あかつち
赤土に浮かぶ家




 歩くたびに石と石が引っ掻き合う音がしていた。靴底の溝に小さな石が挟まっているのだ。今日の配達先の一つは砂利だらけの所だったからそこで拾ってきてしまったんだろう、とアルベルトは思った。もっとも時計の上ではあと数分で明日だ。そんな時間だからこういう足音が耳障りなほどにはっきりと響く。
 部屋に入ると、ドアについた郵便受けの中に白い物が見えた。手を入れて取り出すと、一通の小さな封筒だった。白い封筒には切手も消印もついておらず、宛先の住所もや差出人の住所も書かれていない。ただ宛名と差出人名が封筒の表側に記してあるだけだったが、それを確認するまでもなく、ポストに入っているのを見た時からアルベルトには送り主が誰か分かっていた。封筒の中にはカードが入っていて、こう書かれてあった。
『アルベルトへ。お仕事お疲れ様でした。これを読む頃はどうせもう日が変わっているでしょう。お誕生日おめでとう。三時に会うのが楽しみです。私たちの休みが被ってくれるなんて、神様ありがとうって思います。今からぐっすり眠れるといいですね。   ヒルダより』
 アルベルトはカードを封筒にしまうと、シャワーを浴びた。一日中アクセルを踏み続けたために固く張った右足をしばらくの間マッサージして、それから目覚ましをセットし、枕の下に封筒を敷いて目を閉じた。だがすぐにまた目を開けて頭を起こし、枕の下に手をやって封筒を取り出すと、それを枕の横に置いてもう一度目を閉じた。

 待ち合わせの場所に来ると、ヒルダはすでにそこにいた。前に会った時は半袖だったが、今日のヒルダは長袖を着ていた。アルベルトと目が合うと、ヒルダは顔をほころばせて「おはよう」と言った。ヒルダがアルベルトの手を取って、「はい、道知ってる人、案内して」と言い、二人は歩き始めた。
「ヒルダ、昨日カード読んだよ。ありがとう」
 アルベルトがそう言うと、ヒルダは触れて欲しくないことを話題にされたような顔をしてこう言った。
「そう? あんな小っ恥ずかしいもの読ませて砂吐かれるんじゃないかと思ったけど」
「くたびれて帰ってきた時にああいうのがあると嬉しいよ」
 ヒルダが柄にもなく照れているようなので、アルベルトは、そんなことはない、という気持ちを込めてそうつけ加えたが、こちらがいくら喜んだところで、それはそれで鼻につくような気がしたので、すぐに次の話題に流した。
「もう長袖着てるのか、寒がりだな。夜ならともかく昼なんてまだけっこう暑い時も多いぞ」
「私もそんなに寒いわけじゃないんだけど、なんかちょっとでも涼しくなると物凄く寒くなるような気がしちゃって」
 それからしばらく二人で歩いていると、アルベルトが「あ、あそこだよ」と言って一軒のカフェを指差し、二人はそこへ入っていった。今の時間、大抵の店なら入り口の外にまで客が並んでいるのが普通だったが、この店の席は丸テーブルが一つとカウンターが三つ空いていた。アルベルトたちはテーブル席に座った。
「日曜のこの時間なんて並ばなきゃいけないかと思ったけど、座れたね。アルベルトの言った通りだった」
「日曜なら、みんな町の真ん中にあるもっと広々した店に行きたがるもんさ。まあ、ここいらはこの店にしろ他のどっかにしろ、日曜にわざわざ行くって感じのとこじゃないからな。むしろ普通の日の方が、ごった返してるよ。お前、何にする? ケーキならあっちで種類が選べるぞ。まあ、三つしかないけど」
「私はアルベルトと一緒でいいよ。飲み物もコーヒーで」
 アルベルトはそうか、と言うと、奥の方にいる店主を呼んだ。太って頭の禿げ上がった初老の店主がどた足でやってくると、ぶっきらぼうに二人の注文を聞いた。色褪せた縞のシャツの上に重なるエプロンには、茶色の染みや黒い焦げ目が無数についていた。注文が運ばれてくるまでヒルダは店をきょろときょろと眺めまわしていた。アルベルトは少しばつが悪げな目をしながらヒルダに言った。
「なんだ、ゴキブリでも見つけたのか?」
 ヒルダは笑って「ううん、そうじゃないわよ」と言い返した。
「この店いつからあったのかなって。なんか焼け残りっぽくない?」
