スカイダイビングのページ

スカイダイビング記

1  ファーストジャンプの頃

2  初のアメリカジャンプ そして骨折
3  もう一度アメリカへ
4  250回の頃 開かない傘
5  300回の頃 3回目のアメリカ

ファーストジャンプの頃


俺たちの飛び降り 見に来ないかい」と言うセリフがありました。
小学生のころ見た「さすらいの大空」という映画の中で スカイダイバーが飲み屋で女性を口説くシーンです。

「なんて格好良いんだ! 大人になったら これで女性を口説こう」子供心にそう思い、ランドセルを背負って机から飛び降り、「大人になったらスカイダイバーになるぞ」。と決意して十数年。

1986年。ついにスカイダイバーになるべくクラブの門戸をたたき、地上訓練を終えていよいよファーストジャンプになりました。
前の晩。ボロアパートの6帖を掃除し、「やばいもの」を全て処分し、当日は新しいパンツにはきかえました。万一の為に備えたのです。

ファーストジャンプは 埼玉のホンダエアポート。

飛行機は 「セスナ−172」 ジャンパーは3人しか乗れません。
まず 地上でEXITの練習。「UP」 「DOWN」 「GO」 ではありません。
ただ 「GO」 だけです。

この頃はまだ高高度からのAFFは無く 最初は3,500ftからのスタチックラインでした。
飛行機にラインをつないで飛び出せば 自動的にメインが引っぱり出される方式です。
セスナも120馬力のC−172ですから遅いのなんの。
3,500ftまで15分7,500ftまで30分 9,000ftまで45分。

これが限界でした。
ちなみに現在のキャラバンは600馬力です。

さあ。3,500ftに達しました。「構えて」イントラが呼んでいます。
 機内にはイントラ1人と もう一人のファーストが1人。

狭い機内で痺れた足をさすりながら 翼の支柱をつかんで外に出て 足はタイヤの上に。
「OK!」  自分に気合いを入れます。
「GO!」  と言うイントラの声で手を離して大空へ。
「アーチ!」 「ワンサウザンド、ツーサウザンド、スリー・・・・」言い終わらないうちに 
ドーン とショックがありキャノピーは開いていました。

頭の中は真っ白。「えーと・・・ チェックキャノピー・・・廻り見て トグルもってシェイク・シェイク・・・」下を見ました。足の下は当然空気だけです。
「ショエ〜〜〜〜〜」声にならない声をあげ 自分がいったい何をしているのか分からなくなりました。

「ファーストジャンプおめでとう。ちゃんと傘は開いてますよ。」胸の無線から聞こえてきたのは地上のイントラの声でした。
「そうだ 降りなきゃ・・・」
「右 90度  ハイ そのまま まっすぐ・・・」

今と違ってジャンプルの時は高度計をつけていませんので、下を見ても あとどれくらいか見当もつきません。南風だったのでしょう、駐車場でターンしてブルーシートを通り越し南に向かってアプローチします。

ランウェイと平行に。「そのまま そのまま」イントラはそう言うのですが 何となくランウェイから右にそれ道路に向かっているようです。
グランドで「低高度のターンは厳禁」と聞かされていたため微調整もできず、「フレアー!」とイントラが叫んだときは 既に道路脇の木に引っかかっていました。

当時は道路の脇に木が生えていたのでした。その後を予感させる なんとも悲惨なファーストでした。


初のアメリカジャンプ そして骨折

 初のアメリカジャンプ。しかも初海外。

サンフランシスコまでは 一番安い「中国民航] 当時の「中国民航」はスッチーは作業服ズボンはいてるし、機内食は中華丼だし,コーヒーはインスタントだし・・・

 
そんなことより心配なのは入国審査。 英語わかんねーぞ!機内でマニュアル見て「さいとしーいんぐ」「すりーういーくす」
試験前の一夜漬け。

9時間でシスコに到着。そして入管。「Next」と言われカウンターに 「ええ・・・ アイ・・アイム う・・・」
「カンコー デスカ?」   「・・・えっ?」
「イツマデ イマスカ?」  「・・・日本語じゃん・・・」

