平等は英語で何というのか?
習いましたか?
       
 仏教は生まれながらの平等。
皆、仏の子。
「今此の三界は、皆是れ我が有なり。その中の衆生は悉く是れ吾が子なり(譬喩品第三)。」

       一神教は神の下による平等では。
 アメリカ合衆国『独立宣言書』では、「すべての人間は平等であること、生命(hope)・自由(freedom)・幸福(happiness)の追求は神からあたえられた、譲ることのできない権利である。」と記されています。
 あくまで、神から与えられた、平等と言うことでは。

一般的に、
キリスト教は『愛』の宗教
仏教は   『慈悲』の宗教 

慈悲とは抜苦与楽のことです。
       慈=与楽
       悲=抜苦

 仏教は、慈悲により信仰の有無にかかわらず総ての人に対する救済です。
一神教は、神を信仰する者に対する救済と考えられるのではないでしょうか。


      平和・自由は英語で言えると思いますが・・・

         ロックの社会契約説
 社会契約を交わして政治社会(国家)を形成し、それらの生命(life)・自由(freedom)・財産(fortune)の相互維持の為、国家として結合し、一つの政府の下に服す。

        平等を英語で言えますか?
   例えば、アメリカ合衆国大統領は近年『自由(freedom)・平和(peace)』を連呼しています。
しかし、本来は平等が根幹にあり、保障された上での、自由・平等でなければならないと思います。
素朴な疑問ですが、平等は英語で何というのでしょうか?
 平等は『equal』と言うそうです。知っていましたか?
 戦後、アメリカ文明の影響を受けた私達でも、日常あまり使用しない言葉では?
実は、灯台元暗しで、equal=イコール。例えば2×2=4のイコールです。常に使う言葉なのですが。

         苦とは四苦八苦
            ↓
           生老病死

           怨憎会苦
           愛別離苦
           求不得苦
           五陰盛苦
     
       苦の根本原因とは?
             ↓
煩悩の起きる原因は、本来人間に具わっている、
『常・楽・我・浄』に対する『無知』。

    四顛倒(凡夫が迷界の真のありさまを知らない)
 常   無常なものを常であると思う。
 楽   苦であるものを楽であると思う。
 我   無我であるものを我であると思う。
 浄   不浄なものを浄であると思う。

四徳波羅蜜(彼岸の世界、大乗の仏に具わる四徳)
 常   永遠に不滅であること。常住不滅の命。
 楽   苦しみがなく安らかであること。
 我   それ自体としてあり、他に縛られないこと。
 浄   煩悩の垢のないこと。

               空(無でなく)
            存在するものには、自体・実体・我
           などはない。(般若心経の根本思想)
 空(小乗仏教)  事物の否定。人生の無→涅槃。
 空(大乗仏教)  自己の執着を捨て、
            自己の回復と確立し、
            他者への利を最優先に。
 無          有無を超えた絶対の無。
            禅は存在そのものを
            把握することを目指すという。

            円融三諦

空諦  この世には存在するものは実体がない。
      すべては『空』である。
    (例えば、数字の0に何を掛けても0のまま)

仮諦  しかし、実際には、この世には物体が存在。
           ↓
    存在するものは因縁により仮に和合。
           ↓
         因縁和合。          
(しかし、仮にでも存在すれば、0でなく、1であり、、数字を掛ければ無限の可能性も)

中諦 『空』・『仮』に対し偏った考えを持たず、
    偏執を拝し、本質を見極める。
            ↓
          中道(偏らない)
            ↓
        大乗の空(自我滅し他利)
            ↓
        諸法の実相(十如是=絶対平等)

法華経・方便品第二の十如是を三遍くり返し、

空諦

仮諦(因縁和合)

中諦(中道)   各諦が相互に融け合い、

是の如きの、









報は、
本末究竟等(存在するものは皆〉本末は究極的に等しい)

実相=十如是=絶体平等を顕す。
法華経の肝心は諸法実相ととかれて本末究竟等(種種御振舞御書)
(参考・日蓮宗事典・新佛教辞典)
     

世法即仏法と仏法即世法
 
             世法即仏法
 世法即仏法と考えれば、何も特別な事をすることだけが修行ではなく、日々の生活を一生懸命に生きる事こそが修行であるとも考えられます。
 この思想からすれば、日本人は気づいていないだけで、実は世界で有数の信仰心の篤い国民であると言えます。

