白剣 剣報

                            2002年 2月号


私の師匠であった故 中尾 巌 範士八段が、剣道は「精神と肉体の反比例の一体」であると良く聞かされた。
私は40代後半でその意味が良く理解できなかったが、現在に至ってやっと、こんな事ではないだろうか
と言う事が見え始めたような気がする。

昔から剣道の先生方がよく言われる言葉に「お相手を攻めて打て」「体の力を抜け」とか「右手の力を抜け」と言われる事があり、私も良く聞かされたし言われたものである。
その時はなるほどと理解は出来るのだが、先生の言われる通り上手く出来るものではない。
その後、私も色々と技術について研究し、己自身の身にも付いて来て指導が出来るようになり、昔先生方に教えられ私が言われてきた事を今度は私が指導する立場になりました、今日まで長年にわたり同じ事の繰り返しの指導である。
「肩の力を抜いて」とか「丹田(ヘソの下)に力を入れろ」と言った具合で部分的な指導しか出来ない。
どんな先生方もこの様に同じような事を指導されているのではないでしょうか。
この様な部分的な指導で段々と良くなって行く者もいるが、いくら注意しても体の硬さが取れない者も多くおり、何故に肉体を柔らかくする必要が有るのかと言うのを先生から言われよく解かっているのだが、それがなかなか出来ないのである。又逆に体が硬くても打てるのではないか?何故右手に力を入れ打突するといけないか?と疑問を持つ者も出てくる。
この解明は実に難しくそれは精神の解明から始まり数多くある動作(肉体)の解明もして行かなければならない。
しかし、稽古の最中に一人一人にそれら1つの動作及びその時の精神状態を説明出来る物ではない。
私は常々「何故、体を柔らかくしなければ成らないか」という事に対して、どのように説明すれば理解してもらえるのだろうかと考えて来ました。
そして、先日ふと思いついた事が有る、精神(心)の中に「行くぞ、行くぞ」とゆう攻めの気迫が出てくると肉体(肩、肘、手首、胸、足等)に自然と力が入ってくる。また体の力を抜いてと言うと元気も無く打突にも
敏捷で無くなり、何か気合の抜けた稽古に成りがちである、これらの状態は人間として当たり前である。
つまり精神と肉体の正比例である。
「体の力を抜いて」と言う事を先生から聞いて自分では解かっているが、さてそれを試合や昇段試験等、いざと言う時に、精神には気迫を込めて、一方では体を柔らかくすると言うことはなかなか出来るものではない。
これが普通の剣道をする人であると私は思っている。
そこで、私はこれらの事が師匠の言われた、剣道は「精神と肉体と反比例の一体である」と考えた訳である。
常に静かに、そして見るからに威風堂々たる姿勢、態度で体には力を入れず、基本正しく構える。
しかし、精神(心、気持ち)は、お相手を攻める、「行くぞ、行くぞ」「隙があれば打っていくぞ」「打ってくればすりあげるぞ」「抜くぞ」「突くぞ」等、といつでも打突出来るように絶えず動いている、
これを「常静心動」と言う。
つまり「行くぞ、行くぞ」の攻めの精神と柔らかい肉体が一体となった時初めて、気剣体の一致の動作が生まれて来るものである。
精神(心)は攻めの気持ちすなわち気迫が自然に攻めと言う形になって行く、しかし、自分が攻めているのだとゆうのは思い違いである。
攻めとはお相手が感じる事であり、お相手が感じなければ本当の攻めとゆうものでは無く、攻めをお相手が感じて初めて攻めと言うものが存在するのである。
昔、ある先生が稽古の時、自分は剣先を効かして攻めているのにお相手はなんら関係なく打突し、その先生を打ってしまった、そして稽古の後、その先生は「私が剣先を効かしているのに打って来るのは間違いだ、それは無茶な打ちというものだよ。」と話されたそうだ。
もし無茶に打ってくれば剣先を喉元に付けておくとか、打突に対して先に打つ、すりあげる、抜く、返すとかして初めてそのお相手に「無茶な打ちだよ。」と言う事が出来るのでは無いでしょうか。
いくら先生と言えども剣先の攻めだけでお相手を制することは出来ないと言う事である。
本当の攻めは剣先だけのものでは無く、精神(心)の中から出てくる物であると思います。
これも即席の攻めでなく常に稽古の中から自然と出来あがるものである、そして右手は小指を絞め、柔らかく竹刀を握っていれば、その中で手の内も良くなり、打突する動作も敏捷になり、速く打突する事が出来る、また体捌き、足捌きも良くなってくるものである。
では、体の力を抜くと言うのはどうすれば良いのだろうか?それは力をそのまま抜くのでは無く、剣道における自然体に構えるのである、剣道における自然体の構えとは精神と肉体の反比例の構えである。

