Cの後悔
 ぱっとしない建物の玄関入口にある受付に挨拶と、同受付に置いてある利用表の該当個所に丸をつけてから、チェロと二人三脚で階段を昇り、うるわしの会議室へ。それが、いつものコース。
 30が青年の年齢限界なのは不公平ではないかと、これまた、いつものぼやき。
 今日は、早く来たはずのなのに、既に先客が二人。
 もちろん、うち一人は、貧乏くじをそうとは気付かずに引き続ける、何しろコンマスになってからの二年間、指導者に恵まれなかった楽団でトレーニングリーダーを務め、これは、まぁ、理解できるが、そのうえ、練習場の鍵の開け閉めから、椅子だし片付けまでを一手に引き受けていた、自称雑用係兼任の理想のコンサートマスターなのは確かで、あとの一人は、あのちっこいのだろうか。いや、市内在住の青年にチェックがしてあったから・・・・・・
 ふむ、市内、青年・・・・椅子出しに喜んで参加する、やつ。ときたら。
 ああ、先輩チェリストの五十嵐だな。憧れの美人コンマスとふたりっきりの椅子だしの幸福に酔いしれてるんだろうが、そうは人生甘くないってことを教えてやろう。しかも、無料で。
 俺って、なんて、センパイ思いの良い後輩なんだ。


 確かに、そうだ。
 こいつも、立派な、区分青年には違いない。
 違いないが、指導者欄にチェックを入れておけっ。紛らわしい。謙遜なんぞ言葉を知らないヤツが、こんなところでなにを謙遜してやがる。
 それでも、珍しくも、椅子だしもしないで、入ってきた俺にも気付かない様子で、二人言い争う姿は、当人たちにとっては真剣なんだろうが、普段が普段なだけに、なんとも若いなという、ほのぼのしさがあったりしやがる。


 その、なんだ。痴話喧嘩ってやつは、ある種のコミュニケーションのひとつだと思うわけだな、妻帯者としては。
 そんなわけで、俺としちゃ、邪魔せんようにと、静かに端にいたんだ。
 それが、だな。だんだん、痴話喧嘩を越えつつあるんだ。今更、出て行くにも、かえってヤバイ。変に気を引くと巻き込まれる。が、モリさんが相手だ、恥ずかしがるか、または・・・・・・どうなるのか、予想がつかん。

 そうこうしてるうちに、とうとう、気付かれた。
「飯田さんっ」
 呼ばれたのは、いいんだが。眼鏡の奥が、物騒に輝いている、ような。
「やぁ、おはよう」
 はずした挨拶に、笑わないっていうのは、そんな余裕がないってことか。
「美人揃いで、サービスのいい店を紹介してくれるんでしたよね?」
 は?―――――いや、それは。
 攻め寄ってくるモリさんに、せめてもと、チェロケースをバリケード代わりに使ってみたが、この状況のモリさんには見えちゃいない。
 答えに詰まる俺に、モリさんは、にっこりと笑い。
「そういう、お話、でしたよね」
 普段とはイントネーションまで変わった迫力に、俺は一歩一歩と摺り足での後退。まだないはずの壁にぶち当たった。会議室よ、おまえまで、モリさんの味方なのか?
 人当たりのいい、大人しい、その反面、キレた時のモリさんときたら、殿下といい勝負ときたもんだ。おまけに、普段大人しいだけに、インパクトはこっちの勝ち。
「飯田さん?」
 迫力はあるが、叶えてもらえると信じている無邪気な子供のような眼差しに、内容は・・・・・・なんだが。とりあえず救いの手を探したのは、保身の為だ。
 だがしかし、そんなもん、いるわきゃ、ねぇだろっ。
 殿下は、我関せずを装い、椅子だしをしてるんだが。おい、背中で脅すのは、やめてくれ。
「飯田さん?
 バイオリンを壊す前に、相談にのってくれるはずでしたよね」
『相談にのるというのなら、その前にじっくりと話し合いましょうか』
 後ろには壁。前にはチェロケース越しのモリさん。そのまた、モリさん越しの殿下。ついでにじっとりと背中を流れる一筋の汗。暑いからじゃない。
 常日頃、押しが弱そうな風の、事実弱いモリさんも、今の状態じゃあ、押し流すことも出来ない。かといって、殿下を敵にまわす気は、はなからない。
 ああ、後悔ってのは、どうやったって、先には出来ないもんで、あの時とは状況が違うと言い訳しても、聞いちゃくれまい。
 どちらかに恨まれなけりゃならないとして、どちらがマシなんだろうか。できれば、どちらも敵にはまわしたくない。エセ平和主義者と呼ぶなら呼んでくれ。
 一歩、詰め寄られ。
 じとりと、また、汗が流れた。





 ぱっとしない建物の玄関入口横にある、受付に挨拶をして。そのまま、うるわしの会議室へと、相棒と二人三脚する。
 そう、ここには、センター利用表などというものはない。
 ないんだから、チェックをする、あの時に夢であることに気付くべきなんだ。
 と、毎回毎回思うことなんだが、なぜか、気が付かない。それが夢ってもんだとはいえ。
 それで、毎度毎度、追い詰められて、子供のように飛び起きる。
 これは、あの時から始まった悪夢で。そう、あの二人が、実は出来ていたという事実を目の当たりにし、モリさんに、無責任な、当時としては誠実な助言を思い出したあの日からのものだ。
 ありえないと思うが、万が一にも、あの助言をモリさんが思い出したとき、俺はどうしたらいいのか。
 夢は、一度も答えをくれない。



 大会議室のドアを開ける。
 二人の言い争いが見える。


 俺は、もちろん、ドアを閉めた。
昔、書いた話。
どなたが書いていたら、偶然ってあることですね。
ってことでいいでしょうか?
<BACK>  <TOP>