日蓮聖人・誓願の井戸
   
   日蓮聖人は比叡山遊学後、
    清澄山への帰路に、
伊勢神宮・外宮・近郊・常明寺跡で
    我れ日本の柱とならん
    我れ日本の眼目とならん
    我れ日本の大船とならん 
    と誓いし願破るべからず。
    と誓願されたとも言う。
    (三大誓願・開目抄) 
   



     自力と他力と感応道交
        (かんのうどうきょう)
           感応御守護
         ↓
    救われたい自分(自力)
         と
    救おうとする神仏(他力)
    =大慈悲(抜苦与楽)
         が
   感応道交するところに
         ↓
   感応御守護の救済が現れる


  日蓮宗御祈祷
(例えば、ほうろく灸御祈祷)

  日蓮聖人の出家の諸説
  他宗祖との相違は?

           例・病気             例・佛
自力 民間療法 不摂生 摂生・服薬 自修行 不信心 御題目
        ↓        ↓      ↓         ↓      
感応道交           治癒               成佛
            ↑    ↑           ↑    ↑
他力        治療   治療         大慈悲 大慈悲

民間療法(自力)での自己流治療では不安。
医療機関(他力)が懸命に治療でも、自分が不摂生では治癒せず。
医療機関(他力)の治療・投薬と自己(自力)の摂生が感応道交するところに完治が現れる。

同様に、救われたい自分(自力)と救おうとする神仏(他力)が感応道交するところに釈尊の大慈悲心(抜苦与楽)・救済が顕われる。


           焙烙灸(ほうろくきゅう)祈祷会とは
毎年〈夏季〉土用の丑(うし)の日という、一年で一番暑く夏バテ等を起しやすい時期に行われる、焙烙(ほうろく)の皿を使用して、頭に灸をたてながら、ご祈祷を受ける、昔ながらの仏事のことで、夏バテ予防始め、一年間の無病息災・特に頭痛封じを祈ります。
           焙烙灸の由来
一説には、(弘法大師〈真言宗〉の頃より)頭頂部にある百会(ひゃくえ)のツボを刺激して無病息災を祈っていた説。
一説には、夏の暑い日、武田信玄が戦場に向かう時、頭痛を起し苦しんだが、兜の上から灸をすえたところ、病気がたちまちに治ったという古事にならい始まったという説。

           日蓮宗の焙烙灸・加持祈祷法
日蓮宗の御祈祷法は、法華経行者守護の鬼子母神等の御尊前にて正座し、頭の上に焙烙の皿(素焼きの皿)をかぶり、皿の上に艾(もぐさ)を載せ、火をつけ、お灸をします。その間に、日蓮宗修法師(大本山・中山法華経寺で冬季・百日間の荒行を修め、日蓮聖人以来・無漏相承である、秘妙五段修練加持祈祷法を相伝された僧侶)により、一年間の無病息災を祈る、読経(法華経)・祈祷修法(日蓮聖人以来の妙法九字祈祷法)を受けます。最後に身体健全(頭痛除等)の御守を授与され終了です。

日蓮聖人は、
「人の頭に七滴あり。七鬼神ありて一滴食えば頭痛む。三滴食へば寿絶んとす。七滴皆食へば死するなり(種種御振舞御書)。」と述べられています。
又「普賢陀羅尼経に、頭痛に五鬼あり(法華験家訓蒙)」とあり、古来より頭痛は悪鬼の障りと考えられていたのだと思われまます。

現在、新潟市内の日蓮宗寺院で『焙烙灸祈祷会』を行っているのは、当山だけです。
(近年、白根・恵光寺でも開催)
関東出身の、先代・第三十一世・日栄上人が縁有って新潟に住持し、明治末期頃より、当地に伝えたのが始まりであるといわれています。
以来、約100年の長きにわたり、夏の祈祷会として、近在の檀信徒の参拝が絶えません。

