『望月 の夜行 』
目を覚ましたとき、そこは薄闇の中であった。普段であれば灯されている行灯が、月明かりの中で白く浮かび上がっている。
「
式の名を呼ぶ――が、返事はない。私が起きる時間には、戻っているのが常だというのに。床から
早く目覚めてしまった分、時間が出来てしまった。藍が戻るまで、まだ小一時間はあるだろう。
半分開けられていた障子を全て開け放つ。今宵は満月、快晴。月見酒に此れほどの
天に
そういえば、あの時もこんな月夜の
猪口の水面に映された幻の月。
それを私は一息に飲み干した。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
妖怪と人間の
文明の発達により、人間はその数を増やし、闇を開拓する
もはや、妖怪と人間の争いに意味など存在しない。
その成れの果てとしての、結界。妖怪と退魔師の
だが――
それは、どちらにとっての檻か。
誰も知らない。
幻想郷という名の壷で生成された
幻想を取り込むには、外界との関係を途絶せねばなるまい。外結界にこちらから結界を重ねる。「常識」と「非常識」の境界。これにより、外の世界の失われた力が幻想郷に流入することとなる。そうすれば、私の計画の
結界を構築するのは、
だが、結界を維持するのは容易いことではない。結界は絶対的なものであるが、永続的なものではない。結界の修復に手間取られていては、本末転倒でしかない。
代行者が必要だ。私の手となり足となる影が。
どこかその辺に、都合よく落ちていないかしら。
「はいよ、おまちどうさま」
意気の良い声が
「あら、ありがとう」
皿に盛られた串団子を前に、思わず自分の顔が
「お客さん、珍しい
「ええ、そうですわ」
洋服はまだ珍しい。金持ちが道楽で集めているのが一般的な時代だ。ましてや、こんな片田舎では目立つのも道理であった。
「お姉さんの美しさに、負けず劣らずってところだねぇ」
「まあ、お上手だこと。お団子もう一本頼んでしまおうかしら」
「そうこなくっちゃ!」
売り子の娘が再び店の奥へ消えた。
身なりを見て、懐の具合を計ったのだろうか。その推測は概ね正しい。ただ、その
「そういえば、お客さん。この先の村を通るのかい?」
「ええ、そのつもりですけれど」
串の山を横目に茶を
「なら、気をつけた方がいいよ。ここのところ、妖怪が出て悪さしてるって噂だからさ」
「あら……妖怪ですか」
「お姉さんみたいな人が供も連れずに歩いてたら、取って食われちまうかもよ?」
無知は罪である。が、それと同時に、人間という脆弱な生き物が世を
私はゆるりと目を細めて言った。
「――大丈夫ですよ。私も、その妖怪ですもの」
「……えっ?」
娘が私に再び目を向けたとき、そこにはいくらかの、ひどく鉄の臭いのする銭が転がっていただけだった。
村の畑の荒れ様と言えば、
漂う悪臭を
村中央の井戸の周囲に、人が座して集まっている。何やら騒がしく遣り取りが行われているようだが、興味はない。ただ、村人達の面前に立っている一人の人物に目が留まった。法力を感じる。僧を呼んだとすると、この村に妖怪が出るというのはどうやら本当らしい。
不意に、僧の視線がこちらに向けられた。
気付かれたか? 妖気は抑えているつもりだったのだが。どちらにせよ、無駄な関わり合いを持つほど暇を持て余してはいない。
私は僧が近づいてくる気配を背に手近な物陰に移動すると、次の目的地までのスキマを開いた。
さて、ようやく目的の場所に到着したのだが。そこにお目当ての物は存在しなかった。丘の上の、草木も生えぬ殺風景な土地。目の前には、一際異彩を放つ巨岩が
滅せられたか、あるいは――
近づく気配に、思考をしばし遮り目を向けた。
「
先程の僧か。見れば、まだ若い。この年の頃にして、この法力を持つとはそれなりの逸材である。
「ちょっとした観光ですわ」
手にした
「
右手の
「ここに封じられていた子はどこかしら?」
「……下の村を荒らしている
そうか、あの村を襲っているのがここに封印されていた妖獣か。
「遠からず、そうなる予定ですわ」
野蛮に