           人参の喩え
 子供はたいがい人参が嫌いのようです。そんな時親は、子供の健康の事を思い、人参を食べさせたいものです。家庭内問答は、

子供は「何で人参を食べなければならないの?」、
親は 「体に良いから」

       と、答えるのが一般的ではないでしょうか?
 しかし、これでは答えになっていません。
本来なら、人参には「べータ・カロチンが含まれ→ビタミンに変換等、それらの効用で体に栄養がある等」と答えなければならないと思います。(食品は専門外の為、詳細は不明。ご寛容ください。)

          無功徳

 禅宗の祖・達摩と梁(中国)の武帝の問答。

武帝 「朕は即位して以来、寺院建立・写経等、
    仏教に尽力してきた、その功徳は?」
達摩 「無功徳。」
     ↓
仏教は、功徳を求めてするものではない。
     ↓
人間は「生きる目的」より、「生きている過程」が大切と説く説話。

          道元禅師

比叡山・横川・千日房
     ↓
    建仁寺
     ↓
    宋・天童寺 宋への入国許可下りず入国待ち。
     ↓     宋が日本国での修行単位を認め
            ず。
           釈迦の説いた仏法が国によって
           異なるのか?と大宗国皇帝に抗議。
    諸山巡錫
     ↓
     天童寺 認められ、入山。
     ↓
     帰国

      道元と阿育王寺の老典座の問答
 道元が入国許可が下りず、船に留まっている時、阿育王寺の老典座(修行僧の食事を作る役僧)が椎茸(当時の日本からの代表的な輸出品)を買いに船を訪れたという。

道元 「あなたほどのお歳になって、どうして坐禅修行
    をしたり、古人の高祖伝等を読まずに、
     ひたすら食事係りをなされているのですか?」
老典座は「あなたは修行の何たるかを御存知ない。     
     文字というものもおわ かりになっていない。」
            ↓
道元は老典座の話を聞き、おのれを恥じ入り、仏教修行とは坐禅をしたり、経典を読む事も大切であるが、それだけではなく食事係りをすることも立派な修行であると気づいたという説話。

 後日、道元は天童寺で阿育王寺の老典座と再会し、問答し、

道元  「文字とは?」
老典座 「一・二・三・四・五」
        ↓
文字とはこの数字のように各々が独自の意味を持つが、単独では意味を持たない。意味は使う人が込める。

道元  「修行とは?」
老典座 「この世界のすべては、何も隠すことなく
      現れている。」
        ↓
真実は一切隠すことなくありのままこの世に現れている。
※曹洞宗祖・道元禅師は、只管打坐を説き、坐禅が大切とされましたが、同様に日々の作務も尊い修行であるとされました。

つまり、先ず眼前の事項に一生懸命取り組む事が大切。その因縁で必ず道は拓けます。

         給仕第一
 日蓮宗では、古来より『給仕第一』を根本とし、信・行・学を大切に。

「実に仏になる道は、師に仕ふるには過ず(身延山御書)。」

         仏法即世法

 法華経では、世法と仏法は表裏一体の関係で、仏法を通した世法と言えます。
「自灯明・法灯明・法に依りて人に依らざれ(原始仏典・涅槃経)」。

 世法即仏法は大切です。しかし、指導者はより高所からの判断を求められます。そのためには、仏法即世法という思想への大転換が必要ではないでしょうか。

      法華経(絶対平等思想)は仏法即世法

「もし深く世法を識れば、即ち是れ仏法なり(開目抄)。」
「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候ひけるぞ(崇峻天皇御書)。」
「天晴れぬれば地明かなり。法華を識る者は世法を得べきか(観心本尊抄)。」
「行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候。力あれば一文一句なりともかたらせ給うべし(諸法実相鈔)。」
「我が門家は、夜は眠りを断ち、昼は暇を止め之を案ぜよ。一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ(富木殿御書)。」
「仏法ようやく転倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲がれば影ななめなり(諸経与法華経難易事)。」
(参考・道元禅師関係書籍)


儒家の孝養は今生に限る
(秦の始皇帝・兵馬俑〈写真〉)
 日蓮聖人は「儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶ければ、聖賢の名はあるべけれ(開目抄)」と述べられています。

儒教は『仁』を説くと言われ、
@先祖祭祀
A子孫繁栄
B親孝行(広義では国家・社会への奉仕を含む)
       等々大変尊い教えであると思います。
しかし、宗教的には輪廻転生(元々はインド土着信仰のバラモン教で、後に仏教も受け入れる)の概念が含まれていないのではないでしょうか。

        儒教の死生観
              ↓
        輪廻転生しないのでは?

