合田香語録

中央大学マンドリン倶楽部にありがたいことに10年以上お付き合いくださっている合田香氏の、倶楽部の演奏会プログラムに寄せてくださった文章です。

ごあいさつ

昨年の演奏会以来、一年ぶりに皆様へのご挨拶を書いております。今年はワープロで書いて(打って)います。最近よくワープロで書きます。字が下手なこともありますが、自分の書いた文章を保存しておける便利さからと言うこともあります。しかし親しい相手に手紙を送るときには自筆で書くようにしています。自分がもらった時に相手に字を見て懐かしく思ったり、その人の人柄を思い出したりするのと同じように、相手もそう感じてくれるだろうと思うからです。しかし、またはワープロの機械によって打ち出された文章からもその人のイメージが浮かび出ることがあります。その人、独特の語り方があるからでしょうか。

私たちは人に手紙を書いたりするときにいろいろな方法を使います。それは鉛筆で書くこともありますし、ボールペンや毛筆の時もあります。それらは、その書く人の条件や、相手の条件、その内容によって異なるでしょう。毛筆で和紙に書かれた手紙は、大変改まった感じがしますし、若い女の子からの手紙はやはり可愛い便箋でほしいな と思います。型にはまった報告や、話しかけるようなもの、愛を告げる手紙、別れの手紙・・・伝えたい内容にあったスタイルも重要なポイントでしょう。

でも本当に伝えたいことがあるなら、広告の裏に、鉛筆で走り書きしたものでも十分に相手に伝わります。体裁が整っていなくても人を納得させることが出来ます。人を感動させることが出来ます。その手段やスタイルがどんなものであっても、その人の中身が見えてきます。思っていることが、真面目で深いものであるならば、相手はそれをしっかりと受けとめ感じることができるのです。

文章を書き始めるといろいろなことに目がいったり、たくさん考えすぎたりします。でも、最初に会ったのは「想い」のはずです。物事が動き始めたときに最初に会った気持ちが薄くなってしまうのはよくあることです。でもそれでは本当の目的の方向に動いていきませんし、本当の自分は伝わりません。重要なのは、自分の気持ちを大切にすることと、それを持ち続けることです。

音楽という手紙を書くときも同じです。鉛筆(楽器)とか、便箋(曲)にだけ目がいってないでしょうか。自分の中の気持ちを大切にしているでしょうか。私はこのクラブのメンバーに心のこもった手紙を書いてほしいと願っているわけです。(今夕皆様に届く手紙が彼らの心のこもった手紙であることを願って・・・)

1990・11月

合田 香


92年 秋の定期演奏会に寄せて

もっと歌って!とか音楽的にとかいわれるけれど…

言うまでもなく、音楽は感情の表現です。音楽には風景の描写や事柄の描写もありますが、それもまたそれぞれのことを見聞きして感じた「感情」に違いありません。日本人はどうもこの「感情」を表にあらわすことが苦手です。欧米の人たちと話をしていますと彼らは身振り手振りで表情豊かに話しかけてきます。しかし我々は「フムフム」と頷くだけか、「ニヤニヤ」しているだけです。

それは「感情を表に現すこと」が苦手だからだけでしょうか。
私は「しっかりと感情を抱く」事も苦手なのではないかと思っています。それは「感情が沸いてこない」事とは違います。度合いの多少の違いがあっても誰にでも感情は沸いてきます。しかし、今自分の中にどういう感情があって、それをどう発展していくか「認識」することは下手です。
「しっかり感情を抱くこと(自分の感情を認識すること)」は自分の気持ちを大切にすることです。悲しいことが合ったときにはその悲しいことを、うれしいことはそのうれしさを心の中に刻み付けなければ行けません。
今の自分の気持ちを真正面から見据えてその感情に対面することが必要です。逃避することなく。

