二軒茶屋
 「差出山西峯の地にある峠なり」と『東山の歴史』に記されている二軒茶屋は、昔ここに大国屋や福美
屋という二件の宿場があって旅人に宿泊や茶の接待をしていたことからこの名がついたという。
 池田町にある箸蔵寺が金比羅宮の奥の院とよばれ、金比羅宮に参詣した人は必ず箸蔵寺にお参りし
たので、この道は「箸蔵街道」といわれて、明治27年猪ノ鼻峠が改修されるまで毎日何十人という人が
通っていたという。
 峠へは、柳沢、増川から馬除を経て池田町境に山道があったので、三好町からはこのルートを通ることが
多かった。二軒茶屋から財田への下り口である石仏までの1,65kmの間に3基の丁石が残っており、信仰
の道としてにぎわった往時をしのぶことができる。
「総合学術調査報告 三好町 三好町の峠道」 より抜粋したものである。
 
(一)街道の今昔
 古 道 近代以前は、川沿い峠越えの細い道が主要な往来の道であった。明治になってからでさえ、徳
島方面への「徳島往還」、東予方面への「伊予往還」が幅二間二尺、白地から西讃への「讃岐往還」が
幅一間のものであった。

 池田から西讃岐方面
 池田本町−(大具渡)→箸蔵→舟原→二軒茶屋→(箸蔵越 猪の鼻越)→讃岐財田村石野
 西山本道→西山−(中蓮寺峰)→讃岐財田村入日枝下篠村

 宿 場 このような街道筋における渡し場や峠などには、通行する人や牛馬のための休息所が設けられ
るのが普通で、しだいにそこが宿場のようになってくる。
 舟原は標高五五〇メートルほどの箸蔵山頂に近い開けた地域で、讃岐への街道筋にあたり、古くから
阿波煙草の搬出と米・魚等の搬入の中継基地であった。また箸蔵寺への参詣路でもあるため、五軒ほど
の宿屋があり、箸蔵村初代の駐在所もここにあった。今でも、藤本家をフジヤというように、屋号などにその
名残がみられる。
「池田町史 下巻 第一章さまざまな暮らし 第三節交通と運輸」
                         より抜粋したものである。