「…………あの妖獣は、ここを少し下った先の寺に潜んでおるという話だ」
「あら、親切ですのね」
「妖怪の物言いは一々的を射ん。あの妖怪狐を
僧は笠を
「私は明日のお
口元だけが不敵に歪ませ、僧は元来たであろう道を引き返していった。
「ふふ……貴方、長生きしますわ」
次の目的地は決まった。簡単に説得できる相手ならいいのだけど。ただ、相手が理性の欠片も無い獣だった場合どうすればよいか。
後腐れのないように、
寺の内部にも特に気配も無い。出払った後なのか、まだ戻っていないだけなのか。どちらでも構わないが、先に上がらせてもらうことにしよう。
本堂の戸を開け放つと、背後の西日が強く差し込んだ。と、床に日を照らし返す金色に輝く糸が目に入った。どうやら体毛のようだ。長くしなやかで、それでいて鋼のごとき
この寺の
妖気が迫ってくる気配で、私は目を覚ました。いつの間にか、すこし寝入ってしまったらしい。ようやくのおでましか。
さて、どう言って説得したものか。今更になって考え始める私もよっぽどであるが。
妖気の主は寺の前の石段を登り終えたようだ。が、そのスピードには落ちる様子が一向に無い。これは……色々と面倒なことになりそうだ。
粉砕された戸の向うから、影が一つ飛び出した。それは回転しながら宙に放物線を描き、私の目の前に降り立った。
人の
金色の眼、金色の耳、金色の尾。その全てが月光を浴び一際神々しく光を放っている。まるでその周囲だけ、空間が闇から切り取られたかのようだ。
大地の月が口を開いた。
「あたしの
人間の
「あら、それは失礼。貴方の帰りが遅いから待たせてもらったわ」
「あんたみたいな妖怪ババァ、招待した覚えはないね!」
たかが二尾程度の化狐が、この
「…………獣には獣らしく、
自分の口が意思を異にして歪むのが分かる。
仏の顔も三度まで、などというが、私の場合、そもそも仏の顔など一つも持ち合わせていない。
「格の違いというものを見せてさしあげますわ」
「ほざけッ!!」
先手を取ったのはあちら側。妖獣特有の瞬発力を生かしての回転体当たり。だが先手必勝とは、実力が拮抗している相手にのみ通用する言葉だ。
突進をゆるやかな体裁きで往なす。正面からまともに食らえば、普通の人間であればあばらの二、三本を軽く持っていく威力はあるだろう。だが、当たらなければ全て無駄だ。
空を切った狐はそのままの勢いで奥の木に衝突し、その反動で再びこちらに向かって来た。しなりを加えた分、多少スピードは増しているようだが……。
「その程度では、私に触れることもできませんわ」
やはり紙一重でかわす。巻き起こした風だけが、私の髪を揺らす。そして、またしても木の反動での
……馬鹿の一つ覚え。所詮獣は獣でしかなかったということか。元
だが、再度かわそうとした矢先、
「その余裕が命取りさ!!」
狐の軌道が眼前で大きく変化した。まっすぐにこちらを捉えている。なるほど、一、二球は見せ球で、これが本命というわけか。格下妖怪相手に使うことはないと思っていたが……。
過小評価したことは訂正せねばなるまい。だが、結局のところ余裕という一語が
この世の『
「――――ッ!!」
結界に拒絶され、妖怪狐は自らの勢いも
境内の
「……何だ、今のは…………うぅっ」
立ち上がろうとするが、よろめいて尻餅をつき、そのまま倒れ込んだ。反撃を食らうと思っていなかった所為か、予想以上にダメージが大きいようだ。もう自慢の脚力を生かした速攻は不可能だろう。
――勝負あった。
多少の
「貴方、私と一緒に来て貰うわ」
「……………………」
気絶しているようだ。下手に暴れられても煩わしいだけだ。こちらとしても都合がよい。
横たわる妖怪狐をスキマに放り込もうと手を伸ばした、その時。
「フーッ!!」
小さな黒い影が物陰から飛び出してきた。先程まで私の手があった位置を通過した後、着地する。
見れば、幼い黒猫ではないか。小さな体躯を膨らませ、必死に
「……これは降参するしかないのかしら」
散らそうと思えば
言い訳めいた溜め息を、私は一つだけついた。
チチ、チュン――
雀の
「…………う……」