江戸時代、平賀源内が夏バテ予防等の健康法として『土用の丑の日にうなぎを食べる』事を推奨したと伝えられます。その他、民間でも様々な健康法が考え出され、伝承されたのではないでしょうか。例えば、土用の丑の日は(うなぎ・・・つながりで・・・『う』のつく諸行事等で暑気払いの縁起をかつぎ・・・先ず、梅干を干して健康保存食作り)、『うなぎで食欲増進』『海での海水浴で体力増進』『ほうろく灸で信心増進・身体健全』等々、日々の生活の中でさまざまな工夫を凝らし楽しみながら、夏バテ予防を始め、頭痛封じ、一年間の無病息災に努めていたのではないでしょうか。



              入山と出家・得道

宗派     宗祖  入山  出家    修行した場所
浄土宗   法然  九歳  同年           十三歳で比叡山へ
浄土真宗  親鸞  九歳 同年 知恩院隣り青蓮院 後に比叡山へ
曹洞宗   道元 十四歳  同年  比叡山
日蓮宗   日蓮 十二歳 十六歳  清澄寺    後に比叡山へ
 (幼名・善日麿)(薬王丸)(蓮長)

※多くの宗祖は入山即出家・得道されました。
しかし、日蓮聖人だけは、入山と出家・得道の年代が異なります。日蓮聖人にとってのこの約四年間はどういう時期であったのでしょうか?

             入山の動機を推測する御遺文
親鸞聖人 「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは。」

日蓮聖人 「幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ、十二の年より此願を立つ、其所願に仔細あり、今くわしくはのせがたし(破良観等書)。」
        ↓
「(仏教諸宗への疑問をいだき)いささかの事ありて此の事を疑い(妙法比丘尼御返事)。」


富木常忍(日常)産湯の井戸
鳥取県

日蓮聖人はなぜ他国侵逼を
予言できたのでしょうか?

 日蓮聖人は、(静岡県)岩本・実相寺に約二年間参篭され、一切経を拝読されました。その結果、法華経(絶対平等・久遠本佛・菩薩行道)に帰依しなければ『薬師経』に予言された七難(人衆疾疫・他国侵逼・自界叛逆・星宿変怪・日月薄蝕・非時風雨・過時不雨)のうち、自界叛逆・他国侵逼の二難が残っており、必ず起こるであろうと『立正安国論』で予言。

 幕府は、流罪の身である日蓮聖人を佐渡から鎌倉へ急遽呼び戻し「蒙古はいつ来襲するであろう?」と問います。
 日蓮聖人は「経文にはいつとはみえ候はねども天の(略)いかりは少なからず(略)よも今年はすごし候はじ(撰時抄)」と返答されました。 
 素朴な疑問ですが、先の御遺文で日蓮聖人は『経文にはいつとはみえねども』とはっきりと述べられております。
 しかし、なぜか日蓮聖人は明確に他国侵逼(元寇)の時期を予言されています。いかにして日時を割り出されたのでしょうか?

 そこで、日蓮聖人の予言について、実は『経典からではなく、現実の現象や情報収集』により予言を導きだし、宗教家としてその裏づけを経典に求めたのではないか?と仮説をたて、検証してみました。

          日蓮聖人に関する諸説
@ 誓願の井戸  伊勢神宮外宮近郊の常明寺跡に日蓮聖人が比叡山から清澄山に戻られる途中に一百日間の水垢離をされた井戸がある。
A 富木常忍・産湯の井戸  鳥取県に日蓮聖人の大檀越であった富木常忍・産湯の井戸がある→これにより富木常忍の鳥取生まれが証明。