いつの間にか そこは映画の中のような空港ロビー。
サンフランシスコからドロップゾーンの「ローダイ」までレンタカーで2時間程。
飛行機はセスナ182(3〜4人)206(6〜7人) ビーチ (8〜12人) DC−3(30人)それでも1日7回ジャンプ。

食事は安く 肉・肉・ビール・肉・ビール。
「天国じゃー!!」 「こんな日が3週間もあるのか!」しかし・・・・
そんな天国はたった4日間でおしまいでした。

4日目のサンセットジャンプ。当日7回目。
上昇中のセスナの中では 夕食のメニューとビールで頭がいっぱいです。

「カットー」 6WAY。と言ってもみんな100回前後バラバラのままブレイク。
ちょっとスポットも遠い。本日のラストジャンプ。
全員色気を出してパックエリアに向かってアプローチ。
追い風だが とどきそうもありません。

そう追い風です。当然ファイナルに入るには180度ターンが必要。
あのときなぜ 早めにあきらめターンしなかったのか。
なぜ 他のキャノピーの位置を把握しなかったのか。

左180度ターンをするつもりで 左下に意識が集中。
そのとき右前にいた1機のキャノピーをすっかり忘れていました。

(そのキャノピーも左ターンでファイナルに入るのは当然。先に自分がターンしてやらなければ)と思うのは今だから。

経験74回の私には自分のことしか、ビールを早く飲むことしか頭になく・・・・・
「よしっ そろそろだ!」 フックターンは怖いのでハーフトグルで回ろうと左を引いた瞬間。
目の前に・・・

左ターンを始めた自分の前に 先にターンしたキャノピーが右から接近。
「いか〜ん  ぶつかる〜」
そのまま左トグルいっぱい。
なんとか衝突は避けられたものの結果的にフックターンになり、そのまま身体が横になったまま畑の中に。

「いっ いかん! 受け身だ!」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その瞬間。意識を失ったようで 気が付いた時にはタンカを持って走ってきたドロップゾーンのオーナーと6WAYのメンバーが まるで死体でも見るような顔つきで見下ろしています。
「何でみんな集まってるの?」本当に冗談抜きでそう思いました。
そのままタンカに乗せられて 救急病院へ。全身打撲で身体は動かず、右足はだんだん腫れてくるし。

ここでの天国のような生活が夢ならば これも夢ではないか?
しかしレントゲンを撮られ一言 「BROKEN」

これは現実でした。 そして現実だとわかったとたん右足が猛烈に痛み出しました。
時間はそろそろ20時。 手術は明日するとのことでそのままベッドへ。
それにしても痛い 「ぺいん!!」と言っても「***********」(麻酔は打ちすぎると良くないと言っているようです)

翌朝 意識もうろうのまま手術室へ。
麻酔医が全身麻酔か半身麻酔か聞いてきました。全身麻酔だとそのまま死にそうな気がしたので半身麻酔を希望。
腰に麻酔を打たれ横になったら意識不明に。

そして手術後。 意識が戻ると 顔には酸素マスクがあり
ナースが手をさすっているではありませんか。
聞くところによると 「麻酔が効きすぎて呼吸が止まりかけた」とのこと。
その後 肺の機能が麻痺したせいで肺炎になり40度の高熱が出る羽目に。

当時はアメリカ人との体格のせいか? と思っていたのですが渡辺淳一の「麻酔」と言う小説を読んで ドキリとしました。
手術中の姿勢によって麻酔が延髄や脳まで行き 呼吸が止まる事故があるんだそうです。
生きててよかった。

熱と痛みがおさまると 病院生活は快適そのもの。
食事のメニューもチョイスできるのでデザートの選択肢の全て(アイス・フルーツ・ケーキ)にチェックしたら なんと全部持ってきてくれました。

TVで「セサミストリート」を見ながら 「英語の勉強にもなるし 良い経験だ」と また天国かと思っていた入院4日目。
いきなり言われた一言。
「保険の限度いっぱいなので退院して下さい」  「・・・・・・・・・」

