あと一けーん!三じゃーく!とんこーつ!
鉄道エッセイ


あと一けーん!三じゃーく!とんこーつ!

         はじめに

 熊本電鉄は、多くの地方中小私鉄がモータリゼーションの波に飲まれ廃業するところが多い中で路線縮小はしたものの、 現在も第3セクターを除く県内ただ一つの私鉄として健闘している。
この熊本電鉄も鉄道部門の経営は決して楽ではなさそうで、ぎりぎりまで合理化を計っている様子がうかがえる。
 しかし戦時中から戦後の一時期までは乗客の積み残しが出るほど盛況だった時代もあった。わたしは終戦の翌年、 熊本市内の中学に入学したので、電鉄線の高江駅から室園まで毎日混雑する乗客に揉まれて通学していたので、>いまだに 愛着を感じている次第である。
 昔を知る人も少なくなったいま、この電鉄の古き良き時代?のエピソードを綴ってみたが、何分にも約60年前の記憶を> 頼りに書いているので、思い違いがあれば御容赦頂きたい。

1.あと一けーん、三じゃーく、トンコーツ

 戦後は重工業が戦災の被害などで生産力が極端に低下し、国鉄をはじめ、大手から中小私鉄を含め車両、資材の補充もまま ならない中で、押し寄せる乗客、貨物を何とか捌いているのが実情であった。
 当電鉄も事情は同じで、朝は菊池方面から熊本市内に向かう通勤通学客で、終点の藤崎宮前に近づくにつれて混み合い、 夕方はこの逆というのが決まったパターンであった。
 従って夕方は電車に客車を1両又は2両連結して藤崎宮前を出発し、乗客が減ってくる大池駅とか高江駅で客車を側線に入れて 切り離し、翌朝隈府を1両で出発した電車が途中ですでに乗客が乗り込んだ側線の客車を拾いながら藤崎宮に向かうという 合理的な運用を行っていた。又当時は貨物の扱いも多く、国鉄から乗り入れてくる貨車を電車が牽引することも多く、電車に 乗客を乗せたまま、客車や貨車の連結、開放作業がしばしば行われていた。
 開放は電車がバックで客車または貨車を押しながら側線に入り、連結器を切り離すだけだから簡単であるが、連結の場合は バックで側線に入っていくので、運転手には連結側の様子が見えず、盲目運転で徐行しながら連結する客車に接近していく。
この場合、客車の脇に駅員か車掌が立ち、電車と客車の間隔を目測しながら大声を上げて運転手にその距離を知らせ、運転手は その声を聞きながらブレーキを加減していた。
 その頃はまだ尺貫法が一般的で、この合図の掛け声が表題の「あと三げーん!あと一けーん!三じゃーく!トンコーツ!」
であった。
 この「間」「尺」は判るが、「トンコーツ」というのがどういう意味なのか友人たちと笑いながら首を傾げたものである。
 ラーメンのスープでないことは確かだが、恐らく連結器がぶつかるときの音を擬声音で表したのだろうと思う。

2.置き去り

 数少ない車両をうまく運用する手段として前の日に留め置いた客車を翌朝拾って行くだけでなく、朝の下り電車に連結した 客車を途中の駅で切り離し、上り電車がそれを増結していくという方法も取られていた。
 ある朝大池駅で下り電車が切り離した客車をその駅で交換する上りが拾うことになり、満員の上りに乗っていた乗客が飛び 降りて切り放された客車に乗り移った。
 上りにはすでに1両の客車が連結されており、私はその客車の最後尾に乗っていたが、乗り換えはしなかった。
 電車は一旦本線に入り、そこからバックして下り線上にある客車を連結するものと思っていたところ、本線に入った 上り列車は停止することなくそのままスピードを上げて走り出してしまった。残された客車の乗客は呆然としてこちらのほうを 見ていたが、私は横にいた友人たちと「やったー!ざまー見ろ」と手を叩いてはやし立てながら小さくなって行く客車の姿を 見送った。
 恐らく上り電車の乗務員に増結するという連絡が徹底していなかったため、このようなミスが起こったと思われるが、電車が 単車なら、後部に車掌が必ず居るので後方を確認すればこのようなミスは起きなかっただろうが、その時は既に後部に客車が 1両連結されていて車掌から後部が見通せなかったのも不運であった。
 置き去りにされた客車は次の上りに連結されたものと思うが、全線単線の電鉄では、朝のラッシュ時でも30分くらいの 運転間隔であったから、通勤通学客は当然のことながら遅刻しただろうし、乗り移った乗客の中には同じ学校の生徒もいて、 その朝は遅刻する結果となった。
 電鉄の取締役の一人Mさんは合志川畔に住んでおられ、高江駅から我々と一緒に乗車されていたが、その朝乗り移った乗客の 中に運悪くMさんが居られ、あとでそのときの運転手その他関係者がこっぴどく怒られたということである。