妖怪狐が目を覚ましたようだ。状況がわからないのか、周囲を二度三度眺める。狐を囲むように
「お目覚めかしら」
「?!」
死角から声を掛けると、ギクリと固まる。
「お前!! っいてて……」
身構えようと身を起こそうとするが、体を走る痛みがそうさせないようだ。
「あら、無理してはダメよ」
「………………くそっ……」
観念したのか、ゆっくり腰を下ろす。
「この子達、貴方が面倒を見ているのかしら?」
「……ん、ああ、そうだよ」
遣り取りに気付いたのか、狐の傍らで丸くなっていた黒猫が起き出した。全くもって無警戒に伸びをした後、一声にゃあと鳴く。
「皆、人間に親を殺されたり、ケガを負わされて群れから追い出されたのさ」
黒猫の頭を優しく撫でながら、呟く。うにゃあと、黒猫がその手に体を摺り寄せた。
「記憶も何もなかったあたしに、生きる意味を与えてくれたんだ、こいつらは」
あの丘の上にあった殺生石は、その昔都を騒がせた
「だから、人里を襲っているのね」
儚い命達を守り、生かす為に。
「人間が自分勝手にあたし達の領域を侵してきたんだ。自業自得さ」
そういえば、この辺りは前に訪れた時は村などなく、山野が広がっていたはずだ。
開拓の過程で何がしか奪われたのが、ここにいる動物達ということか。
「そういや、あんたはあたしに何の用だったんだ?」
「……さあ、忘れてしまったわ」
私はあっけらかんと言い放った。
「忘れるような理由でボコボコにしないでくれよ、全く……」
無理やり連れ帰ることはもちろんできたことだ。だが、この狐は獣達を必要とし、また獣達もこの狐を必要としている。獣達ごと連れて行くことも考えたが。やはり、生まれ育った場所から離れたくはないだろう。それに、幻想郷は厳しい土地だ。弱々しい命が生きるには過酷過ぎる。
「見たところ貴方も大丈夫そうだし、そろそろ退散しようかしら」
早いうちに、次の式候補を探さなくては。この九尾狐の分身が
「あ、おい、ちょっと待ちなよ」
「? なにかしら」
「あたしが動けない間、こいつらの面倒を見て貰いたいんだけど」
「……なんですって?」
「こうなったのもあんたの所為なんだから、責任取ってもらわないとね」
「よく言うわね、この子は……」
面倒事が大嫌いな私にそんなことを頼むとは。私を知る者が聞いたら、目を
「にゃあん」
いつの間にか、黒猫が足元に寄っていた。壊れ物を扱うように、そっと抱き上げる。小動物特有の高体温が伝わってくる。黒猫はもう一声、にゃあと鳴いた。昨夜はあれ程
「もう懐かれてる……やっぱり、これも年のこ」
「次に歳の話をしたら、また転がすわよ」
「ふぎゃっ!!」
何かを感じ取ったらしい黒猫が、慌てて飛び降りた。
奇妙な共同生活を始めて、一週間が過ぎた。妖怪狐はといえば、元気良く動物達と境内を走り回っている。妖獣の回復力というものは、並外れたものがある。
私は
『一緒にここで暮らせばいいのに』
ある時、あの娘にそう言われた。
『ここで、一緒に暮らしましょう』
遠い日の記憶と重なる。
それは決して叶うことのなかった、二人の夢。
ここは生に溢れていた。永らく生と死の境界を歩み続けた私には、少々眩し過ぎる。
そう、眩し過ぎたのだ。
「少し、長居し過ぎたわね」
「……うにゃ?」
脇に置かれた黒猫が、
「さようなら。あの子をよろしくね」
それだけ言い残すと、私はスキマの中へ一人沈んだ。
あの狐の子はこの先、力ある妖獣として名を馳せる日が来るだろう。そのパイプを作ったと思えば、あながち何も収穫が無いとは言い切れないが。
ぼんやり歩いていると、村と寺のある小山を一望できる峠に差し掛かっていた。村の方を見ると、いくつもの
暮れ行く景色に
街道沿いの宿場町は活気に溢れていた。喧騒に囲まれながら、私は猪口を傾けた。
辺りは既に日が落ち、この屋台の提灯も赤い光をゆらりと放っている。久方振りの独りの夜である。この騒々しさも、慰めには丁度良い。
「お銚子もう一本、付けていただけるかしら」
「あいよっ!」
威勢の良い声が返って来る。
酔いがうっすらと回ってきた頃、誰かが隣に腰を下ろした。
「……主、こんなところで何をしておる」
