神力稲荷堂
(神力稲荷大明神)

江戸時代に勧請。商売繁盛を願う近在商店等の人々の参拝がたえません。
稲荷は稲荷ダキニ天(大黒天に属する夜叉神)と倉稲魂神(倉に収められた稲の霊→稲を司どる神)が習合。
ダキニ天が狐に乗った姿で描かれた為、本体が霊狐になったという説。
※本地垂迹説で諸仏が特定の神として権現。
※神仏習合説で日本古来の神と外来の仏教が習合。
又明神は仏教側から神祗を呼ぶ名称。

            昭和61年再建。


義人 善松上人の墓
 
 江戸時代、沼垂(新発田藩・外様大名〈5万石→幕末には10万石〉)と新潟(長岡藩・譜代大名〈7万4千石)は、信濃川を挟み、湊の利害を異にし、7回もの訴訟沙汰がありました。
 しかし、沼垂町はことごとく敗訴したと伝えられます。
これにより、北前船等の権利は新潟(長岡藩)の独占となり、沼垂(新発田藩)はわずかに年貢米の積み出し等を行う程度であったと伝えられます。(新潟市史・沼垂定住三百年誌)

第1回 延宝 9年(1681)
第2回 元禄12年(1699)
第3回 享保12年(1727)
第4回 延享 4年(1747)
第5回 文化 元年(1804)
第6回 文化 3年(1806)
第7回 文政 8年(1825)

 橋本善松(22歳)は、第6回訴訟(文化3年・1806)での敗訴に義憤し、同士を誘い暗闇に乗じて新潟の船舶の綱を切断するなどの暴挙を敢行。後に捕らえられ、9年間新発田で在牢の身となります。在牢中、深く懺悔し紙撚で『鬼子母神像』を作り、日夜信心を怠らなかったといわれます。釈免後、益々法華経・唱題修行が盛んとなり、当山の毎月7日の鬼子母神逮夜法要に参篭修行したといわれます。ついには、天保4年(1833)に諸国を浄財行脚し、千ヶ寺参り・佐渡巡拝者の為の無料宿泊所を西竜ヶ島に建設。
(日蓮宗の鬼子母神は、鬼の字の頭の部分の´〈角〉は付きません。→鬼子母神は、人の子供をさらっていたが、釈迦により自分の子を隠され、始めて我が子を失った母親の気持ちを理解・懺悔し、以後は善神と成ることを誓い、角を隠した為。→法華経行者の守護。尚、文字がなかったので普通の〈鬼〉文字を使用、ご寛容ください)

 この貴徳により誰言うともなく、善松上人と呼ばれるようになったという。
      
                        (山門内側・脇)
     
 
             その後の湊は?

               新潟上知

 天保14年(1843)6月11日、幕府は長岡藩に新潟上知を命じ、以後、新潟は天領となります。

              新潟上知の理由
@三方領地替えの失敗
 川越藩(当時は親藩大名)→庄内藩(譜代大名)→長岡藩(譜代大名)→(川越藩へ)
天保11年(1841)、幕府は領地交換を画策します。
しかし、庄内藩の大反対により、翌12年撤回。
 長岡藩では、撤回を知らせる為に打ち上げた花火が、今日の長岡大花火の始まりといわれます。(長岡市の大花火〈由来〉・長岡駅)
(現在の長岡祭りは、第二次世界大戦・昭和20年8月1日の長岡大空襲の戦没者慰霊の為に始まる説。)
             ↓
 代替案として、外国船からの防衛を理由に新潟湊を上知したという説。

A新潟湊の度重なる抜け荷事件
 天保6年(1835)に薩摩藩交易の船が、村松浜〈中条町〉で難破し、抜け荷事件が発覚。
天保14年(1840)第2回抜け荷事件発覚。
再発防止等々説。

B日米修好通商条約の開港5港の一つとする為説。
             ↓
 嘉永6年(1853)ぺリー来航
 安政5年(1858)横浜・長崎・新潟・神戸・函館

(文久3年〈1863〉義人善松上人寂・79歳)
              
           戊辰戦争
           官軍の沼垂無血上陸

 戊辰戦争は、慶応4年又明治元年(1868)1月に開戦、新潟湊は幕府軍の武器調達の軍事的拠点港であったとも考えられています。武器商人・プロシア人スネル兄弟が暗躍したといわれます。

