blind summer fish 10


 こないだ会ったときは確かに懐いてくれたと思ったのだが、事はそううまくは行かない。こどもが相手であると。
「女性を相手にするより難しいものだな……」
 頬杖をついてため息をもらしたロイに、ちょうど決裁した書類を取りに来たハボックがついでとばかりにコーヒーを置いて笑った。
「エドワードとアルフォンスのことですか?」
「なぜだろうな。こどもというのは何を考えてるのかよくわからん」
「中佐にもこどもの時代があったでしょーが」
「その頃の記憶と女性にモテる術を等価交換したに違いない。そういえばハボック、お前、新しい恋人とはどうなっている?」
 ハボックの笑顔がひきつった。
「なんであんたがそんなこと知ってるんですか」
「自然と耳に入ってくるんだ。私のせいではない」
 これ以上中佐に情報を与えてなるものか、とばかりにとっとと退出していったハボックの背中に向かって、ロイは今日何度目になるかわからないため息をついた。
 悩みの種はエドワードとアルフォンス。というかエドワード。
 いつになったら初めて会ったときのように親しみを込めて接してくれるのだろう。


 メリッサに連れられてやってきた兄弟は、ロイが出迎えたホームに降り立って、周りを落ち着きなく見渡した。リゼンブールから外に出たことのない兄弟にとって、これほど賑わった駅や人ごみは目にしたことがないのだろう。イーストシティでこれだけ驚くのなら、セントラルに連れて行ったらさぞかしすごいことになるに違いない。
 荷物を下ろすのは駅員に任せ、メリッサの両の手をそれぞれしっかり握った兄弟は、ロイの顔を見つけて嬉しそうに微笑んだ。しかし兄の方は、その笑顔を一瞬で消し、メリッサの手をぎゅっと握りこむ。
「こんにちは、ちゅうさ」
 メリッサの手を放して駆けてきたアルフォンスが、止まりきれずにロイの膝頭にぶつかる。反動で転びかけるのを捕まえると、ロイはそのまま小さな体を抱き上げた。
「よく来たね、アルフォンス、エドワード」
 一段高いところから辺りを見回して喜ぶアルフォンスを落とさないように気をつけながら、空いた片手で駅員から荷物を引き取った。
「ありがとうございました、メリッサ。長旅で疲れたでしょう。駅前に車を待たせてます」
 アームストロング夫人と呼ばれるのよりメリッサの方が好きという夫人の希望によって、ロイは彼女をメリッサと呼ぶことにしたが、メリッサの方はといえばロイを相変わらず「中佐」と呼んでいる。
「ピナコさんがよろしくとのことでした。ウィンリィちゃんがちょっと泣いてしまいましたけれど、中佐が休暇を取られたらまた会えるからと」
 もちろんそのときは彼らを会わせてあげますわね?という無言の問いに、ロイはしっかりと頷いた。
「そうそう。ピナコさんから手紙を預かってきました」
 走り出した車の中で、ふと思い出したメリッサがたっぷりと入るバッグの中から一通の手紙を取り出した。油の匂いが少し、つんと鼻をつく。
 後部座席のメリッサから受け取ったそれを懐にしまって、ロイは前に身を乗り出しきたアルフォンスに「危ないから座っていなさい」と注意した。運転席のハボックが、何がおかしいのかくすくすと笑う。
「何がおかしいのかね、ハボック准尉」
「なんでもないっす」
 しかしなんでもない割にはくすくす笑いが続き、なんとなく気分を害したロイはハボックが運転をしているのでなかったら車外へ放り出してやるのに、などと考えた。
 幸い、放り出されることのなかったハボックの運転は、安全に一同をロイの家まで送り届けた。
 扉を開け、まずはアルフォンスを下ろしたロイは、次にメリッサの手を取ったときに、ふと気づいた。エドワードがその様子をじっと見ていることに。
「どうかしたか?」
 最後にエドワードを下ろそうと手を差し伸べると、エドワードはその手をまるっきり無視して一人でぴょこんと地面に降り立った。
「中佐、ふられちゃいましたね」
 運転席から苦笑を投げて寄越すハボックを困ったように見返すと、「顔が情けなくなってますよ」と言われてロイは渋面を作る。どうも、エドワードには何か思うところがあるようだ。駅で再会したときといい、今といい。気のせいだろうか。
「じゃ、俺はこれで。ホークアイ少尉からのお達しを忘れないでくださいよ。中佐の勤務時間、一時間繰り上がって明日の朝は八時からですからね」
「ちゃんと覚えてるよ。お偉いさんの視察があるんだったな、また」
 まーた面倒なのが来やがったと言わんばかりの態度に「その態度、こどもの教育上よくありませんよ」とハボックは言う。
「そういうものか?まあとにかく、今日は助かったよ。ありがとう」
「今度おごってくださいねー」
 自分と同じように非番の部下は、これから司令部によって車を返してからようやくオフになるのだ。仕事とはまったく関係のない送迎を頼んだので、今度昼飯でもおごってやろうと思う。