それはいつかの僧であった。
「見てお分かりにならないかしら?」
フーッと呼気を吹き掛けると、僧はしかめっ面を浮かべ顔を背けた。
「そういうことを聞いておるのではない。主は妖の類であろうが」
何故か、あちらが声を潜める。
「人も妖怪も、違いなんて
「……私には理解できん」
「貴方も、一杯どうかしら?」
「馬鹿を申すな。仏門に下った身でそのようなことはできぬ」
「あら、御堅いこと」
「…………それで、妖怪狐の件はどうなったのだ」
「村には余り手を出すなと言い含めておきましたわ」
「なに……? 村に現れぬから、主が他所へ移したのだと思っておったのだが……それでは、あの狐はまだあの寺におるのか?」
「ええ、そのはずですわ」
僧は眉根を寄せた。
「今夜、あの山に火を放つと村の者が申しておったのだが……」
「……………………」
波が引いていくように、酔いが
「あの寺に戻ってこられぬように、とのことらしい」
「…………人という生き物は愚かですわね。目先のことばかりに囚われて、大局を読もうともしないのですもの」
手から猪口が零れ落ちる。
急速に闇に溶けていく理性。
「おい、主……?」
何か雑音が聞こえるが、判別できるだけの思考が既に残されていない。
猪口が地面に触れると同時に、私はスキマに飲み込まれた。
皮膚を
生を喰らい尽す業火が
朱の
揺れる、揺れる。火は変幻自在に姿を変え、視界を埋め尽くす。
その只中に居て、暴力的な熱量を前にしても私はひどく冷静だった。
否、冷静だったのではない。凍り付いていただけなのだ。体も、思考も、何もかも。
友が死んだ刻を思い出す。
あの日私を埋めたのは哀しみ。地の底まで堕ちていくような、深い哀しみ。
今宵私を埋めるのは。
これはきっと、怒りなのだろう。
眼前に
「……!!…………!!」
思考の隅で何かが吠えている。
肩を掴まれ、強引に振り向かされる。
人か。
その醜悪で知性の欠片もない面構えに、私は薄らと顔に笑みを貼り付けた。
獣にも劣る蛮行を前に、もはや掛ける慈悲など、ない。
ああ――――大人シクシテイレバ、喰ワレナカッタノニ。
「……!?」
ある者はその場に腰を抜かし、ある者は
この世のモノではないモノを見た、と言った風に。
自分で自分の顔を見られない事に、
一体、私はどんなおぞましい表情を浮かべているのだろうか。
へたり込んでしまった餌の瞳は、ひどく揺れており用をなさなかった。
意識の一角がひどくざわつく。
『エサダエサダエサダエサダエサダエサダエサダエサダエサダエサダエサダエサダ』
『クワセロクワセロクワセロクワセロクワセロクワセロクワセロクワセロクワセロ』
蟲達が
囁きは
首輪が解き放たれるのを待つ獣。
何百、何千、何万という野獣の群れが、そこでざわめいていた。
私はそっと、
その瞬間、歓喜の声を自らの羽音で塗り潰して、狂気が解き放たれた。
怒号、悲鳴、断末魔、阿鼻叫喚。
その日、ある村から全ての村人が忽然と姿を消した。
憎悪の連鎖は、絶たれた。
あらゆる
火の手は、既に禅寺の一部とその周囲の林までも包み込んでいた。
耐え切れずに燃え落ちた大木が、逃げ道を
火の檻に囚われた住人達は、身を寄せ合うように堂の中央で
数多の遺体に覆いかぶさる妖獣の子をそっと掻き抱いた。
その体は、何かを守るには余りにも小さすぎて。
敵を打ち倒す力はあっても、仲間を守る術を知らなかったが故の末路。
その身を挺して
それでも、守り通して見せたのね、貴方は。
人も獣も近寄らない、幻想郷の外れ。
屋根が半分焼け落ち、煤や焦げ跡の残る堂の縁側で、私達は朝を迎えた。そこは、昨夜の出来事が嘘のような静けさに包まれていた。
膝の上で穏やかな寝息を立てていた妖怪狐が目を覚ました。
「…………ここは、あの世?」
「おはよう、天女様よ」
苦虫を噛み潰したような顔が返ってきた。まだ本調子ではないらしく、起き上ろうとはしない。
「あんたが助けてくれたのか……」
「貴方の頑張りに免じて、ね」
死に
驚異的な回復力はその一端である。
「…………結局誰も助けられないで、あたしだけ生き残って……」