出発直前で入ったスカイダイビング特約の旅行保険。 限度額は100万円なのに もう使い切ったか。
金が無いのはしょうがない。 熱と痛みが続くなか 病院を追い出され飛行場の格納庫にビーチベッドを置いてもらい 帰国までの2週間以上を過ごすことに。

 乗れない飛行機の爆音を聞き 他のジャンパーが腕を上げるのを見ているのはこんなに辛い物か。
せめてもの楽しみは ギプスの足で車に乗ってドライブと買い物。
肉・肉・ビール・牛乳・チーズ (カルシュウム補給のため)

気分が腐りきってた所にドロップゾーンのオーナーが持ってきたのは なんと1・5人前くらいの大きさのパラシュート。
そして 「You jump」
手術から1週間 まだ抜糸もしてないのにギプスのままで飛べってか?

オーナーは このまま帰国したら こいつはジャンプをやめると思ったのでしょう。
もうやけくそです。「おっけえい」 
廻りの日本人が止めるなか セスナに乗り込み 2度と見れないと思ったカリフォルニアの大空へ。

後はまた夢の中。 ソロで飛び360度ターン。眼下のブドウ畑とまっすぐなフリーウェイを目に焼き付ける。そして プル。
「痛てえーーーーー!!!!」
ショックでギプスがずれ 脳天まで激痛が走りました。そして現実。
「どうやって降りよう・・・・」

うかつでした 降り方を考えていませんでした・・・
どうやって降りよう?いつまでも浮かんでいるわけにはいきません。両足でも下手なのに 片足で しかも抜糸もまだなのに・・・
今度は廻りに注意 無理をせず オーナーが待っている場所にゆっくりアプローチ。

大きく四角にトラフィックパターンを回る。
そう。 これ以来 私の降り方は変わっていません。遠くからファイナルに入って、そして緊張の。「フレアー!」
高めのフレアーで左足を着けた後 失速気味にお尻からランディング。100点満点でした。
 

座り込んだままの私の周りに みんなが集まって来ました。1週間前と同じです。あの時も倒れている私の周りに今と同じ顔が並んでいました。しかし 私を見下ろすみんなの表情はあの時とは違います。
 

「OK、大丈夫」肩を借りて格納庫に引き上げ、定位置のビーチベッドの上に。
ログブックには大きく 「ギプスジャンプ!」 

さあ あと2週間で帰国です。当然 中華丼の「中国民航」。「帰りは餃子がでると嬉しいんだけど・・・」


もう一度アメリカへ


「ユタ! (私のこと。アメリカではユタと呼ばれていた。ユタ州のユタである) ユー ジャンプ?」

Mr.アルファベットが私に声をかけた。 アルファベットは本名ではない。
本名はアメリカ人でさえ覚えられないほど長ったらしく ここ アリゾナ クーリッジドロップゾーン(スカイダイビング場)では彼のことをみんなアルファベットと呼んでいた。

「イエス ジャンプ!」 私がアリゾナに来て そろそろ半月になる。
半年前にカリフォルニアで骨折し 右足にはまだ金属のプレートが入っているのだが医者の忠告を聞かずに6週間の予定でまたアメリカに来てしまった。

ここに来たときはジャンプ回数80回。とてもまともなファンジャンプは出来ず毎日2WAY(2人での練習)で、フォールレート(降下速度)合わせの練習や、ターン・バックインの練習などと、面白くも無いジャンプで回数をこなしていた。

 「ユタ 今日、何回飛んだ?」「さあ〜 6回かな 7回かな?」
夕食後、まとめてログブックに記入するのだが 回数が分からない。
「どうせ全部バックインの練習だし 覚えているやつだけ書こうか」

売店で買ったログブックに押すための「人間形スタンプ」は出番がまったく無い。
大人数で飛べばスタンプも使えるのだが。

「あ〜あ 俺も早いとこ 大きいのやりたいな〜」 私は思った。
このバンクハウス(スカイダイビング場の簡易宿泊所)には 10人程の日本人と ドイツ・フランス・オーストリア人の20人ほどが生活している。