3.断線

 断線とは線路上に張られた架空線が切れることで、熊本電鉄の集電装置は現在のようなパンタグラフでなく、トロリーポール を使用していた頃はよく発生した事故であった。
 国鉄をはじめ、大都市近郊の私鉄は昔からパンタグラフを使用していたが、市電や、地方の中小私鉄は戦前から戦後の一時期 まではポールが一般的で、熊本電鉄でも終戦後10年くらいまではポール集電であった。
 ポールは先端に滑車状の溝車がついていて架線に転がりながら接触するので、架線の磨耗は少ないが、高速を出したり、 分岐点やカーブの架線が複雑な個所では外れやすいという欠点があった。従ってこのような場所ではあらかじめ車掌がポールの ロープを握っていて、外れるとすかさずロープを手繰って再び架線に着けるという作業を行うわけである。
 市電などの場合は万一車掌がロープを掴んでいないときに外れても火花が飛ぶくらいで、天を指したポールを引き戻せば 大事に至ることは少ないが、市電に比べ、郊外電車の場合はモーターの出力も大きく、取り入れる電力が大きいのでポールの ばねの力も強力になっている。 従ってもし外れた際に車掌がロープを握っていないと猛烈な勢いで跳ね上がり、架線を吊って いる張線や、架線そのものを切断してしまうのである。
 断線事故があった後は取りあえず針金等で縛って仮復旧するが、その個所は弱いのか、通過する際はポールを降ろす必要が あったらしい。事故個所が近づくと車掌と運転手の連絡用の引き紐を運転手がちんちんと鳴らして車掌に知らせると、その合図に 応じて引き綱を引いてポールを降ろし、事故地点が過ぎると再び架線に戻していた。
 この事故地点を示す目印として枯草がぶら下げてあったのを思い出すが、なんとも珍妙な目印であったと思う。

4.自動貨車

  
    日本陸軍100式軌道トラック(自衛隊朝霞駐屯地保存車) 

 自動貨車とは奇妙な言葉であるが、戦時中陸軍の鉄道連隊が使用していたと何かの記録で読んだ記憶があるのだが、要は タイヤを付ければ路上、外せば軌道を走ることができる6輪駆動のトラックのことを電鉄ではそう呼んでいた。
 終戦直後電鉄には払い下げを受けたと思われるこの車両が5〜6台あり、貨車牽引のほかに朝夕のラッシュ時に客車を牽いて 藤崎宮前と高江の間を1往復のみ乗客輸送を行っていた。最初は小型の客車を1両だけ牽いていたが、輸送力が少ないとか 重い鉄道車両を牽くことに問題があったのか、同時に払い下げを受けた軽量の貨車2両にキャンバスの屋根をつけた車両で 客扱いをするようになった。平坦地では結構スピードが出るので、私自身が目撃したわけではないが、友人の話ではある時、 道路と並行している大池、辻久保間の直線区間で進駐軍のジープが競争を挑んできたが結構いい勝負をだったとの言っていた。
 この時分、道路は未舗装の砂利道だったので、ジープもそれ程スピードは出なかったのかもしれない。
 しかし勾配にかかると本来の鉄道車両に比べ軽量なため車輪が空転し、時には人が歩くほどのスピードに落ちてしまうことも あった。その対策として後には荷台におもりとして鉄道車両のタイヤ(車輪のスポークを除いた部分)を3本ほど積んでいたのを 覚えている。乗っていて困るのは雨の日で、屋根はあるものの窓ガラスなどもちろんなく、横から吹き込む雨でずぶぬれになる ことであった。
この簡易列車が運行されたのは昭和20年の後半から21年に掛けて位で、その後EB1型という電気機関車が3両電鉄に入って きて、大型の客車を牽いて同じダイヤで走るようになったので、自動貨車牽引の簡易列車も消滅してしまった。

