本堂
 
 当山は応安元年(1366)寂静院日禅上人により、
沼垂(ぬったり)の地に創建されました。
     本尊     大曼荼羅御本尊
     本佛     久遠実成本師釈迦牟尼佛
     勧請の諸天善神   鬼子母神・七面大明神等々
(当山略系図はP.4真善寺縁起と境内散策2。下段を参照)
           
 現本堂は明治44年(1911)再建。



客殿

 新潟市域での地名の初見は、『日本書記』に、大化3年(647)「朝廷はヌタリの柵を造る」とあり、これが現在の沼垂(ぬったり)をさすといわれています。
(ヌッタリ→旧字は、ヌ=さんずいに亭・タリ=足→文字が無いのでカタカナで表記、ご寛容ください。)
 沼垂町は古くは王瀬の地(現山ノ下)にあったといわれています。
 しかし、近世に入り、信濃川・阿賀野等の川岸決壊等で4度の移転を余儀なくされました。

寛永年間(1624〜44)
承応3年(1654)
寛文4年(1664)
貞享元年(1684) 新発田藩主溝口侯より寺領を得て、現在地へ移転し、現在にいたっています。

現客殿は明治24年(1891)再建。



山門

 江戸時代、有栖川宮家は全国の神社仏閣に敬神崇仏篤く、当山もその一寺でした。
山門改修前には、宮家紋章を付していたとも伝えられます。

 近郊の祈願所としては山形・善宝寺。県内は当山と与板・徳昌寺といわれています。(有栖川宮家について〈高松宮〉・報知新聞・昭和8年10月29日号)
 
 第八代幟仁(たかひと)親王(国学院大学創始者。神道総裁)は幕末維新に参画されます。

 第九代熾仁(たるひと)親王は、官軍の東征大総督として東行され、幕府軍と戦火を交え、各地を平定されました。
(明治期は元老院議長・日清戦争時は陸軍大将参謀総長)

 第九代熾仁親王の沼垂来港の折、祈願所参拝・本陣設営等も拝察され、親王御迎え門として建立されたと伝えられます。

 尚、第八代幟仁親王御染筆『修理固成』扁額を格護しております。
(尚、沼垂来港については、P.4真善寺縁起と境内散策2・中段末尾『沼垂無血上陸』を参照。)

           江戸時代末再建。



  第九代熾仁(たるひと)親王を取り巻く人間関係図

        皇女和宮〈孝明天皇の妹〉 
熾仁親王の元婚約者で、公武合体政策の為に破約させられる。この時、熾仁親王満26歳説、皇女和宮満15歳説→皇女和宮は第十四代将軍・徳川家茂公(満15歳説)に降嫁するが、4年後に将軍・家茂公没。
第十五代将軍・慶喜公が大政奉還・江戸城無血開城→敗戦後、慶喜公の助命に尽力する。

      水戸藩(御三家)第九代藩主徳川斉昭公
熾仁親王は水戸藩主徳川斉昭公の十一女(娘)・貞子と結婚するが、2年後に死別
又熾仁親王の妹・幟子(たかこ)は、第十二代将軍・家慶公の養女となり、慶喜公の長兄・水戸藩第十代藩主慶篤公に嫁す。

徳川斉昭公は、第十五代将軍・慶喜公の父。
(慶喜公は七男で、御三卿・一橋家の養子となり、将軍宗家へ入り、第十五代〈最後の〉将軍となる。)

徳川斉昭公の正室は、第六代有栖川宮・織仁(おりひと)親王の娘・登美宮(徳川吉子)
(つまり、徳川吉子からみて兄の孫が熾仁親王/慶喜公からみて従弟の子が熾仁親王)。 
               ↓
 実に、熾仁親王と水戸藩とは、緊密な関係であったと思われます。しかし、現実には、先妻の実家であり先妻の兄と、又自分の妹の嫁ぎ先と、戦ったということになるとも思われます。

その後、熾仁親王は、水戸藩や徳川家とは縁の薄い、越後の小藩(外様大名)新発田藩の娘・董子(ただこ)を後妃に迎えた事はあまり知られていません(婚姻時期は不明)。はたして・・・このことが幕末の新潟無血開港と何か関連があるのでしょうか?



             尊王攘夷論

 徳川斉昭公は、第二代藩主・光圀公以来の『水戸学』→『尊王攘夷論(天皇を尊び、将軍を敬い、封建制度を維持)』を唱える。

 尊王攘夷論とは・・・天皇から将軍が征夷大将軍に宣下され政権を委任→幕府の権力を尊厳化→天皇の精神的権威は武士階級間にも広く認知→
※ところが、幕府が欧米列強の圧力に屈し開国を認めた→幕府の弱腰が国威を傷つけた→尊王論(天皇を尊ぶ)が攘夷(異国を排する)論と結び→反幕府運動へ。
(参考文献・日本史研究〈山川出版社〉・徳川慶喜とそれからの一族〈立風書房刊〉・有栖川宮について〈高松宮〉)