しばらく呆けていた妖怪狐が、ゆっくりと口を開いた。
「……全部無駄だったんだ……あたしが守りたかったものは、もう何一つ残ってやしない……」
顔を覆った手指の間から、透明な滴が一筋流れ落ちる。次第にその声に
私は、やれやれと溜め息を一つ吐いた。
「……あら、本当にそうかしら」
待ってましたと言わんばかりに、狐の脇から黒猫が一匹這い出した。
「にゃあ!」
一声高らかに鳴くと、妖怪狐の上に飛び乗った。
「……お前! 生きてたんだな……よかった、よかったぁ……」
「う゛にゃ」
急に抱きすくめられて苦しかったのか、その腕からするりと抜けると、傍らで丸くなった。
「貴方がその手で守った命よ。大切になさい」
今度は嬉し涙で溢れる顔をくしゃくしゃにしたまま、何度も何度も頷く。
「……それと、調子が戻ったらこの寺を直すわよ。これから、ここが私達の家になるのだから」
「私達って…………」
「今日から、私も貴方も同じ家族の一員よ」
私の口から家族などという言葉が出てくるとは。式など、只の僕としか考えていなかったのに。
永く独りで生きてきた代償に失われた心を、取り戻したいのだろうか。妖怪が心などと。笑いたければ笑うがいい。
でも、私は触れてしまったから。
かつて、一度はその手を放してしまった温もりに。
「『藍』。この私に次ぐ名を、貴方に授けます」
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
「――――様」
声。
「――様、紫様、こんなところで寝ていては風邪を引かれますよ」
藍が心配そうに覗き込んでいた。
外から戻ったらしい。
いつの間にか、まどろんでしまっていたようだ。起き上がると。視界の隅に空の
奇しくも目を覚ましたここは、夢の狭間で最後にいた場所であった。
「先にお一人で始められていたのですか?」
「……何のことかしら?」
「何って、明日は記念日だからお祝いするわよ、と昨日仰られていたではありませんか。御
……ああ、そうだ、思い出した。
「紫様、今日は何の記念日なんですかー?」
目を輝かせた
「こら、橙。紫様に失礼を」
「いいのよ、藍。今日は家族記念日なのだから」
「家族……記念日、ですか?」
「そうよ。私が貴方に名前を与えて、ここで暮らし始めた日よ」
「そ、そうだったのですか。私も幼い時分でしたので、すっかり忘れていました……」
「そうね、あの頃の藍は今の橙くらいだったかしら」
「藍様にも小さい頃があったんですね」
「当たり前だ。確か橙はまだ、こんな小さな黒猫のままだったな」
「そんな昔のことは、覚えてないですぅ……」
「さあ、野暮な話はそこまでにしておきましょう」
「けえき、けえき♪」
「橙! すみません紫様。作っている最中につまみ食いして味を占めてしまったらしく……」
「あらあら、なら橙には特別大きいのをあげましょうね」
「わぁい、紫様大好き♪」
橙は、一足早く座敷の奥へと駆けていった。
賑やかな足音が遠くへ去り、藍が溜め息を一つ吐いた所で、声を掛けた。
「藍」
「はい、なんでしょうか、紫様」
「いつも、お疲れ様ね」
「どうなさったんですか、珍しい」
「どうもしないわ。ただ、今日はそんな気分なの」
「はは、そうですか。それよりも、早く行かないと橙にけえきを独り占めされますよ」
「ふふ、そうね、それは困るわ」
そうして、二人で苦笑交じりに視線を交わすと、藍は先に座敷へと消えた。
『家族』三人、こうして笑って過ごせる日々は、果たしていつまで続くのだろうか、と。 手に入れた幸せは、それを失ってしまう恐怖を常に伴う。
その恐怖に目を瞑って安穏と生きられるほど、この幻想郷は優しくもない。
日々は
その流れを変えることは、この私とて不可能だ。
『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』
「紫様」
藍の呼ぶ声が聞こえる。
その中に在って、私はこう想う。
天が運命を別つその日まで、私達は家族として共に生きよう、と。
空には望月。
今宵は、その満月をゆるりと皆で食すとしよう。
<了>