5.トロッコ

 電鉄では戦後、路線や駅の改修を方々で行っていたが、その頃の土木工事は現在のようにダンプカーやパワーショベル、 ベルトコンベヤーなどの機械設備は全くなく、殆どが人力で、土運びの道具といえばトロッコが一般的であった。
泗水駅の建設は田圃を埋めるため富駅の北方の丘を切り崩し、電車の線路脇の犬走りに敷設したトロッコの線路上を作業者が 土を満載したトロッコを押して運んでいた。
 幸いなことに土を切り崩す地点から泗水駅に向かっては緩やかな下り勾配になっていて、作業者はトロッコを押すというよりも、 自然に走り出すトロッコの端に乗っかり、ブレーキの丸太棒を引き、速度を調節すれば良かったようだ。戻りは上りとなるが、 帰りは空荷だからそれ程苦労はない訳である。
これらの作業は照明もないので日のある内だけで、日暮れになるとトロッコを線路から下ろし、車輪を上にして線路脇に並べ、 作業者は帰ってしまう。それからがわれわれ悪童連の出番である。
 子供の手には重いトロッコを5、6人で起こし、線路上に載せると乗ったり押したりして遊んだのである。遊んでいる最中に 電車が通り掛ると慌てて物陰に隠れ、通り過ぎるのをやり過ごしたものである。今考えると、トロッコ遊びの子供たちに運転手 が電車を止めて注意するということなどまずないと思うが、その頃は電鉄関係者に見つかれば大目玉を食うものと考えて、 スリルを感じながらもトロッコ遊びの魅力には勝てなかったのである。
 一方北熊本駅の建設は規模が大きかったので、人力ではなく十数台のトロッコを小型のガソリン機関車が牽いていた。
そこでは土を掘り出す場所は電鉄の線路を挟んだ反対側にあったため、トロッコの線路が電鉄の線路、県道を横切っていた。
電車がトロッコ線路を通過する際、平面交差独特のたたん、たたんという音を立ていた。

6.電気ブレーキ

 通常、電車には2系統以上のブレーキが備えられており,一つが故障してももう一つのブレーキで停止できるようになっている。
電鉄の51型の常用ブレーキはエヤーブレーキであるが、これが故障すると電気ブレーキを使用した。ところが故障以外でも エヤーブレーキで停止できないと運転手が判断した場合、電気ブレーキを使うことが稀れではなかった。
 朝夕のラッシュ時、電鉄では2両くらいの客車を牽引していたが、これらの客車にはブレーキがなく、電動車のブレーキに のみに頼っていたので、満員の乗客を乗せた電車のスピードが出過ぎていると、下り坂下にある黒石とか、八景水谷の駅では オーバーランしそうになる。そうなると、運転手はすかさず電気ブレーキを掛けるのであった。51型の場合電気ブレーキは コントローラーの前後進ハンドルを後進位置に入れるとブレーキが掛るのであったが、掛けるとガツンという衝撃とともに 乗客は前のめりになり、気持ちのいいものではなかった。
 電鉄には花房駅と広瀬の間に長い下り坂ががあったが、ちょうど乗った電車のエヤーブレーキが故障したらしく電気ブレーキ のみで何回もガツン、ガツンとやりながら広瀬の駅まで下ったときは、恐怖を感じたものである。
 当時新車と呼ばれていた101型には電気ブレーキという装置はなかったと思うが、ある時夕立がやってきて雷鳴が轟くと、 御代志、大池間で突然停電してしまった。私が運転台を覗いていると、空気圧力計の針はどんどん下がり、エヤーブレーキが 利かなくなってしまった。どうなることかと心配していると、運転手は慌てることなくハンドブレーキの丸ハンドルを握り、 横に居た車掌に「腹が減るバイ」などと冗談を言いながら回し始めた。
 このような大型の電車でも人間一人の力で止める事が出来るものだと改めて感心した次第である。