        下総千葉氏系図(富木湛忍の子・常忍は千葉氏の被官)
   桓武天皇
    |
    略
    |
初 代 平 常将
二 代 平 常長
三 代 平 常兼
四 代 千葉常重  私田開拓し大神宮(伊勢神宮)に寄進説。
五 代 千葉常胤  守護又地頭・源頼朝に加勢し、本領安堵。三重
 |           京都・東海・安房・肥前・三浦六浦に所領得る説
六 代 千葉胤政(正)
 |
 |━━━総子姫
 |     |
 |     |━━━━富木常忍。自邸を法華堂→中山法華経寺。
 |     |         |         
 |     |     先妻は大田乗明の姉説・後妻━連れ子が日頂
 |     |
 |    富木湛忍(鳥取因幡国富木郷→(千葉)八幡庄若宮)
 |      
 |
七 代 千葉成胤
八 代 千葉胤綱  承久の乱
九 代 千葉時胤
十 代 千葉頼胤  元寇警備で九州へ、戦傷負い没。 
十一代 千葉宗胤(兄)若く家督相続。父に代わり九州警護。九州没。
 |
 |━━━千葉胤貞・肥前千葉氏初代
 |      |    関東の八幡(市川)・千田(香取)・船橋支配。
 |      |    祖父・十代頼胤に仕えた富木・大田・曽谷氏の
 |      |    信仰篤い日蓮宗を庇護。
 |      |    大田乗明の妻は日蓮聖人の従妹説。
 |      |    曽谷氏の子・日祐が法華経寺第三世。
 |      |━━千葉胤継・千田(香取)千葉氏初代
 |        |
 |        |━千葉高胤・肥前千葉氏二代・肥前光勝寺
 |
十二代 千葉胤宗(弟)九州派兵の兄に代わり、幼少で宗家相続。
                                (年齢は推定)

 千葉介・守護・六代胤政は姫を鳥取在住の富木湛忍に嫁した説→富木氏は応分の地位の人?(鳥取・常忍寺略縁起⇔法剣数珠丸考及聖祖皇統説への一勘検・P.一九八廣野観順著)。はたしてその理由は?
       ↓
@五代常胤は源頼朝に信頼篤かった。
A源頼朝が平氏と関西以西で戦えたのは関東を千葉氏が守り、東北勢(平泉等)を牽制できたからでは?
B源平合戦・壇ノ浦等では山陰勢に援軍要請?
C平家に代わり日宋貿易利権獲得の為、山陰の制海権を獲得?
       ↓
当時の日宋貿易の決済は大宰府。千葉氏は大宰府近郊の肥前に所領を得る。佐賀市は有明海に面している。
       ↓
   しかし、人生好時・魔多し
       ↓
源氏は三代で滅び、北条一門の執権政治へ。又蒙古襲来の危機。 
       ↓
北条氏は千葉氏に九州警護を命じる。日宋貿易どころではない。
       ↓
九州の千葉氏は関東で軍事費用を工面し、九州警護費用に?
千葉氏は関東の富木氏を留守役に?
  
まったくの私論ですが、
@日蓮聖人は、守護千葉氏→被官富木氏より大陸の情勢を得ていたのでは?
A日蓮聖人自身がセンダラの子と述べられ(佐渡御勘気抄)漁師のネットワークの存在し情報を得ていたのでは?
       ↓
朝鮮半島・釜山と対馬は、わずか五〇km。
       

 松尾山光勝寺
(佐賀県・小城郡<佐賀市近郊>)
(平成17年10月19日参拝)

千葉氏本家の、
11代千葉宗胤(兄)は九州警護。
  ↓
千葉胤貞が肥前千葉氏初代に。
小城に千葉城を築城し、
光勝寺を建立。

12代千葉胤宗(弟)が本家相続。




釈尊のさとりは苦楽ともに
  ↓
易行と苦行を離れた中道ではなく
  ↓
易行と苦行をも含めた中道では
  ↓
清濁合わせ飲み
自分自身で消化する
  ↓
人生は苦楽ともにある
(中道)

            釈尊の四門出遊 
 シャカ族の王子であった釈尊は、
      東門で   老人を
      南門で   病人を
      西門で   死人を
      北門で   バラモンの修行者を
目の当たりにし、この世の無常を感じ、出家。

  易行  シャカ族の王子時代
       四門出遊
       四苦八苦
         生・老・病・死
         愛別離苦・求不得苦・怒憎会苦・五陰盛苦
    煩悩  執着こそが苦るしみの根本。執着を捨てる事が大切。

