教辞典・お経の本〈学研〉)

           十界(四聖・六道)

 四聖       佛界 
          菩薩界
          縁覚界
          声聞界

 六道      天上界
(輪廻転生)   人間界
         阿修羅界
          畜生界
          餓鬼界
          地獄界

※理の一念三千・天台
※事の一念三千・日蓮