7.一旦停止

 鉄道と自動車では鉄道に優先権があり、踏切遮断機があろうとなかろうと、車が踏切を渡るときは一旦停止するのは極く 当たり前の常識であろう。ところがこの常識が通用しなかった時代があったのである。
 当時は敗戦後の占領下で、進駐軍の命令は絶対的なものであり、これに逆らうことは出来なかった。第2次大戦が終わると、 すぐに連合軍が全国各地に進駐したが、熊本では現在自衛隊の北駐屯地のある場所に進駐軍のキャンプが設営され、熊本市内 からこのキャンプまで米兵の運転するジープや、GMCの大型10輪トラックがひっきりなしに通うようになった。
 市内からキャンプまでの間に室園駅の北と八景水谷の北に2ヶ所の踏み切りがあり、この踏切の手前で電車のほうが一旦停止 させられていたのである。噂によると、このどちらかの踏み切りで、進駐軍車両と電車が衝突する事故があり、このためこの処置 が取られたとのことであった。
 当時国鉄をはじめ、全国の私鉄で同様のことが行われたということを聞いたことがなかったが、他でもこのような例があった のだろうか?
 現在東急世田谷線が環状7号線と交差する地点で、普通の交差点のように交互に青、黄、赤になる信号に従って電車も信号待ち をする光景が見られるが、世田谷線は全線専用軌道でも市街鉄道と同じ基準の鉄道であり、信号待ちするのも肯けるが、当時の 熊本電鉄は設備はお粗末だったかもしれないが、れっきとした地方鉄道であり、市電などの路面電車とは異なるのである。
いかに敗戦後の占領下とはいえ、屈辱的なことではあった。
 現在八景水谷の踏切は警報機も遮断機もあり、当然のことながら自衛隊の車も一旦停止し、安全を確認した上で通過している ことは言うまでもない。

 8.丸太と枕木のホーム

 電鉄は記録によれば、明治44年に菊池軌道という名前で開業した道路上に敷かれた線路を走る蒸気動力の軽便鉄道であったが 大正12年、国鉄と同じ3フィート6インチ軌間の専用軌道に改良し、電化すると共に社名も菊池電気軌道と改めた。
 第2次大戦も激化した昭和17年、藤崎宮前と隈府間を今までの軌道から地方鉄道に変更し、車両も本線の主力だった1型を 51型に順次変更していった。1型は客車や貨車を連結できるよう連結器は備えていたが、いわゆる市街電車型の車両で ステップが低いため、終点の隈府駅を除くと駅にプラットホームというものはなく、地面から直接乗り降りしていた。
ところが51型は小型ながら純然たる郊外電車型の車両なので、乗降口の高さは大人の胸ほどもあり、乗り降りにはどうしても ホームが必要である。この車両の入ってくるのが急だったのか、電鉄ではこの車両のため、各駅に古電柱を切ったものを 2本ずつこの車両の乗降口の位置に合わせて埋め、その上に枕木を載せたギリシャ文字Π型のステップを急造した。
 これはあくまで応急処置だったと見えて、その後木造ではあるが3段の階段状のステップに取り替えられていった。
 藤崎宮前駅は路面上にあったのでこのようなステップを造ることが出来ず、市内線と鉄道線が分岐するV字型の地点にあった 民家か商店を買い取り駅舎にすると共に、裏側の線路に沿ったところに板張りのプラットホームが造られた。
 各駅に石積みと土盛りの本格的なホームが出来たのはその後大分経ってからだったように思う。枕木のステップは当然がら 枕木1本の長さしかなく、電車をこの位置にぴったり止めるのは難しのではないかと思ったものである。

9.マッチ箱

 前項の丸太と枕木のホームで書いた様に電鉄が昭和17年に地方鉄道に変更になるとともに導入された51型は木造ながら スタイルはほぼ同時期に国鉄が導入した国電のモハ63型と同じ切妻タイプで、切妻はそれ以降の国鉄通勤電車の標準スタイル となったのだから最先端のデザインであったとも言える。しかし当時の子供達の目にはこのデザインが突飛なものに見えたのか、 みんながマッチ箱というあだ名で呼んでいた。
 当時は戦争も次第に激化し、私が通っていた菊之池国民学校では村から出征兵士が出るたびに生徒全員が先生に引率され、 最寄の深川駅まで見送りに行くのが慣わしとなっていた。その際たまたま新造の51型がやってくると、生徒たちはマッチ箱が 来たといって喜んだものである。その頃の51型はペンキの色もぴかぴかで、トントントンと響くコンプレッサーの音も軽やかに 聞こえ、ずいぶん立派に思えたものである。その後暫くして51型に乗って見ると少しでも乗車定員を増やすためか座席は 少ながったし、足回りは旧型の1型の部品をそのまま使っているのに、旧型に比べ車体幅が広がったのが原因かスピードを出すと 蛇行するような横揺れが大きく、乗り心地はよくなかった。しかし51型は戦中から戦後にかけて電鉄の主力として大いに活躍 した。特に戦争が激化した一時期はげ茶色の車体を斜めに走る黒色の縞模様を入れた迷彩を施していたこともあった。しかし 陸軍の飛行場があった花房台地の付近を走行中にグラマン艦載機の銃撃を受けたという事も聞いているので、どの程度効果が あったかは疑わしい。
 またその時期はあらゆる資材が不足し、特にガラスは入手困難で、窓ガラスが割れても補充が難しかったと見えて窓は 2つ置きに板で塞いでいたこともあった。