「ああ、実際そうだ。ほとんどの部分は後から足してんだが、戦中から続いてるとこだ」
「やっぱり。けっこう継ぎはぎがあったからそんな気がしたのよ。アルベルト、どうしてここを知ったの?」
「いや、前に仕事でこの辺を通りがかった時、昼飯で入ったんだ。それから休みの日にまた来て、そん時食ったパイが旨かったからたまに来るようになったんだ」
「ラッキーだったね、お気に入りのとこ見つけて」
「店ん中がいまいち綺麗じゃないけどな」
「そんなの、別に変な匂いがしてるとかじゃないし、気になるようなとこなんてないわよ。私たちにはちょうどいいくらい」
 それは言えてるなとアルベルトが言い、二人は笑った。
 店主がまた二人の席にやってきて、注文した品を置いていった。コーヒーのソーサーにカップの中身がいくらかこぼれていたが、二人とも気にしなかった。ヒルダは早速コーヒーの隣に置かれたパイを食べた。
「本当だ、おいしい」
 そう言ったヒルダの顔を見て、アルベルトは少しほっとしつつ自分の分を食べ始めた。二人が食べているのは葡萄のパイだった。と言っても生の葡萄を包んで焼いているわけではなく、砂糖漬けにされたものを包んで焼いたものだった。だがアルベルトは昔からそれが好きだった。
 ヒルダは大事そうに最初の何口かを食べていたが、何かにはっとしたように、唐突にその手を止めた。
「ごめん、食べる前におめでとうって言うの忘れてたわ」
「・・・いいさ、そんなもん」
 お互い綺麗に食べてしまって、その後も小一時間ばかり些細な話は尽きなかったが、どちらからとなくそろそろ場所を変えようという感じになって、席を立った。ヒルダはレジの前に立つと、後ろにいるアルベルトに「はいはい、いいから店の外に行ってて」と言った。アルベルトは「ああ、ありがとう」と言ってヒルダから下がったが、店の外には出ずにドアの傍で立っていた。
 勘定を終えて財布をバッグの中に戻しながら、ヒルダは壁際にふと目を留めた。さっき席にいた時に眺め回していた際にはてっきり古い棚か何かだと思っていたのだが、今こうしてさっきより近い所からよく見てみると、それはアップライト式のピアノだった。もっともどう見てもそれには楽器としての威厳はなく、花が植わった鉢がごろごろと上に置かれてあったりした。
「見て、アルベルト。ここほら、ピアノがある」
 そう言ってヒルダは、そのかつては楽器としてのピアノだったかもしれない物の前に近寄って蓋を触り始めた。アルベルトもヒルダの隣に来たが、ピアノにはちらっと目をやっただけで、あとはむしろヒルダの仕草を見つめていた。
「なんだろう、前は誰かがここで弾いてたりしたのかしら」
 ヒルダが蓋の隙間に指を入れて上に押してやると、蓋は簡単に開き、中から黄味がかった鍵盤があらわれた。アルベルトが店主の方に目をやると、店主は他事をこなしながらこちらには目もくれていなかった。鍵盤に手を触れようとするヒルダにアルベルトは、
「昔はどうだか知らないが、こいつは音なんか出ないさ」
 と言った。ヒルダが指で鍵盤を押すと、はたして木材と木材が当たる無骨な音が鳴った。ヒルダは他の箇所にも指を当てたが、どこも同じだった。
「本当だ。壊れてるのかな」
「戦時中に弦を供出しちまったんだとさ。だから今じゃでっかい置物だ。客でお前みたいなのが勝手に触ってもどうってことないってわけだ」
 アルベルトはそう言いながら、ヒルダがでたらめに鍵盤を押しているその横で、右手を動かして何かを弾いた。するとそれを見たヒルダがすぐにこう言った。
「あ、今の。『埴生の宿』だ」
 アルベルトは「これっぱかしでなんで分かった?」と、少し驚いて言った。
「ドーミー、ファファーソソーでしょ? 別に習ってたわけじゃないけど、これは知ってるから、指だけでも分かるわよ。まあ、この最初の音をちょっと知ってるだけだけど。アルベルトなんて、このくらいだったら今でも両手で弾けるんじゃない?」
「そうでもないさ。左手の方はもう忘れたな。まあでも子供用みたいな曲だからな、右手の方は覚えてる。最後のサビの所の、ソから高い方のドに行ってまたすぐ低い方に戻る所がちょっと難しかったな。しかもここ二回やらなきゃならんし」