            四顛倒(凡夫が迷界の真のありさまを知らない)
         常 無常なものを常と思う。
         楽 苦であるものを楽と思う。
         我 無我であるものを我と思う。
         浄 不浄でなものを浄と思う。
            四徳波羅蜜(彼岸の世界)
         常  永遠不滅。
         楽  苦しみがなく安らか。
         我  それ自体としてあり、束縛されない。
         浄  煩悩の垢のないこと。
          (過去の因縁説や四諦法門も)
  苦行   六年間の苦行・・・さとれず。
        最後は生死をさまよう
        村娘スジャータの供する乳粥により命をとりとめる。
   ↓
  中道  十二月八日、菩提樹下で瞑想し、さとる(三五歳)。
       易行でもなく苦行でもなく、中道が大切。

  釈尊は「この世は苦で充満している」と述べられたが、成道後は「この世は甘美なものだ」と述べられたともいわれ。
  

 多聞第一・阿難尊者は釈尊のお言葉として「私はこのように聞いた。世尊のお言葉のままである。この世は美しい。人の命は甘美なものだ(釈迦・瀬戸内寂聴著)」と聞き。
 仏弟子達は「今日われらは美しい(太陽)を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく起き上がった。激流をのり超え、煩悩の汚れのなくなった(覚った人=釈尊)にわれらは見えたからである(『スッタ二ーパータ』第一七八偈・原始仏典「スッタ二パータ」をよむ・雲井昭善著・NHK出版)と語り。

 釈尊はいかにして、苦から甘美(楽)へと覚られたのでしょうか。
「釈尊は(釈尊の従弟で、釈尊に従い出家しながら、釈尊の命を狙い、教団破壊を企て、生きながらにして無間地獄に堕ちた大悪人)提婆多達こそ修行時代の師であり、そのもとで千年の間仕えて修行したおかげで成仏することができた。その功徳により、提婆多達は遠い未来に天王如来といわれる仏になるであろう(提婆多達品第十二)。」

「(日蓮聖人は、文永八年<一二七一>九月十二日、執権・北条時宗により、鎌倉龍の口で斬首の刑にあった時)相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆多達よ(種種御振舞御書)」と述べられています。

 自分にとっての苦難こそ、実は、自分にとっての最良の善知識(良き導き手)であると考えられたのではないでしょうか。
究極のプラス思考であったと思われます。

        苦楽共に生きる
 日蓮聖人は「一切衆生南無妙法蓮華経と唱るより外の遊楽なき也(略)現世安穏・後生善處とは是也(略)只女房と酒呑みて南無妙法蓮華経と唱へ給へ、苦を苦と悟り楽をば楽とひらき苦楽共に思合て南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ。此れ豈に自受法楽にあらずや彌々強盛の信力を致し給へ(四條金吾殿御返事)。」と述べられ、苦楽共に生きる事とが大切であるとされました。

 私達の日常も様々な事があります。禍福は糾える縄の如しで、禍福は周期的に訪れます。裏をみせ、表をみせて、散る紅葉(良寛)。
 辛いからと言って、自分一人だけ『苦から解脱』しようと思ってはいけません。皆、苦しいのです。
 本来、人生は四苦八苦の激流の世界を生きるようなものだという事を認識し、眼前の苦は実は自分をより高めてくれる善知識(良き導き手)であり、提婆多達(成仏するための大いなる試練であり・良き導きの師)であると認識し、苦を楽に変える強さ(災い転じ福へ)を正しい信仰(御題目)で身につけ、苦楽共に『上求菩提・下化衆生(自分の修行に精進し・それ以上に他者の救済)』を心がけ生きていきたいと思います。冬は必ず春となる(妙一尼御前御消息)。


         皆で仏に成る(恩山の一塵・徳海の一滴)
「衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一諦(←サンズイ)一微塵のごとし。法華経を二人・三人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ(撰時抄)。」