「じゅんい、ありがとう!」
「ありがとうございました、ハボックじゅんい」
 元気なアルフォンスと、丁寧に頭を下げたエドワードにハボックは微笑んで、ブレーキを解除して走り去った。
 あとに残された一行は、ロイを先頭にして玄関へと歩く。
「さあ、どうぞ」
 扉を開けて中に入るように促すと、すぐさま入ろうとしたアルフォンスにエドワードから声がかかった。
「アル、ちゃんと落とせ」
 言いながら自分の靴を指す。兄の靴を見て、それから自分の靴を見たアルフォンスは、「あっ」と言って靴の脇にこびりついた泥を落とした。ロイがエドワードを見ると、エドワードは、なんか文句でもあんのかよ、とでも言いそうな目をしている。再会したときから気になっていたが、どうやらロイの気のせいではなく、明らかにエドワードの態度は硬かった。
「おじゃまします」
 お行儀のよいアルフォンスにロイは「おかえり」と返す。
「おかえり?」
「そう、おかえり」
「えーと、おかえりだから……ただいま?」
「よくできました」
「ただいま!」
 アルフォンスは元気よく言って家に入り、エドワードはあとからメリッサに背中を押されるようにしてしぶしぶと中に入った。
「……おじゃまします」
「おかえり」
 今のやりとりを聞いてもなお「おじゃまします」と言うエドワードにロイはあえて「ただいま」とは言わせなかった。エドワードの態度がますます硬化しそうな予感がしたからだ。
 微妙な空気を肌で感じ取ったのか、アルフォンスが怪訝そうに首をかしげる。
「兄さん、どうかしたの?」
「なんでもないよ、アル」
 にっこり笑ってアルフォンスを安心させたエドワードは、あらためて大人二人に向かい合うと深々と頭を下げた。
「これからよろしくおねがいします」
「おねがいします!」
 兄に習って弟も同じように可愛らしいお辞儀をする。その姿に大人二人は顔を見合わせ、こども二人に対して頭を下げた。
「こちらこそよろしくおねがいします」
「困ったことがあったら何でも言ってね。ああそう、早速二人に聞きたいことがあるの」
 なんだろうとメリッサを見上げた兄弟に彼女は質問した。
「お夕飯にはなにを食べたい?」
「兄さんはシチューが好きだよ」
 なにを食べたいのかではなく兄の好みを答える弟に、エドワードは小さく「ばかアル!」と言い、メリッサは目をやんわりと見開いた。アームストロング家の遺伝だろうか、メリッサの目は円らで、驚くとほんとうに目が真ん丸になる。そしてその目はすぐに優しく細められた。
「そう、エドワードはシチューが好きなのね。アルフォンス、あなたは?」
 アルフォンスの好みも聞いて少し考え込んでいたメリッサが大きく頷いた。
「それではわたくしはお茶のしたくをしてまいりますわね」
 メリッサは言うなり台所へ向かい、廊下をすたすたと歩いて行った。実にかくしゃくとした後ろ姿だ。
「じゃあ、その間に君たちを部屋に案内しようか」
 ロイが先頭に立って、アルフォンスがちょこまかと後ろに続き、最後をゆっくりとエドワードが歩く。兄弟の部屋は、二階の、階段をあがってすぐのところにあった。
「うわー、きれいだね、兄さん。すごく広いよ!」
 このくらいの年頃なら、一人部屋よりも二人でいたほうがいいだろう。そう思って、元は物置になっていたこの部屋が一番広かったので、荷物を他の部屋に移して人が住めるようにしつらえた。備え付けの棚はそのままに、中には先に送られてきた兄弟の荷物が、メリッサの手によって収納されている。ある程度の広さがあるとこどもは走り回るものだから、落ちて割れたりしないよう花瓶は置いておらず、代わりに壁にかけられた籠にドライフラワーが飾られていた。
「私の部屋はこの隣だ。どの部屋も自由に入って使ってくれてかまわない。ただし」
 そこで一旦言葉を止め、兄弟の注意が集まるのを待ってからロイはその先を続けた。
「二階の一番奥の部屋だけは入ってはいけないよ」
「どうして?」
「内緒だ」
 不思議そうなアルフォンスは兄を振り返ったが、エドワードは「言われたとおりにしようぜ」とだけ言った。
 一通り家の中を案内するとちょうどメリッサから声がかかって、一同はお茶とお手製のおやつを楽しんだ。目の前にざっくりと盛られたパンケーキだけでなく、台所からもバターのいい匂いがしたのは、夕飯の下準備も済ませたからなのだろう。
 一休みしたあと、買い物に行くというメリッサの手をアルフォンスが引っ張った。メリッサは心得顔でアルフォンスを見返した。
「エドワードもいらっしゃいな。中佐も」
「私も、ですか?」
 意外なことを聞いたロイは驚いてまじまじとメリッサを見る。
「ええ、あなたも。荷物持ちをお願いしますわ」
「そういうことでしたら」
 ロイはカップに残っていた一口を飲み干すと、勢いよく立ち上がった。