 そう喋っていると、店の中に新たな客が数人入ってきた。さすがにこれ以上の長居は気がひけると、アルベルトたちは店から出た。

 また駅に戻る道を歩きながら、ヒルダがアルベルトに言った。
「さっきの、なんか気を悪くしちゃったりしたかな・・・。だったらごめん。あんな物わざわざ開けて触ったりして。なんて言うか、ちょっと珍しいなって思ったもんだから、つい・・・」
 アルベルトが昔ピアノをやっていたということは知っていても、アルベルトがどういった事情でそこから遠ざかってしまったのかは知らないヒルダは、自分が無自覚の内にアルベルトを嫌なことに触れさせているのではないかと不安だった。
「なんだそんな、気なんか使って。いいよ、そんなの気にするなよ。ピアノだって音楽だって、どこにどうあろうがそれでこっちの気分が左右されるってもんじゃない。それになんて言うか・・・」
「なに?」
「ちょっと、懐かしかった。不思議なもんだ」
 そう言ったアルベルトの顔は、実際ヒルダから見てそれほど悲しそうではなかった。
「ふうん。よかった。ちょっとほっとした」
「でもまあ、習っていた頃は結構辛かったもんさ。俺は三つかそこらの頃から母さんに教わって始めたんだけど、何しろきつい人で、よく弾いてる手をバシバシ叩かれたもんさ。こっちはこっちで、間違える自分が悪いんだって分かってても、好きで間違えてるわけでもないから、腹が立つやら悲しいやらで、しまいにゃ泣き出しちまう。でもそうすると、益々雷がひどくなるんだよな」
「それは恐いわね」
「子供にとっちゃ、そりゃな。でもガキなんて所詮現金なもんで、その後メシ時にでもなりゃ、けろっとしてるもんなのさ。その点、親の方が辛かったろうさ、あれだけきつく当たっといて、どの面下げりゃいいんだかって・・・。まあ実際向こうはどう思ってたんだか、分かりゃしねえが。別に自分が親の立場とかそういうのじゃなくても、ある程度年食ったからかな、あの時本当はもしかしたらとか、そんなこと考えちまう。ガキの頃はこれっぽっちも思わなかったけど・・・」
 ヒルダはアルベルトの肩に頭を寄せてこう言った。
「そういうこと言うから好き」
 アルベルトは黙ってヒルダの頭を撫でた。今日が終われば二人の休みの日が合わさるのはまた当分先の話であった。だが二人とも歩を早めようとはしなかった。

 一日というものがただただ先の方へ向かって過ぎていく。これはアルベルトがそう感じていた頃の一つの過去である。時間の上だけでならそこからすでに何十年という年月が、アルベルトの元から去っていた。その間に起こった諸々の惨劇や、つまらないしくじり、そしてそういうものからまたさらに生まれた一つ一つの奇妙な禍福は、それが彼にとって愉快なものであってもなくても、彼の心に頑なさを植えつけ、また、ある種の安寧をもたらした。

 その年のその日、アルベルトはたまたま日曜日に休みが入っていた。世間の休日と自分の休日が重なることはアルベルトにとっては珍しいことだった。とはいえ人ごみの中にわざわざ入っていかなければならないような用事も約束もなかったので、アルベルトはアパートで一人食事をしたり本を読んだりして過ごしていた。もっとも、今日が平日だったとしても彼の休日の過ごし方は変わらないのだが。
 夕方の五時頃コーヒーを飲んでいるとドアのチャイムが鳴った。何の気なしにドアを開けると、見覚えのある丸い頭が「よう久し振り」と言ってきた。アルベルトは予想していなかった訪問者に一瞬呆気に取られた。
「嘘だろグレート、なんだってまた・・・!」
「それよりおいおいなんだよ、ろくに確かめもしないで。悪い奴らだったらどうするよ」
 アルベルトは笑いながら、悪い奴らだったらチャイムなんかわざわざ鳴らさねえだろ、と言い返した。
「それよりびっくりしたな。てっきり宅配屋か何かかと思ったら、あんたか」
「いやあ、俺もまさかお前さんが今日いるとは思わなかったよ。そっちの仕事は時間が不規則だから事前に連絡とろうったって、捕まりゃしない。だからだめもとでひょいと寄ってみたんだが、いやあ、ついてた」
「それにしたってなんでまたこっちへ?」