そのほとんどがベテランのチームジャンパー。
私とはレベルが違いすぎる。「飛んでくれとも 言えないよなあ〜」

そんなある夜のこと。
夕食後にバーボンを飲んでいたら、アルファベットがそばに寄って来た。
「ユタ、何 飲んでいるんだ?」 普段、私の英語力では理解不能なのだが、このときは酔っていた為か意味が分かるような気がした。
「これか? ジンビームだ」 当時、日本では2000円はしたであろうが、アメリカではたったの5ドルだった。
「俺にも 飲ませろ」 私はアルファベットのグラスにジンビームを注いだ。

この時からだろう2人は仲が良くなり、彼が週末の8WAYや10WAY(8人や10人で輪を作る練習)に誘ってくれる様になったのだった。

「ユタ! 今度は5人でスパイダーダンスだ」 私の回数は100回そこそこ。普通なら200回以下はファンジャンパーとみなしてくれない。
「アイム ステューデント。 オンリー ワンハンドレット」
自信が無くて気が引けるのだが、アルファベットはおかまいなしだった。
「ノー プロブレム」

平日はビーチ(10人乗りの小型機)だが、週末には100人近いジャンパーが集まり、2機のDC−3(30人乗りの大型機)が交互に上がる。

のんびりしているとDC−3に置いてけぼりを食らうことになる。
私たちもこの時、地上練習に熱中しすぎて置いていかれるところだった。
「ヘイ! アルファベット! DC−3 ムービング!」
いち早く気付いた私は叫んだ。
「ハリアップ!」
動き出したDC−3を追いかけ5人は走った。

プロペラの後流にあおられながら それでもなんとか追いついたものの ドアが高すぎて上がれない。
DC−3はスピードを上げ始めた。
「ヘイ! ユタ カモーン!」
アルファベットはドアの下で手を組んだ。
私はそれに足をかけ這い上がり、今度はドアの上から重いアルファベットを引き上げる。

「・・・このシーン・・どこかで見たことがある・・・」  そうだ これは映画だ!。 
 『ワイルドギース』だ! 20人ほどの傭兵達が数百人の軍隊に追われ、撃たれながらも 最後の最後で動き出したDC−3に飛び乗って脱出する。
そんなシーンが私の頭をよぎった。

DC−3は およそ15分で12、500FTに達した。
「クライムアウト!」今回私はフロント(一番先に機外に出る)であった。
プロペラの後流が強い。「GO!」

見事なスパイダーが出来た。私もスムーズに動く。思った通りのポジションにピタリと着ける。
文字通りスパイダーが踊っている様だ。
彼等と飛ぶと 自分が上手くなったような気になる。
「ユタ! ユーのポジションは大きすぎる。軽い日本人に合わせようとしているからだ。コンパクトになってレート(降下率)を早めればもっと自由に動ける」アルファベットの言葉どおりだ。

アリゾナに来て1ヶ月。平日の練習ジャンプと週末のアルファベットジャンプで私は自信を付けてきた。
そして 「アルファベット ネクスト ミー 200ジャンプ」  「オー! ケースビア! OK ネクスト BIGWAY」
100回や200回といった記念ジャンプの時は ビールをケースで振舞う。
私の200回記念ジャンプは結局16WAY(16人で大きな輪を作る)になった。

その夜も私はアルファベットとジンビームを飲んだ。
「ユタ ユーアノット ステューデント」
「センキュー アルファベット」
アリゾナに来て、ようやくジャンプの楽しさが分かってきたところだった。

しかしすでに6週間が過ぎてしまった。
残念だが明日は日本に帰らなくてはいけない。

最後の夜。
平日にもかかわらずアルファベットはバンクハウスに来てくれた。
「ユタ 最後にもう一度 おまえと飲みたかったんだ」
良く見ると アルファベット手にはジンビームのボトルが握られている。
「サンキュー・・・・ ネクストイヤー・・・・・」 
来年もまた来るよと言いたかったのだが、涙でそれ以上言葉が出なかった。