 しかし、新発田藩(外様大名)が、(藩内での激しい論議があったにしろ・・・『ある理由』により)官軍と手を結ぶことになり、7月25日に官軍は阿賀野川河口・近郊の太夫浜から無血上陸し、29日には新潟町を占拠したといわれます。
 これにより、幕府軍は武器調達に支障をきたし、戦況はいっきに不利になったともいわれます。
それを証明するかのように、その後わずか2ヶ月あまりで、本州は平定されてしまいます。

  9月    会津藩が降伏し東北を平定。
 11月19日新潟開港。

      (参考・新潟湊の繁栄・新潟市、日本史研究)


当山略歴
   当山境内は、四季折々の草花が咲きそろいます。
         春は梅・桜、
         初夏は皐月・藤、
         梅雨は紫陽花、
         盛夏は百日紅、
         秋は欅・銀杏の紅葉等々。



          真善寺・略系図
 
宗祖━→六老僧(本弟子)━━━→九老僧━→

日蓮 日向・身延山→
    日頂
    日持・大陸布教
    日興・大石寺→
    日昭・妙法寺(新潟)→
    日朗・池上本門寺━━→日像・京都妙顕寺→ 
        鎌倉妙本寺    日輪・池上本門寺・鎌倉妙本寺→
                    日善
                    日典・平賀本土寺→
    富木日常          日範
    中山法華経寺→     日澄・天津日澄寺→
   (大檀越→出家)      日行
                    朗慶・中延法蓮寺→
                    日印・新潟県三条本成寺
                        ↓  ↓   ↓
                        ↓  ↓   ↓
               (曾孫弟子) 日源 日静 日陣
                        ↓  ↓   ↓      
                     新潟  京都  三条
                   本覚寺 本國寺 本成寺
                              京都
                              本禅寺
                      ↓    ↓
     (玄孫弟子)     日禅(二世)
               沼垂  ←↓
               真善寺
                 ↓   ↓
           現薫三二世  現薫四一世




         三箇の霊宝の伝承

 古来より、日蓮聖人の御遺言のひとつに、
「墓をば身延の沢に建てさせ候(波木井殿御書)。」
「墓所に立像釈尊を奉安し、注法華経を読誦すべし(御遷化記録〈日興著〉。」等があります。

一説には、日蓮聖人より伝わる『三箇の霊宝=(生涯の御持佛)立像釈尊・立正安国論・佐渡流罪赦免状』を奉安する弟子の門流が正嫡である。とも考えられたと伝えられます。
           ↓
『三箇の霊宝』について、京都・本國寺の記録によれば、
公家近衛政家の参拝。
日蓮聖人第二百遠忌(文明13年・1481)法会に参列者が群をなす。
とあり、日蓮聖人・三箇の霊宝に対する民衆の信仰心は絶大でした。

 『三箇の霊宝』は下記のように伝わったと伝えられます。

日蓮聖人→日朗→日印→日源→日静→本國寺(日蓮宗)
                      日陣→本禅寺(法華宗陣門流)

新潟・本覚寺祖・日源と推察できる名が見えます。どのような関わりを持ったのでしょうか?

        『三箇の霊宝』が鎌倉から越後へ

借用説  日印が鎌倉で、日輪の母より三箇霊宝を
       借用後、返却せず越後へ。
譲与説  日印が日朗の名代で鎌倉殿中問答し、
      法勲により譲与され越後へ。

        『三箇の霊宝』が越後から京都へ

宗門の宝物が越後にあることは好ましいことではない、との判断と思われますが、『三箇の霊宝』は時の都である『京都』へと返還されることになります。

    日源(新潟・本覚寺祖)が京都へ運搬
    日禅(新潟・本覚寺二祖、真善寺祖)が留守役

一説には、南北朝の越後騒乱を逃れる為、三箇の霊宝を京都・本國寺へ移すことに。尚、海陸の二路に分かれた説。(三条・本成寺文書各種)

陸路説 本成寺6世・日顕の曾祖父・
     山田伊勢入道道覚
海路説 日源→頚城能生沖で暴風雨により遭難死。
     福井県小浜に日源又日禅祖伝の長源寺が所在。
             ↓
  三箇の霊宝は無事に本國寺(日蓮宗)に格護。       
日源(本覚寺祖)の日蓮宗にとっての功績は甚大であったと思われます。

      二っの『三箇の霊宝』

日蓮宗説   京都・本國寺に格護。
法華宗説 
(陣門流) 
天文5年(1536)天文法華の乱で、山門宗徒が京都に乱入、日蓮宗寺院が被害を被り、三箇の霊宝の内・立像釈尊が畑の中に捨てられていたのを発見、京都・本禅寺に納める。

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    現在二つの『三箇の霊宝』が存在。