「なに、俺ん中にいる旅の虫がまた騒ぎ出したんでね。すっぴんであっちからこっちって、飛んだり揺られたりしながら回ってんのさ。でまあ、そのうちこっちへ来たってわけで。・・・ああそれで、お前さん今日誕生日だろ?」
 そう言われてアルベルトは一瞬無言になってしまった。だがそれから即座に、言いたいことは分かってるぜ、これだろ? と言って酒をあおる仕草をしてみせた。「オーゥ」と歓声をあげて右手に持ったソフト帽を高く掲げるグレートにアルベルトは言った。
「さすが役者だ。セリフを直接言わなくても、根っこの本心はこっちに丸分かり」
「へへへ、じゃ年度始めの貴重な休みを頂戴させてもらうよ」

 二人はそれからほぼそのままで、アルベルトのアパートから地下鉄で繁華街の方に行った。二人ともその前に半端な時間に食事を済ませていたので、飲む方の店を探した。少し歩き回った後、二人は感じの良さそうな店を見つけて入っていった。
「まずはビールでいいか?」
「ああ、いいよ」
「摘みはどうする?」
「俺はいらないよ。外で飲む時は口は汚さねえ主義だ。お前さん好きなの頼みな」
 グレートは最初の乾杯で「ああ、まずはお前さんおめでとう」とぞんざいに言うが早いか、あっという間にジョッキを飲み干した。そのあとはひたすらスコッチウィスキーの水割りをあおり続けた。
「まったくあんたは底なしだな。どれだけ飲もうが平気な面して、潰れてるとこなんか見たことねえ」
 とアルベルトが言うとグレートは、お前さんだって弱い方じゃあるまい、と平素と全く変わらない口調で答えた。
「若い頃にな、衣装部屋から拝借して貴族の格好をして貴族の席に座ったんだ。酒場のな。まだ身分で席に仕切りがあった頃さ。俺は頭のてっぺんから足の爪先まで、どこまで称号持ちになりきれるかどうか試したのさ。俺みたいな輩がそんなことして、もしばれようもんなら撃ち殺されても文句は言えん。そりゃもう舞台の本番並みに緊張したもんさ」
 アルベルトはよくもそんなことをと呆れた顔でグレートにこう言った。
「本番並みって。ただじゃ済まないかもしれないっていっても、舞台の本番の方が修羅場だっていう風に聞こえるな」
「その通りさ。若い役者はそういうもんだ。特に俺にとっちゃな。で、俺は飲んで飲んで、ぐでんぐでんに酔っ払っても、あくまで貴族のように酔っ払うのさ。連中は酒の飲み方はもちろん、クダの巻き方一つとっても俺みたいなのとは違うからなあ。脳みそがとっくにとろけていようが、店を出てこっそり衣装を返しに行くまで、俺はぐっと芝居を続けたさ。何度かやったぜ、別の日にもな」
「鍛え方が違うってとこか。で、一回もばれずに済んだのか?」
 グレートは誇らし気にばれなかったぜと言った。
「同じ服を着て同じコトバを喋っていれば、誰にも分かりゃせんのだ。とかく浮世は化けの皮次第さ。ま、この手のバカなロイヤル・セルフ・アカデミーは他にもいろいろ設けて試したがな」
 ここのところは戦闘もないせいか、彼らが一番最近に会ったのはメンテナンスの際に日本に行った時だった。その時にしてもたまたま二人のスケジュールが近かったから顔を見ることができたのだった。今日のように何のしがらみもなしに共に過ごせることはそうそうあるものではないので、二人は時を惜しんで飲み、喋り、笑った。

 何軒か店をはしごして、夜中の一時頃にお開きとし、アルベルトとグレートはタクシーの乗り場を目指してひと気のない暗い道を並んで歩いた。二人とも酩酊状態ではなかったが、酔いと眠気でお互い言葉少なく、たまにどちらかが「眠い」とか「明日起きられるかな」などと呟いて、言われたもう一方が生返事をするという状態だった。「もう随分昔のことになるんだけどな」と、アルベルトが喋りかけた時も、そんな会話の延長のような感じで、それに対してグレートは「ふん」とも「うん」ともつかないような声を出して取り敢えず相手の言うことを聞くような素振りを見せた。アルベルトは昔雨が降る日に傘を忘れてずぶ濡れになった話でもするような口調で話し始めた。