10.新線

 その頃電鉄では各所で路線の改良工事を進めており、カーブの急なところでは線路を付け替えて緩和するような工事を行って いた。
 その最も大規模なものが北熊本駅の新設と車両工場の移設であっただろう。
 線路と駅の移設が最も早かったのが堀川駅とその周辺だったと思う。電鉄の線路は概ね県道(現在の国道387号線)に沿って いて、堀川駅ももとは県道脇にあったが、新線は現在の八景水谷駅付近から東方向に道路を離れ、畑を掘削して現在の位置に 新駅が建設された。旧線は堀川駅を出るとS字を画くように大きく東側に迂回していたが、新線は緩いカーブで坂を下り、 須屋駅に向かうように変更されていた。堀川新駅は石積みの立派なホームと、ポイントの脇には今までどの駅にもなかった 切り替えの方向を示す青丸とオレンジ色の矢羽の標識がついていて新鮮だった。
 新線切り替えに当たって、当然駅には何月何日新駅に切り替える旨の表示が出されたと思うが、車内に案内広告のような ものはなかったようで、ある朝、突然電車が新線を走り出したので吃驚した思い出がある。
 さらにこの駅には貨物用引込み線とホームが新設され、そのホームは駅近くの進駐軍キャンプで使う石炭の積み下ろしに 活躍するようになった。新駅は線路とホームは出来たものの駅舎までは手が廻らなかったと見えて、51型新製で不要になった 1型の古車体を貨物ホームの脇に据え付けて駅舎としていた。
 新線は北熊本駅周辺、御代志、大池間、泗水新駅などが建設され、その他にも黒石新駅、辻久保泗水間などは建設に着手した ものの、結局実現しなかった。
 1型の古車体は室園駅の事務所にも使われていた記憶がある。何分にも物が不足していた時代であるから、廃物利用など 当たり前であった。
 (後記:黒石駅は国道387号線拡張と多数の無人踏切解消のため、かつて買収してあった用地を生かして新線を建設し、   2001年2月25日新駅を開設した)

11.直列運転

 戦災で室園変電所を焼失した電鉄では電力が不足し、熊本市電から電力の援助を受けると共に、主力電車であった51型の コントローラーに細工し、並列に入らないようにして電力の節約を計っていた。最近のハイテク技術が使われる以前の電車の 制御方法はスタート時には2台のモーターを直列に接続し、さらに抵抗を入れ、次第に抵抗を抜いて加速し、次にモーターを 並列にすると共に再び抵抗を入れ、この抵抗をまた抜いていって最高速に達するという制御方法が一般的であった。
 しかし電鉄ではこの並列以降の過程に進めないようコントローラーをロックしてしまったのである。従って本来なら600 ボルトで最高性能が出るモーターが直列のままでは最高でも300ボルトしか加えることが出来ないため、当然のことながら 速度、牽引力とも低下してしまうが電力節約のためやむを得ない処置であった。
 このような状態で満員の客車2両を連結して上り坂に掛るとスピードは目に見えて低下し、人が駆け足をすれば追いつく位の 速度になるのであった。しかし時にはこのロックが外されている事があり、運転手がハンドルを最後まで廻すと、生き返った 様に快調に走るので我々学生たちは運転台の横ではしゃいだものである。
 ところがある時、この電車の運転手が途中で交替し、年配のTという人に変わると規定通り直列までしかハンドルを廻さなかった ので、学生たちが“最後まで廻るのにと”横から口を出すと、“うるさい”と一喝されてしまった覚えがある。
 電鉄には当時我々も電鉄関係者も新車と呼んでいた最新鋭の鋼鉄車101型(51型は木造車)が1両あったが、400馬力 と強力ながら電力を食うため車両不足にもかかわらず使用できず、泗水新駅予定線に留め置かれ、宝の持ち腐れであった。

