人にすすめるのに最も恥ずかしい漫画、サイボーグ009について柄にもなくファンのようなことを書いてみる。

自分で言うのもなんだが、こっから先の文章はかなり偉そう。




■「サイボーグ009」って
 同人誌作るくらいはまっているくせにこんなこと言うのもなんだが、作品として特別好きなわけではない。はっきり言って嫌いな漫画だ(・・って最初からもう悪口かいっ)。絵が汚い、ストーリーが投げやり。そして何が一番イヤって石ノ森章太郎のモノの描き方だ。「サイボーグ=人間じゃない」ってことで異形ネタや差別ネタがメインにきているが、差別的な描写を何の意識も持たずにやっている(としか思えない)ようなところがすごく嫌なのだ。異形ネタも差別ネタも嫌いじゃないけど(むしろ大好き)、そういう趣味を持っていることに対する客観性や、そういう描写を入れることに対する確信犯性がないもの――好奇心と顕示欲だけが暴走しているようなもの――は見ていて楽しくない。そんなわけで作品への思い入れはゼロである。自分の中でこの位置づけが変わることは、これからもまあ、まずないだろう。

 しかし作り手が実際無計画であろうが、これは多くの想像を掻き立てられる作品である。

 いきなりさらわれて気がついたら自分の体がわけの分からない物にされていたというのは、どんな気がするものなのだろう?
 体のほとんど全てが人工物というのは、どういった感覚が伴うものなのか?
 明らかに違いのある外見で人前に出るのは、どんな気分なのか?
 自分と同じ仲間に会った時、どう思ったのだろうか? 自分の改造と見比べて惨めになったり、優越感を覚えたりしたのだろうか? そして、そんなことを気にしたりする自分を恥じたりもしたのだろうか?
 初めて誰か(何か)を殺した時、あるいはその後、何を感じ何を思ったか?
 九人の間で人種的な偏見や、思想での対立はあるのだろうか? かつての戦争の記憶から、仲間であってもつい敵意をぶつけてしまうことはないのか? そういったことがあった場合、どんなジレンマが各々の中に起こるのか?
 必要不可欠であるとはいえ、ギルモア博士と一緒に過ごすことは本当にできることなのか?
 戦場は別として、彼らが市井の中で生活するには、物理的・精神的にどんなものが必要なのか?
 以前の友人や家族に、彼らはどう対応しているのか? 逆にその友人や家族といった人たちは、変わってしまった者をどう思い、どう接しているのか?
 そして、彼らはいつまで生きられるのか。

 で、他にもいろいろ妄想を膨らませているうちに、気がつくと同人誌作っていましたとさ。


■私はこうしてアルベルト・ハインリヒにはまった
 カタワでかっこいいから。て、理由じゃダメですかね。でも本当にそうなんだからしょうがない。

 009を初めて読んだのは高校生の時で、何気なく本屋で買った秋田の愛蔵版の第一巻(エッダ編)が最初に手にした単行本だった。その時は単につまんないマンガだなあと思っただけだったので、すぐに「そのうち古本屋に売っ払う本」候補となった。といってもこの最初に読んだ段階で005と004だけはなぜかちょっと気に入っていたのだった。

 その後、古本屋に本を持っていく機会は何回もあった。しかし、例の秋田の愛蔵版第一巻は結局いつまでも本棚にしまったままだった。本の整理をするたびに古本屋行きの紙袋の横に置く、まではいくのだ。しかし袋に入れる前に読み返していると、いつもあの白目・口真一文字の人が目についてしまい、結局元の所に戻してしまうのだった。これといった自覚症状もないうちに、私は奴に取り憑かれていたのだった。

 とは言え、この頃はまだ今程どっぷり浸かっていたわけではなかった。そりゃそうだ。私が高校生の頃と言えば、スラダンや幽白が全盛だった時代だ。そんな時代に「サイボーグ009」に食指が動くわけがない(従って、今持っている一冊の単行本以外の話を読もうという気も起きなかった)。第一、今持っている単行本にしたって、「年上のいとこに貰って」とかならともかく、自分で買って持っているなんて、人に知れたら美意識を疑われるというものだ。そもそも、作品を知っているだけでも相当恥ずかしいことだ。

 そういうわけで、何かの間違いでも起こらない限り、私がこのマンガにはまることなど絶対になかった。
 ところが・・・。その「何かの間違い」が起こってしまったのだ。98年5月25日、この日のBSマンガ夜話は「サイボーグ009」だった。私はこの番組のレギュラー陣は概ね好きな人たちばかりである。彼らの発言に共感することもわりと多い。だがまあそんな贔屓目があってもやはり生放送、回によって出来はいつもデコボコだ。そんな中、「サイボーグ009」の回はとても面白かった。やはりレギュラー陣が少年時代に親しんだ漫画だからだろうか、誰もが非常に熱く語っており好感が持てた(うざいタレントの類がおらんかったのも幸いした)。「この人たちがここまで言うんならよし、誕生編からヨミ編まで読んでみよう」と私は思い、それから数週間後、近所の本屋で文庫版をまとめて買ってきて読んだ。そうしてどうなったかはまあ、書かなくても分かるだろう(ボカ〜ン)。