中国・朝鮮半島で信仰されている儒教では、

人間を、
精神の主宰者→魂(こん)
肉体の主宰者→魄(はく)         に二分します。

    ↓              ↓   
  魂と魄が一致     魂と魄が分離
    ↓              ↓
 生きている状態       死の状態
                    ↓
                  魂は天上へ
                  魄は地下へ

 つまり、理論的には、死後であっても魂が天上から戻り、魂と魄が一致すれば、死者が生き返ることに。
 この為、儒教では火葬は厳禁と考えられます。
一致した魂魄は神主(木主)に依り憑く→仏教に取り入れられて位牌となった説。

 韓国の墓地の総面積は963平方kmで全国土の約1%。ソウル市の面積の約1・6倍。
 又一族の繁栄の為、同姓・同本は結婚不可(同姓婚だと一族減少に。現在は8親等まで)。
 個人的な推論ですが、上記の@AB等々により、先祖の魂が魄に帰るまで、原則的に、生活レベル・領土問題等々は現状維持が基本で、先祖が帰るまでに、領土等の拡大を、という拡大政策に継がる危険性はないのか?

          輪廻転生

 仏教の輪廻転生思想を信仰し、
@  死後は成仏し輪廻を脱する。
A又、死後は輪廻転生し、別人格・生物に生まれ変わる。
以上が大前提であれば、魂の戻るべき魄の保管場所である墓は不要となります。
又、仏教では死後は、善人も悪人も共に成仏して浄仏国土で同位。
対して、輪廻しない儒教では、悪人は何年たっても悪人のままということも考えられます。

          秦の始皇帝の大兵馬俑

 儒教では魂の帰る魄の保管場所が重要視されると考え、秦の始皇帝の大兵馬俑を考察すると、秦の始皇帝は死後も巨大な地下宮殿で現世と同じ暮らしを望んでいたのではないかとも考えられます。
 輪廻転生を大前提とすれば、大兵馬俑も当然必要の無いものと思われますが、いかがでしょうか。
(現中国は、共産主義化・都市化で墓地不足・一人子政策で複数墓管理、火葬率は約37%→散骨増加)



 日本の仏教(先祖供養を通し自分を知り菩薩行道)

 輪廻転生を基とすると、確かに墓不要論も考えられます。しかし、日本仏教は先祖供養を通して独自の日本仏教を確立したと言われています。
 日蓮聖人は「先ず、臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし(妙法尼御前御返事)」と述べられ、身近な人の死を通して、命の大切さ、命の連鎖、この世の無常さ等々を習い、自身の生き方を省みる良き機会にし。
又「根深ければ枝繁し、源遠ければ流れ流し〈源遠流長〉(報恩抄)」と自分が存在するのは遠い先祖のおかげ。

         菩薩行道
  上求菩提(自分の修行に努め)
  下化衆生(自分の利より、他者の利を最優先)

 自分を大切にしない人が、本当に他者を大切にする事ができるのか?
            ↓
 先祖を大切にしない人が、本当に自分を大切にした生き方ができるのか?
 同時に先祖・他人の苦を共有。如来一人の苦(涅槃経)同一の苦・代受苦(諫暁八幡抄)。

 自分と血肉を分け、又養育してくれた、先祖の眠る墓を大切にし、先祖供養を通し、菩薩行道をすすめる日本仏教は大変尊い教えであると思います。

※今日の中国・北朝鮮・韓国の諸問題を考える上で、これら輪廻転生の有無の問題が、本質の根底に存在している可能性を否定してはいけないと思います。

仏教   A級戦犯  輪廻転生を脱し成仏している。
儒教   A級戦犯  輪廻転生否定なら、
              今も、A級戦犯のままでは。

孔子は「罪を憎んで人を憎まず(孔子9代孔鮒の孔子伝・刑論)」だが「他人の心をもって自分の心とすること、自分が望まないことは人にしないこと(衛霊公・入滅7日前に)」とも。

お互いの尊重が重要。

(参考文献・日蓮宗事典・新佛教辞典・お経の本〈学研〉・儒教の本〈学研〉)