感情体験においてもうひとつ大切なことはそれぞれの年齢にあった経験を(感情の認識)を積み重ねていくことです。小学生のときには小学生の、高校生のときには高校生の感情経験をすることは大切です。なぜなら、もう私たちは、子供の気持ちにはなれないからです。10代の時の恋愛の感情は20代で味わうことはできません。
たとえそれが初恋であっても。
ある一時期の感情の欠落はそれに続く感情を生み出しません。感情の沸いてくる度合いはこの感情の積み重ねの度合いによっても左右されます。

「感情の起伏」と「感情経験の積み重ね」こそこれこそが「個性」に他ならないのです。
どうか、日々の気持ちを見つめて……


第69回定期演奏会に寄せて

第69回定期演奏会に寄せて

中大マンドリン倶楽部の秋の定期演奏会をまた迎えることができました。最近の中大マンドリンについて感じることは、以前とは少しずつ変わってきたような気がします。それは、明らかにこの倶楽部の成長によるものでしょう。私も忙しくてなかなか以前のようにたくさんクラブに教えにくることはできないのですが、そのわずかな時間の中で、彼らとの練習を通して、心のやりとりをすることができるようになりました。

うれしいものを喜び、かなしいものをかなしむ。
彼たちが、それぞれの心の中で感じ、はぐくみ、そして語ってくれる「思い」を、仲間で感じ合い、大きく増幅させて、私に語りかけて来ます。
きっとこの「語りかけ」を今日聞いて下さるみなさんも、同様に「聞いた(感じて)下さることでしょう。
そう、彼たちは、「楽器を弾く人」から「心を語る人」になったのです。
今夜、同じ空間で、ステージの上と客席で「気持ちのやりとり」が出来ることを祈っています。

第71回定期演奏会に寄せて

さて、秋の定期演奏会プログラムに「ごあいさつ」を書く季節がまいりました。

今年は例年になく多忙な秋になってしまい、個人的な忙しさのため練習にちゃんとこれなかったのですが、反面、青山先生や前野氏が適切な指導をしてくださっていて、中大マンドリン倶楽部はある意味で安定した時期にあるのかもしれません。例年秋のプログラムに「ごあいさつ」を書くことが定例になって、それが中大マンドリン倶楽部のメンバーや関係者、また時には演奏会に聴きに来てくださっている方へのメッセージのような文章になってしまっています。倶楽部の関係者や毎年演奏会を聴きに来てくださっている方の中には、今秋のプログラムに私が何を書くのだろうと思っている方がいらっしゃるかもしれません。

いままでも部員にそう話してきましたしプログラムにも書いてきましたが楽器を演奏するのという行為、合奏するという行為が普段のごく当たり前生活とかけ離れたものではありません。むしろその人そのもの、社会生活そのものがあらわれてしまうと言ったほうがよいのかもしれません。普段どんなに別の顔を作っていたとしても、演奏をするとその人の内面が、何を考えているのか、今までにどんな経験をしてきたのか、何が好きで何が嫌いなのかすべて演奏に出てしまいます。また合奏をしてもそれは一緒です。華やかな表舞台を担当する人、その裏でメロディーを支える人、全体が軽やかに進みようにテンポ作る人、そして出番は多くないけれど、そんなに目立たないけれど、いい味だして、雰囲気を盛り上げるのに大事な人。合奏―それはそのまま社会の縮図です。

毎日がんばって練習をして、いい合奏が出来るようになったら、そのときは人間としても大きく成長しているはずです。(ホントかなー?)(それにしてもプロの音楽家にはわがままが多いよなあー)しかし、ホントの話、指揮をするということは人前で自分の内面をさらけ出していると同じです。ですから、今宵演奏を聴きにいらっしゃる皆様には指揮者の人間性と中大マンドリン倶楽部の実体を赤裸々にお見せすることになるわけです。

そう思って演奏会をご覧になると、昼間のテレビのワイドショーをご覧になるより面白いかもしれません。(一部夏場の怪奇映画の場面が混じることがございますがあしからず…)

くれぐれも申し上げますが、演奏上の醜い人間関係やおぞましい性格を垣間見ることがありましても、それは崇高なコーチ陣の影響を決して受けたものではございません。

なにはともあれ、今宵もゆっくりと演奏会をお楽しみください。

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