アイノウタ
 予定外で、宿泊することになった小諸からの帰り、新幹線を降りて、上野の駐車場で僕は困っていた。
 バックシートにチャイルドシートは、ひとつ。バイオリンは、ふたつ。
 当然、どちらかがチャイルドシートで、残りは抱いて帰らなきゃならない。さて、グァルネリか、『遠海』か。
 これがどっちかが自分のだったら、それを抱いて帰るだけで悩みはしないけど、どちらも借り物なんだから困ってる。

 どっちかと悩んでたら、圭があっさりと助言を寄越した。
 シッターを押し付けられたのだから、『遠海』を抱いて帰ればいいではないか。と。
 短期で返さなきゃならない本当の預かりものだから、チャイルドシートに入れるほうがいいんじゃないかといったら、・・・・・・圭、きみって・・・・・・
「家に帰るまでの、1時間、抱きしめてスキンシップをはかれば、預かりものの子供にも愛情が湧くのではないですか?」
 って、ナニソレ。
「その子は、最初の持ち主に愛情を注いでもらえなかったのですから、きみは、『草薙』以上の愛を注がないといけないのですよね?」
 だから、なんだって。
 確認の形をとってるけど、これは、確定?
 それよりも、なんて、答えればいいんだって。
 言っていることは、正論だと思うよ。だからといって、素直に、そうだねって答えると、この馬鹿みたいに嫉妬、いやいや、愛情深い男がなにをしでかすかと不安が、こう、よぎるんだ。
 丁寧に弾いてやることを愛って呼ぶなら、生まれたばかりの真っ白な時に愛されなかった『遠海』は、ゼロから始めるんじゃなくって、マイナスから始めるようなもの。プラスにするには、より長く愛してやらないとダメなのは、圭の言うとおり。そうだろう。
 だけど、世の中って、正論だけじゃ生きていけないものなんだ。
 正論を、我が侭で踏み潰すのが、圭なんだ。

「――――ですから」
「え?」
 いくどかの呼びかけを聞き逃してた、らしい。それでも、圭は、僕の聞き逃しがなかったかのように話を続けた。
「ですから」
 笑っているように、見えるのは、気の所為か。
「きみの愛情を受ける『草薙』を前にして、『遠海』よりましでないかと、僕の嫉妬心を宥めるための役目を担ってもらいます」

 圭・・・・・・きみって。
 判ってたさ、判ってた。
 きみは、バイオリンに、本気で嫉妬するような奴だって。
 今までの僕のバイオリンは、壊したあれ以外は借り物だったから、厳密な意味では、僕のモノではなかった。
 けど、『草薙』は、僕の為だけの、僕の為だけに生み出される、本当の意味での僕のバイオリン。楽しみではあるんだけど、・・・・・・ああ、請求書のゼロが怖い。
 思うに、3年間すっかり忘れてたのは、『草薙』と引き換えに来る請求書を考えたくなくって、無意識に考えないようにしてたんじゃないか?
 少なく見積もっても、家一軒はかるく買える金額は覚悟しなきゃならないだろうし。無職だったあの時よりましだけど、所詮、新米講師の身分じゃ、ローンは無理。西大路さん、何年くらいの分割払いにしてくれるかな。
 ちがう、今は、ローンの心配じゃなくって、まだこない請求書じゃなくって。
 西大路さんが満足する可愛がりかたをしなくちゃいけないバイオリンを、この男が、嫉妬の対象にしないほうがおかしいって、そっちの心配をするんだって。
 だけど、まだ生まれてもいない『草薙』に嫉妬するって決め付けてるって、先が思いやられるよ、ホント。

 あのね、きみのアドバイスを受けて、愛されなかった『遠海』を抱きしめて帰ることにしたんだから。きみが言い出したことなんだから、家に辿り着いた時に、変に嫉妬なんかするなよ。
 グァルネリをいつものように、チャイルドシートに固定して、『遠海』を抱いて助手席に乗り込んだ。

 思えば、その人の為に生み出されて、なによりも愛されるはずだったのに、その人なりの事情があったにしても、充分に愛されずに終わっちゃったなんて、この子も可哀想なバイオリンだよな。
 でも、心なしか、運転に集中している圭の視線が、もうすでに痛いんですけど?
 抱いて帰るなら、助手席より後部座席のほうがよかったかも。今更、移動できないし、どうしたらいいんだ?




