三頭峠(三頭越)

 讃岐へ通ずる本町の峠越えの中で最も多くの人々の足跡を残したのが、この三頭越えである。古来、阿波から讃岐の金比羅さんへの道としてこの峠は有名であり、また、讃岐から多くの米が借耕牛によって阿波に運ばれた道もこの三頭越えであった。
 
伊予街道や撫養街道から中山路、駅、土ヶ久保を通り、滝ノ宮の東端の坂を登って、滝ノ宮池の南側の茶屋で一休みして三頭越えを目指し、池のすぐ西側から鍋倉谷川を横断する。そして、井ノ神から井出谷川磧の右岸を登って横尾に出て猿坂へ、猿坂から観音、野田ノ井を経て三頭峠に至るのである。途中、横尾、猿坂に宿屋や茶店があった。現在、横尾の泉屋の入り口には常夜灯が、また猿坂には三頭への里程石が残されている。
 
 峠には鳥居が一基あり、「安政四巳歳仲秋日、四海泰平、君民豊楽、金比羅大権現」と刻まれている。その左右に祖神である猿田彦大神、天細女命の陰陽一対の石蔵が旅の安全を祈るように立てられている。また、立見山には安政年に建立された金比羅大権現の揚額をもった立派な大鳥居が、当時の隆盛を物語るようそびえている。
 
 峠から南へ約1000メートルの所に三頭山大権現があり、その奥に雨乞いの祠として尊信されている青龍さんがある。とくに藩政時代、三頭山大権現は金比羅の奥の院的存在として参詣が多く、阿波からの金比羅参りには必ずと言っていいほど、三頭山大権現を参拝した。幕末末期から明治にかけては三頭山に門前町が営まれ、旅館(吉野家、玉屋、錦屋等)立ち並び、にぎわっていた。

 峠にも茶屋(梶浦家等)があり休憩所となっていた。また、三頭山への道は、峠への道とは別に、東からは平尾から登る急坂の道があり、岩倉村民が寄進した里程石が今も残っている。西からは、後谷から大倉へ出、急坂を登る三頭山への道があり、ここにも半田村民寄進の里程石が残っている。
 
 この三頭越を明治から大正にかけて盛んにしたのは、金比羅参り、借耕牛の外に香川県善通寺に置かれた旧陸軍第十一師団に入隊する阿波の青年達や、入隊した兵隊達との面会のため峠を越えていった多くの人達であった。
                            「美馬町史 第七章 文化 (3) 三頭峠」 より

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