1まず丹田に力を入れる、これは剣道における根本的な力であり、この力を抜くとすべての動作は死んで しまう。
2肛門を絞めて立ち、足は左右をぴっと伸ばし、右足の右側面にひずみが表われないように足の筋肉の力だけを少しだけ抜く。打って行く時は左ひざを曲げる事無く左かかとを上げながら左足五本の指の付け根の部分で強く蹴り、右足は付け根から体と腰と共に前に出し気剣体一致で踏み込む、踏み込んだ瞬間、右ひざはやや曲がり全体重は右足に掛かりそして左足は自然に右足の後方に付いて来るようにするそうする事により、2段、3段の連続技が出来る。
3手の内の冴えとは、指で竹刀を握る方法、すなわち力の入れ具合を示すものである、小指だけを絞め  る気持ちで握ると薬指、中指はただ竹刀に付けている状態で小指と共に自然に無理なく絞まってくるも のである、人差し指、親指は力を入れない。この様にして握る事により手首も自然と柔らかくなり打突も 冴えて来るものである。
 しかし、その手の内のとはただ竹刀を握るものでなく5本の指は、すりあげ、返す抜く、等、千変万化の 技に応じ竹刀を握る指の活動が変化しなくてはならない、これも右手に強く力を入れ握っていると、この ような技術は出て来ない。
4胸のあたりに力が入ると言う事は、丹田に力が入っていない事であり、肩に力が入っている、肩の力を 抜くには首筋の「うなじ」を軽く上に伸ばし肩を下げる、これは打突時に特に必要である。
5腕の力を抜くには4、の要領で肩の力を抜き3の要領で竹刀を握る、すると腕の力は自然に抜けて来る ものである。
 胸だけ肩だけあるいは腕だけに力が入ると言う事はまず無いものであり、それぞれが相互作用し関連 している。


このように人体の要所要所の力は必要であり、これらの各部分的な力の入れ具合によって正しい自然体の構え及び千変万化の技術が生まれて来るものである。
これが先生方の「力を抜きなさい」と言う事である。
禅の言葉に「不立文字」と言う言葉がある、これは、他人に言葉や筆あるいは動作で教える事の出来ないと言う事だが、剣道にも言えることでは無いかと感じる。
人体の各部分の力の入れ具合はまさに「不立文字」だと思います、言い換えれば、他人はこれを理解し解かってくれないと言う事になる。
したがって、これらの点に注意して常に心掛けながら稽古を行う事であり、当分の間は打たれるかもしれないがそれを辛抱して常の稽古の中に自ら体得しなければ成らないのである。
そうする事により必ず、精神と肉体の反比例の一体が成り立つとものと信じてやまないものである。
この、精神と肉体の反比例の一体が解かり、実践する事が出来るようになり一歩、奥に入れば自然体の構えが自ら無心の攻めとなってくるものであり、隙があれば水が高きより低きに音も無く流れる如くさぁ〜っと打突しているようになって来るものである。
このように、剣道はいかに精神(心)が大きいウエイトを占めるかと言う事である、剣道が立派で大変上手な人も人間である。
同じ人間が他人の出来る事を出来ないと言う事は無いはずである(なかなか出来ませんが)。
この精神で必ず出来ると言う信念を持って今後も大いなる努力を願うものである。


                 文 一岡正紀  

剣道は精神と肉体の反比例の一体

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