「もう十年くらい前、いやそれよりもうちょっと前のことなんだけどな。今とおんなじ時期にメンテナンス受けに行ったんだ。ちょうど家と仕事が変わり目で、次の仕事場に入ってからだと、まとまった休みなんかしばらくとれないだろうからどうせなら今暇があるうちにやっとこうって、日本に行ったんだ。そしたらメンテをやってから一日二日おいた後の日にフランがケーキを焼いてたんだ。俺がどうしたんだって聞いたら、この間誕生日だったでしょう、でもメンテ前だったから後延ばしにしたの、あの日忘れてたわけじゃないのよって言ったんだ。驚くやら呆れるやらさ。だって俺はそんなつもりで来たわけじゃないし、そもそも言われるまで全然頭になかったんだからな。その日の夕食の最後にできあがったそれが出てきた。ろうそくや何かに飾られて。フランとジョーがハッピーバースデーって歌ってくれたりなんかして。博士は、いろいろ見直す書類があるからって言って、夕食が終わったらすぐに部屋に帰ってったな。ああ、あとジェットがいたよ。だけどあいつら、まったくいい加減にしろよって感じだよ。小っ恥ずかしくておかしくなりそうだったぜ」
 アルベルトは少し苦笑いをして言葉を途切れさせた。
「・・・でも嬉しかったよ、とても。本当にさ。ケーキだってとっても綺麗にできてたし、いい味してた。だけど、なんでか知らねえが旨くなかったんだ。いや、旨かったんだけど、なんかこう、どうにもしっくり口に染みなかった。別に何かに落ち込んでたってわけでもないってのに。まわりは心底俺を祝ってくれてるのに、弱っちまったよ」
 アルベルトは乾いた笑い声が混じった溜息を軽くついた。
「それ以来、なんだかばかみてえに気にしちまって、ちょうど空いてる日でもその時期は行かないようになっちまった」
 グレートはにやにやしながら、アルベルトをひじで小突きがらこう言った。
「なんだよお前、もしかして気にしてるのか? そんなもん損だぞ。そいつらただケーキを焼いて食いたかっただけだ。で、ついでにお前さんにも食わせたってだけのことだろうぜ。俺がていよく酒を飲みに来たようにな」
 グレートがそう言うと、アルベルトはいつものようなふてぶてしい口調で、
「まあ俺も大体はそうじゃないかって思ってるさ」
 と言ったが、その後が続かなかった。アルベルトはややしおらしい口調でどうにか流そうとした。
「悪ぃ、んなつもりじゃなかったが、気ぃ使わせるような話し方しちまったぜ」
「なんだ、そっちこそ気にするな。酒のせいさ。酒ってのはそういうもんだ。なあに、お前さんがみんなの気持ちをちゃあんと受け取ってたってのは、向こうさん方にも伝わってるさ。だって楽しかったんだろ?」
「・・・楽しかったさ」
 グレートはすぐには何も言い返さなかったが、やがてこう言った。
「俺もお前も一度は最高の夢を見た。・・・それでいいじゃないか」
 グレートはそう言ってからすぐ、「と、ちょっと芝居がかってたかな」と、ふざけたように言った。アルベルトは少し笑って、
「ああ鼻につく」
 と、グレートの顔を見て言った。
 表通りに出て人の行き交いが目立ち始めると、二人はまた無口になった。タクシー乗り場には何人かが列をなしていたが、後から後から新しいタクシーがやってくるので、すぐに乗ることができた。アルベルトはグレートを前に並ばせていたので、グレートが先に乗った。グレートは帽子を取り、
「今日はありがとうよ。明日寝坊しなさんな」
 と、次に発車する車に乗りかけているアルベルトに言った。アルベルトが「ああ、こっちの方こそありがとう」と返事し終わるか終わらないかのうちに、グレートを乗せたタクシーは遥か前方へと進んでいった。

 アパートへ向かうタクシーの中で、アルベルトはついさっきグレートが自分に訊ねたことを思い返していた。楽しかったんだろというグレートの声に、アルベルトはもう一度心の中で答えた。楽しかったさ、いつの昔も、と。その愛しさがどこから来るのか、アルベルトは知り抜いていた。
(だってそうだろうグレート。血のついた思い出しか愛せなくなったら、自分を哀れんでしまいたくなる・・・)
 アルベルトは後部ドアのハンドルを回して窓を開けた。冷たく澄んだ町の匂いが、タクシーのスピードの勢いで風となってアルベルトの頭を乱暴に包んだ。車内に風の音をばさばさと響かせながら、タクシーは鎮まりきった夜道を駆け抜けていった。