 現実逃避のつもりもないけど、このひと月のこと思い出していた。

 圭には悪いけど、僕には悪くはない思い出なんだ。
 なにしろ、二十歳前で決別したチエ姉が、居候って負い目があったとはいえ、認められない弟の同性の恋人とひと月暮らしたっていうのは、僕たちのことを黙認してくれるってことじゃないのかなと、勝手に思ってる。
 最初こそトラブルもあったけど、それ以降、これといって・・・・・・って、ヘンなことまで思い出した。
「事故など起こしませんから、肩の力を抜いてはどうですか?」
 ん?
 いわれて、『遠海』を抱きしめてた自分に気付いた。
「そんなんじゃ、ないよ」
「では、なにか心配事でも?
 ああ、また、持ち歩く心配ですか?」
「それは、もう、グァルネリで慣れた。伊達に、2年も鞄持ちをしてたわけじゃないんだよ」
「それは、何よりです。では?」
 ほかに心配ごとですか?と、声音で訊ねられ。
「心配っていうか、きみが『草薙』相手に、どんな態度をとるんだろうかっていうのは、心配っていうより、恐怖だし?
 ―――でも、違うよ。
 あのさ、姉さんがやってきたときって、きみはいなくて、僕が川島さんと同じ家にいたんだよね。
 って、川島さんのお土産は、ちゃんと買ってきただろうね?」
 ちゃんと確認しようと思ってて、すっかり忘れてた。姉さんの乱入で、約束半分になっちゃったとはいえ、約束は約束だ。
「ええ、それは、もちろん」
「ああ、よかった。
 で、姉さんの話だけど、あの時、川島さんがなんていったのかは、じっさいは知らないんだけど。姉さんは、川島さんのことを、きみの、二号さんだと思ったんだよ」
「らしい、ですね」
「変だと思わない?」
「なにがです?」
「だって、普通、留守中にいるんなら、きみの相手じゃなくって、僕の相手って取るべきなんじゃないのか?」
「あー、いわれてみれば、そう、ですかね」
 とぼけてるわけでもないようで、じゃあなに?今まで疑問にも思わなかったわけ、これっぽっちも、きみがっ。
「そうすれば、そのあとの全部が違ってたわけだろ?」
 圭なりの、ありえたかもしれない、仮定の行動のシミュレーションが終わるまで、待ってる。

「―――そうですか?」
 と、控えめに反対意見を述べた。さて、僕には理解できない天才さまはどんな結末を描いたのか。
「きみの電話にだって、あんな意地悪をしないで、そうすれば、きみだって変に心配して帰ってこないですんだだろ?」
 きっと、宅島くんにも迷惑をかけたんだろうなぁ。原因は僕なんだけど、今頃、こんな奴と同級生だった我が身の不運を嘆いてるだろう。
「あー、僕が思いますに、川島くんをきみの恋人だと誤解された場合、姉上の性格からして、即座に病人のきみをベッドから追い出し、川島くんを追い出し。
 きみの心配をした僕の電話にはあることないことを吹き込み、やはり心配した僕は戻らざるをえず。
 そのうえで、芙美子姉上に通報がいくのでは、と思いますが」

 ―――――考えて、考えて―――――考えて――
 ―――――――――かも・・・・・・

 ただでさえ、こっちの言い分を聞いてくれるような相手じゃないのに、あの勢いのチエ姉に常識は通じない。あの時の姉さんを相手にしてるにしては、一番ましな結末だった、んだろうか。
 それを、まったく思い至らず、圭に指摘されて始めて気付く弟の僕ってなんだろ?

「きみは、不愉快、だっただろ」
「ええ、まぁ」
 当然の憤慨を控えめに表現するのは、相手が僕の姉だからだ。
「ですが、どこがですか?」
「どこがって、チエ姉に疑われたんだぞ」
「僕が、ですね。それで?」
「一緒にいた僕じゃなくって、きみがっ。不快になって当然なんだ」
「どうして、ですか。姉上から信用されているだけでしょう」
「甲斐性ナシって思われてるだけだよ」
「あの状況で、それはないと思いますが」
「信用、だったとしても。その反動で、きみが疑われたのに、きみはなんとも思わないワケ?」
「ええ、なにしろ、僕は、可愛い弟を同性愛の世界に引きずり込んだ、憎むべき男ですからね」
「・・・・・・それって、怒るべきなんじゃないのか?」
 僕にしろ、チエ姉にしろ。
「そうですか?
 僕は嬉しいですよ?
 義明氏の浮気を疑っての家出、頼った弟は他の女性を家にいれている。
 義明氏を代表する、この世の男という男を疑っているのなら、自分の弟も、弟だからこそ疑いの対象になるでしょうに、他人である僕を疑った。
 自分の弟だけは、浮気はしないと信じているのですよ。
 これを信頼と呼ばずにどうします?」
「だーかーらぁー」
 ふと、視線を感じると、圭のはんなりと幸福そうな顔とぶつかった。
 なんで、きみは、そんなに幸せそうにしているんだい?
 チエ姉が、弟の僕じゃなく、他人の圭を疑ったのが、どうしてきみを幸福にするのか、まったく、判らない。
 理解してない僕を小さく笑い。僕が怒る前に、圭は話を替えた。
「家についたら、『遠海』を弾いてくれますか?」
「うん?いいよ」
「きみが『遠海』へ注いだ愛情を、覚えておきたいんです。
 今と半年後の『遠海』は、同じバイオリンとは思えない音をだすのでしょう」
 だったら、いいね。
「きっと、さ。『草薙』が出来上がってきて、この子を西大路さんに返すとき、寂しい思いをするんだろうな。
 半年間のシッターだって判ってて預かったってのに情が移っちゃって、どこかで出会ったら、我が子に再会した気分がするんだ、どうしよう」
 それだけならいい。
 そんな権利もないのに、この子が思う存分愛されてないってことになったら、取り返したくなりそうだ。
「きみは情が深いですからね。そうでなくては、『遠海』のシッターは務まりせんよ」
「だったら、いいけどね」
 最初に弾くのは、なにがいいだろう。
 たった半年の付き合いだけれど、この子との初めてに相応しい曲といったら、愛の挨拶?
 いや、やっぱり。アリア、だね。




 家について、圭の望み通りに『遠海』を弾いて。
 僕の危惧通り『遠海』に嫉妬するってどういうことなのか、聞いていいかな?
「バイオリン弾きの弟子たち」と
「センシティブな暴君の愛し方」の解釈に
激しく勘違いしている部分があるようです。
むしろ、桐ノ院に夢を見ている、というべきか。
それで、こんな帰り道。
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