さて、翌朝。
ジンビームを1本空けたおかげで、私は完璧な二日酔いになっていた。
アリゾナフェニックスの空港に8時に着くためには、ここを6時に出なくてはいけない。

前夜は早く寝たかったのだがアルファベットは許してくれなかった。
1本のジンビームを2人でラッパ飲み。ピッチを抑える私にアルファベットは言った。
「ユタ。 おまえは飲んだふりをしているだけだ。 ボトルを貸せ。 こうやるんだ」
アルファベットはジンビームを一気にあおると 「ガラ ガラ ガラ〜」 大きな音をたててうがいをして 「ゴクン」
「ネクスト ユー!」 これではごまかせない。

おかげでフェニックスまでの道中とロスまでの機内は非常に辛いものになってしまった。

おまけにロスに着いたら空港の時計と自分の時計が違っている。
ロスとアリゾナに1時間の時差があるのは考慮しているはずだが・・・・・・「ハッ! 今月からサマータイムだ!」
私はすっかり酔いもさめて、成田行きのカウンター目指して走り出した。 

 
250回の頃 開かない傘

『半開きのキャノピーは開く気配がまったく無い。
足元の地面は回転を増す。だんだんと視界が狭まり 意識が遠のいていく。
「チクショー。俺の人生も これまでか・・・」生まれてから今までのことが 走馬灯のように頭の中を駆け巡る・・・』

と、カッタウェイ(切り離し)の時はこんな風になるのだろうと以前から考えていた。
しかし実際は違っていた。

頭の中で「んっ? 開きが悪いぞ、これはカットかな?」 と思ったと同時に右手は自然にカッタウェイハンドルにかかり、自分でも不思議なくらい簡単に ズルッと引っ張ってしまった。

「いけねえ! やっちゃったー」
もう少し粘っても良かったのだが 今日に限ってチェストストラップがゆるく高度計が倒れて良く見えず諦めが早すぎた。
「参ったなあ 何もこんな時に・・・」

 ・・・こんな時・・・・ それは日本選手権本番での出来事であった。

1988年。景気の良い当時は選手権にTVの取材が来ていた。
およそ1ヶ月後には「東京12チャンネル」で放送される事になる。当時としては珍しくエアカメラも付き地上からは特大の望遠カメラが狙っている。

取材陣を見て私達のチーム「ダンディー4」はかなり張り切っていた。
今では世界的エアカメラマンになった ピーター。
最近TVの解説にも精神科医として顔を出す 当時慶応医学部の「O氏」。
そしてリーダーは水戸黄門にも出演したアクション俳優の「F氏」。
なんとも個性的な顔ぶれであった。

4人ともプレッシャーは無く 1ラウンドは5ポイント。現在総合の5位である。
「やったぞ! 俺達より上位はイントラだけだぞ」 200回前後のジャンパーとしては上出来であった。

そして2ラウンド目。 我々はピラタス・ターボポーターから飛び出した。
しかし焦ったのか今回は足並みがそろわず 5ポイント目でブレイク。私はトラッキングをしながらマニューバーを振りかえった。
「ワーキングタイムで 3ポイントか? 4ポイント行ったか?」

そう考えながら粘って2500ftでプル! メインが出た。
ボソボソボソボソーーーー  いつもよりオープンショックが少ない
「開きが遅いぞ〜」 あとは前述のとおり ごく自然に右手がカッタウェイハンドルにかかった。

・・・ フッ ・・・
一瞬 無重力になる。

「やっちゃた〜 今日のビールは高くつくぞ。ジャンパーにスタッフは100人はいるし リパック代に・・・大会参加費払ったら 今月 金がないんだよ」
カッタウェイした時は、地上の仲間にビールをおごるしきたりがある。
「しかし 何で開かないんだ? キャノピーで汗拭いて無理やり押し込んだのが悪かったのかなー」