 ちなみにBSマンガ夜話の「サイボーグ009」は、レギュラー陣の一部が暴走したため(笑)、この回の後日にいしかわじゅんが朝日の手塚治虫漫画賞で(自主規制)る羽目になった(暴走していたのは明らかに呉智英だと思うんだが。まあいいか(笑))。宝島の特集よりはマシだろうと思うのだが、まああの記事はこの番組の後だからなあ。しかしムツゴロウの弟といい、儲けるといろいろ突っついてくる輩がいるねえ、やっぱ。(注:私はこの手の話はあくまでネタとして楽しんでいるので、真に受けんといてね)


■24って
 うちの009小説はまあ大体シリアス小説だ。んで私がアルベルト・ハインリヒ好き好き〜っ、なので、大体それに偏っている(もちろん他のキャラもいろいろ書いているが)。カップリングとなると002×004だが、うちのハーさんは心も体も大変カタくていらっさるので、ジェットが報われることはないだろう。ま、でも私の書くジェットはそんなの屁でもないくらいガサツな人なので安心と言えば安心だが。

 アルベルトは仲間の誰かに「好き」って言われても、それに相手が望むような反応を返すことはないと思う。相手がジェットじゃなくたって、結果はジェットと同じだろう。この人が仲間を恋愛や肉体的欲望の対象にすることは有り得ない(決めつけ上等! 同人だもの(byみつを))。でもそれはアルベルトが人間的に高潔だからってわけじゃない。彼は誰にもどうしようもない運命を全部自分のせいにすることで、現実逃避しているだけなのだ。許すより自分を責める方が楽だからだ。彼はそれを男のダンディズムにシフトさせることで自分を保っている。ただそんだけの人だ。まあそこがかっこいいんじゃん! と私は思っているんだが。大体、どうしようもない運命から逃げようともしない人間なんて、逆に信用できんわよ。
 思えばここをアップしたのが二年前の10月。2と4に対する考えは今でもここから全く変わっていませんが、一箇所だけ変わっちゃいました。まあ、作品もキャラも生き物だと言うことで・・・。(2006.5.21追記)

 ちなみに私はアルベルトをあのキャラの中で一番可哀想だとか一番不幸だとか思ったことはあんまりない。あの改造のされ方が九人の中で一番悲惨だとも思わない。「サイボーグ009」で本当に不幸なのは一人だけ、ギルモア博士だけだと思う。


■今までのアニメについて
旧ゼロ(劇場版)・・・まあそれなり。二作目「怪獣戦争」のヘレナはきれいだなー。

旧ゼロ(テレビ版)・・・まあそれなり。でもほぼ同じスタッフで作られた「レインボー戦隊ロビン」の方が私は好み。

新ゼロ
・・・キャラデがかっこいい。音楽がかっこいい。主題歌が素晴らしい。でもストーリーはかなりアレな感じ。監督がボトムズの高橋良輔だったりするが、本領は全く発揮できていない。

超銀・・・つい最近まで自分内「最低の009アニメ」だった。脚本と演出がとにかくサイテー。アルベルトが一度死んで、その後あっさり生き返るってのがもう(怒)。しかも生き返った後、「俺をもう一度サイボーグにして下さい」とか言うんだ、仲間たちのすぐ傍で。いい加減にしろ。音楽は新ゼロと同じくすぎやまこういちなのでかっこいい。キャラデは好みじゃないが、当時としてはかなり良質な作画。

平ゼロ
・・・これに比べれば超銀の方がまだマシという、人類の底が見えるアニメ。第一話を見た日の晩、あまりに絶望的な出来に泣きながら寝た(それでも世間では評判いいんだけどね、少なくともこの第一話だけは)。アルベルトを主役にした第五話に到っては自己防衛本能が働いて、何も感じなかった(もっとも後からダメージがじわじわと・・・)。「これ以上見続けたらマジで死ぬ」と思い、途中から視聴をやめた。最後の方に到っては録画すら中止した。今でもこれが放映されていた一年が憎い。作った奴らは「もう殺して下さい」と言いたくなるくらいバットで袋叩きにしてやりたいが、まあ「人を呪わば穴二つ」というから、あんまり言うのはやめておこう。
 ちなみに私の周囲の同人仲間の内ではこれは「没ゼロ」と呼ばれている。

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