しおしおの音楽バイオグラフィー

 

中学生まで

愛知県生まれ。

母によると、胎教と言うことでクラシックをおなかの中でたくさん聴いたらしい。だからと言うわけではないだろうけどクラシック音楽が性に合う。4歳時に横浜市緑区に移る。
そのころからヤマハ音楽教室に通い始める。優等生ではなかった。ここでは1年間に1回くらいみんなで弾く演奏会(つまり合奏)に参加している。 いろんなとこ(横浜周辺)にヤマハ音楽教室があって、10教室くらい集まって合同で演奏会をしていたわけである。 神奈川県民ホールの舞台に立った。ヤマハ音楽教室は中学入学時くらいまで続けていた。ずっとエレクトーンを弾いていた。練習していないでレッスン(4名程度の合同レッスン)に行って、ひけなくておこられたら、今で言う逆切れして泣き出して、女の先生を困らせてしまったことをよく憶えている(どうしようもないがきですね)。勉強に集中しようということで音楽教室は止めた。
中学では音楽関係の部活には入らなかったので、約3年間空白期間となった。(勉強おたくになった・・・私の人生で唯一勉強が楽しいと思った時期)そう言えば学校内の合唱大会があったような(音痴だったが)

中附(中央大学附属高校マンドリン部)時代

何の因果か中附に入学した。私は、中学3年間で完全な対人恐怖症になってしまい、初対面の人とまともに話せなくなっていた。わたしの高校三年間はサークルにも入らず、ほとんど人とも話もせず(というかできず)すごしていく予定だった。しかし、幸いというか私はマンドリン部に入ることになって、すこしだけ人と話す機会が持てたのかな。
  私にとって合奏を初めて聞いたときの衝撃は大きいもので、こころが揺さぶられた。また、このときわたしはコントラバス様に出会った。中附の卒業文集でコンバスへの愛を語っているので以下に載せる。「入学してふた月ほどのころ、私はマンドリン倶楽部でコントラバスと云うばかでかい荷物を与えられた。部室棟から4階の教室まで(校舎からだいぶ離れていた。でも通路に屋根が付いていたので雨でも、傘さす必要は無かった)毎日放課後、そのでかぶつを運んだ。コントラバスは常にオーケストラの陰にまわり単調なリズムを鳴らす。その音色はお世辞にも美しいとは云いがたい。ガーガー・ゴーゴー・バーバー・ザッブゴ・ドゴドゴ。こんな楽器も私が3年生になったころは、少し弾けるようになった。いまは重く低くゆるやかなひびきを愛している。」
  私の高校時代のコンバスの弾き方は、まともに習っていないのでとてもひどかったかな。ひどく右腕が疲れた割には、ちゃんとした音は出ていなかったようだ。ただし、合奏に参加したときはなにか変な自信があったようだ。臆病な人間がいきなり表舞台に出てしまい、こわくて目をつぶって、とんでもないことをしでかす(自身のコンプレックスゆえに)ような弾き方、合奏への取り組みをしていたように思う。それはそれで音楽的には(?)よかったのかな。なんでだか、誉められることも多かった。勿論音楽的・技術的なことではないけど。先に私の対人恐怖症を上げたのは、それが当時(今もかもしれないけど)の私の音楽に素直に出ているような気がしていたので・・・。

大学(中央大学マンドリン倶楽部)時代

大学は、素直に内部進学にて、中央大学に進んだ。
して、音楽的に進路としては、私に二つの選択肢があった。それはオケを取るかマンドリンをとるかという事。そして、マンドリン倶楽部でコントラバスを弾くことを選んだわけだが、理由としては、大学で新たに知り合い(友達)作れなさそうだから、知り合い(友達)が多くいるマンドリンにしようということが一番かな。およそ音楽的理由とは遠いなあ。今考えてみると、オケに進んでいても、それなりに友達も出来ていただろうになあと思うのだが、まあ、腐れ縁の友人との付き合いというのもいい物である(なんせ、高校から同期とは11年くらいの付き合いになるわけで)。
大学入学当時は(今もかもしれないけど)、ほとんどクラシックを聴いていなかったし、オケにそんなに興味があったわけでも無い。というか、他ジャンル音楽を聴いていたわけでも無く、暇なときはTVゲームするか(ファイヤーエムブレム等)、地図でも見てたかな。結果的に振りかえると、大学のクラスでは、ほとんど知り合いを作れなかったわけで、その点では私の読みは正しかったわけである(・・・)。


  大学から、プロの先生のレッスンを受けるようになった。きちんとした基礎をやってこなかった私は、師匠のもとで、まず、左手のポジションをみっちりと行った。大学1年当時その練習の重要性はさしてわからず、単調の練習をとてもしんどく感じたものであるが、しかしながら、だんだんと確固たる音(これまで出してきた音と違う音)が出るようになってくるのが分かった。
私のCbの師匠は、こんとらバス人は変態であるという通説にたがわず、一癖七癖ある方であった。最近は、お会いしていないのだが、学生時代は、月2から3のペースでレッスンに通っていた。。行くまでの道のり(高円寺駅から師匠のお宅)がとてもどきどきしたが、レッスンが開始されると、次第に気分がほぐれてきて、乗せられていくのである。ほんと、不思議な物で、自分でもびっくりするすんごく良い音が出るときもあったのである。師匠のお言葉で印象に残っているのが、「小型車でなくて、高級乗用車のように、余裕(余力)ある音が出せるようなりなさい」とか、「壁を通り越して遠くの方に音を鳴らす気持ちで」とか「まず、気持ちを抱いて、イメージを持って弾きなさい」等々である。メンタルな部分も多かった。その指導法はとても論理的で、技術的なアドバイスももちろんいろいろあったのですが、そっちは、あんまり憶えていなかったりしている。体の方がおぼえているのかな。
  (続く)

 院生(アマオケデビューなど)時代

、、、工事中よん

カタリへ戻る