そこまで考えてハッと気が付いた。 「あああ〜〜  まだリザーブ引いてない!」

当時はRSLは付いていない。
当然リザーブは自分で引かなくてはいけない。

「バン!」強いショックでリザーブは一気に開いた。
「カメラはどこだ?」恐らくカメラマンは自分をねらっているに違いない。
「よし。カメラの脇に ランディングだ」 リザーブはメインよりワンサイズ小さくしてある。ランディングは要注意なのだがそんなことは頭に無い。

上空から探すと ターゲットの横にカメラクルーはいるがアナウンサーはいない。
「チェッ インタビューは無しか」吹流しを見る。よし オンコース。
「フレアー」上出来のランディングだった。

私は ヘルメットを取り ゴーグルをはずし 髪型を整え カメラの横を颯爽と歩きながらこう思った。
「今日の主役は俺だ!」

***  1ヶ月後  ***

このときの様子は「東京12チャンネル」で放送された。
カッタウェイの映像を見てアナウンサーが 「オオットー パラシュートが開きませーん。大丈夫かー」と言って盛り上げているのに 解説者は 「あれはパックがいい加減なんです。ちゃんと畳めばこんなことは無いんですよ」と、冷静な反応。

それ以来、私のパックは「いい加減パック」と呼ばれている。

(注)
背中には万一の場合に備え2つのパラシュートが入っています。
1つ目(メイン)が開かない場合はハンドルを引いてそれを切り離し、ワンテンポ遅れて2つ目(リザーブ)を開きます。
最近は自動で2つ目が開きますが、昔はそんな便利なものは無く カットした後体勢を整え2つ目を開くハンドルを引きました。


300回の頃 3回目のアメリカ

「ジス スライダー(注) カット プリーズ」
アリゾナ クーリッジのロフト(パラシュート整備場)で私は言った。 

今年の春もまたアリゾナに来てしまった。
この1年、散々飛んでいたのだが、4月から新しい会社に就職も決まり、アメリカジャンプもこれが最後になるだろうと考えていた。 

「これで最後だ 思いっきり飛んでやるぞ!」 気合は十分なのだが問題は愛用のメインキャノピー「RAVEN 210」
あまりの開きの悪さにメーカーより次のような勧告が出ていたのだ。   

  『 スライダーが降りない場合は 穴をあけ空気抵抗を少なくすること 』

 「J君(私)。 メッシュのスライダーに変えれば? 30ドル位だよ」 仲間に言われたが、そんな金は無い。
それだけあれば 2回飛んで晩飯にTボーンステーキが食える。

 「そうだ 自分で穴を空ければいいんだ」 しかし どうやって?
思い悩んだあげく 結局ロフトのドアをあけた。 

「オー RAVEN OK OK」 
こんなことを頼んだのは どうやら私だけでは無かったらしい。

リガー(パラシュート整備士)は、ロフトの奥からホットカッターと直径20センチ位の空き缶を持って来た。
 「ユタ(私のアメリカでのニックネーム) スライダーを広げて押さえていろ」
私がテーブルの上にスライダーを広げると リガーは空き缶を乗せた。

・・・チリチリチリチリ・・・
わずか5秒でスライダーには直径20センチの穴がポッカリと開いた。 
「OK これでちゃんと開くよ」 リガーは言っているが 本当だろうか? 

 その後、スライダーはほんの少し早く降りるようになったような気がした。

数日後。
いつものように 3500ftで ブレイク。 長めのトラッキングで 2500ft。
 「プル!」 ボボボボボボボ・・・・・またしてもキャノピーはキャベツ状態。簡単には開く気配が無い。

スライダーを降ろそうとトグルを引くが このときばかりは効果なし。
 スライダーは中間で止まりツイスト(紐のねじれ)。 
開いているセルは中央部の3つか4つ。(パラシュートは7分割か、9分割になっている)
おまけにツイストと同じ方向にスピンを始め、反動を付け体をねじるがまったく反応は無い。

 一瞬 カットも考えたが、半年前のファーストカットの苦い経験を思い出した。
「あの時は2000ftもあったのにカットしてしまった・・・ ビール代・リパック代・・・ そんな金は無い。 1000ftまで頑張ろう」
そう思い必死で体をねじる。
 1500・1200・ ついに1000ft。地面まであと数秒。