12.高速度遮断器

 電車には過大な電流が流れるとモーターや回路を焼損する恐れがあるので、これを防ぐためブレーカーが設けられている。
これは家庭にあるブレーカーと同じもので技術用語としては高速度遮断器と言ったと思う。
 その頃の電車の遮断器は大体運転台の中にあって、切れた場合運転手がすぐに復帰操作できるようになっており、51型 場合はコントローラー側の前窓の上に取りつけてあった。近代的な高速電車ではモータに流れる電流を機器が判断し、ノッチを 自動的に進めていくが、市街電車や古いタイプの電車では運転手が電車の速度を判断しながら運転手の勘でコントローラーの ノッチを進める方法であった。この際、速度が上がらない内に無理にノッチを進めると過大な電流が流れ遮断機が落ちる。
落ちるときはバーンという大きな音と共に真っ赤な火花が噴き出すので乗客は吃驚する。
 我々学生は何時も運転台の周りに群がって時には運転手と無駄口を叩いたりしていたが、気短な運転手がコントローラーを 早めに廻すと遮断器が何時落ちるかとひやひやしたものである。
 遮断器が落ちる電流は規定の値に調整されている筈であるが、電車によって、またときによってすぐ落ちる場合となかなか 落ちない場合があり、かなりばらつきがあったように思えた。
 遮断器が落ちるとき出る火花は上に向かって出るようになっていたので、そのあたりの天井は黒い焦げ跡がついていた。
友人の話で、自分が見た訳ではないので真偽の程は定かでないが、ある運転手が煙草を吸おうとしたところマッチがなかったので タバコを遮断機の火花の噴き出し口にあてがい、いきなりコントローラーをトップまで回して遮断機を落とし火を点けたという。

13.無灯火車

 電車は夜になればヘッドライトとテールライトを点け、室内に照明がつけられるのは当然であり、最近のJRの電車は昼間 でも室内灯は点けっ放しである。
 電鉄の電車も夜になればこれらのライトは当然点灯していたが、連結していた客車は無灯火であった。これは電車と客車の間を 結ぶジャンパーケーブルという連結線がなかったためである。従って夜になると連結された客車の中は真っ暗となり、窓から 入ってくる薄明かりで人の顔がやっと判るくらいで、本を読むことも出来ず、只黙々と乗っているしかなかった。 その中でも 車掌は切符を売ったり、降りる客の切符を受け取ったりしていたから不自由なことだったろうと思う。
 その頃は家庭用の電力も不足していた時代であり、突然の停電があったりすることは日常茶飯事で、その他にもローソク送電、 線香送電などといって電圧を落として送電されるため、電球が薄暗く点るようなこともあったので、電車の中が真っ暗でも特に 文句を言う客もいなかった。
 テールランプというものは最後尾を示すものであるから、最後部の車両に点灯するのがあたりまえであるが、客車に電気が来て いないと当然の事ながらテールランプも点けられない。これを解決するため電車の前後の腰板に付いていたテールランプを腰板の 下にぶら下げるように改造した。これにより客車を連結しても客車の車体の下を通して電車のテールランプが後部から見える ようになっていた。
 窮すれば通ずというか、苦肉の策といえよう。
 その後暫くして総ての電車と客車にプラグとジャンパーケーブル(連結線)が整備され、夜になると増結の際、駅員や車掌が ジャンパーケーブルを持って接続して歩く姿が見られ、暗闇客車も解消した。

14.舶来品

 前にも書いたが我々学生達は通学時には運転手の両脇に陣取り、前方を見たり、運転手の一挙手、一投足に注目していた。
従ってコントローラーなどは毎日目にしていたが、運転手の左側にコントローラーがあって左手でこれを操作し、真中よりやや 右手にブレーキ弁がありこれを右手で操作した。
 現在では米国製より優れた国産品は自動車、電子部品等いくらでもあるが、敗戦直後の日本では総ての物資が不足し、あっても 国産品は品質が悪く、それに比べて外国品、特に米国の品物は総てが上等に思え、煙草やチョコレートなどは憧れの品だった。
 所が我々が毎日目にする51型のコントローラーの表面にはGENERAL ELECTRIC CO.LTD.という 浮き出し文字があったが、その当時、GEという会社がどういう会社か知らなかった私も、その中にMADE IN USAと いう文字もあったので、アメリカ製だからいいものなのだろうと考えていた。
 この文字はコントローラーだけでなく、高速度遮断器の表面にもあったから、この2点だけでなく、モーターを含む電装品は 総て米国GEの製品が使われていたものと思われる。なお連結器にはSHARONという浮出し文字があったのを覚えているが、 これも有名な米国の自動連結器メーカーである。
 51型は電鉄が電化したとき購入した1型の電装品を流用したが、1型を製造した大正末期という時代は車体は国産出来る 能力があったものの、電機部品は国内の需要を満たすだけの力がなく、輸入品を使わざるを得なかったのだろう。
 市内から通学していた友人の話しによると、熊本市電のコントローラーにはWESTING HOUSEと書いてあると いっていたからこれも米国の有名な電機会社の製品だった。


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