「だめだ! カットか? いや まて。 何とかなりそうだ」 
頭の中で悪魔と天使が喧嘩する。
「・・・まだまだ大丈夫。もっとねばれよ。 リパック代 無いんだろう?」
「・・・1000ft割って 回復しなかったらどうすんだ 早くカットしろ!」
 結局、回復したのは500ftだった。
「危なかった・・・馬鹿なことをしてしまった・・・・」

 さて、回復はしたものの DZは遥かかなた。眼下はサボテンの林。
「あれに刺さると痛そうだ・・・・」上から見ると小さいが 実は3メートル程の高さがあり トゲの1本1本がトウモロコシ程もある。
こんな所で「ハリツケ」は御免である。 風を無視し、わずかな隙間を見つけてハードランディング。

ザザザザーーー 「ユタ 何やってるんだ!」
リガーがトラックに乗ってサボテンの間を走り迎えに来てくれた。
「やっぱりスライダーが降りないよ」
「ユタ ユーが先にツイストしたから降りなかったんじゃないのか?」
「・・・・・・・・・・・・」 

 その後も開きにくいRAVENを だましだまし使い、さらに数日後 300回記念のジャンプを行った。 
 「イーハー!」
ジャンプに満足し奇声をあげランディング。

「ユタ コングラッチュレーション」
「センキュー」
キャノピー(パラシュート本体)を抱えたままハイタッチ。 そしてパックエリアにキャノピーを置き、たたもうとした時。
「あれっ? なんか 変だぞ?」

自分のキャノピーを良く見る。 
ライザー・・・・ライン・・・。 「あっ!・・・・パイロットシュートが・・・・無い・・」
センターセルの上部が破れ、バック(注)パイロットシュート(注)が消えている。「これは いったい・・・」

パックでリングに噛んでいたのか? 
お得意の「いい加減パック」でも一応リングは点検しているつもりだったのだが。
短期間で酷使しすぎたのか、それとも体重が重いのか。
 開いた後で良かった。下手するとメインキャノピーは開かなかったかもしれない。

しかし、オープン後もまったく気付かなかったとは情けない。
 あのまま500ft位で裂け目が大きくなってキャノピーがつぶれていたら・・・

それにしても最後の仕事を終えたパイロットシュートはどこまで飛んで行ったのか。
「バックとパイロットシュート 拾いに行かなきゃ・・・」

これでは300回記念のビールどころではなくなった。 
その後、気を取り直しサボテン林まで行ったものの、結局パイロットシュートは見つからず ショップで80ドル出して買うことになってしまった。破れたキャノピーも補修しなくてはならない。 

 帰国後、パラシュートショップででPD−190(当時流行の新パラシュート)を注文した。
アリゾナでは応急処置で飛んだものの やはり心配になったのだ。

「J君。 RAVENなんてまだ使ってたのか こりゃ開かんぞ。 で、メインだけで良いの? リザーブ(注)何入ってる?」
ショップの店長に聞かれたものの、私は返答に困った。

「R・・・RAVENです」
「・・・・・・・・・・・」
 メーカーが開かないと保証(?)しているリザーブを使っているのは 世界中で私だけだったかも知れない。

 しかし。私がリザーブも新しくしたのは それから5年後のことであった。 

(注)

スライダー ・・・・・・・・パラシュートが一気に開くとショックで鞭打ちになるため、空気抵抗で開きを遅くする30センチ四方の布。
             抵抗が大きすぎると開きが遅くなりすぎるため、空気抜きの穴を開ける事もある。

バック・・・・・・・・・・・・パラシュート本体が入っている枕程度の袋。

パイロットシュート・・・バックを背中から空気の力で引っ張り出す小さなパラシュート。

リザーブ ・・・・・・・・・メインが開かない場合に使う、予備のパラシュート。
              当然100%の信頼性が必要で、リガー(パラシュート整備士)の資格が無いとパックできない。